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第三話 早坂さん、四季を楽しむ。

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「ごめんなさいね。いま、店のものは留守で」

 吉沢らんぷを訪れた奈江を出迎えたのは、年輩の女の人だった。

 彼女はいきなりそう言うと、手に持っていたバインダーを作業台の上へ無造作に置く。

 そのバインダーにはさまれた用紙には、エミールガレの名や、美術品の値段と思われる数字がずらりと並んでいる。めくれ上がった一枚を、ぺらりと戻す彼女の指先に、不動産の文字が見える。これは、財産目録じゃないだろうか。

 見てはいけないものを見たような気がして目をそらすと、女の人はバインダーを伏せ、柔らかな笑顔のまま、観察するように見つめてくる。

「もしかして、早坂奈江さん?」
「そうですけど……」

 面食らいつつ、おずおずと言うと、彼女はうれしそうに手を合わせる。

「やっぱり、奈江さん。環生からお話は聞いてます」

 秋也ではなく、環生から?

「あっ、もしかして……」
「そうなの。遥希と環生の母の、吉沢みどりです。どちらかというと、奈江さんは遥希の知り合いなのよね? 生前は遥希がお世話になったそうで」

 みどりと名乗る遥希の母は、丁寧に頭をさげる。奈江もつられておじきをすると、彼女はどことなく満足したような表情をする。環生の知り合いとして、合格点をもらえたような気分だ。

 しかし、彼女はなぜ、名前を知っていたのだろう。戸惑う奈江に気づいて、みどりが思い出したように言う。

「あっ、秋也くんと約束よね? 彼、仕事で近くに出かけてるんだけど、もうそろそろ戻ると思うわ。奈江さんが来たら、奥に案内するようにって言われていて……って、言ってる先から帰ってきたみたい」

 店の裏から自動車のエンジン音が聞こえたあと、程なくして、作業着姿の秋也が生成りのカーテンの奥から現れる。裏口から帰ってきたようだ。

「秋也くん、たったいま、奈江さんがいらしたわ」

 秋也はみどりに礼を言うと、奈江に向かって経緯を手短に話す。修理見積もりの依頼が入り、しばらく店を留守にするからと、奈江に連絡を入れようとしていたところにみどりが訪れ、店番を頼んだのだと。

「みどりさんも何か用事でしたか? 話も聞けずに出かけたので、申し訳なかったです」
「ああ、私? 気にしないで、目録作りにきただけだから」

 みどりはふたたび、バインダーを手に取ると、秋也の方へよく見えるように差し出す。

「目録って、遺言書でも作るんですか?」

 やはり、さっき目にしたのは、財産目録だったようだ。

 冗談まじりに秋也は軽口をきくが、わりと真面目な表情でみどりが言う。

「贈与よ。秋也くんに譲り渡すもの、全部。なかなか、うんと言ってくれないから困ってるんだけど」
「みどりさん、早坂さんがいるから」
「特別な関係だって、環生から聞いてるわよ?」

 意味ありげな目を向けられて、奈江が困惑していると、秋也が苦笑いする。

「環生くんの話は、半分程度でお願いします。申し訳ないですが、この話はまた今度」
「わかったわ。今度、環生も交えて話しましょう」

 みどりはため息をつくと、バインダーを手提げかばんに押し込めて、らんぷやの入り口から帰っていった。

「いいんですか? 大事なお話なら……」
「いいんだよ。前から言われてることだから」

 きっと、環生もみどりも、秋也にらんぷやを継いでもらいたいのだ。だけど、簡単には出せない答えに、彼はまだ悩んでいるのだろう。

「早坂さん、コーヒー淹れるよ」

 秋也がカーテンの奥を指さす。

「あっ、大丈夫です。本を汚したらいけないから」
「じゃあ、こっちで見る? 現物見ながら勉強した方がわかりやすいよな」
「はい、そうします。今まであんまりわからなかったけど、こんなに近くでガレのランプが見られるなんて、すごいことですよね」
「吉沢さんの目利きは確かだから、全部本物だよ」

 秋也はどことなく誇らしげに言うと、作業台の上へ、用意してくれていたのだろう専門書をいくつか積み上げる。

「気に入った本があったら貸すよ」
「貴重な本なら、ここで読みます。大丈夫ですか?」
「もちろん。俺は早坂さんがずっといてくれるなら、その方がいいからね」

 さらりと見せられる好意を受け止めきれずに赤くなる奈江を、彼はくすりと笑うと、作業台の前へ椅子を二つ並べた。
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