8 / 10
秋輝
しおりを挟む
朝が好きだった。
朝の教室が好きだった。
絵が好きだった。
運動が嫌いというわけではないが、大勢で何かをするのが好きではなく、部活は美術部にした。
部員は上級生に数人、1年は自分だけ。基本的に活動は自由で、好きな場所で好きな時に書いてよいことになっている気楽さが気に入っていた。
朝の教室は、自分だけの、誰にも邪魔されない空間。
ある日、そこに一筋の風が入ってきた。
クラスの話したことない女子――といっても普段女子と話さないからみんなそうなんだけど――所謂(いわゆる)、クラスでも目立つ方の、明るい女の子。
ただその子は、一言言葉を交わした後で自席につき、斜め下を向いたまま固まってしまっていた。
何しにこんなに早くに学校に来たんだろう、と頭の隅で思ったが、特に気にせず絵を描く作業を続けた。
次の日もその子は同じ時間に来たと思ったら、前日とは打って変わって饒舌に話しかけてきた。
美術室前に貼ってある絵が秋輝が描いたものだと当てただけでなく、小学生の時に美術館に展示されていた作品まで知っているという。
そして、あの空間が自分も大好きなのだと、そう言った。
不思議な気持ちだった。
今まで話したこともなかった女の子に、突然「大好き」だとか「嬉しい」とか言われ、どう反応すればよいのかわからなくなってしまった。
別に自分のことを好きだと言ったわけでもないのに自意識過剰な気もして、それ以上その場にいられず席を離れた。
彼女は、わざわざ絵の作者に会いたくて探していたことを教えてくれた。
秋輝という名前をいい名前だと言ってくれて下の名前で呼んでいいかと聞いた。
毎日同じ時間に来て、話しかけたり、絵を眺めたり、勉強していたりした。
朝一番に教室の窓を開けた時に吹き込む風のように、さあっと秋輝の周りの空気を変えた。
朝日のように爽やかで、明るく穏やかな雰囲気をあっという間に作っていった。
秋輝自身、いつのまにかこの朝の時間を気に入っていたのだろう。特に意識したわけではないが、このことは誰にも話さなかった。
ある日、彼女と仲の良い男子が、朝早くにここの教室に来て欲しい、と言ったのを聞いてしまった。
最近周りで流行りの、付き合うとか付き合わないとかいうやつだろうか。
秋輝にはそういうことはよくわからない。
だが、明日の朝、いつもの時間を持てなくなった事に無性に苛立って、彼らの会話を聞き終わる前にその場から離れた。
次の日、習慣でいつも通りに家を出たが、教室には行けなかったので美術室にいくことにした。美術部顧問の教師は一日の大半をこの部屋で過ごしているので、いつ行っても鍵が開いているので助かった。
特に絵を描くでもなくぼんやりとしていたら朝のHRの始まる時間になり、慌てて教室へ行った。
それからというもの、朝の教室には近づく気になれなかった。
―――もやもやする。
もし行って、彼女があの男といたりしたら。また逆に、誰もいなかったら。
どちらを考えただけでも苛立ちは確かで、そこへ足を踏み入れることはできなかった。
ある朝、いつもの通りぼけっとしていると、いつもは放置がほとんどだった顧問が話しかけてきた。
「成瀬、最近よくここにいるな。いつも眉間にシワがよっているが、何か悩みでもあるのか」
自分はそんな顔をしていたのだろうか。言われるまでまったく気が付かなかった。悩み、と言われても、具体的に何に悩んでいるのか自分でもよくわかっていないし、そもそも教師に話すことでもない気がした。
「もやもやしていることがあるなら、それを絵に描いてごらん。抽象画でも良いし、自分の頭に浮かんだ像でも何でも良い。そうすることで、何か道が見つかることもあるかもしれないよ」
と、教師は続けた。
そうか、絵か。
朝、教室に行かなくなってから、鉛筆も筆も持っていなかったことに気付いた。秋輝はもやもやの正体を突き止めるべく、もう一度絵を描いてみることにした。
美術の版画の時間に絵麻が指を切った時、久しぶりに二人きりになった。
どうして来ないのかと問われたが、それを説明できる気はしなかった。久保を振った、と言われ思わず振り向いてしまった。
彼女は「秋輝と話せないことが苦しい」と、絞り出すような声で言った。
――苦しい?......俺だって、苦しい。
秋輝は込み上げてくる気持ちを言葉にできず、そのまま無視する形で教室へ戻った。
絵麻の顔は見れなかった。
それからも、朝は美術室で絵を描き続けた。
完成した絵を見た時、顧問が「この絵をコンクールに出品したい」と言った。
「色彩の表現も素晴らしいが、何よりも君がこの景色を大事に思っていることが強く伝わってくる。こんな絵は今しか描けないんだ」と。
描きながら、わかっていた。
描き上がった今、もはや自分の気持ちを認めざるを得なくなってしまった。
俺が、失いたくなかった空間―――
そして後日、県のコンクールで大賞を取ったとの知らせがあった。
全校生徒の集まる朝礼で表彰されたのは、誤算だった。作品は学校に展示されるわけではないが、その事実は絵麻にも知られることになってしまった。
彼女は、どう思っただろうか。
気付けばもうだいぶ長いこと話をしていない。
彼女には大分酷いことをしてしまった気がする。急に朝行かなくなったり、保健室の帰りの話も無視したりしてしまった。そしてそれからも、一言も話していない。
教室での彼女は、元の明るさを取り戻しているようにも見えるし、もう自分のことなど気にも留めていないかもしれない。
表彰された週の日曜、既に日も高くなったというのにベッドから出る気が起きずダラダラしていると、母親が部屋のドアをノックしてから入ってきた。
「秋輝ー?まだ寝てるの?......あ、起きてた」
「なに、どうしたの」
ノックの意味まったくないよな、と思いながらぶっきらぼうに答える。
「こないだ大賞取った絵、近所の美術館に展示されるの今日までなんでしょ?観に行かない?」
「えっ......いや、だ、だめ!」
「ダメって?どうせ今日も出かける予定ないんでしょ」
――いやいやいや、あれを親に観られるのはまずい。何がまずいって、そりゃもう色々だ。
だが、良い言い訳が思いつくわけでもなく。
「い、行くから。俺、一人で。一人で観たいんだ、頼むよ」
我ながら何を言ってるんだ、という気になったが、親も秋輝の「親に観られたくない」という気持ちだけはどうやら察したようで、それで引き下がってくれた。
そう言ってしまった手前、家を出ないわけにもいかず、遅めの朝食を食べてから、美術館へ向かった。
着いてみると、日曜だというのに閑散としている。
(そりゃそうだよな、こんなの展示されてる本人と家族くらいしか観に来ないだろうし)
入館し、他の絵をのんびりと眺めながら歩く。
(彼女は、去年ここで俺の絵を観たって言ってたな。秋に輝く、という俺の名前がぴったりだって)
そんなことを考えているうちに、自分の作品の前に着いた。
絵の中の彼女が、陽だまりのような暖かさで微笑みかける。
――何、言ってるんだよ。俺の絵よりも、教室の朝日よりも、輝いてるのは......――
このまま終わるわけにはいかない。
やはり、彼女に会わなくては。話をしなくては。
保健室の後、「毎朝来ている」と言っていたが、まだ変わっていないだろうか。
覚悟を決めて、翌朝、早朝の教室へ足を踏み入れた。
金曜日から止まったままの空気。暖かく差す朝の光。やはり、この空間が好きだ。だが、明確に足りないものがある。
秋輝にとっては、それが埋まらないことにはもはや満足できないのだと、はっきりとわかった。
朝の教室が好きだった。
絵が好きだった。
運動が嫌いというわけではないが、大勢で何かをするのが好きではなく、部活は美術部にした。
部員は上級生に数人、1年は自分だけ。基本的に活動は自由で、好きな場所で好きな時に書いてよいことになっている気楽さが気に入っていた。
朝の教室は、自分だけの、誰にも邪魔されない空間。
ある日、そこに一筋の風が入ってきた。
クラスの話したことない女子――といっても普段女子と話さないからみんなそうなんだけど――所謂(いわゆる)、クラスでも目立つ方の、明るい女の子。
ただその子は、一言言葉を交わした後で自席につき、斜め下を向いたまま固まってしまっていた。
何しにこんなに早くに学校に来たんだろう、と頭の隅で思ったが、特に気にせず絵を描く作業を続けた。
次の日もその子は同じ時間に来たと思ったら、前日とは打って変わって饒舌に話しかけてきた。
美術室前に貼ってある絵が秋輝が描いたものだと当てただけでなく、小学生の時に美術館に展示されていた作品まで知っているという。
そして、あの空間が自分も大好きなのだと、そう言った。
不思議な気持ちだった。
今まで話したこともなかった女の子に、突然「大好き」だとか「嬉しい」とか言われ、どう反応すればよいのかわからなくなってしまった。
別に自分のことを好きだと言ったわけでもないのに自意識過剰な気もして、それ以上その場にいられず席を離れた。
彼女は、わざわざ絵の作者に会いたくて探していたことを教えてくれた。
秋輝という名前をいい名前だと言ってくれて下の名前で呼んでいいかと聞いた。
毎日同じ時間に来て、話しかけたり、絵を眺めたり、勉強していたりした。
朝一番に教室の窓を開けた時に吹き込む風のように、さあっと秋輝の周りの空気を変えた。
朝日のように爽やかで、明るく穏やかな雰囲気をあっという間に作っていった。
秋輝自身、いつのまにかこの朝の時間を気に入っていたのだろう。特に意識したわけではないが、このことは誰にも話さなかった。
ある日、彼女と仲の良い男子が、朝早くにここの教室に来て欲しい、と言ったのを聞いてしまった。
最近周りで流行りの、付き合うとか付き合わないとかいうやつだろうか。
秋輝にはそういうことはよくわからない。
だが、明日の朝、いつもの時間を持てなくなった事に無性に苛立って、彼らの会話を聞き終わる前にその場から離れた。
次の日、習慣でいつも通りに家を出たが、教室には行けなかったので美術室にいくことにした。美術部顧問の教師は一日の大半をこの部屋で過ごしているので、いつ行っても鍵が開いているので助かった。
特に絵を描くでもなくぼんやりとしていたら朝のHRの始まる時間になり、慌てて教室へ行った。
それからというもの、朝の教室には近づく気になれなかった。
―――もやもやする。
もし行って、彼女があの男といたりしたら。また逆に、誰もいなかったら。
どちらを考えただけでも苛立ちは確かで、そこへ足を踏み入れることはできなかった。
ある朝、いつもの通りぼけっとしていると、いつもは放置がほとんどだった顧問が話しかけてきた。
「成瀬、最近よくここにいるな。いつも眉間にシワがよっているが、何か悩みでもあるのか」
自分はそんな顔をしていたのだろうか。言われるまでまったく気が付かなかった。悩み、と言われても、具体的に何に悩んでいるのか自分でもよくわかっていないし、そもそも教師に話すことでもない気がした。
「もやもやしていることがあるなら、それを絵に描いてごらん。抽象画でも良いし、自分の頭に浮かんだ像でも何でも良い。そうすることで、何か道が見つかることもあるかもしれないよ」
と、教師は続けた。
そうか、絵か。
朝、教室に行かなくなってから、鉛筆も筆も持っていなかったことに気付いた。秋輝はもやもやの正体を突き止めるべく、もう一度絵を描いてみることにした。
美術の版画の時間に絵麻が指を切った時、久しぶりに二人きりになった。
どうして来ないのかと問われたが、それを説明できる気はしなかった。久保を振った、と言われ思わず振り向いてしまった。
彼女は「秋輝と話せないことが苦しい」と、絞り出すような声で言った。
――苦しい?......俺だって、苦しい。
秋輝は込み上げてくる気持ちを言葉にできず、そのまま無視する形で教室へ戻った。
絵麻の顔は見れなかった。
それからも、朝は美術室で絵を描き続けた。
完成した絵を見た時、顧問が「この絵をコンクールに出品したい」と言った。
「色彩の表現も素晴らしいが、何よりも君がこの景色を大事に思っていることが強く伝わってくる。こんな絵は今しか描けないんだ」と。
描きながら、わかっていた。
描き上がった今、もはや自分の気持ちを認めざるを得なくなってしまった。
俺が、失いたくなかった空間―――
そして後日、県のコンクールで大賞を取ったとの知らせがあった。
全校生徒の集まる朝礼で表彰されたのは、誤算だった。作品は学校に展示されるわけではないが、その事実は絵麻にも知られることになってしまった。
彼女は、どう思っただろうか。
気付けばもうだいぶ長いこと話をしていない。
彼女には大分酷いことをしてしまった気がする。急に朝行かなくなったり、保健室の帰りの話も無視したりしてしまった。そしてそれからも、一言も話していない。
教室での彼女は、元の明るさを取り戻しているようにも見えるし、もう自分のことなど気にも留めていないかもしれない。
表彰された週の日曜、既に日も高くなったというのにベッドから出る気が起きずダラダラしていると、母親が部屋のドアをノックしてから入ってきた。
「秋輝ー?まだ寝てるの?......あ、起きてた」
「なに、どうしたの」
ノックの意味まったくないよな、と思いながらぶっきらぼうに答える。
「こないだ大賞取った絵、近所の美術館に展示されるの今日までなんでしょ?観に行かない?」
「えっ......いや、だ、だめ!」
「ダメって?どうせ今日も出かける予定ないんでしょ」
――いやいやいや、あれを親に観られるのはまずい。何がまずいって、そりゃもう色々だ。
だが、良い言い訳が思いつくわけでもなく。
「い、行くから。俺、一人で。一人で観たいんだ、頼むよ」
我ながら何を言ってるんだ、という気になったが、親も秋輝の「親に観られたくない」という気持ちだけはどうやら察したようで、それで引き下がってくれた。
そう言ってしまった手前、家を出ないわけにもいかず、遅めの朝食を食べてから、美術館へ向かった。
着いてみると、日曜だというのに閑散としている。
(そりゃそうだよな、こんなの展示されてる本人と家族くらいしか観に来ないだろうし)
入館し、他の絵をのんびりと眺めながら歩く。
(彼女は、去年ここで俺の絵を観たって言ってたな。秋に輝く、という俺の名前がぴったりだって)
そんなことを考えているうちに、自分の作品の前に着いた。
絵の中の彼女が、陽だまりのような暖かさで微笑みかける。
――何、言ってるんだよ。俺の絵よりも、教室の朝日よりも、輝いてるのは......――
このまま終わるわけにはいかない。
やはり、彼女に会わなくては。話をしなくては。
保健室の後、「毎朝来ている」と言っていたが、まだ変わっていないだろうか。
覚悟を決めて、翌朝、早朝の教室へ足を踏み入れた。
金曜日から止まったままの空気。暖かく差す朝の光。やはり、この空間が好きだ。だが、明確に足りないものがある。
秋輝にとっては、それが埋まらないことにはもはや満足できないのだと、はっきりとわかった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
6
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる