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11-2 舞踏会へ……!

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 同日、夕刻……

 夏の期間、日暮れの遅いこの国では、夜9時頃になってやっと、ゆっくりと陽が暮れかける。

 貴族たちの夜会が始まるのはほとんどの場合が日没後、太陽が沈みきり、夜空に星が瞬く時間帯になってからのことだ。

 つい先日、リオネルがドレスの最終調整にやってきた時には、分厚いカーテンに隠れるようにして、彼が前庭を歩いてくるのを恐々と見ていた美鈴だった。

 しかし今日の彼女は、夜会用の煌びやかな燕尾服に身を包み、何かの箱を小脇に挟んで、いかにも愉し気に前庭を歩いてくるリオネルを、同じ窓辺に立ってじっと見つめていた。

 室内から漏れる灯りで、当然、リオネルには美鈴の姿がはっきりと見えている。

 リオネルは美鈴の視線に気づくと、優雅な動作でシルクハットを脱ぎ、うやうやしく窓辺の美鈴に会釈してみせる。
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 彼が屋敷の中に消えてからしばらくして、いつものように規則正しくリズミカルな足音が廊下から聞こえてきた。

 美鈴の部屋の扉がノックされると、扉の脇に控えていたジャネットがリオネルを部屋に招き入れる。

「……こんばんは、ミレイ嬢。いつにもまして美しい君のため、神は今宵、美しい星空を我らにお与えになった……! そう、思わないか?ジャネット」

 いかにも彼らしい詩人のような大仰な賛辞も、ジャネットにとっては慣れたものだった。

「わたくしも、そう思います。今日のお嬢様は一段と輝いておられますわ」

 リオネルはジャネットの返答に満足そうに頷くと、ゆっくりした歩調で窓辺の美鈴に近づいた。

「リオネル……ありがとう、ございます。先日は……アルノー伯のことも、いただいた新しい靴も……」

 いつもの冷淡な態度ではなく、リオネルの瞳を見つめながらたどたどしく礼を言う美鈴を、リオネルは口の端に笑みを湛え、眩しいものを見るように目を細めて見つめ返している。

 室内灯の揺らめくオレンジ色の温かな光が、見つめあう二人の姿を柔らかく照らし出している。

「お嬢様のお支度は、すべて済ませております。あとは……リオネル様、よろしくお願いいたします」

「失礼いたします」そう言って軽く会釈してから美鈴に軽く微笑んでみせるとジャネットはさっと踵を返して次の間に下がってしまった。

 ドアの閉まる音を聞いて数秒後、窓辺の美鈴に向かってリオネルが二歩、三歩と、彼にしては少し遠慮がちに近づいた。

 ゆっくりと差し出されたリオネルの手に美鈴が手を重ねると、リオネルはややほっとしたような表情をみせた。

「ミレイ、……ジャネットが気を利かせてくれたらしい。舞踏会の支度の最後の仕上げは俺にさせてくれないか?」

 真っすぐに美鈴の瞳を見据えながら、リオネルは美鈴に尋ねた。

「え……ええ、でも、仕上げって……?」

 既に髪を結い上げ、オールドローズの夜会服やネックレスはもちろん、白い手袋を身に着けた美鈴は、リオネルの言う「仕上げ」が一体何なのか、皆目見当もつかなかった。

「そうだな……、君は、化粧台の前に座って、目を閉じていてくれるだけでいい。後は全て俺に任せてくれ」

 ……化粧台の前に座って、目を閉じる……

 リオネルの企みの意図が全く読めず、躊躇しながらも美鈴はコクリと頷くと、リオネルの言うまま、鏡のついた化粧台の前の椅子に腰かけて目を瞑った。

 コトン、と化粧台に何か軽いものが置かれる音と、サラサラと、木々の葉が風にあおられて舞うような音がかすかに聞こえてくる。

「少し、髪に触れるぞ……そのまま、動かないで」

 美鈴の頭のすぐ後ろに、リオネルの息遣いと先ほどと同じく木々の梢が触れ合うような音が聞こえてくる、と同時に、そっとリオネルの大きな手が美鈴の髪に触れた。

 その瞬間、美鈴の心臓が跳ね上がり、鼓動がだんだんと早くなっていく。

 すぐ後ろに立つリオネルに、もしかしたら勘づかれてしまうかもしれないと心配になるほど、髪に触れられるたび、美鈴の鼓動は早く激しくなっていく。

 ……一体、何をしているの……? 

 早く時が過ぎてくれるよう念じながら、美鈴はリオネルのいう「仕上げ」が終わるのを、今か今かと待ち続けた。

 繊細な手つきで美鈴の髪に触れていたリオネルの手がやっと離れた、と同時に、美鈴の耳元にリオネルの息がかかる。

「これで、今夜の衣装は完成だ。……ミレイ、目を開けてくれ」

 そっと目を開いた美鈴は、思わず化粧台の鏡の中の自分の姿をまじまじと見つめてしまった。

 さきほどジャネットが香油をなじませて丁寧に結い上げた艶やかな髪が、今夜の夜会服の色に合わせた、花の中央が濃いローズピンクに染まった瑞々しいバラを中心に可憐な白い小花を散らした髪飾りで彩られていた。

 リオネルはその仕上がりに満足そうに胸を張ると、美鈴に手鏡を差し出した。

 リオネルの指示にしたがって鏡台に背を向けて手鏡の中をみると、後髪も同じように美しい生花で飾られているのがわかる。

「リオネル……わたし……何ていったらいいか……」

 驚きと、感動でほとんど言葉を失いかけている美鈴に得意げに微笑みかけると、リオネルは美鈴の手からそっと手鏡を取り上げ、鏡台の上に戻すと、彼女の手を大きな両手で包み込んだ。

「……何も、言わなくていい。俺が好きでやっていることだからな。それに」

 美鈴の手を包んでいた左手を離し、上半身を折って美鈴の手の甲に軽くキスを落としながら、リオネルは言った。

「前にも言っただろう……? 君は、間違いなく社交界の華になれる。君をエスコートできる、俺は、パリスイ一の果報者だと思っている」

 ルクリュ家の車寄せには既に夜会に向かうための箱馬車が待機している。

一生に一度のデビュタント、美鈴にとって初めての舞踏会の夜は、今、まさに始まろうとしていた。
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