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プロローグ

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 輪郭がぼやけて男のものか女のものかも定かではないが、ひと組の靴跡が先へ先へと続いている。何と好都合な。こいつを見失わずにたどっていけば、自然と目指す場所に着く。
 奥へ奥へと歩いていくうちに、場違いなものに遭遇した。五メートルほど前方の右手から白い馬が躍り出たかと思うと、音もなく左の木立に消えた。眩しいほど純白の馬で、見事なたてがみをなびかせていた。突然のことに度肝を抜かれてしまう。

 ホウ。と、樹上でふくろういた。ホウ、ホウ。
 それを耳にした途端に、ようやく自分が夢を見ていることを自覚する。いつも梟の声が告げてくれるのだ。
 肉体はベッドの上にあり、何の危険もなく眠っている。これはただの夢。打ち捨てられたスタジアムの中に得体の知れない森があっても、白馬がいきなり目の前を横切っても不思議はない。
 さっきのあれは……そう、ベッドに入るまでワインを飲みつつ、テレビで動物番組を観ていた。そこに登場した馬ではないか。堂々とした走りっぷりが印象的だった。
 ーーここからは明晰夢か。よし。安心して、せいぜい楽しむとしよう。
 だが、あまりにも悠長にかまえてもいられない。明晰夢は、そう長く続かないもの。早くことを済ませなければ、楽しむ前に無粋な目覚めが訪れる。
 足跡をたどっていくと、木立の間に切妻屋根の二階建ての家が見えてきた。テレビのコマーシャルによく登場するタイプの住宅だ。薄闇のせいで定かではないが、外壁は明るい色で塗られているようだ。以前に夢で森を彷徨った時にはなかった。
 足跡がそちらに向かっていたので、考えもなく近づいたことが間違いだった。二階の大きな窓が勢いよく開くなり、風を切って何かが飛んできた。
 傍らの木の幹に、カッと矢が刺さる。棒立ちになっていると、窓に現れた影はさらなる矢を放とうとしていた。慌てて身を隠した木に、狙いたがわず二の矢が命中する。
 狩られるのを待つだけの、大人しい獲物ではなかった。予期せぬ反撃に狼狽している間、影は弓を手にしたまま窓から飛び出す。猿よりも軽やかに地上へ着地するではないか。そのシルエットからすると、どうやら女らしい。全身が総毛立った。
 来た方向へ、一目散に駆け出した。何度も脚が絡まりそうになり、恐怖が心臓を鷲掴みにする。道に横たわった倒木を乗り越える際振り返ってみたら、女はみるみる接近してきた。自分の二倍は速く走れるようだ。
 ーー待ち伏せされていたんだ。こっちが狩られる方だったのか。
 とてもではないが、逃げられない。絶望しながら考えた。
 ーー迎え撃とう。走りながらでは、矢を弓につがえることもできない。背中を見せたりせず、あいつが三の矢を放てないうちに射てしまおう。
 正しい判断に思えたが、失敗は許されない。一度打ち損じれば相手は自分の元までやってきてしまうから、チャンスは一回だけ。
 矢筒から素早く一本抜き、狙いを定める。女は長い髪を振り乱しながら、射程距離に入りつつあった。こちらが弓を構えているのが見えているだろうに、ひるむ気配は微塵みじんもない。
 ーーはずれても大丈夫。取って食われたりはしない。これは夢なんだから。
 そうだ、夢だったではないか。緊張が緩んだところで、異音がけたたましく割り込んできた。神経に障るピピピという断続的な電子音。

 右腕を伸ばし、枕元の目覚まし時計を探り当ててアラームを止める。ゆっくりと両目を開け、悪夢の余韻を振り払って気持ちが鎮まるのを待った。
 とうに慣れっこになっているはずなのに、つくづく因果だと我が身を呪わずにいられない。
 世の人々は眠りの中で恋しい人と語り合ったり、死に別れた懐かしい人に再会したり、色々と楽しい思いをするのに。
 生まれてこの方、彼は悪夢しか見たことがなかった。
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