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通話

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 隣で瀬戸のうめき声を聞きながらの授業を受ける日課が終わり、いつも通り自宅のマンションに帰り、自室に籠る。
 この瞬間が一日で一番リラックスできる時間だ。他人と関わるのは嫌いではないが、やはり疲れる。
 だから部屋に戻ると張り詰めていた精神が解けて、少し眠くなってしまうのがお決まりのパターン。

「さーてと」

 気分転換にゲームでもしようかなと思い、ポケットからスマホを取り出す。
 いつも通りボタンを長押しし、電源を入れたのだが、

「うおっ」

 スマホの振動が止まらない。
 びっくりして画面を見ると、大量の着信とメールの通知が滝のように流れていた。
 しかも現在進行形で増えている。

「うっわぁ……」

 まあ、全く予想していなかったわけではないが、ここまでとは思っていなかった。
 着信の番号から想像できるその相手に軽く引いていると、ちょうど新たな着信が入ってきた。
 本当は通話ボタンを押したくない。しかし、この調子で毎日かけられるとさすがにノイローゼになりそうだ。

「はぁ……」

 これはちゃんと言わないといけない。そう思い、通話ボタンを押す。

「もしもし」
『え……あ……』

 震えるような女の子の声。俺はこの声を知っている。

「話さないなら切るぞ」
『あ、あの! 桜井くん!』
「なんだよ……七瀬さん」

 そう、瀬戸の言う通り、俺と七瀬紗花は知り合いだった。
 知り合いどころではなく、友達だった。

『えへへ……久しぶりだね』
「そうだな」
『桜井くんは最近どう? ちゃんと食べてる? いつもみたいにカップ麺ばっかりじゃ駄目だよ』
「そういうのはいいから」
『あっ、ごめん……ごめんなさい……』

 とはいえ、友達だったのは昔の話だし、友達だった期間も一年かそこらでしかない。
 それどころか友達だったのかも怪しいぐらいだ。
 今では一年以上会話していないし。……いや、一年以上会話していなかったが正しいか。

「七瀬さんがわざわざ俺に連絡取る理由がよくわからないんだよな」
『……それ』
「ん?」
『七瀬さんっていうの、やめて欲しいな。昔みたいに紗花って呼んで』

 七瀬は、昔みたいに甘えたような声で言ってくる。ここ一年、俺が聞いてなかった彼女の声だ。

「いやだよ」
『な、なんで?』
「入学前に決めただろ。俺たちは他人だって。その方が良いって」
『それは……そうだけど……でも、ここまでとは思ってなかったというか……』

 七瀬はゴニョゴニョと何かを言っているが、上手く聞き取れない。

「変に噂立っても困るしな。今の七瀬は学園のアイドルだから」
『それ、恥ずかしいんだよね』
「いいじゃねーか。夢が叶ったんだからさ」
『――別にこんな風になりたかったわけじゃないもん!』

 さっきまでとは打って変わり、七瀬は不快な感情を露わにして声に乗せる。
 これも、昔はよく聞いていた彼女の声の一つだ。今さら驚いたりはしない。

「でも皆と友達になれただろ」
『それはそうだけど……困るよ。告白されたりとか』
「あーはいはい、モテる女は大変ですね」
『そんなつもりじゃ……』
「夢が叶ったんだ。いいじゃないか。もうお前はぼっちじゃないよ」
『……うん。桜井くんのおかげだよ』
「頑張ったのは七瀬だろ。俺は何もしてない」

 中学の頃の七瀬は、孤独ないじめられっ子だった。
 俺はたまたまそんな彼女と話し、たまたま彼女と仲良くなっただけに過ぎない。
 そんな彼女の夢が「同級生のみんなと友達になりたい」だった。俺はそれに少しだけ協力した。
 そして、彼女の夢は叶った。叶いすぎたぐらいだ。

『で、でも前にアプリで私のことブロックしたでしょ? あそこまでやらなくていいんじゃないかなって』
「何言ってんだ。ブロックしなかったら毎晩メッセージと通話送ってくるかもしれないだろ」
『それは……そうだけどさ』
「とはいえ、今は友達たくさんいるし、そっちのグループのやり取りで忙しいから俺なんかに連絡とる必要もないよな」
『さ、桜井くんがブロック解除してくれるなら、毎日連絡するよ?』
「あ、ブロックは解除しないから」
『えー……』

 七瀬の不満そうな声を聴きながら、そろそろかな、と俺は思っていた。

「で、何があったの? 七瀬さん」
『な、何が?』
「一年の頃は約束守ってたのに、今日になって急に鬼電に鬼メールしてきた理由。何かあるんだろ?」
『それは、その……』
「ないのか?」
『いや、あの……す、す』
「す?」
『す……ストーカーにつきまとわれてて』

 ストーカー? 七瀬に?
 昔の彼女を見ていたから何だか実感が湧かないが、確かに七瀬は俺の目から見てもびっくりするほど綺麗になった。時々、大人の女性にも見えるぐらいに。
 そんな彼女にストーカーがつきまとうのは、おかしなことではないかもしれない。

「北雪の生徒か?」
『どうだろう、わかんないな』
「怖いもんな。警察には連絡した?」
『あ、うん……一応』
「そうか。じゃあ大丈夫だな」

 七瀬が恐怖でパニックになって上手く判断できてないのかとも思ったが、そういうことではないようだ。少し安心した。
 警察に連絡しているのであれば、当然学園の先生にも連絡が入ってるだろうし、安心だろう。
 俺にできることは特にない。

『え……?』
「ん?」
『桜井くん、助けてくれないの?』
「え、俺が助けられるところあるか?」

 七瀬が何を言いたいのか、本気でよくわからなかった。

『あ、いや、あの……ボディーガードしてくれたりとか』
「クラス違うからいつも見張れるわけじゃないしなぁ。先生と警察もちゃんと目を光らせてるだろうし」
『そうだけど……』
「それに、頼むなら俺じゃなくて同じクラスの信頼できる男子とかさ。運動部なら頼りになると思うんだ」

 七瀬が今でも俺のことを信頼してくれているのは嬉しいけど、昔と違って彼女の周りにはもう友達がたくさんいる。
 俺なんかは必要ない。
 まあ、必要であったことなんてそもそもないんだけどな。
 七瀬は、出会った頃から誰にでも好かれるべき魅力を持った人物なんだから。
 歯車が噛み合ってなかっただけで、こうして噛み合ってしまえば、七瀬が人選に困ることはもうない。

『それは、やだな』
「え?」
『その、男の子は……まだちょっと怖いから』
「……そうか。ごめんな」
『ううん……』

 七瀬が告白を断り続けていた理由がようやくわかった。
 中学の頃、七瀬を主にいじめていたのは男子だった。そして、男子にいじめられていることで、女子に避けられていた。
 七瀬は女子のことは苦手じゃない。「同じ状況だったら私も同じことをしていたと思う」と言っているぐらいだ。
 でも、七瀬は男子のことはすごく苦手だった。俺とはたまたま趣味が同じでソリがあって話せていたけど、他の男子と話している姿は見たことがなかった。
 北雪学園に入ってからは、男子と話している姿も何度か見かけていたので大丈夫になったもんだと勝手に思っていたが、七瀬の中ではまだ克服しきれていなかったみたいだ。

「わかった」
『え?』
「わざわざ連絡取ってくるぐらいだもんな。俺が協力することで七瀬さんが安心できるなら、やるよ」
『え、うそ、ありがとう! 桜井くん!』
「ただしボディーガードはナシな。遠目で見守る感じでな」
『うん! 嬉しい……』

 七瀬は心の底から嬉しそうな声で、噛みしめるようにそう言った。その様子に、俺も嬉しくなる。
 こんなことで安心してくれるなら安いもんだ。

「それじゃあ切るぞ」
『待って!』

 もう用は済んだはずなのに、七瀬は強い口調で俺を止めてきた。

「なんかあるのか?」
『えっと、その……瀬戸さん』
「あー、瀬戸? 瀬戸がどうかした?」
『瀬戸さんと、仲良いの?』

 何でそんなことを聞かれるのかはイマイチわからないが、ちょっとした雑談だろうか。

「まあ仲良いかといえば……良いのかな」
『つ、つ、つ……付き合ってたり?』

 七瀬が言ったことが、一瞬理解できなかった。
 付き合ってる? 俺と瀬戸が? なんで? どこが?
 どうしてそんな話になったのか、展開が全くわからない。論理の飛躍にもほどがある。

「いやいや、全然そんな雰囲気なかっただろ。付き合ってる奴らってもっと、いつもはにかんでるっていうかさ。明らかに違うだろ」
『そっか……そうなんだ』
「そういうもんなの。耐性ないにもほどがあるだろ」
『えへへ……』
「それじゃあ連絡用にブロック解除しておくけど、緊急時以外連絡するなよ」
『えっ!? な、なんで?』
「なんでって……俺たち縁切れてるしさ」

 昔は俺が七瀬の唯一の友達だったから、毎日のようにやり取りをしていた。
 趣味の話。学校の話。勉強の相談。親の愚痴。人間関係の愚痴。
 七瀬がお喋り好きだったから、それに合わせて本当に色んなことを話した。お互いの家で遊んだこともある。
 でも、全部昔の話だ。
 たまたま七瀬と俺の進学先が同じになった時、俺と七瀬は「これからは友達ではなく、他人として接する」と約束した。
 それは前向きに縁を切ることを意味した。七瀬が新しい環境で友達を作っていくために必要な儀式だった。
 不退転の覚悟を込めた、願掛けのようなものだ。
 七瀬も、そのことはきちんとわかっていた。
 別にトークアプリでブロックしたところで、その気になれば今日みたいに電話番号を使って連絡を取ることはできる。
 でも取らなかった。お互いに決めたことだから。
 せっかくここまで上手くいってるのに、今さらやめたら、魔法が解けてしまう。

『わ、私は!』
「……なんだよ」

 七瀬が今日一番の語気の強さを発揮し、思わず圧倒される。

『私は桜井くんと今でも友達だと思ってるから!』
「……は?」
『それだけ! じゃあね!』

 一方的に言うだけ言って、七瀬は通話を切ってしまった。
 思わず一人、取り残されてしまう。

「……なんだよ」

 これじゃあ、勘違いしてしまいそうだ。
 自分が誰かに好かれ得る存在だって、誰かに愛される可能性があるって、致命的な勘違いをしてしまいそうになる。
 そんなことはあり得ない。誰かの人生にあり得ても、俺の人生にだけはそれはあり得ないことなのに。

「はぁ……」

 俺の頭の中をよぎったのは七瀬ではなかった。
 今は別居中の、俺の母親だ。
 父親とは関わったこともないから、母親は俺の唯一の肉親だ。
 俺は母親が好きだった。母親に愛されてるって、信じていた。
 信じたかった。
 でも、俺は――

「――いや、やめよう」

 負の連想ゲームをはじめようとした脳内のホワイトボードを、無理矢理かき消す。
 そのままスマホでゲームを始めようとして、ふと、先ほど七瀬に「ブロックを解除する」と約束をしたのを思い出す。
 そのトークアプリを押すのはたぶん一年ぶりだ。
 俺は学園外でも他人と積極的にコミュニケーションをとるタイプではないから、これはほとんど七瀬専用アプリだった。
 リストにいる「紗花」という登録名を選択し、ブロックを解除する。
 すると、すぐにピコンと音が鳴った。

「……はは。早すぎるだろ」

 即座に、「紗花」から可愛い熊のスタンプが送られてきた。
 いつ解除するかもわからないのに、ずっとスマホとにらめっこしながら待機してたんだろうか。
 ……いや、さすがにそんなわけないか。
 そんなことを考えながら、なんだか微笑ましい気持ちになっていた。
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