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第四話 『無色の終夜』を君へ

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 悠馬は1週間が過ぎても、まだ鶴川にいた。意外と住みやすい街でしょう? と沙代子が言うと、まだわからないと答えたが、毎日出かけて、観光地めぐりを楽しんでいるようだった。

 母と牛込さんはまだ一緒に暮らしていないらしいが、いずれは母が牛込さんの自宅に住むことになるだろう。そうなったら、悠馬は生まれ育ったアパートをなくすことになる。

 つらかったら、ここで一緒に暮らそう。

 沙代子は父にそう言ってもらいたかった言葉を、悠馬にまるごと言ってあげるつもりはあったが、鶴川に住むことが彼にとって最善かはわからないと思い悩んだりもしていた。

「悠馬くん、まだこっちにいるんだね」

 ケーキの配達を終えると、天草さんが帰ろうとする沙代子を引き止めた。

「あ、うん。来週から学校が始まるみたいだから、それまではいるみたい」
「まだ8月なのに学校あるんだ?」
「進学校だから、補習があって夏休みも短いみたい」
「へぇ、大変だ。そう言えば、悠馬くん、税理士になりたいらしいね」
「えっ、ほんとう?」

 沙代子でも知らない話をどうして知ってるんだろう。

「あ、知らなかった? 今朝はやく、悠馬くんが来てさ。そう言ってたよ」
「そうなの? アルバイトがある日は私も早くに家出るから、悠馬のことは気にかけてあげられてなくて。今朝はやくって、迷惑かけてごめんなさい」
「ちょうど店の前を掃除してたら、悠馬くんが通りがかって、俺が声かけたんだよ。それにしても、高校生とは思えないぐらい落ち着いてるし、東京の進学校に通うなんて優秀な子なんだね」
「私が言うのも……だけど、ああ見えて運動も得意だし、なんでもできちゃって、羨ましいぐらい優秀な子なの」

 母は悠馬を可愛がっていた。おてんばの沙代子と違って大人しく、手がかからない弟は可愛くて仕方なかったのだろう。成績優秀で、運動神経も抜群。学校で表彰されることもたびたびあったし、誇らしい息子だっただろう。ことあるごとに、『悠馬は可愛い』と母は口にした。

 悠馬も、じゃないんだと、沙代子は優等生の彼が羨ましく、母の愛情が向けられない過去に悩んだこともあった。でももう、それは過ぎ去った話だ。母は家事をこなす沙代子を心強く思っていただろうし、高校生になる頃には一人前の大人のように扱ってくれていただけだ。

 沙代子は大丈夫。私と銀さんの子だから。

 母はそう言って、弱音を吐きたいときのある沙代子を励ました。突き放されたように感じたことも、それもまた、今となっては過去の話だ。

「悠馬、ほかに何か言ってた?」

 沙代子が知らない将来の夢を天草さんに話すぐらいだ。ほかにも何か話したんじゃないかと気になって尋ねると、天草さんは父の本棚の方へ目を向けた。

「店に入る? って聞いたらうなずいたから、中に案内したらさ、ずっとそこに立って本棚を眺めてたよ。懐かしんでたのかな?」
「懐かしいなんてことないと思う。悠馬は父を知らないだろうし」
「知らない?」

 意外そうに、彼はまばたきをする。

「悠馬が生まれたのは、両親が別居したあとなの」
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