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第一話 栞のラブレター

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 自転車を引いて、まろう堂へ向かう間、睦子さんは無言だった。カラカラと回る車輪の音がやけに響く。

 こんなにも自分はおせっかいだっただろうか。菜七子さんが抱える問題に首を突っ込んで、睦子さんに嫌な思いをさせたかもしれない。

 落ち込みながらまろう堂に着くと、ちょうどお客さんの見送りに出ていた天草さんが手を振ってくれた。

 彼の笑顔を見たら、ひどくホッとした。自転車を投げ出して駆け寄りたい気持ちをこらえ、入り口の脇に自転車をとめると、「いらっしゃい」と優しい声をかけてくれる天草さんに、睦子さんがここへ来たいきさつを説明した。

 彼はすぐに事情を飲み込むと、睦子さんをカウンター席に案内してくれた。

 睦子さんは水を出されても、店内をうかがう様子もなく、本棚をじっと眺めていた。その視線はとある本にたどり着くと、ぴたりととまる。彼女が見ているのは、空の鼓動だろう。

「菜七子は何も言わなかったけど、村瀬くんを好きなの、知ってました。すごくわかりやすいのに、クラスメイトのみんなは菜七子と相田くんが想い合ってるって思ってた。村瀬くんでさえ、そう思ってるみたいでした」

 天草さんがカウンターの上へ空の鼓動を差し出すと、睦子さんは空色の表紙を見つめてそう言う。

「本の貸し借りをしてるのは、みんな知ってたの?」
「それは知ってたと思います。本好きの村瀬くんに菜七子が合わせてるって、気の毒がってる感じでした」
「そうだったんだ。じゃあ、あの日、菜七子さんが本を借りたのも、みんなが知ってた可能性が高いのね」

 本を盗んだのは、菜七子さんを嫌ってた里香さん? 村瀬くんとの関係を羨んだ相田くん? それとも、ラブレターを後悔して、取り戻そうとした村瀬くんとか……。

 睦子さんは本を盗んだ犯人を知ってるのだろうか。

「菜七子、なんで買わなかったんだろう」

 睦子さんはつぶやくように言う。

「探してたものじゃなかったからじゃないかな?」

 沙代子がようやく、睦子さんの隣に腰かけると、彼女はハッと顔をあげる。

「そんなはずはないです。菜七子はずっと、空の鼓動を探してたから」
「空の鼓動を探してたのは間違いないと思うけど、菜七子さんが探してたのはきっと、栞の方」
「栞?」

 睦子さんの表情が奇妙に歪む。

「栞を探してるから、菜七子さんは村瀬さんから借りた空の鼓動を探してるんだと思う」
「葵さん、その話は」

 天草さんにたしなめられて、沙代子はハッと口をつぐむ。お客さんとのやりとりを口外したらいけないって、とがめられたと気づいた。どうも自分は余計なことを言いたがる性格らしい。

「菜七子、知ってたんですね……栞のこと」

 睦子さんはそうつぶやくと、空の鼓動を手に取る。

「この本、菜七子の本なんです。ううん。村瀬くんが菜七子に貸した本なんです」

 断定する言い方に、沙代子は首を傾げる。

「村瀬さんが貸したのと同じ本じゃなくて?」
「まほろば書房にこの本を売ったのは、私なんです。だから、この本は村瀬くんの本」
「いま、なんて?」

 何かの聞き間違えだろうか。沙代子がもう一度尋ねると、睦子さんはこちらを見る。その目はひどく落ち着いているのに、どこか悲しげだった。

 見守る沙代子の視線を嫌うように、彼女は目を伏せる。

「私が高校生の時に、母に頼んで売ってもらったんです。母は本をよく読む人で、まほろば書房で本を売ったり買ったりよくしていたから」
「睦子さん、何を言ってるかわかってるの?」
「もちろん、わかってて言ってます。私なんです。私が菜七子を困らせてやろうと思って、カバンからこの本を盗んだんです」
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