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第一話 栞のラブレター

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 沙代子がこの町を出るころ、彼は越してきたらしい。それなら、あのうわさを知っているともいないともわからない。

「葵さんとはすれ違いみたいなものかな」
「私が15年前に引っ越したことは父から聞いたの?」
「銀一さんはよく娘さんの話をしていたから。時々会えるときはすごくうれしそうにしてた。優しい人だったよね」
「うん、それはそう」

 父はマメで穏やかで、親切すぎるぐらい親切な人だった。

 当時は、母と暮らすのがあたりまえだと思っていたけれど、自由奔放な母に違和感を覚える年頃になったときには、どうして母についてきてしまったんだろうと何度も後悔した。父と暮らしていたかった。その思いが、今になってこの家へ戻ろうと決意させたのかもしれない。

「葵さんは当時、小学生だった?」
「6年生だったの。中学にあがる春に引っ越したから、店主さんと同じ中学には通ってない」
「店主さんじゃなくて、天草でいいよ」

 彼はおかしそうに笑む。

「あ、じゃあ、天草さん。年上だし」

 そう言いながら、ため口になってしまう。あどけない笑顔を見せる青年だから、年上というより、とっつきやすい男の子という印象だ。

「そうだ。父に会っていきますか? 家族葬だったから、父とお別れできなかった方もいるんじゃないかって気になってたんです」

 家族葬にしたのは、叔父と母の判断だった。いくら、繁盛してない古本屋の店主だったと言っても、近所のつながりはあるのにと思っていただけに、こうして訪ねてきてくれた天草さんには申し訳ない思いでいっぱいだ。

「銀一さんはずっと、家族葬でいいって言ってたからね。家族に見送ってもらえたらそれでいいって」

 家族……。そう呼べる関係が築けていただろうか。もしかしたら、天草さんの方が家族らしい交流があったかもしれないのに。

「父は天草さんに会いたいと思います」
「それならうれしいけど。あー、どうしようかな。もう遅いから、改めておじゃまさせてもらいます。いい匂いがするから、お腹すいて来ちゃったし」

 月の浮かぶ夜空を見上げて、天草さんはお腹に手を当てておどける。

 銀一の娘が夜遅くに男の人を部屋に招き入れていた、なんてうわさが立つといけないって気にしてくれたのかもしれない。

「いい匂いって……、あっ、ビーフシチューの匂い?」
「そうそう、ビーフシチューだ。葵さんも、これからごはんだった?」
「ちょうど煮込んでたの」
「じゃあ、食べごろだ」
「天草さんは実家暮らし?」
「今はカフェの二階でひとり暮らし」
「ビーフシチュー食べる? 持って帰れるようにすぐに包むから」
「小鍋に入れてくれたらうれしいかも」

 ずうずうしいお願いをさらりと言う憎めない彼は、甘え上手なのだろうと思う。

 沙代子は誰かを頼るのが苦手だった。頼らせてくれない母に育てられたからか、持って生まれた気質なのか。甘え上手な人を見るたびに羨ましく思うこともあった。

『沙代子はひとりでやれるよ』

 褒め言葉のようでそうではない、沙代子を突き放した別れた恋人の言葉は今も忘れられないでいる。

 天草さんのように生きられたら、恋を失わずにすんだのだろうか。

 今さら、考えたって仕方ない。沙代子は「待っててっ」と天草さんに言い置いて、リビングへと駆け戻った。
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