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【人間界6】
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エレベーターを使って、玄関口まで降りる。正面ではなく、裏口のドアから外へ出た。言うまでもなく、他の生きている人間と出くわすことを避けるためだ。
男を引き連れて戻ってきた時にも感謝したことだが、今時オートロックではないマンションは珍しく、ありがたかった。自分一人であれば、壁などあってないようなもので、どこへでも出入りがたやすいけれど、生身の男が一緒ではそうもいかない。
仕事運は壊滅的だが、思えば、ここぞという時の運はいつもよかった。
男に尋ねる。
「目的地まで、どれくらいの距離でしょうか?」
きょとんとした表情で見下ろされた。
「あぁ、時間でもいいです。どれくらいかかりますでしょうか」
「あのさ、こういう場合、誰のもとへ届けるのですか、が常套句じゃないのかよ」
呆れ顔で花束をかかげてみせる男は、時間を訊かれるのかと思ったら距離なのか、と面食らったわけではなかったらしい。
「何の常套句ですか」
「感動もののラブロマンスとか?」
「そういうのがお好みなのですか」
「観たこともねぇよ」
男との噛み合わない会話に、今さら驚きもなげきもしないが、ため息は出る。
「花を届ける相手が誰かは、今さほど重要ではないのです」
「そうなのか?」
「そうですとも」
恋人だろうが、恩師だろうが、親友だろうが、大差ない。
「今いちばん重きを置かなければならないのは、目的を達成するために要する時間です」
「やっぱり時間だよな」
「あなたが動けなくなるのは、そう遠い話ではないかと思われます。到着までに長い時間がかかる距離なのだとすれば、申し訳ありませんが、ここで諦めていただくしか」
「話が違うぞ」
「だから、申し訳ありませんが、と言っています」
「途中で魂が出てきた時のために、あんたがついてくるんじゃないのかよ」
「最初から無謀であることがはっきりしているなら、わざわざ危ない橋を渡ることもないでしょう」
「さっきの鰹だって、相当に危ない橋だったと思うけどな」
ブツブツと不平をつぶやいていた男だが、やがて天をあおいだ。
「こんなことなら、あんなクソガキ、かばってやるんじゃなかった」
平日の昼下がり。
マンションやアパートが並ぶ裏通りに、心配した人の気配はない。建物と建物の隙間から射しこむ日差しは白く柔らかく、猫がゆったりと横断する。
「あなたがあんな行動に出るとは、いまだに信じられない気持ちです」
「俺は意外にゲスを嫌う人間なんだ」
「その毒牙に、彼女がかかることが許せなかったのですか?」
「別に、あいつがってわけじゃない。他の人間だったって、同じようにしたさ」
「そうでしょうか」
「うるせぇなあ。もういいだろうが、済んだことなんだから」
小さな段差を下りようとすると、アスファルトとの境目に、花が咲いていた。青く細かな、かわいらしい草花だ。わざとなのか無意識なのか、男は踏まずに飛び越えた。
「距離はわからねぇけど、バスだと五分くらいなんだよな。歩きなら、二、三十分てとこかな」
ふらふらと歩き出す男の足取りは、酔っ払いのようにおぼつかない。いつ倒れるとも知れないため、寄り添うようにしてついていく。
「二、三十分ですか」
「たぶんな。そんなもんじゃねぇの」
「今のこの状況では、十分の差がものを言います。もう少ししぼれると、ありがたいのですが」
「そう言われてもなあ。いつも移動はバスかタクシーだし」
「ですよね」
行って作業を終えて戻ってくるまでに、五十分弱というところか。それまで、清花の身体が持ちこたえてくれると助かるのだが。
「かと言って、もう二度とバスになんて乗りたかねぇけどな」
男は言って、嘔吐する真似をしてみせた。
「今のあなたが乗りこんでいったら、バスだろうがタクシーだろうが、周りの方々が卒倒しますよ」
「違いねぇなあ。で、間に合いそうか?」
そう尋ねてくる男の面持ちは、さすがに神妙だ。
「大丈夫だろうとは思いますが、断定はできません。なにしろ、いまだかつてこんな前例はないもので」
「訊いておいてそれかよ」
「申し訳ありません」
「とりあえず、諦めなくていいんだよな?」
「不安は残りますが」
「よし。じゃあ、気が変わらないうちに行こうぜ。まぁ、間に合わなかったら、その時はその時だ」
「潔いというか」
「諦めがいいとも言われるけどな。行くぞ」
そう言った矢先、男の足がもつれて、崩れるようにその場に片膝をついた。
男を引き連れて戻ってきた時にも感謝したことだが、今時オートロックではないマンションは珍しく、ありがたかった。自分一人であれば、壁などあってないようなもので、どこへでも出入りがたやすいけれど、生身の男が一緒ではそうもいかない。
仕事運は壊滅的だが、思えば、ここぞという時の運はいつもよかった。
男に尋ねる。
「目的地まで、どれくらいの距離でしょうか?」
きょとんとした表情で見下ろされた。
「あぁ、時間でもいいです。どれくらいかかりますでしょうか」
「あのさ、こういう場合、誰のもとへ届けるのですか、が常套句じゃないのかよ」
呆れ顔で花束をかかげてみせる男は、時間を訊かれるのかと思ったら距離なのか、と面食らったわけではなかったらしい。
「何の常套句ですか」
「感動もののラブロマンスとか?」
「そういうのがお好みなのですか」
「観たこともねぇよ」
男との噛み合わない会話に、今さら驚きもなげきもしないが、ため息は出る。
「花を届ける相手が誰かは、今さほど重要ではないのです」
「そうなのか?」
「そうですとも」
恋人だろうが、恩師だろうが、親友だろうが、大差ない。
「今いちばん重きを置かなければならないのは、目的を達成するために要する時間です」
「やっぱり時間だよな」
「あなたが動けなくなるのは、そう遠い話ではないかと思われます。到着までに長い時間がかかる距離なのだとすれば、申し訳ありませんが、ここで諦めていただくしか」
「話が違うぞ」
「だから、申し訳ありませんが、と言っています」
「途中で魂が出てきた時のために、あんたがついてくるんじゃないのかよ」
「最初から無謀であることがはっきりしているなら、わざわざ危ない橋を渡ることもないでしょう」
「さっきの鰹だって、相当に危ない橋だったと思うけどな」
ブツブツと不平をつぶやいていた男だが、やがて天をあおいだ。
「こんなことなら、あんなクソガキ、かばってやるんじゃなかった」
平日の昼下がり。
マンションやアパートが並ぶ裏通りに、心配した人の気配はない。建物と建物の隙間から射しこむ日差しは白く柔らかく、猫がゆったりと横断する。
「あなたがあんな行動に出るとは、いまだに信じられない気持ちです」
「俺は意外にゲスを嫌う人間なんだ」
「その毒牙に、彼女がかかることが許せなかったのですか?」
「別に、あいつがってわけじゃない。他の人間だったって、同じようにしたさ」
「そうでしょうか」
「うるせぇなあ。もういいだろうが、済んだことなんだから」
小さな段差を下りようとすると、アスファルトとの境目に、花が咲いていた。青く細かな、かわいらしい草花だ。わざとなのか無意識なのか、男は踏まずに飛び越えた。
「距離はわからねぇけど、バスだと五分くらいなんだよな。歩きなら、二、三十分てとこかな」
ふらふらと歩き出す男の足取りは、酔っ払いのようにおぼつかない。いつ倒れるとも知れないため、寄り添うようにしてついていく。
「二、三十分ですか」
「たぶんな。そんなもんじゃねぇの」
「今のこの状況では、十分の差がものを言います。もう少ししぼれると、ありがたいのですが」
「そう言われてもなあ。いつも移動はバスかタクシーだし」
「ですよね」
行って作業を終えて戻ってくるまでに、五十分弱というところか。それまで、清花の身体が持ちこたえてくれると助かるのだが。
「かと言って、もう二度とバスになんて乗りたかねぇけどな」
男は言って、嘔吐する真似をしてみせた。
「今のあなたが乗りこんでいったら、バスだろうがタクシーだろうが、周りの方々が卒倒しますよ」
「違いねぇなあ。で、間に合いそうか?」
そう尋ねてくる男の面持ちは、さすがに神妙だ。
「大丈夫だろうとは思いますが、断定はできません。なにしろ、いまだかつてこんな前例はないもので」
「訊いておいてそれかよ」
「申し訳ありません」
「とりあえず、諦めなくていいんだよな?」
「不安は残りますが」
「よし。じゃあ、気が変わらないうちに行こうぜ。まぁ、間に合わなかったら、その時はその時だ」
「潔いというか」
「諦めがいいとも言われるけどな。行くぞ」
そう言った矢先、男の足がもつれて、崩れるようにその場に片膝をついた。
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