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第一話 栞のラブレター
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父は亡くなるその日まで、この家でひとりで暮らしていた。アパートを数軒所有し、家賃収入を得ていた父が古本屋を経営していたのは、趣味のようなものだと聞いたことがある。沙代子の記憶する限り、父はほとんどの時間を古本屋で過ごしていて、その生活はずっと続いていたのだろう。
父が倒れたのは、自宅の階段でだった。足を滑らせて転倒したという話だった。見つけるのが早ければ助かったかもと、近くに暮らす父の実弟である叔父さんは悔いていた。
初七日を終えると、父の所有していた不動産のほとんどは、叔父さんが相続することに決まっていた。父の遺言だった。
別居中だった母にはこの家と古本屋だけが残された。沙代子が「父の家に住みたい」と申し出ると、好きにしていいとあっさりした返事が母からは返ってきた。
四十九日を終えるのを待って、住み慣れたアパートを手放し、ここへ引っ越してきた。そのときにはもう、男ひとり暮らしだったとは思えないほど、室内はきれいに片付いていた。母がいつ戻っても大丈夫なようにしていたんじゃないか。そう思えるほどには。
「明日は古本屋をのぞいてみようかな」
古本屋をどうするかはまだ決めていない。状況を見てみないと、と母は言っていたが、あまり興味がないようで、引っ越しを決めた沙代子に店舗の鍵を渡し、「ついでに見てきて」と言うだけだった。
「うん。そうしよう」
明日の予定が立つと、むしょうにやる気が湧いてくる。少し前までは、すべて失ったと失意にくれていたけど、沙代子だっていつまでも傷ついてばかりいられないとわかっている。
さっき置いたばかりの鍵をつかんで玄関を出る。
両親が別居してからも、はたちになるまで、年に一度は古本屋にいる父に会いに来ていた。土地勘はある。
駅前のスーパーへ行き、数日分の食材と日用品を買い込むと、ふたたび自宅へ戻った。
日は暮れ始めていたが、ため込んでいた洗濯物を洗濯機へ放り込み、洗濯機を回している間に、牛肉とたまねぎ以外の食材を冷蔵庫に片付けた。そこまですると、流れるように体が動いた。使う食器をひと通り洗って、まな板の上のたまねぎを手際よくスライスしていく。
沙代子は料理が得意だった。両親が別居してから、正社員で働き出した母の代わりに沙代子が家事をまかされていたからだが、単純に料理をつくるのが好きだったのもある。
高校は調理師免許の取れる学校へ通わせてもらい、卒業後は製菓専門学校へ進学した。そして、パティシエとして働き、独立の夢に向かって奮起していた。
ああ、そうだ。父の死の知らせを聞くあの日までは、やる気に満ちあふれるだけでなく、輝いた未来を想像できていた。
牛肉とたまねぎを煮込む鍋を眺めていると、唐突にチャイムが鳴った。
誰だろう。ここへ引っ越したことは、親友と呼べる友人にもまだ話していない。訪ねてくる人がいるとしたら家族だけだけど、彼らが来る可能性は限りなくなかった。
「はーい、どなたですかー?」
エプロンで手をぬぐって玄関扉を開ける。すっかり日の沈んだ中、玄関灯に照らされた男の人が紙袋をさげてポーチに立っている。
見覚えのあるその青年に、沙代子は「あっ」と声をあげていた。
「まろう堂の店主さんっ」
父が倒れたのは、自宅の階段でだった。足を滑らせて転倒したという話だった。見つけるのが早ければ助かったかもと、近くに暮らす父の実弟である叔父さんは悔いていた。
初七日を終えると、父の所有していた不動産のほとんどは、叔父さんが相続することに決まっていた。父の遺言だった。
別居中だった母にはこの家と古本屋だけが残された。沙代子が「父の家に住みたい」と申し出ると、好きにしていいとあっさりした返事が母からは返ってきた。
四十九日を終えるのを待って、住み慣れたアパートを手放し、ここへ引っ越してきた。そのときにはもう、男ひとり暮らしだったとは思えないほど、室内はきれいに片付いていた。母がいつ戻っても大丈夫なようにしていたんじゃないか。そう思えるほどには。
「明日は古本屋をのぞいてみようかな」
古本屋をどうするかはまだ決めていない。状況を見てみないと、と母は言っていたが、あまり興味がないようで、引っ越しを決めた沙代子に店舗の鍵を渡し、「ついでに見てきて」と言うだけだった。
「うん。そうしよう」
明日の予定が立つと、むしょうにやる気が湧いてくる。少し前までは、すべて失ったと失意にくれていたけど、沙代子だっていつまでも傷ついてばかりいられないとわかっている。
さっき置いたばかりの鍵をつかんで玄関を出る。
両親が別居してからも、はたちになるまで、年に一度は古本屋にいる父に会いに来ていた。土地勘はある。
駅前のスーパーへ行き、数日分の食材と日用品を買い込むと、ふたたび自宅へ戻った。
日は暮れ始めていたが、ため込んでいた洗濯物を洗濯機へ放り込み、洗濯機を回している間に、牛肉とたまねぎ以外の食材を冷蔵庫に片付けた。そこまですると、流れるように体が動いた。使う食器をひと通り洗って、まな板の上のたまねぎを手際よくスライスしていく。
沙代子は料理が得意だった。両親が別居してから、正社員で働き出した母の代わりに沙代子が家事をまかされていたからだが、単純に料理をつくるのが好きだったのもある。
高校は調理師免許の取れる学校へ通わせてもらい、卒業後は製菓専門学校へ進学した。そして、パティシエとして働き、独立の夢に向かって奮起していた。
ああ、そうだ。父の死の知らせを聞くあの日までは、やる気に満ちあふれるだけでなく、輝いた未来を想像できていた。
牛肉とたまねぎを煮込む鍋を眺めていると、唐突にチャイムが鳴った。
誰だろう。ここへ引っ越したことは、親友と呼べる友人にもまだ話していない。訪ねてくる人がいるとしたら家族だけだけど、彼らが来る可能性は限りなくなかった。
「はーい、どなたですかー?」
エプロンで手をぬぐって玄関扉を開ける。すっかり日の沈んだ中、玄関灯に照らされた男の人が紙袋をさげてポーチに立っている。
見覚えのあるその青年に、沙代子は「あっ」と声をあげていた。
「まろう堂の店主さんっ」
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