6 / 8
祈り
しおりを挟む
電車を降り、足早に託児所に向かう。
仕事が長引いて、思いの外遅くなってしまった。
沙耶はもう眠っているだろう。起こしてしまうのは可愛そうだがしかたがない。
近道の公園を横断した。昼間は沙耶たちが散歩に訪れる気持ちのいい公園なのだが、夜更けは人通りもなく、木々の影が濃くてよそよそしい。
目の前に、黒い影が飛び出してきたので、はっと立ち止まった。
とぼしい外灯の明かりで見て取れたのは、大きくすらりとした一頭の黒犬だった。首輪はついていないようだが、このあたりに野犬がいるとは聞いたこともない。
道の前に立ちはだかる犬の側に、飼い主らしい人間が近づいた。
驚かすなよ。
ちょっと肩をそびやかして彼らとすれ違おうとした時、犬が軽やかに飛び上がって、おれの喉笛に噛みついた。
†
「父さん」
夕食の後片付けをしながら、沙耶が言った。
「こんどの日曜日、空いてる?」
「ああ、特に用事はない」
「会ってもらいたい人がいるの」
おれは、どきりとした。空になったウイスキーグラスを手に取り、残った氷をからからさせた。
沙耶は、はにかむように目を伏せている。
「男性、だな」
「うん」
「いいよ。楽しみだ」
おれは、ふらりと夜の散歩に出た。
暑くも寒くもないいい季節だ。どこかの家の庭から、金木犀の香りがした。
沙耶の母親が逝ったのもこの季節だ。交通事故の巻き添えで、娘をかばうようにして死んだ。
沙耶は二つだった。近くに頼る者はおらず、おれ一人で夢中になって沙耶を育てた。
その沙耶が、親に紹介したい男を連れてくる。役目を果たしたという悦びと、喪失感が交互に訪れる。
「気に入らない男だったら、喰えばいい」
いつのまにか、おれと並んでひとりの男が歩いていた。
ひょろりと背が高く、なかなかの美形。三十代くらいに見えるが、こいつは二十何年か前に会った時から、少しもかわっていない。ツェーンの片割れだ。
「馬鹿なことをいうな」
おれの声でツェーンが言った。
「これで、ようやくこの男を消化できるというのに」
「そうだったな」
ツェーンの片割れはくすりと笑った。
「はやく沙耶を手放して、安心してもらおう」
「未消化の魂を抱え込むとは、われわれも老いたものだ」
「喰ったものの魂にとりつかれるとは、考えもしなかったな」
「うるさい」
おれはこぶしを握ろうとしたが、いま身体の所有権を握っているのはツェーンだった。
この身体は、おれに化けているツェーンのものだ。おれの身体はあの時、爪先から髪の毛に至るまで、すべてこいつらに喰われてしまった。
「和久の魂がしぶとすぎるんだ」
「執着心とは、怖ろしい」
ツェーンたちには勝手に言わせておいて、おれは沙耶のことを考えた。
そうだ、おれがここにいるのは、沙耶の存在があったからこそだ。おれがいなくなったら、小さな沙耶はどうやって生きればいいのか。
消えたくはなかった。
気がつけば、ツェーンの内にいた。
ツェーンたちもおれの存在にとまどったようだ。どんなことをしてもおれの魂は消滅せず、ツェーンの内に残りつづけた。おれとて、必死だったのだ。
沙耶への未練がなくなれば、おれは消滅するだろう。ツェーンはそう判断し、おれに化けた。
沙耶が一人前になるまで。十年二十年は、魔物にとってささいな時間だ。
日常はおれが表に現れて人間としての生活をこなす。深夜はツェーンのものだ。そんなとりきめが出来ていた。
ツェーンの片割れは、常におれたちの近くにいた。
こいつらは、二つで一つなのだ。身体は別々だし、たがいに違うことを考えもするが、消化器官は同じだ。一方が捕食すれば、もう一方も満足する。ツェーンがおれでいる間は、相棒がどこかで人の魂か幽霊を喰っている。
たまに血肉が喰いたくなると、ツェーンが犬に戻って人を捕まえる。指先か片耳くらいの欠片を残す。それを土深くに埋めてていねいに隠す。
なるべく意識を殺してちぢこまっていたおれは、つい聞いてみた。
「なんで、全部喰わないんだ?」
「肉体がまるごとついた魂は、消化しにくいことがわかった。こうして少し残しておけば……」
ツェーンは、おれで懲りたようだ。
「まあ、おまえのように執念深い魂は、そうはいないと思うがね」
なんとでも言え。
おれは沙耶を独りにしたくなかった。それだけだったのだ。
「日曜日か」
ツェーンの片割れがつぶやいた。
「まったく、楽しみだ」
沙耶が連れてきたのは、なかなか感じのいい青年だった。
会社の二期先輩ということで、学生時代に野球をしていたというがっちりとした体つき。そのころの日焼けがまだ取れていないのではないかと思えるほど色黒だったが、笑うとのぞく白い歯が好もしい。
なるほど、沙耶が選んだ男はこういうやつか、と思いながら沙耶手作りの夕食を食べ、少し酒を飲んだ。
沙耶さんを幸せにしますと改まって言われ、別にいままでの沙耶が不幸だったとは思わないが、と応えたい気持ちをおさえて頭を下げる。
「よろしく頼みます」
彼が帰り、後片付けをする沙耶をぼんやりと眺めた。
一人でも生きて行ける人間に育ててきたつもりだった。
おれがいつ消えても心配ないように。
沙耶は結婚を選んだが、まあそれならそれでいい。
皿を洗う沙耶の後ろ姿は母親そっくりだ。こんな姿を見ていられるのも、あとわずかか。沙耶はもう、おれだけのものではなくなってしまう。
沙耶がおれを必要としなくなる、この時を待っていたはずだった。人間でないものにまで身をまかせ、沙耶の父親として存在を保ってきた。満足しなければならないはずだ。
それなのに、押し寄せるのは悲しみと、それにも増した悔しさばかりだ。
「散歩してくるよ」
外に出て、夜風に吹かれる。
ぶらぶらと歩いて、足が彼の住んでいるという町に向かっていることに気がついた。
「おまえの行きたい方に行っている」
ツェーンが言った。
「どうする、喰うか?」
「なにを──」
おれは言葉を失った。
「なぜそんなことを……」
「望んでいるのではないのか」
「馬鹿な。だいたい、おまえたちだっておれから自由になれないぞ」
「あと数年くらいはかまわない。わたしたちは、結構この生活が気に入っている」
「笑わせるな!」
「沙耶を手放したくないのだろう」
ツェーンの片割れが側に立っていた。
「おまえしだいだ」
「やめろ」
おれは必死で言った。
「おれはだだ、沙耶が幸せになってくれればいいんだ。今まで、沙耶といてやっただけで充分なんだ」
「人間の建て前と本音がちがうのは知っている」
「本音だけで生きてたまるか」
「ツェーン、こいつは人間ではないし、生きてもいないぞ」
「そうだったな」
「黙れ!」
おれは、誘惑を振り払った。
「人間でなくとも、おれは沙耶の父親なんだよ」
娘の幸せを願わない親などいないだろう。沙耶が本当に幸せになるためには、おれはもう消えなければならない。これまでの生活がずっと続けばいいなんて欲望は抑えつけて。
「さっさと、おれを消化してくれ」
クリスマスに沙耶は結婚した。
ヴァージンロードなど歩きたくなかったが、沙耶の願いとあらばしかたがない。
おれは会社を辞めた。沙耶には、少し長い旅に出ると告げた。
「そうね」
沙耶は微笑んだ。
「父さん、ずっと自分のことをしてこなかったものね。ゆっくり楽しんできて」
おれは、身のまわりのものを整理して家を出た。
ツェーンはもう、おれの姿をとることはない。
漆黒の美しい犬に戻って片割れとともにいる。
「困ったものだ」
ツェーンたちが言っていた。
「もう消化してもいいころなのに、まだ残っている」
「深く交わりすぎてしまったのかもな」
「そのうちに消滅するだろう」
「役立たずだな」
ツェーンの中でおれは言った。
「おれはすぐにでも消えたいんだ」
「喰われた時は、消えたくない一心だったのに」
ツェーンの一方が皮肉っぽく言った。
「現金なやつだ」
「おまえは祈っていた。わたしたちに会う前から」
ツェーンの言葉に、おれははっとした。
確かに、おれは祈っていた。
神にも仏にも祈った。悪魔にまでも。
もう少し、沙耶の側にいさせてほしいと。
膵臓癌で余命半年と宣告されていた。
死にたくはなかった。
沙耶を独りにしてたまるかと思った。
「神も仏も振り向いてくれなかった」
おれは、言った。
「来たのは、おまえたちだけだったな」
「たまたまだがね」
おれは笑った。ひどく可笑しくなった。
「神仏よりも魔の方が、人の近くにいるわけだ」
「たいていは、そのようだ」
ツェーンたちも、揃って低い笑い声をたてた。
仕事が長引いて、思いの外遅くなってしまった。
沙耶はもう眠っているだろう。起こしてしまうのは可愛そうだがしかたがない。
近道の公園を横断した。昼間は沙耶たちが散歩に訪れる気持ちのいい公園なのだが、夜更けは人通りもなく、木々の影が濃くてよそよそしい。
目の前に、黒い影が飛び出してきたので、はっと立ち止まった。
とぼしい外灯の明かりで見て取れたのは、大きくすらりとした一頭の黒犬だった。首輪はついていないようだが、このあたりに野犬がいるとは聞いたこともない。
道の前に立ちはだかる犬の側に、飼い主らしい人間が近づいた。
驚かすなよ。
ちょっと肩をそびやかして彼らとすれ違おうとした時、犬が軽やかに飛び上がって、おれの喉笛に噛みついた。
†
「父さん」
夕食の後片付けをしながら、沙耶が言った。
「こんどの日曜日、空いてる?」
「ああ、特に用事はない」
「会ってもらいたい人がいるの」
おれは、どきりとした。空になったウイスキーグラスを手に取り、残った氷をからからさせた。
沙耶は、はにかむように目を伏せている。
「男性、だな」
「うん」
「いいよ。楽しみだ」
おれは、ふらりと夜の散歩に出た。
暑くも寒くもないいい季節だ。どこかの家の庭から、金木犀の香りがした。
沙耶の母親が逝ったのもこの季節だ。交通事故の巻き添えで、娘をかばうようにして死んだ。
沙耶は二つだった。近くに頼る者はおらず、おれ一人で夢中になって沙耶を育てた。
その沙耶が、親に紹介したい男を連れてくる。役目を果たしたという悦びと、喪失感が交互に訪れる。
「気に入らない男だったら、喰えばいい」
いつのまにか、おれと並んでひとりの男が歩いていた。
ひょろりと背が高く、なかなかの美形。三十代くらいに見えるが、こいつは二十何年か前に会った時から、少しもかわっていない。ツェーンの片割れだ。
「馬鹿なことをいうな」
おれの声でツェーンが言った。
「これで、ようやくこの男を消化できるというのに」
「そうだったな」
ツェーンの片割れはくすりと笑った。
「はやく沙耶を手放して、安心してもらおう」
「未消化の魂を抱え込むとは、われわれも老いたものだ」
「喰ったものの魂にとりつかれるとは、考えもしなかったな」
「うるさい」
おれはこぶしを握ろうとしたが、いま身体の所有権を握っているのはツェーンだった。
この身体は、おれに化けているツェーンのものだ。おれの身体はあの時、爪先から髪の毛に至るまで、すべてこいつらに喰われてしまった。
「和久の魂がしぶとすぎるんだ」
「執着心とは、怖ろしい」
ツェーンたちには勝手に言わせておいて、おれは沙耶のことを考えた。
そうだ、おれがここにいるのは、沙耶の存在があったからこそだ。おれがいなくなったら、小さな沙耶はどうやって生きればいいのか。
消えたくはなかった。
気がつけば、ツェーンの内にいた。
ツェーンたちもおれの存在にとまどったようだ。どんなことをしてもおれの魂は消滅せず、ツェーンの内に残りつづけた。おれとて、必死だったのだ。
沙耶への未練がなくなれば、おれは消滅するだろう。ツェーンはそう判断し、おれに化けた。
沙耶が一人前になるまで。十年二十年は、魔物にとってささいな時間だ。
日常はおれが表に現れて人間としての生活をこなす。深夜はツェーンのものだ。そんなとりきめが出来ていた。
ツェーンの片割れは、常におれたちの近くにいた。
こいつらは、二つで一つなのだ。身体は別々だし、たがいに違うことを考えもするが、消化器官は同じだ。一方が捕食すれば、もう一方も満足する。ツェーンがおれでいる間は、相棒がどこかで人の魂か幽霊を喰っている。
たまに血肉が喰いたくなると、ツェーンが犬に戻って人を捕まえる。指先か片耳くらいの欠片を残す。それを土深くに埋めてていねいに隠す。
なるべく意識を殺してちぢこまっていたおれは、つい聞いてみた。
「なんで、全部喰わないんだ?」
「肉体がまるごとついた魂は、消化しにくいことがわかった。こうして少し残しておけば……」
ツェーンは、おれで懲りたようだ。
「まあ、おまえのように執念深い魂は、そうはいないと思うがね」
なんとでも言え。
おれは沙耶を独りにしたくなかった。それだけだったのだ。
「日曜日か」
ツェーンの片割れがつぶやいた。
「まったく、楽しみだ」
沙耶が連れてきたのは、なかなか感じのいい青年だった。
会社の二期先輩ということで、学生時代に野球をしていたというがっちりとした体つき。そのころの日焼けがまだ取れていないのではないかと思えるほど色黒だったが、笑うとのぞく白い歯が好もしい。
なるほど、沙耶が選んだ男はこういうやつか、と思いながら沙耶手作りの夕食を食べ、少し酒を飲んだ。
沙耶さんを幸せにしますと改まって言われ、別にいままでの沙耶が不幸だったとは思わないが、と応えたい気持ちをおさえて頭を下げる。
「よろしく頼みます」
彼が帰り、後片付けをする沙耶をぼんやりと眺めた。
一人でも生きて行ける人間に育ててきたつもりだった。
おれがいつ消えても心配ないように。
沙耶は結婚を選んだが、まあそれならそれでいい。
皿を洗う沙耶の後ろ姿は母親そっくりだ。こんな姿を見ていられるのも、あとわずかか。沙耶はもう、おれだけのものではなくなってしまう。
沙耶がおれを必要としなくなる、この時を待っていたはずだった。人間でないものにまで身をまかせ、沙耶の父親として存在を保ってきた。満足しなければならないはずだ。
それなのに、押し寄せるのは悲しみと、それにも増した悔しさばかりだ。
「散歩してくるよ」
外に出て、夜風に吹かれる。
ぶらぶらと歩いて、足が彼の住んでいるという町に向かっていることに気がついた。
「おまえの行きたい方に行っている」
ツェーンが言った。
「どうする、喰うか?」
「なにを──」
おれは言葉を失った。
「なぜそんなことを……」
「望んでいるのではないのか」
「馬鹿な。だいたい、おまえたちだっておれから自由になれないぞ」
「あと数年くらいはかまわない。わたしたちは、結構この生活が気に入っている」
「笑わせるな!」
「沙耶を手放したくないのだろう」
ツェーンの片割れが側に立っていた。
「おまえしだいだ」
「やめろ」
おれは必死で言った。
「おれはだだ、沙耶が幸せになってくれればいいんだ。今まで、沙耶といてやっただけで充分なんだ」
「人間の建て前と本音がちがうのは知っている」
「本音だけで生きてたまるか」
「ツェーン、こいつは人間ではないし、生きてもいないぞ」
「そうだったな」
「黙れ!」
おれは、誘惑を振り払った。
「人間でなくとも、おれは沙耶の父親なんだよ」
娘の幸せを願わない親などいないだろう。沙耶が本当に幸せになるためには、おれはもう消えなければならない。これまでの生活がずっと続けばいいなんて欲望は抑えつけて。
「さっさと、おれを消化してくれ」
クリスマスに沙耶は結婚した。
ヴァージンロードなど歩きたくなかったが、沙耶の願いとあらばしかたがない。
おれは会社を辞めた。沙耶には、少し長い旅に出ると告げた。
「そうね」
沙耶は微笑んだ。
「父さん、ずっと自分のことをしてこなかったものね。ゆっくり楽しんできて」
おれは、身のまわりのものを整理して家を出た。
ツェーンはもう、おれの姿をとることはない。
漆黒の美しい犬に戻って片割れとともにいる。
「困ったものだ」
ツェーンたちが言っていた。
「もう消化してもいいころなのに、まだ残っている」
「深く交わりすぎてしまったのかもな」
「そのうちに消滅するだろう」
「役立たずだな」
ツェーンの中でおれは言った。
「おれはすぐにでも消えたいんだ」
「喰われた時は、消えたくない一心だったのに」
ツェーンの一方が皮肉っぽく言った。
「現金なやつだ」
「おまえは祈っていた。わたしたちに会う前から」
ツェーンの言葉に、おれははっとした。
確かに、おれは祈っていた。
神にも仏にも祈った。悪魔にまでも。
もう少し、沙耶の側にいさせてほしいと。
膵臓癌で余命半年と宣告されていた。
死にたくはなかった。
沙耶を独りにしてたまるかと思った。
「神も仏も振り向いてくれなかった」
おれは、言った。
「来たのは、おまえたちだけだったな」
「たまたまだがね」
おれは笑った。ひどく可笑しくなった。
「神仏よりも魔の方が、人の近くにいるわけだ」
「たいていは、そのようだ」
ツェーンたちも、揃って低い笑い声をたてた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる