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あなたに悪夢を

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「その対談は首尾よくいったのか?」

 尋ねる彼の後ろで、猫の声がした。三匹のうちのどの子だろうか?

「悪夢の話で盛り上がった。福内さんの家には、そこで寝たら必ず悪夢を見るという奇妙な部屋があるそうや」

 話が自然といい流れになってきた。

「肉体に負荷を掛ける何かがその部屋にあるんじゃないのか? それが原因で夢見が悪いってことだろう」

 彼らしい推測だが、常識にかなった見方だ。私も似たような仮説を立てていた。

「そうでないのなら、ホラー作家の意図的な誇張だ。その部屋で悪夢に一度うなされただけなのを大袈裟にしゃべっているのさ。……お前と親しい作家なのか? だったら嘘つき扱いして、すまん」
「謝らんでもええ。それもありそうなことやな。お前、まだおかしな夢を見てるか?」

 ここで懐に潜り込んでみる。

「たまに」
「半月ほど前にも見たな?」
「どうして知っているんだ? これは不思議だな。俺の頭の中に侵入できるはずがないのに」
「宵の口にうたた寝してる時に見たんやろう。叫びながら目を覚ますような夢を」

 そこまで言うと、事情が分かったらしい。

「婆ちゃんに聞いたんだな?」

 正解だ。日向と東京駅でばったり会う二日前。彼が大学時代からお世話になっている下宿の大家さんーーその名も東雲しののめ三千代みちよーーから電話がかかってきた。菓子折りを送ったお礼だった。

「おおきに。上等のお菓子をいただいて」
「手紙に書き添えたとおり、いただきものが重なったんです。賞味期限内に食べ切れそうになかったから、助けてもらおうと送っただけなんで、お礼なんか要りませんよ。ご丁寧にすみません」

 彼の下宿に出入りしているうちに、私もよくしてもらうようになった。婆ちゃんとも、十四年来のお付き合いになる。久しぶりに声を聞いたので、近況を報告し合ったりして、やがて日向の話になった。
 昨夜、二階の奥の納戸にものを取りにいった帰り。現在ただ一人の店子である彼の部屋の前を通りかかったら、短く叫ぶ声がした。婆ちゃんは驚いて、「先生、どないしはりました?」と廊下から尋ねずにおれなかったそうだ。

「すぐに顔を出しはって、『うたた寝をしていたら変な夢を見てしまいました。お騒がせして、すみません』と。笑いながら言わはったんですけど、おでこに汗が浮かんでいました。……あの癖、まだ治ってないんです」

 一つ屋根の下で暮らしている婆ちゃんは日向が悪夢にうなされるのを知っており、そのことを以前から私に話してくれていた。

「そうですか。治るもんやないのかもしれませんね」
「先生、気の毒に。警察から頼られてる犯罪心理学者さんにこんなことうても仕方がないんやけど、もっと心安らかに暮らしたらどうかなと思うことがあります。……けど、犯人を追いかけるの、やめしまへんやろなぁ。そんなん猟師から鉄砲を取り上げるようなもんやから」
「心静かに暮らすのは老後でいい、と考えていそうですよ。いや、それも怪しいか」

 優しい大家さんは、こんな懸念を口にする。

「悪い夢を見てうなされるというのは、体の不調が原因のこともあるそうやないですか。そっちも心配やわ」
「あいつ、体調がようないんですか?」
「いいえ、普段と変わりません。ご飯もよう召し上がります。せやけど外から見ただけでは分からんこともあるやないですか」
「大学で年一回は健康診断を受けていますから、大きな異状があったら分かるでしょう」

 婆ちゃんを安心させるために、つい気休めを言っていた。

「健康診断で病気を見逃すことも多いと聞きます。『あんまり無理したらあきまへん』て言うてるんですけど、しょっちゅう注意するから慣れっこになってはるみたいやわ。葛城さんからも言うてあげて」
「『俺を見習みなろうて、ぼちぼちやれ』って忠告します。体調のことも聞いときますから」

 彼が悪夢を見るのは昔からなので、急いで電話するほどでもないと思っていた。ところが先ほど〈悪夢 叫ぶ 病気〉という言葉をネットで検索してみると、いくつかの病名が引っ掛かる。婆ちゃんが不安がっているのは、正しいように思えてきたのだ。

「俺は、悪夢を見て大声を上げるほど元気だよ。これでも自分の健康状態には配慮しているんだ」
「それやったら禁煙せえ」
「煙草をやめたらストレスで健康を害する」

 駄目だ、こいつ。ニコチンに依存してしまっている。

「どんな夢を見るんや?」
「人を殺す夢だよ、相変わらず」
「どこで、誰を?」
「答えたくないな。特にこんな天気の夜には。話したらまたひどいのを見そうだ。……そっちは雷が鳴っているな」
「鳴りまくりや。ホラータッチの夜になってるわ。分かった、今晩は勘弁したろ。そのうち話せよ」
「イエスと答えてもいいけど、追及が甘いぞ、ノア。『そのうち』っていうのは五十年後かもしれない」

 青白い稲妻。
 それに照らされた部屋の隅に、一瞬電話を片手に立つ日向の幻影が見えた。何かを諦めたような表情をしている。どうしてそんな顔を? そう問うのも愚かだ。私が勝手にイメージしているにすぎない。

「心配してくれる人が身近に二人もいることに感謝するよ」
「殊勝なことを言うやないか」
「本心だ」
「大阪に来ることは?」
「近々行く予定はない。お前が京都に来ることはあるのか?」

 亀岡の帰りに、彼と会えるかどうか分からない。

「そのうち何かで行くやろう。暇があったら一緒に飯でも食おう」
血腥ちなまぐさい殺人現場で『久しぶり』と会うよりいいな。俺もそっちに行くことがあったら声を掛ける」

 電話を切ってから、酔いたい気分になった私は赤ワインのボトルを開けた。ほんのり酔いが回ったところで、ベッドに向かうとしよう。たまには早寝するのもいい。

 どこかで雷が落ちる。
 グラスを傾けながら、今夜、友人が安らかに眠れることを祈った。
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