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二章〜蜜月〜

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 帰宅したのは日付が変わってからだというのに明日美は起きて瑞生を待っていた。テーブルの上にはラップがかけられた料理がおいしそうに並べられている。

「ただいま……遅くなってごめん」

「おかえり。お仕事お疲れ様だね」

 少し疲れた様子の明日美がぎゅうっと瑞生に抱きつき頬を押し当てた。

「また帰ってこなかったらどうしようって、ちょっと心配だったけど……よかった」

「ごめんな」

 体に残る禄朗の残り香をかがせたくなくて、瑞生はそっと腕をつかみ体を離した。

「汗臭いと思うから、先にシャワー浴びてくるよ」

「うん。おなかすかない?ご飯食べる?」

「いや、済ませてきたから……明日美は食べたのか?先に寝ててもよかったんだよ」
 
 気遣うように声をかけたが、本音を言えば一人で余韻を味わいながら過ごしたかった。

「お祝いしたかったから。シャンパンもあるの、飲むよね?」

 ふわりと微笑む明日美に罪悪感しか持つことができなくなってしまった。彼女に罪はないのに愛おしさを感じない。家族としての情以外はもうどこにもなかった。

「ありがとう」と曖昧に笑って、バスルームへと向かう。

 ここらが潮時だろう。これ以上曖昧にしているのはお互いのためにはならない。もう、瑞生は明日美の知っている瑞生ではない。禄朗に作り替えられて、彼のためだけに生きている。

 シャワーを浴びてダイニングに戻ると明日美は料理を温めなおし、瑞生がテーブルに座るのを待つだけになっていた。

「みっちゃんも30歳だねえ」
 
 グラスにシャンパンを注ぎながら明日美が笑いかける。そのほっぺたに浮かぶえくぼが可愛くて、好きだった。

「わたしもちょっとだけもらおっかな。いいかな、いいよね……ちょっとだけ許してねー」

 いたずらっ子のような笑みを見せおなかに話しかける。グラスにほんの少しだけ注いであげるとカチンとグラスを合わせて乾杯をした。

 向かい合って食事をとるいつもの景色が色あせて見える。さっきまで過ごしていた何もないホテルの部屋のほうが今の瑞生には生々しい日常になりつつあった。

 明日美と作る幸せな日々。
 子供が産まれパパとママになり、賑やかになったであろう生活も選べた。きっとそっちのほうが穏やかで普通で正解なのかもしれない。

 だけど禄朗という存在は麻薬のようで絡められ逃れられない。初めて会った時から捕らわれたままなのだ。

「明日美」と瑞生は穏やかに声をかけた。

「なあに、みっちゃん……怖い顔して」

「うん、ごめんね、話さなきゃいけないことがあるんだ」

 瑞生は息を吸い込み気持ちを落ち着けると、明日美に告げる。

「アメリカに行こうと思ってる」

「え?」

 明日美は突然のことに大きな瞳をぱちぱちとさせ、首をかしげる。

「転勤ってこと?」

「違う。ぼくだけがいく。明日美は連れて行かない」

「単身赴任ってこと?みっちゃんの会社、海外支社なんかあったっけ??」

「…ごめん、言い方が悪かったね」

 ぎゅっとこぶしを握り締めて弱気になる心を叱咤する。もう決めたはずだ。

「別れてほしい」

 頭を下げ、震える声で離婚を切り出した。明日美は何も言わないまま固まっている。

「好きな人がいるんだ、その人とアメリカに行く」

「なに、を……言ってるの……?」

 明日美の声も強ばっている。

「何?みっちゃん、誰?好きな人って……え?どういうこと?」

「ごめん。謝ってもどうしようもないけど、ごめん」

「意味わかんないよ!みっちゃんこっち見て」

 強く肩を押され顔を上げると明日美は立ち上がり顔を赤くして瑞生を見下ろしていた。

「どういうこと?!なに、よ、別れるって、アメリカって、なんでそんなことに?」

「ごめん」

「ごめんじゃないよ」

 悲鳴のような声が上がり、その瞬間頬に熱いものが走る。平手でたたかれたとわかって、じんと痛みが遅れてやってきた。

「叩いて気が済むなら、いくらでも叩いてほしい」

「そんなことで気が済むはずないじゃないの」

 明日美がそばにやってきて、瑞生の顔を真正面から覗きこんだ。

「赤ちゃんいるんだよ?みっちゃんとわたしの。ここにいるの……絶対別れないから」

 力のままに抱きつかれた。

「幸せになるんでしょ、わたしたち。みっちゃんと、この子と、わたしで」

 明日美の声が震えていた。生暖かいものが瑞生の胸にしみこんでくる。幸せにしようと思っていた。絶対泣かせないと思っていた。

 禄朗がいない世界で、偽りのままの瑞生でならそれは叶えてあげることができた。でも、もう___会ってしまったのだ。禄朗のいる世界では、瑞生は禄朗のものでしかない。そのほかは全ていらない。

「これから、どうしたらいいのか考えるから……」

 せめて明日美が苦労しないで生きていけるように、残せるものは残していこう。あげれるものは全部あげよう。瑞生にできることはもうそれしかない。

「なんも欲しくないよ。みっちゃんがいないなんて、ダメ、無理だよ」

「ごめんね、最低な男で」

 震える肩はあまりにも小さすぎて胸が痛む。自分のわがままが一人の女の人を不幸にするのかと思うと怖くて仕方がない。
 だけどこれ以上ごまかしていくことはできない。瑞生は選んでしまったのだ。


 疲れ切ってしまった明日美をベッドに寝かせ小さく息を吐いた。ベッドから離れかけた瑞生の服の裾をしっかりと握って「離れないで」と掠れた声が呟く。

「いかないで、みっちゃん」

「明日美……」

 やわらかな髪に指を通し、何度も梳いてやると明日美は心を決めたように瞳を閉じた。ほろりと透明なしずくがまぶたを流れ落ちていく。

「離婚なんてしない。好きな人がいてもいいよ。でもいなくならないで」

「……そんなことできないよ」

「約束したでしょう?ずっと一緒にいるって」

「……うん、したね。守れなくてごめん」

「うそつき」

「うん、ごめん」

 謝る以外に何をできるというのか。そのうち寝息を立て始めるまでずっとそばにいて、明日美の体を撫でていた。
 禄朗のものとは全く違う生き物のように、細くて柔らかい明日美の体。大事に守ってあげなくちゃいけないのに傷つけるばかりで、瑞生と知り合わなければ今頃もっと幸せに暮らしていただろう。







 翌朝は明日美が起きる前に家を出た。
 パスポートとチケットはお守りのように肌身離さず持っていく。禄朗と瑞生をつないでくれる大切なものだから。

 早朝の通勤はいつもより静かで電車に揺られながらこれからの未来に思いをはせてると自然に笑みが浮かんだ。禄朗の隣にいて笑っている自分。やっと欲しい生活に手が届くと思うと心の中に暖かな火が灯るようだった。 
 
 出社してすぐに有休の申請をすると急な申し出にかなり驚かれてしまったけど、有無を言わせず頼み込む瑞生にすぐに許可が下りた。

「どうした?なんかあったのか?」

「まあ、いろいろ……すみませんご迷惑をおかけします」

 申し訳なく頭を下げる瑞生に上司は目を見開き言葉をこぼした。

「いや、いいんだけど……びっくりしたよ。お前がこんなに必死になっているのを初めてみたから……」

「やることはしっかり片づけてから取りますので」

 いつもの瑞生は物静かで自己主張や希望を口に出すようなことはほとんどしない。自分の要望なんてそんなになかったのだ。
 だけどもう違う。

 たまっていた仕事を片付けるために残業が続いた。
 明日美と顔を合わせてもお互いギクシャクとしている。時間をかけて話し合わなければならないことだとわかっているけど、どうしてもうまく運んではくれなかった。

 明日美は瑞生の言葉から耳をふさいだ。「離婚はしない」と一転張りのまま。

「次に会うのは空港で」と言われた通り、禄朗からの連絡は途絶えた。せめて声くらい聴きたいと思うけど今は我慢だ。

 一人の時間ができると航空券を眺めてばかりいた。それが禄朗のもとへ行けるチケットなのだ。

「早く会いたい」

 会って抱きしめられたい。何度もつながりたい。禄朗だけでいっぱいにしてほしい。

 

 だけど、現実はそうは甘くなかった。
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