天界魂管理局記録保管庫～死神書店～

【人間界5】

1

「……何が、起きたの？」

　そう最初につぶやいたのは、少女だ。
　恥ずかしながら、まったく同じ気持ちで立ち尽くしていた。

　目を閉じて、深く寝入っていたかのようだった少女は、ぱっちりとその目を開けて、せわしなく睫毛を上下させた。頭の上に浮かんでいた少女の魂は、消えている。

　カロンは、小さくうめき声を上げている。突き飛ばされて、少女から少し離れたところの床に、大きなハサミとともに転がっていた。

　熱でこちらを威嚇していた火柱も、もう跡形もない。
　カロンの意識がそれたからに違いなく、そのために、少女の魂も元の身体に戻ったのだろう。少女の意識を支配していた魔術も解かれたようだ。

「え、どうして……？」

　次に浴室に浮かんだのは、少女の戸惑いの声。
　自分を守るように覆いかぶさっている人物に、ようやっと気づいたらしい。
　カロンと旅立てなかったことを惜しむ気持ちだったり、邪魔されたことへの憤りだったりは、まだそこに滲んでいない。
　ただただ信じられない気持ちでいっぱいのようで、やはり、同じ気持ちだ、と思った。

　サラリーマン風情の漂うスーツ姿の、どことなくずれた、あの男だ。
　こちらに背中を向けた体勢で、少女のすぐ横で膝と手のひらをついている。ちょうど少女の肩口に顎を乗せた状態だ。こちらからその表情はうかがえないが、呼吸に合わせて、肩が短い間隔で動いている。とりあえずは無事らしい。

　カロンがハサミを引き抜いた瞬間だった。
　背後から飛び出していった影に、ぎょっとした。
　はっと気がついた時にはもう、炎のバリケードにまっしぐらに向かう、男の背中があった。引き留める間もなかった。

　男はその勢いのままに、カロンに体当たりした。
　今まさにハサミを使って、少女と魂を切り離そうとしていたカロンは、男の力の限りのアタックを食らい、横に弾き飛ばされた。身体自体は子供なので、倍以上の大きさと重量のある大人の男に本気で突進してこられたら、ひとたまりもない。
　外野手どころかフェンス向こうの観客が、ホームベースに突っこんでくるとはまさか夢にも思わず、油断もあったのだろう。
　それはこちらも同じで、カロンが濡れたタイルの上に肩から転げ落ちるまでを、瞬きもできずに見ていた。

　魔術によって現れた燃えさかる柱は、幻なんかではない。それに生身でぶつかった男の服はボロボロに焼け焦げて、中の皮膚がただれているのが見える。
　痛みを感じないことが幸いだが、肉体が損なわれれば、それなりにダメージは受けるはず。男の魂が、まだその中に留まっていることが、嘘みたいに思えた。

　しかし、おかげで、と言うのは恥ずかしく、申し訳なさもあるが、きっぱりと目が覚めた。

「あなた……なんて無茶を！　大丈夫ですか！」

　急いで駆け寄る。
　男の安否をしっかり確かめたい思いと、よくぞ流れを止めてくれた、と褒めたたえたい思いとが、半分ずつ胸を占めていた。回りこんで男の顔を覗きこむ。

「……おお。なるほどな」

　男はちらりとこちらに目線をよこして、言った。

「なるほど？」
「俺は猫を飼ったことがないんだけどよ。仕事に忙殺されて帰ってきて、もふもふに癒やされる飼い主の気持ちってやつが、今ようくわかったぜ」

　そして、頭をふらりと持ち上げて、そのまま後ろに尻餅をつく。

「大丈夫そうですね」

　まさか減らず口が、これほど嬉しく感じられることになろうとは。

　しかし、近づいてみてわかった。
　男のダメージは予想以上に大きい。身体だけでなく、顔までひどい有り様だ。息は上がり、意識がもうろうとしていることが見て取れる。突っ張った腕で、自身の身体を支えているのさえ辛そうだ。軽口を吐き出すことも簡単ではないのだろうと思うと、自分さえしっかりしていればと悔やまれた。

　カロンの様子を横目でうかがう。倒れふしたままで、起き上がる気配はない。やはり、あちらもかなりの痛手であるようだ。意識が途絶えたのか、うめき声も聞こえない。