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過信

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 月曜日になった。
 紗花がきちんと学園に来ていることは後ろの席の気配でわかったので、朝から安心して授業を受けることができた。
 前に大喧嘩して泣かせてしまった時は、俺のせいで一週間休ませてしまったけど、さすがにまた一週間休むとなると単位が心配だ。
 やっぱり、俺なんかとは二度と会わないほうがいい。生産性がないどころか、無意味に人生の時間を浪費することにしかならない。
 ただ、紗花は浜田と仲直りできていないのか、いつもは目障りなぐらいの二人の日常風景は、今日という日からは抜け落ちていた。
 今日もプリントが配られてしまったけれど、いつもは指先の近くで感じていた温度も、今日はない。

「……ふぅ」

 移動教室の直前になって、隣の瀬戸から目に見えそうなぐらいにネガティブ感情の波動を感じたので、そそくさと逃げるように来てしまった。
 ほとんど駆け足に近かったから、教室にいる人はさすがにまばらだ。
 教室から出て行く人も、何人かいるものだから、おそらく前の授業の慣性がこの教室にはいまだに働いている。

「あ……」
「……ああ」
「……おはよう、桜井」
「………」

 既に教室で自分の席に座っている村上が、申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
 別に気にしていないつもりだったけど、人類が獲得した感情とその表現能力は意外と厄介なものらしく、表情筋は笑みを作ってくれなかった。
 なんとなく挨拶をする気にもなれないので、目を合わせて軽く頷くだけで、自分の席についてしまう。

「――お、早いね」
「え…………」
「おはよう、桜井くん」
「……おはよう、浜田」

 こんな日に限って逆隣の浜田も早く来てしまっていたようだ。
 村上と会話をしていないせいで、いつも以上にごく自然に話しかけられてしまう。
 さっき完全に村上の挨拶をそっけなく返してしまったので、今日ばかりは村上のフォローを期待できなさそうだ。
 全く、俺に対する嫌がらせの塊みたいな状況だな。

「昨日、紗花とお出かけしたんだよね?」
「え……まあ……」

 あれ、喧嘩中じゃなかったのか? あれからすぐに仲直りしたのかな。
 でもまあ、他の男と出かけた上で、それを彼氏に伝えるなんて正気じゃない。
 浜田は気にしていないみたいだけど、それは初回限定特典かもしれないしな。
 紗花はどうにも男心がわからないみたいだけど、やっぱり昨日一緒に帰らなくてよかったなと、そう思う。

「ねえ、桜井くん」
「……なに?」
「聞きたいことあるんだけど、いいかな」
「え、なにを?」

 なんだろう。やっぱり釘を刺されてしまうんだろうか。
 こんな状況には縁がなかったものだから、何を言われるのかさっぱり予想がつかない。

「どうして紗花と仲直りしてあげないの?」
「…………え?」

 てっきり、「もう二度と会わないでくれる?」と言われると思っていた。
 彼氏って、自分の彼女が男友達と仲良くしていたら嫌なんじゃないのか?

「どういう意味?」
「そのままの意味だけど」
「…………」
「…………」
「…………」
「どうして紗花と仲直りしてあげないの?」
「いや、別に聞き逃したわけじゃないから」
「それなら、よかった」

 聞き逃したわけじゃないけど、やっぱり意味はよくわからなかった。
 だから浜田に聞いてみたのに、「わかるよね?」という表情で返されてしまうのだから、降参だ。

「すまん。話の流れがよくわからない」
「え、昨日って仲直りのために出かけたんでしょ?」
「……まあ……そうなるのか、な……?」

 自分で意図したわけでも、計画したわけでもないからよくわからない。
 だから、とりあえず隣の村上に視線を向けてみるけど、話を盗み聞きしてくれていたようで、きちんと頷きが返ってきた。
 やっぱり昨日の逢瀬は、村上と瀬戸が、俺と紗花の仲を元に戻すためにしてくれたみたいだ。
 戻るどころかこじれにこじれて、ねじれてひねって千切れてどこかに飛んでいってしまった気がするけれど。

「ほらね」
「いや、何がほらねなんだよ」

 浜田が得意気な表情をするものだから、なんだか面白くて笑ってしまう。
 浜田と話して笑えるようになるなんて、俺も少しは成長できたみたいだ。

「昨日も喧嘩したんでしょ?」
「…………」
「紗花から聞いたよ」
「…………」
「まったく、どうして君たちはすぐに喧嘩しちゃうのかなあ」
「…………そんなこと言われてもな……」

 これでも中学の頃は一度も喧嘩しなかったんだけどなぁ。
 どうしてすぐに喧嘩しちゃうのか、俺の方が聞きたいよ。

「浜田は、どうしてかわかる?」
「え、ボクにはわからないけど」
「…………そっか」
「紗花ってときどき変なこと言うからねぇ」

 まあ、それは同感。

「そこが可愛いんだけど」

 まあ、それは遺憾。

「はぁ…………」
「桜井くんが紗花と仲直りしてくれないと困るんだよねぇ」
「……え、なんでだ?」
「桜井くんとのお話、いい加減に聞き飽きちゃったしなぁ」

 本当に男心がわからないんだなぁ、あいつ。
 こんなんじゃ、もうとっくに初回限定特典売り切れてるじゃないか。
 それとも毎回限定特典なんだろうか。もうそれ永久封入特典ってやつだよな。

「他の男の話されると、困るよな」
「んー、まあそうでもないかな」
「…………そっか」
「それはそれで楽しいよ」

 浜田を気遣ったつもりだったけど、爽やかに返されてしまった。
 ようやく浜田との共通点を、一つぐらいは見つけられるかなと思ったんだけどな。
 やっぱり、こいつはすごいやつだ。努力家で、でも不器用な紗花によく合ってる。
 懐が深くて、広くて、何でも許してくれそうな余裕があって。俺なんかとは正反対だな。
 紗花は束縛するタイプだって、前に瀬戸も言っていたし、このぐらい器が大きい男じゃないと釣り合わないのかもしれない。
 こんな俺が、一度は紗花に好意を向けられていたなんて、浜田は聞いたらびっくりするかな。
 まあ、言わない。そんなことしたって何の意味もないし、二人には幸せになって欲しいから。

「でも、そろそろ新しい話が聞きたいかなぁ」
「…………」
「最近はもう、前にしたことのある話の繰り返しになっちゃってるんだよね」
「……はは」

 お喋りな蓄電池はまだ健在か。やっぱり、直流じゃなくて交流でぐるぐる回していたらしい。
 どうしても俺は鬱陶しく感じてしまったけど、浜田は笑って付き合えてるんだからすごいよ。
 俺なんて、紗花が何の話したのかろくに覚えてないからな。とりあえず話聞いてただけだし。
 だって、とにかく何でも話してくるんだから覚えきれないだろ。特別な話題はすぐ尽きるし。
 あとはもう、何食べるだの何読んでるだの、何聞いてるだのぐらいの事しか話せないもんな。
 すごいよ、浜田は。紗花が毎日何食べて何読んで何聞いてるのかまで全部覚えてそうだもん。

「だからさ、早く仲直りしてよ」
「えぇ…………」
「君たちの話、面白いからさ」
「……そうですか」

 そんなこと言われたってなぁ。
 さすがにマリアナ海溝並みに懐が深そうな浜田だって、俺という不純物が紛れ込み続けたらいつかは限界に達してしまうと思う。
 それで紗花が幸せになれないのはすごく申し訳ないし、浜田のこともちょっと好きになってきたから、浜田にも申し訳ない。
 なにより、俺はやっぱり紗花の近くにいたら、変な勘違いをしてしまいそうだから、それは本当によくないことだと思う。
 初めて好きになった女性が、ものすごく素敵な男性と幸せになってくれるなら、まあ、それも悪くないかなとも思うしな。
 暴力やら盗撮やら浮気やらする父親と、子供にそれを重ねて怒り散らす母親でも結婚できたんだから、二人が結婚できないとも思えないし。
 あれだけ醜く嫉み妬みを向けてしてしまったけれど、やっぱり、浜田は紗花の隣にいるべき存在だ。

「仲直りしようよ! ね? お願い」
「…………」

 うーん、でもこの、口調が紗花に似てるのだけはちょっと勘弁かなぁ。
 これ以上会話をしていると、また嫉妬心を向けてしまいそうなので、スマホを取り出して会話終了の合図を出す。

「お、ちょうどよかった」
「え」

 浜田の綺麗な手が伸びてきて、俺の視界からスマホの姿を消し去ってしまった。
 とっさに振り払おうとしたのに、昨日あんなに触れてしまった紗花の手の残像がそこに重なってしまって、反射的に触れるのを躊躇してしまう。

「桜井くんの連絡先、欲しかったんだ」
「え?」
「ちょっと借りるよ」
「いや、返して」

 脳からの指令を遅滞した俺の手がようやく浜田に伸びるけど、サッと背中を向けられて拒絶されてしまった。
 いや、普通に考えて相手の了承もなしにスマホ取るかね? 本当に同じ社会的動物なんだろうか。
 自己肯定感が高いにしても限度があるだろ。ここまでのポジティブモンスターは完全に害獣の域に入ってる。
 世界は自分を中心に回ってると思ってそうだな。やっぱり紗花とお似合いかも。あいつは世界に愛されてるし。
 二人揃って世界の中心で愛を叫んでいそう。かくいう俺は、世界には愛されず中心からも外れまくりだけどさ。
 仕方ないだろ。子供は生まれてくる環境も親も選べないんだからさ。これでもできる限りは頑張ってるんだよ。
 はぁ。生きるってしんどいなぁ。

「――ありがとう。返すね」
「ああ……うん」

 そういう言葉は相手から申し出があった時にするべきもので、勝手に強奪して勝手に感謝するのはハラスメントの域じゃないか?
 俺を散々いじめてお弁当でお礼を押し付けて済ませようとした紗花と、こんなところまでよく似てる。
 いや……さすがにこれは俺の妬みと嫉みが生み出した都合の良い言葉だな。紗花はそんな奴じゃない。
 あれは俺のためにしてくれたことだったっていうのは、あの日に、壊れそうなぐらいによくわかった。
 ああまでしないと、俺って素直に厚意を受け取れないもんな。やっぱり、どうしても疑っちゃうから。
 母さんに呪われて以来、他人の善意を心の底から信じることが全然できなくなってしまったからなあ。

「紗花に送るね」
「は? いや――」
「もう、送っちゃったよ」

 なんだよ……そんなところまで似なくてもいいじゃないか……。
 つい昨日、紗花がピザを頼んだ時に感じた何とも言えない気持ちが、時間差で心にしみ込んでしまう。
 ちょっと寂しい。結構泣きそう。

「これで紗花と仲直りできそうだね」
「……さあ」

 浜田には悪いけど、たぶん良い報告はできないと思う。
 でも、浜田が良い奴ってことは、すごくよくわかった。
 紗花のことを幸せにして欲しい。それが、俺の願いだ。


 ……ん? あれ、そういえば…………


「浜田、ちょっといいかな」
「なーに?」
「昨日の夕方、七瀬とスマホ買いに行ったか?」
「え? 行ってないけど」

 あれ、どういうことだ?
 スマホ、壊れたって言ってたよな?

「さっき七瀬に俺の連絡先を送ったって言ってたよな?」
「うん」
「でもさ。七瀬のスマホって、今は壊れてるんだよな?」
「え? そうなの?」
「え…………?」

 まさか昨日の朝に壊れて、夜に即日受渡してもらったのか?
 いや、あるいは中古ショップで機種だけ買ったんだろうか。
 紗花に、そんなに器用なことができそうには思えないけど。
 いや…………まあ、ご両親に何とかしてもらったんだろう。
 きっとそう。たぶんそうだろう。絶対にそうに決まってる。

「というか、桜井くんさ」
「なに?」
「わざわざ“七瀬”って。そもそも友達でしょ?」
「……え?」
「紗花って呼んでたって聞いてるけど」
「…………」
「どうして名前で呼んであげないの?」
「…………」

 このポジティブゴッドは俺の手に余る。
 だから、俺は無視をすることで応えた。


 あ。スマホ、また変えないとな。
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