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第四話 『無色の終夜』を君へ
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表情を変えず、そう尋ねてくる。うわさを聞いていたからだろう。彼はあまり驚かなかった。
「悠馬はああ言ったけど、別に嫌いじゃないの。会ったことはないし。……ううん、会ったことはあるけど、もうずいぶん前だから顔も覚えてない」
「俺も知ってる人?」
「知ってるかも」
「そっか。もし、葵さんが嫌な思いするなら、その人がここに来たら教えるよ」
「私は大丈夫なの。嫌な思いするなら、悠馬の方」
「悠馬くん、高校一年生だっけ」
そう確かめた天草さんは気づいただろう。悠馬は母の不倫が発覚したあとに生まれた子どもだということに。
「誰って、聞いたらダメかな」
遠慮がちに天草さんは言う。沙代子を傷つけないようにと気をつかう彼の方が、苦しげな顔をしている。
「母ね、病院でパートしてたの」
「看護師さんだったね」
「相手はね、その勤務先の院長だよ。駅前にある小児科内科の」
そう告白すると、天草さんは「はっ」と大きく息を吸い込んだ。
院長はこの辺りで評判のいい名医だ。やっぱり、天草さんは知っているのだろう。
「この間、ルッカに行って気づいたの。父がいつも座ってたって天草さんが教えてくれた席から、宮寺内科がすごくよく見えるの」
なぜ、洋菓子が好物なわけでもない父が、わざわざルッカのコーヒーを飲みに行っていたのか、沙代子はあの席から見える風景で悟ってしまった。
「銀一さんは宮寺院長に会いたがってた?」
「そこまではわからないけど、伝えたいことはあったのかも」
「伝えたいことって、悠馬くんの……」
沙代子は無言でカウンターの中を進むと、本棚の前にしゃがみ込んだ。
「葵さん?」
「ねぇ、天草さんは知ってる?」
沙代子が本棚の側面に触れると、彼もやってきて床にひざをついた。
「ここに、女の子を描いた絵があるの」
「あ、うん。知ってるよ。銀一さんが消さずにそのままにしておいて欲しいって言ってたから。その絵がどうかした?」
「これね、私が描いたの」
「えっ、そうなんだ? 葵さんの絵だったんだ」
「うん。母を描いたの、私が」
沙代子の吐き出したい何かを受け止めようとするみたいに、天草さんは無言でうなずく。
「私が小学生のとき、母はいつもおしゃれして仕事に出かけてた。沙代子ちゃんのお母さんは美人だね、モデルみたいにおしゃれだねってお友だちにも言われて、うれしかったの。だから、お母さんまだかなって、パートから帰ってくるのを楽しみにしながら、お母さんの絵を描いたの」
「うん」
「まさか、お父さん以外の男の人に会いに行ってたなんて思わないよね?」
声が震える。悔しいのか、悲しいのかわからない感情が込み上げる。
「葵さん……」
情けない表情の彼から目をそらし、目尻をぬぐう。涙を見せたくない。弱味も。彼を困らせたくない。その思いがそうさせる。
「母と院長の関係が父に知られて、母はパートをやめたの。病院でも、ちょっとしたうわさになってたみたい」
それは大人になってから知った話だけれど。
「父は母を許したけど、母はダメだったみたい。ごめんなさいって、いつも父に謝ってた。そんな生活に耐えられなくてずっと泣いてる母を、父はなぐさめてた」
「だから、離婚されなかったんだね」
沙代子は首を横に振る。
「離婚しなかったのは、お腹の中に悠馬がいたから。父は悠馬がはたちになるまでは離婚しないって条件をつけて、母を家から出したの」
「悠馬はああ言ったけど、別に嫌いじゃないの。会ったことはないし。……ううん、会ったことはあるけど、もうずいぶん前だから顔も覚えてない」
「俺も知ってる人?」
「知ってるかも」
「そっか。もし、葵さんが嫌な思いするなら、その人がここに来たら教えるよ」
「私は大丈夫なの。嫌な思いするなら、悠馬の方」
「悠馬くん、高校一年生だっけ」
そう確かめた天草さんは気づいただろう。悠馬は母の不倫が発覚したあとに生まれた子どもだということに。
「誰って、聞いたらダメかな」
遠慮がちに天草さんは言う。沙代子を傷つけないようにと気をつかう彼の方が、苦しげな顔をしている。
「母ね、病院でパートしてたの」
「看護師さんだったね」
「相手はね、その勤務先の院長だよ。駅前にある小児科内科の」
そう告白すると、天草さんは「はっ」と大きく息を吸い込んだ。
院長はこの辺りで評判のいい名医だ。やっぱり、天草さんは知っているのだろう。
「この間、ルッカに行って気づいたの。父がいつも座ってたって天草さんが教えてくれた席から、宮寺内科がすごくよく見えるの」
なぜ、洋菓子が好物なわけでもない父が、わざわざルッカのコーヒーを飲みに行っていたのか、沙代子はあの席から見える風景で悟ってしまった。
「銀一さんは宮寺院長に会いたがってた?」
「そこまではわからないけど、伝えたいことはあったのかも」
「伝えたいことって、悠馬くんの……」
沙代子は無言でカウンターの中を進むと、本棚の前にしゃがみ込んだ。
「葵さん?」
「ねぇ、天草さんは知ってる?」
沙代子が本棚の側面に触れると、彼もやってきて床にひざをついた。
「ここに、女の子を描いた絵があるの」
「あ、うん。知ってるよ。銀一さんが消さずにそのままにしておいて欲しいって言ってたから。その絵がどうかした?」
「これね、私が描いたの」
「えっ、そうなんだ? 葵さんの絵だったんだ」
「うん。母を描いたの、私が」
沙代子の吐き出したい何かを受け止めようとするみたいに、天草さんは無言でうなずく。
「私が小学生のとき、母はいつもおしゃれして仕事に出かけてた。沙代子ちゃんのお母さんは美人だね、モデルみたいにおしゃれだねってお友だちにも言われて、うれしかったの。だから、お母さんまだかなって、パートから帰ってくるのを楽しみにしながら、お母さんの絵を描いたの」
「うん」
「まさか、お父さん以外の男の人に会いに行ってたなんて思わないよね?」
声が震える。悔しいのか、悲しいのかわからない感情が込み上げる。
「葵さん……」
情けない表情の彼から目をそらし、目尻をぬぐう。涙を見せたくない。弱味も。彼を困らせたくない。その思いがそうさせる。
「母と院長の関係が父に知られて、母はパートをやめたの。病院でも、ちょっとしたうわさになってたみたい」
それは大人になってから知った話だけれど。
「父は母を許したけど、母はダメだったみたい。ごめんなさいって、いつも父に謝ってた。そんな生活に耐えられなくてずっと泣いてる母を、父はなぐさめてた」
「だから、離婚されなかったんだね」
沙代子は首を横に振る。
「離婚しなかったのは、お腹の中に悠馬がいたから。父は悠馬がはたちになるまでは離婚しないって条件をつけて、母を家から出したの」
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