龍の都

ginsui

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第一部

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 更伎は、毎日のように稽古に訪れた。
 羽矢も日課のように遠乗りに出かけ、不二はせっせと明星の世話をした。
 羽矢と顔を合わせるのは、厩での短時間だったが、半月ほどたったあたりから、自分を見るときの羽矢の眼差しが、そうは冷たいものでなくなったことに不二は気づいた。
 ようやく慣れてくれたのかな。明星の方は、主人よりも早くすっかり不二に懐いてくれたのだが。
 昼間の退屈をまぎらわすために、不二は館の仕事なら何でも手伝った。詰め所に来た都琉と話をすることもあったが、無口な彼と顔をつき合わせているより、身体を動かしていた方が気分はよかった。
 不二が館の主である月弓と初めて対面したのは、そんな日の昼下がりだ。
 不二は朝から庭木の剪定に手を貸していた。館の庭園は、地形を生かして作った瀟洒なものだ。山の斜面から滝が落ち、水の流れはゆるやかな曲線を描いて母屋の前にある池に続いていた。池の周りには、季節季節の花が植え込まれているが、この時期に見頃を迎えているのは菖蒲の花だった。薄紫や赤紫、〈龍〉の瞳を思わせる鮮やかな花群の中に、柚宇がたたずんでいるのが遠目に見えた。
 不二の視線に気づいたかのように柚宇は顔を上げた。
(いらっしゃい)
 柚宇の声が、耳の奥ではっきりと聞こえた。
 これも〈龍〉の力か。
 不二はぶるっと身震いした。そしてすばやく身繕いすると、彼女のもとに駆け出した。
 柚宇は一人ではなかった。傍らに、白髪の美しい人物が立っていた。
「お話はしましたが、お会いになるのは初めてでしたわね」
 柚宇が、彼を見上げて微笑んだ。
「多雅どのの甥御です。羽矢の側人をお願いしています」
 彼が月弓であることは一目でわかった。濃い灰色の上衣に、みごとな銀糸の腰帯を締めている。柚宇や羽矢と同様、瞳は明るい紫色。両肩に長く垂らした髪はなるほど真っ白だったが、その顔は皺一つなく、驚くほど若々しかった。佐尽の話からすれば、とうに百才は超えているはずなのだが。
 月弓は、穏やかな眼差しを不二に向けた。
 不二は、深々と頭を下げた。
 ようやく月弓と対面できたことに、新鮮な喜びを感じた。ほとんど毎日、彼の弾く琵琶の音を耳にしていたのだ。いつしか、館を流れるその音色を心待ちにするようになっていた。
 自然、月弓の手に目を向けてしまう。長く、しなやかでほっそりとした指。この指が琵琶の弦の上を自在に躍動して、あれほど美しい音を奏でているわけか。
「不二といったかな」
 月弓は口を開いた。深みのある落ち着いた声だ。
「よけいな仕事ばかりさせられているようだ。〈蛇〉の惣領が嘆かなければいいのだが」
「とんでもないです。わたしが好きでやっていることですから」
「まあ、気長に勤めていてくれ」
 月弓の瞳の奥が、面白そうにきらめいていた。彼は軽くうなずき、母屋の方にゆっくりと歩き去った。柚宇も彼の後に続いた。
 不二は、二人の後ろ姿に、もう一度頭を下げた。
 そして、深々と息を吐き出した。
 たとえ琵琶を聞いていなくとも、自分はこの対面だけで月弓に心を奪われただろうな、と不二は思った。彼にあるのは、〈龍〉の美しさだけではなかった。龍の一門の琵琶弾きであり、祭司でもある彼は、遙か遠い過去からの〈龍〉の歴史をまとっている。いわば、〈龍〉の神秘そのものだ。
 佐尽やこの館に勤める人々が抱いている感情を、不二は今さらながらに理解した。決して手の届かないものに対する、限りない憧れと崇拝。
 すべての人間がこんな感情を抱いていれば、〈龍〉の時代は永遠に続いていくことだろう。

 懐に入れていたはずの守り袋を無くしたことに気づいたのは、夜になってからだった。
 不二は、天井を見上げて頭を掻いた。庭仕事を手伝っていた時にでも落としたのだろうか。
 故郷を出た時から、肌身離さず持っていた。他の人間が見れば愚にもつかないものでも、不二にとっては大事なものだ。夜が明けたら、すぐに探しに行こう。
 しかし、朝早くから思いあたる場所を歩き回ってみても、守り袋は見あたらなかった。残るは、昨日柚宇に呼ばれた池のあたりだが、母屋に近いあの場所に、一人でのこのこ行けるわけがない。やれやれ‥‥…。
 そうこうしているうちに、明星の世話をする時刻になった。不二はしかたなく厩に向かった。
 羽矢がやって来たので、明星を引き出した。挨拶して手綱を渡そうとすると、羽矢はぶっきらぼうに片手をつきだした。その手のひらに乗っているのは、藍色の小さな布袋だ。
 不二は目を見開いた。紛れもなく自分の守り袋。
「夕べ、庭先で拾った」
 羽矢は言った。
「伯母上が、不二のものだろうと言っていた」
「そう、そうです」
 不二は夢中でうなずき、幾度も頭を下げた。
「ありがとうございます。ずっと探していました」
「大切なものだったのか?」
「はい。お守りですから」
「お守り?」
 羽矢は、手の上で袋を軽く弾ませた。
「中味は、粉のようだが」
「砂ですよ」
「砂?」
「ええ。手白香島たしらかじまの。故郷の早波にある孤島の砂です」
 羽矢は不思議そうにお守りと不二を見比べた。何か言いかけようとした時、明星が促すように鼻を鳴らした。
 羽矢は軽く肩をすくめて、明星の鬣を撫でた。そして守り袋を不二に差し出し、明星の手綱を取った。
 いつものように行ってしまった羽矢を見送りながら、不二は守り袋を大事に懐にしまい込んだ。
 羽矢と会話らしい会話をしたのは、これが初めてだ。これも、お守りのおかげかな。
 それとも──。
 不二は首をかしげた。
 柚宇が、少しばかり力を貸してくれたのか?

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