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第四話 『無色の終夜』を君へ

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「え……、あっ、まほろば書房にいた理由? 下見っていうか、改装する前に見ておこうと思って」

 適当な言い訳を思いついて言うが、悠馬が疑う様子はなかった。

「工事、いつから?」
「秋ぐらいになるかな。来年3月のオープン目指してる」
「それ、志貴さんは知ってる?」

 志貴さん? いつから天草さんをそう呼ぶようになったのだろう。知らないうちに親しくしてるみたいだ。

「もちろんよ。アルバイトやめないといけないし、お世話になってるから。どうしてそんなこと聞くの?」
「姉さんに気のある人に見えたから」

 さらりと悠馬は言う。

 沙代子が天草さんと一緒にいるところを彼が見たのは、はじめて出会ったときだけだった。天草さんから何か聞かされてそう思ったのか、沙代子が彼について話すときにそう思うような言動があったのか……。

「誤解よ」

 沙代子はすぐに否定した。

 悠馬が気づくぐらいなのだから、ご近所さんがうわさするのもふしぎじゃないが、色眼鏡で見られるのは本意ではなかった。

「志貴さんって、銀さんに似てるよ」

 だからなんだって言うのだろう。そう思ったけれど、沙代子は別のことが気になった。

「悠馬って、お父さんに会ったことある?」
「あるよ」
「本当? いつ?」

 沙代子ははたちになるまで毎年、鶴川へ来て父に会っていたが、悠馬と一緒に来た記憶はない。

 母は鶴川に立ち寄るのを拒んでいて、父に会いに行くときは、いつも沙代子ひとりだった。自宅最寄り駅の電車に乗り込む沙代子を、悠馬は母に抱かれて見送ってくれたものだった。

「中2の夏休み」

 ということは、2年前。思ったより最近の話だ。

「そうだったの。全然知らなかった」
「ひとりで行ったんだ。母さんにも言ってない」
「よく場所がわかったね。……あっ、そっか」
「銀さん、毎年誕生日になると本を贈ってきたから、まほろば書房の住所は知ってた」

 当時、中学生だったとはいえ、しっかり者の悠馬なら、住所から古本屋の場所を見つけるのは容易だっただろう。

「本かぁ。懐かしいね」

 沙代子は父に会うたびに、服やバッグ、アクセサリーを買ってもらっていたが、悠馬には年齢に合った本が一冊、郵送されてきていた。

「はたちになるまで贈り続けるって言ってた」
「そう」
「はたちになる前に死ぬなんて思ってなかった」
「うん……」

 あいづちを打つだけの沙代子に、悠馬は淡々と話す。父をどう思っていたのか、沙代子は聞いたこともないし、知らない。

「足、引きずってたよね」
「そうね。倒れてからみたい」

 父は自分の体に無頓着なところがあって、不調に気づいたときには遅かった。脳血栓と診断され、退院してからも足にしびれが残ってしまった。

「だから、まほろば書房閉めた?」
「それは違うみたい。私がパティスリーやりたいって言ったからじゃないかな」

 それは天草さんから聞いた話だが、間違いないとも思っている。

「銀さんは姉さんに鶴川に帰ってきてほしかったんだ」
「帰ってきてもいいって言ってくれてたんだとは思う」
「姉さんは可愛がられてたよね」

 どこか羨ましげに、だけど切なそうに、彼はため息とともに吐き出す。

「それは悠馬だって」
「俺には毎年、本を贈ってきただけ。それで父親の役割を果たしてるなんて思ってたのかな」
「悠馬……」

 悠馬の背中に手をあてると、ほんの少し彼は体を丸めた。

「俺、探してる本があるんだ」

 悠馬は静かにそう、ぽつりとつぶやいた。
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