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【人間界8】

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 これまでよりもゆっくりと、しかしながら確実に、一歩一歩を刻む。
 男の身体は岩のように重く、支えて歩くこちらまで息が上がる。普段おこなっているのは、書籍程度の重さしか持たない軽作業であるため、ちょっとした肉体労働でもきつい。しかし、気分は清々しかった。

 角を曲がると、しだれ桜が流れるがごとく咲き誇る向こうに、古い寺が姿を見せた。濡れているのかと見まがうほど、深い艶のある木材でつくられた屋根付きの門を、男は指さす。

「あの中に……入ってくれ」
「あの中に、ですか?」

 うなずくだけで、男の口からはそれ以上の言葉が続かない。意識が途切れてしまったのではと、不安になって覗きこむと、苦笑いを浮かべてきた。残りわずかな体力を温存したいのかもしれない。

 つまり、あの奥に、男の目的地があるということだ。
 職場のようには思えないが、男の妻はあの奥にいるのだろうか。もしくは、あの寺が、男の住まいということなのだろうか?
 一時のためらいを、人の存在を案じたものと、男は思ったらしい。

「……大丈夫。この時間は、誰もいねぇよ」
「誰も……そうなのですね。助かります」
「よく、きてるからな」
「よく……? いえ、わかりました。もう喋らなくてけっこうです」

 謎は深まるばかりだが、質問攻めにして男の体力を奪うことはしたくない。考えふけっている暇もない。行けばわかるのだ。
 花束を直接手渡さない、を了承した男を信じて、足を踏み出した。

 指図されるままに、古めかしい門をくぐる。天界の扉とはまたおもむきが違うが、こちらはこちらで荘厳な雰囲気だ。
 敷地内は男の言う通り、人の気配がさっぱりない。静まり返っている。静けさが耳に鳴るほどで、昼間だというのに、夜更けさながらだ。それほど離れていないはずだが、商店街の活気も、保育園のにぎやかさも届いてこない。
 まるで街から切り取られたような空間だ。

 これほど立派な寺院なのに、住職がいないのだろうか。いや、通いなのかもしれない。花木はこまめに手入れされていることがうかがえた。

「その先に、行ってくれ」
「その先、ですか? その先は……」
「行ってくれ」

 困ったように笑いながらも、男はきっぱりと言った。
 あぁ、と軽い眩暈がした。すとん、と謎が解けた。
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