龍の都

ginsui

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第二部

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 雨の音で目が覚めた。
 もう日は昇った頃だが、蔀戸の外は薄暗い。風もなく、蒸し暑かった。
 羽矢は床の上でのろのろと身を起こした。
 篠つく雨だ。今日は明星に乗れそうにないな、とぼんやり考えた。一日中、館にいることになる。父が帰ってきてからはじめてだ。
 はじめて顔を見たあの日、父は心で自分の名を呼んだ。自分も、目の前にいるのが父親だとはっきりとわかった。
 だが、それだけだ。館に帰ってきても、ろくに言葉を交わしていない。向こうもこちらを避けているような気がした。母が死んだのは、羽矢のせいだからか?
 だとしたら、帰って来たのはなぜだろう。
 羽矢は顔をしかめた。
 こんな自分をどうして生み出したのか、むろん恨みもした。文句のひとつも言えないうちに姿を消したのだから。しかし、父も母を失ったのだ。お互いさまだと思うことで、怒りはいつのまにか消えていた。
 両親がいない寂しさなど、感じたことはなかった。月弓と由宇がよくしてくれたから。
 今さら現れたところで、とまどうばかりだ。
 部屋に運ばせた朝食を終え、不二を呼んで骰子でもしようかと思っていた時、静かに戸が開いた。
 入ってきたのは刀也だった。
 姿は身綺麗に整えられていたが、刀也の疲れたような表情は会ったときのままだ。日焼けした顔には額や目の下に皺が刻まれていて、兄の月弓よりも年上に見えてしまう。
 刀也は、羽矢の前に胡座をかいた。羽矢は、思わず背筋をのばした。
 二人はしばらく互いのまわりに視線をさまよわせ、無言でいた。
 刀也が口をひらく前に、羽矢はぶっきらぼうに言ってやった。
「その手はどうなさったのです」
「手か」
 刀也は、右手で残った左腕に触れた。
「置いてきた」
「どこに?」
「遠い所だ、ずいぶん」
 刀也は、思い起こすように目を細めた。
「ずっと、旅を?」
「ああ、大那中を。それから、大那の外に」
「外?」
武塔ふとう山脈を知っているか?」
 羽矢はこくりと頷いた。
「聞いたことは」
「大那のはずれ、東方にある。そこを超えると、未開の地だ。大隅と言われている」
「だれも棲んでいないのですか」
「夷人には何度か会った。田畑を作ることを知らない者たちだ。木の実を採ったり、狩りをして縦穴に暮らしている。大人しくて、害はない」
 天香さえ離れたことのない羽矢にとっては、大那の外れのさらに向こう、未開の大隅など別の世界と同じだ。たやすく想像はできなかった。
「そんな所へ、何をしに」
「地霊だ」
「地霊?」
 自分は阿呆のように尋ねてばかりだな、と羽矢は思った。しゃくにさわって、つい声を高くした。
「地霊がどうしたと」
「大隅には龍がいる」
「龍」
 羽矢は息をのんだ。
「何頭もの龍が空を翔んでいる。かつての大那の空と同じように」
「信じられない」
 龍が翔ぶということは、それだけ地霊が豊かであるということだ。この空の下に、そんな場所が存在するとは。
「この目で見た」
 刀也はきっぱりと言った。
「大隅は、地霊に充ちていた」
「地霊に‥‥」
「大那の地霊とは質が違う。まだ踏み荒らされていない若々しい地霊だ」
「それを」
 羽矢はささやいた。
「ここで役立てることはできないのですか」
「地霊は大地に根ざしている」
 刀也は首を振った。
「こちらが大隅に行くしかないだろう」
「遷都」
「無理だな、遠すぎる」
 刀也はつぶやいた。
「民人の負担になることはできない」
「〈龍〉だけで?」
「伊薙さまを残してはいけない。〈龍〉の最後の務めは、荒霊の封印を守っていくことだ。そのためにだけ夜彦山にいる」
「では、どうすれば」
「若い〈龍〉だけなら彼らを大隅に導いてやることはできる」
「若い──」
「むろん、いままでのような暮らしはできないだろう。側人は、後々の憂いになるかもしれないから連れてはいけない。〈龍〉だけで、一から生活を作り出す。だが、もっと長く生きられるだろうし、呪力のある子供も生まれると思う」
 ふいに惟澄の面影が脳裏をよぎった。
 地霊が豊かならば、彼女の時間もゆるやかなものになるのだろうか。
 羽矢を待っていられるほどに?
「新しい生活を望まない者もいるだろう」
 刀也は言った。
「行くのは望む者だけだ」
「更伎はどうなります」
 羽矢は眉を上げた。
「更伎は龍の琵琶を継ぐはずでは」
「大那に残る〈龍〉はいずれ滅びる。更伎が大隅に行くのなら、龍の琵琶も持って行けばいい」
「伯父上はご承知なのですか」
「ああ。長老たちにも伝えてある」
「わたしは?」
 羽矢は、刀也を見つめた。
「わたしは、どちらに入るのでしょう」
 刀也は眉根をよせた。
「おまえは、目に紫がある」
「でも、呪力はない」
「使わないだけだ。いずれ、目覚める」
「うそだ!」
 思わず叫んでしまった。不二が大怪我した時も、使いたくても使えなかったのだ。ずっと幼い頃から、呪力がないと思ってきた。今さら目覚めるはずだと言われても、何になる。
 羽矢の困惑を無視して、刀也は言った。
「おまえは、他の若い者たちとは違う」
 羽矢はうつむき、膝の上で両拳を握りしめた。 
 言われなくとも知っている。若い〈龍〉たちが自分に向けるまなざし──羨望と、いくらかの怒りを含んだ──をさんざん感じてきたのだ。    
 羽矢も呪力を持たないことで、彼らは溜飲を下げてきた。羽矢に呪力があるとするならば、彼らとは何一つ同じものはない。
 惟澄はどちらを選ぶだろう。
 われながら勝手なものだと羽矢は思った。
 自分の方が天香を出ようと思っていたのに、惟澄が大那を去るかもしれないと知ったとたん、彼女を失うのが辛くなる。
 もう二度と、惟澄がそのやさしいまなざしを自分に向けてくれることはないにしても。

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