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急 異端者Mの望み
破壊
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ここ数日、途切れず雨が降っていた。
坂上大陽は雨が苦手である。
今までの人生で、悪いことはすべて雨が持ってきたものだから、雨の日に動き回って何かがあってからでは遅いのだという自論がある。雨は大陽に、悪縁を振りかけるものだった。
(そういえば……聖のやつを見つけたのも、雨の日だったな)
その日は、雨といっても天気雨だったことを思い出す。天気雨には人ならぬものに行き会うというが、あの時点では、ヒトならぬものは自分の方だった。
坂上大陽と辻聖には、いくつか共通点がある。
同じ職に就いているのはもちろんのこと、大陽には、もう十年以上帰っていない実家が同市内に存在する。いや、正確には、『もう帰れない』実家である。
交通事故に遭ったこともあるし、ある時期まではいたって普通に勤勉な学生であった過去や、雨が苦手なことなど、挙げたらきりがない。弟がいたことも、弟分のいた聖との共通点の一つに挙がるだろうか。
大陽は、病院に来ていた。雨で気怠い体でも、呼び出されれば行かないわけにもいかないところが辛い立場だ。
病院内は、先日の騒ぎで何かしらの変化があるかとも思ったが、特にどうということも無く賑わっている。どうということも無さ過ぎて、大陽は病院地下にあるその施設に踏み入れた瞬間、通りがかりの知人に言ったほどだった。
「うめさん。ちょっと魔法が利きすぎちゃいませんか? 気味が悪い」
「あら、相変わらず甘ちゃんねえ。大陽さんたら」
うめは綺麗な青緑の目を傾け、大陽を仰ぎ見た。「平和ぼけが蔓延したこの国で、連続通り魔事件だなんて……大騒ぎになるに決まっているじゃない。だから強めに暗示をかけているの」
病院地下にあるその施設は、ひやりと空気が冷えていた。灯篭で照らされて、円柱で支えられた長い回廊が、数十メートル続いている。壁は無く、柱の奥はひたすらに闇であった。
「最近どうなの? 」
「……何がですか? 」
「色々よ。純くんや、聖くんや、あの方とのこと。この前の大雨の日に、ついにお顔を出したのでしょう? どんなお方なの? 」
「お可愛いらしい方ですよ。優しくて無垢で……ただの子供です」
「そう……このまま何事も無ければいいわね」
一本道の回廊を連れだって歩き進めると、真っ黒に塗られた木戸がある。回廊に比べて格段に質素なその木戸は、壁と同化していて、知らずにいると一見にして行き止まりに思えるだろう。
木戸を引くと、井草の香りが体を包む。三面を襖で囲まれた四畳間が一つ。四畳間前の沓脱石の上に靴を並べ、大陽はぐるりと三枚の襖を見た。
「ではわたしはこここで」
「はい。また後で」
手を振って向かって右の襖を開けたうめに頷き、大陽は正面の襖を開く。そこには四面を襖で仕切られた、同じ四畳間がある。
大陽は、左の襖を開いた。次の四畳間では、また左に進む。右、右、正面、また右、たまに後ろ、左、左、正面……。指折り数え、二十四の四畳間へ進んだ大陽は、最後に今しがた出てきた背後の襖を開いた。
そこにはまた四畳間があったが、違うのは、うめが向かいの襖から顔を出したことと、一面だけが襖ではなく、西洋風の鉄扉であったことだ。重厚な扉は、うめの片腕でぱっくり口を開いた。
冷えた雰囲気をまき散らしながら、男女は鉄扉の奥に進む。
そこは、しんしんと冷たいもので満たされた青い空間だった。揺らぎ、波打ち、大陽とうめの服や髪がふわふわと浮く。見えない水で満たされた円柱廊下の形は、最初の回廊とよく似ていた。灯篭の代わりに金魚鉢のようなガラスの水槽があり、回廊の向こう側が見渡せるという違いである。ここの『青』とは、蒼穹のことだった。
浮世と離れた回廊の先に、白と黒の僧衣のような格好の男が佇んでいる。
灰色の髪の神官は、「御待ちしておりました」と、大陽に礼を取った。
「ウサギ、チェシャー猫はどうだ」
大陽にウサギと呼ばれた灰髪の神官は、穏やかに答える。
「『彼女』がよくやってくれました。どうやらもう、純くんに乗り移ることはできないようです」
「よし……あとは『アリス』だけか」
「はい」
大陽は、背後のうめに向き直った。
「アリスの行方は目星がついていますか」
「ええ。チェシャー猫の行動が教えてくれました」
「あとで聞きましょう。聖のやつは? 」
「相変わらずですわ。迂闊に出歩けなくなったものだから、余計に鬱憤が溜まっているみたい。純くんのことばかり訊いてくるんですよ。監視対象に、少し深入りしすぎでは? 」
弓なりになったうめの唇を見つめ、大陽は静かに言った。
「それはうめさんもでは? いつも純の好きそうなものを、手土産に持ってくるくせに」
「十四年も見てきたんですもの……情だって、湧くわ」
あっさりと肯定して笑みを深めたうめに、大陽も薄く微笑を引いた。
坂上大陽は、雨が苦手である。それはほんの赤ん坊のころからだったそうで、雨の日は干乾びてしまうんじゃなかというくらい、よく泣いたそうだ。
大陽にとって雨天とは『悪いことが起きる日』だ。
雨を鬼門とする理由を思い出したのは、もう十四年も前のことになる。当時十九歳だった大陽は、おかしな幻覚に悩まされていた。
最初は夢だった。世界が水に満ち、数多の生き物がもがきながら、ぷかぷかと泡のように浮かび、生きながら泡が崩れるように腐っていく。瞬きの刹那にも瞼の裏に浮かぶようになったその光景は、やがて現実世界にも侵食していく。
ある日、通院の帰りに交差点を見ると、そこは水に満ちていた。真っ赤な夕日に照らされて、そこは脈打つように蠢いていた。
ひどく懐かしい。
丸く大きい太陽が、滲んで潰れている。地は水を吸って浮腫み、剥がれて天地の境が溶けていく。月が底抜けに白く、星は色づいていた。
大陽はそこでは、ヒトではなかった。毛深い体と長い耳、ながい尾と尖った鼻を持つ。傍らには、もう一匹同じ姿をしたものが、大陽とともに、その太陽に向かって傅いていた。
この世界を創った何かを神とするのなら、そこで大陽が仕えていたのは神だった。
体も、欲も、感情もなく、ただ一つの惑星を管理するだけのシステム。そうでしか無かった創造主が、いつしか自分の創造物に名前を与えられ、姿を模し、感情を持った。
喜ばしいことだったように思う。その神は優しかった。赤ん坊よりも無垢で、美しい姿をしていた。
魔女とは肉のある病だ。
種に擬態し、繁殖して、進化することを目的としている。魔女の血に侵された創造物は、魔女に与えられた知恵で、創造者を苦しみの連鎖に縛り付けた。かの創造主の悲しみは、いまだ癒えない。
大陽はあの襖の部屋に戻ってきていた。鉄扉の前からいくつかの襖を開けて進み、やがて一つの襖を開けると、四畳間から十畳間ほどの部屋に出る。テレビが夏の特番の再放送を垂れ流し、あたりに脱ぎ捨てた服が散乱していた。
畳の上にころがる赤い頭を踏みつけると、死にかけた蝉のように裸の背中がもがく。
「なァにすんだよっ! 殺す気か! 」
「おまえ、もう三度も死んでいるじゃないか」
「この半年で何度殺す気だ! 痛みはあるんだよ! 」
奇抜な赤い頭の下には、どんぐり眼の童顔がある。いくら目を釣り上げても、永遠の十七歳では可愛いものだ。威嚇する聖を鼻で笑って、大陽は聖の向かいに座った。
「あ~……くっそ」
聖は畳の上に突っ伏して、低く唸った。死んだはずの人物が外をうろついているのはまずいということで、神殿奥に軟禁状態になって数日たっているのだ。大陽は慰める様に言った。
「病院で気をやったのがまずかったな、聖」
「まさか中学生に二度も殺されるとは、俺だって思わなかったんだよ。あの場に純坊来てたんだろ? さいあくだ……なんか変だって気づいただろな……」
「そんなもん、とっくに坊ちゃんは気づいてる。この状況だぞ? とりあえずチェシャー猫は捕まったけど、早いとこ腰を据えて話をしないと……」
「なあ大陽。純はどうだ? サキ様がいきなり現れて、何か変わったことはないか」
「サキ様が現れる時は、いつも周囲の意識も変える。純坊ちゃんも、サキ様を妹だと疑ってないはずだよ。今までもそうだったじゃあないか」
「本当に純は、俺を殺したことは覚えてないんだよな? 」
「覚えてないと思うよ。もしかしておまえ、坊ちゃんに嫌われないかが不安で泣いたのか? くくく……目玉が真っ赤になってるぞ」
「……ウーン。これなあ」
聖はウーンウーンと唸りながら、畳をごろごろと転がりまわる。
「うざったいなあ。なんだよ」
「……大陽、外の奴らにゃまだ言うなよ」
聖は不貞腐れた顔で、のっそりと起き上がった。
「……昨日、サキ様がここに来たんだよ」
「は? 」大陽は耳を疑った。「どうやって」
「知るかよ! そこの襖から入ってきたんだ。それで……俺の叔父貴の電話番号だとか渡してきて、電話を……」そう説明する聖の表情は固い。
聖はまた、ウーンと唸って、ちゃぶ台に額を押し付けた。
「なあ、大陽……俺たちの神様、まずいことになってんじゃねえか? 」
聖の指摘に、大陽は立ち上がった。子供のようにうずくまって震える聖を見下ろして、大陽はその肩を蹴り飛ばす。
「いてっ! 何すんだよ! 」
「私は使命を忘れてないぞ」
「そ、そんなの……俺だって! 」
「どうして私たちは、人に生まれたんだろうな」
「……知るかよ。神さまの、望むことなんて……」
「あの方は、何を望んでるんだろうな」
丸くなった目を遮るように背を向けて、大陽は襖戸に手をかけた。
「……私はいちど帰る。おまえも後から来い」
「頼んだぞ。相棒」
「地上で待ってるよ。ダーリン」
襟足にかかる髪を掻き上げて、きつく結ぶ。
(なぜ今生では人に生まれてしまったのだろう。裏切り者の種なんてものに……)
坂上大陽と辻聖には、多くの共通点がある。
大陽と聖は、同じ職についている。
大陽と聖は、同じ夢を見たことがある。
大陽と聖は、雨が苦手である。
大陽と聖は、雨の夜には必ず悪夢を見る。
大陽と聖は、同じ宿命を負っている。
大陽と聖は、『サキ』という少女を守らなくてはならない。
大陽と聖は……同じ記憶を共有している。
世界を涙で埋めた神さまに仕えた記憶。自分の創造物に裏切られた、無垢な神の従僕としての記憶。
世界を濡らすほど涙を枯らした神は、疲れて眠りについてしまった。
神はまだ、長い眠りの中にいる。
たまに自分が愛した創造物の形を模して、地上に現れる。大陽と聖は、何度も主人のために地上に生まれ出た。形を変え、種を変え、性を変え、言葉を変え、関係を変え、主人が再び地上に現れる時を、二人きりで待った。
神官たちは、かつて出会ったものたちの末裔だ。彼らは世界が海になった時代から、魔女に侵されないまま血を絶やさずにここにいる。
使命はひとつ。無垢なる神を守ること。
この地に生まれた大陽と聖は、やがてここに、主人が帰ってくるのだと確信した。先んじて神官たちもこの地に根を張っていたが、同じく魔女も呼び込んでしまっていたのは誤算である。
魔女は、ただ知識欲が深いだけの生き物だ。ここで何か珍しいものが見られるから、物見山にやってきただけに過ぎない。それにしたって、五十年も早くやってくるのは気が長すぎると思うけれど。
『少し深入りしすぎでは? 』
確かに、そうかもしれない。
『俺たちの神様、まずいことになってんじゃねえか? 』
それは自分たちがヒトとして生まれたことと、なにか意味があるのだろうか。
今生では、魔女に毒された種に生まれてしまった。今までにない迷いは、その『血』に毒されているのかもしれない。
人としての大陽には、年の離れた弟妹がいる。きっと自分は、純を代わりにしている。ふとした時、それを後ろ暗く思ってしまうのが、その証である。
それでもあの子を、弟のように思ってしまっているのは、本当なのだ。
大陽は歩みを止める。
長い長い海の姿をした回廊は、朝日に似たものが淡く下から照らす。
そこに不自然に存在する、白く塗られた鉄の扉。大陽はドアノブの無いその扉に手を押し当て、小さく『解呪』の文句を口にした。
「……出なさい。チェシャー猫」
暗闇で鮮烈に発光する白緑色の光は、壁から長く伸びて垂れていた。発光する鎖を大陽が手に取ると、それは劣化したプラスチックのように砕け散る。
白緑色を映して輝く二つの金色の眼が、上目遣いに大陽を睨みつけていた。
「どういうつもりだ……? 」
片方の牙を剥き出したチェシャーが、解放された手首を擦りながら問う。大陽は皮肉気に笑んで、痩せた猫のような少年を見下ろした。
「……なぜ今、人に生まれたか。その意味がわかったんだよ」
大陽は瞳を伏せる。長い睫毛の陰から再び現れた瞳は、暗闇に金色に光っている。
「その意味は、アリスが教えてくれたよ」
チェシャー猫が獰猛に哂う。
「あんな未来はいらない。……私もそう思う。純坊ちゃんを、解放してくれ」
坂上大陽は雨が苦手である。
今までの人生で、悪いことはすべて雨が持ってきたものだから、雨の日に動き回って何かがあってからでは遅いのだという自論がある。雨は大陽に、悪縁を振りかけるものだった。
(そういえば……聖のやつを見つけたのも、雨の日だったな)
その日は、雨といっても天気雨だったことを思い出す。天気雨には人ならぬものに行き会うというが、あの時点では、ヒトならぬものは自分の方だった。
坂上大陽と辻聖には、いくつか共通点がある。
同じ職に就いているのはもちろんのこと、大陽には、もう十年以上帰っていない実家が同市内に存在する。いや、正確には、『もう帰れない』実家である。
交通事故に遭ったこともあるし、ある時期まではいたって普通に勤勉な学生であった過去や、雨が苦手なことなど、挙げたらきりがない。弟がいたことも、弟分のいた聖との共通点の一つに挙がるだろうか。
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病院内は、先日の騒ぎで何かしらの変化があるかとも思ったが、特にどうということも無く賑わっている。どうということも無さ過ぎて、大陽は病院地下にあるその施設に踏み入れた瞬間、通りがかりの知人に言ったほどだった。
「うめさん。ちょっと魔法が利きすぎちゃいませんか? 気味が悪い」
「あら、相変わらず甘ちゃんねえ。大陽さんたら」
うめは綺麗な青緑の目を傾け、大陽を仰ぎ見た。「平和ぼけが蔓延したこの国で、連続通り魔事件だなんて……大騒ぎになるに決まっているじゃない。だから強めに暗示をかけているの」
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「最近どうなの? 」
「……何がですか? 」
「色々よ。純くんや、聖くんや、あの方とのこと。この前の大雨の日に、ついにお顔を出したのでしょう? どんなお方なの? 」
「お可愛いらしい方ですよ。優しくて無垢で……ただの子供です」
「そう……このまま何事も無ければいいわね」
一本道の回廊を連れだって歩き進めると、真っ黒に塗られた木戸がある。回廊に比べて格段に質素なその木戸は、壁と同化していて、知らずにいると一見にして行き止まりに思えるだろう。
木戸を引くと、井草の香りが体を包む。三面を襖で囲まれた四畳間が一つ。四畳間前の沓脱石の上に靴を並べ、大陽はぐるりと三枚の襖を見た。
「ではわたしはこここで」
「はい。また後で」
手を振って向かって右の襖を開けたうめに頷き、大陽は正面の襖を開く。そこには四面を襖で仕切られた、同じ四畳間がある。
大陽は、左の襖を開いた。次の四畳間では、また左に進む。右、右、正面、また右、たまに後ろ、左、左、正面……。指折り数え、二十四の四畳間へ進んだ大陽は、最後に今しがた出てきた背後の襖を開いた。
そこにはまた四畳間があったが、違うのは、うめが向かいの襖から顔を出したことと、一面だけが襖ではなく、西洋風の鉄扉であったことだ。重厚な扉は、うめの片腕でぱっくり口を開いた。
冷えた雰囲気をまき散らしながら、男女は鉄扉の奥に進む。
そこは、しんしんと冷たいもので満たされた青い空間だった。揺らぎ、波打ち、大陽とうめの服や髪がふわふわと浮く。見えない水で満たされた円柱廊下の形は、最初の回廊とよく似ていた。灯篭の代わりに金魚鉢のようなガラスの水槽があり、回廊の向こう側が見渡せるという違いである。ここの『青』とは、蒼穹のことだった。
浮世と離れた回廊の先に、白と黒の僧衣のような格好の男が佇んでいる。
灰色の髪の神官は、「御待ちしておりました」と、大陽に礼を取った。
「ウサギ、チェシャー猫はどうだ」
大陽にウサギと呼ばれた灰髪の神官は、穏やかに答える。
「『彼女』がよくやってくれました。どうやらもう、純くんに乗り移ることはできないようです」
「よし……あとは『アリス』だけか」
「はい」
大陽は、背後のうめに向き直った。
「アリスの行方は目星がついていますか」
「ええ。チェシャー猫の行動が教えてくれました」
「あとで聞きましょう。聖のやつは? 」
「相変わらずですわ。迂闊に出歩けなくなったものだから、余計に鬱憤が溜まっているみたい。純くんのことばかり訊いてくるんですよ。監視対象に、少し深入りしすぎでは? 」
弓なりになったうめの唇を見つめ、大陽は静かに言った。
「それはうめさんもでは? いつも純の好きそうなものを、手土産に持ってくるくせに」
「十四年も見てきたんですもの……情だって、湧くわ」
あっさりと肯定して笑みを深めたうめに、大陽も薄く微笑を引いた。
坂上大陽は、雨が苦手である。それはほんの赤ん坊のころからだったそうで、雨の日は干乾びてしまうんじゃなかというくらい、よく泣いたそうだ。
大陽にとって雨天とは『悪いことが起きる日』だ。
雨を鬼門とする理由を思い出したのは、もう十四年も前のことになる。当時十九歳だった大陽は、おかしな幻覚に悩まされていた。
最初は夢だった。世界が水に満ち、数多の生き物がもがきながら、ぷかぷかと泡のように浮かび、生きながら泡が崩れるように腐っていく。瞬きの刹那にも瞼の裏に浮かぶようになったその光景は、やがて現実世界にも侵食していく。
ある日、通院の帰りに交差点を見ると、そこは水に満ちていた。真っ赤な夕日に照らされて、そこは脈打つように蠢いていた。
ひどく懐かしい。
丸く大きい太陽が、滲んで潰れている。地は水を吸って浮腫み、剥がれて天地の境が溶けていく。月が底抜けに白く、星は色づいていた。
大陽はそこでは、ヒトではなかった。毛深い体と長い耳、ながい尾と尖った鼻を持つ。傍らには、もう一匹同じ姿をしたものが、大陽とともに、その太陽に向かって傅いていた。
この世界を創った何かを神とするのなら、そこで大陽が仕えていたのは神だった。
体も、欲も、感情もなく、ただ一つの惑星を管理するだけのシステム。そうでしか無かった創造主が、いつしか自分の創造物に名前を与えられ、姿を模し、感情を持った。
喜ばしいことだったように思う。その神は優しかった。赤ん坊よりも無垢で、美しい姿をしていた。
魔女とは肉のある病だ。
種に擬態し、繁殖して、進化することを目的としている。魔女の血に侵された創造物は、魔女に与えられた知恵で、創造者を苦しみの連鎖に縛り付けた。かの創造主の悲しみは、いまだ癒えない。
大陽はあの襖の部屋に戻ってきていた。鉄扉の前からいくつかの襖を開けて進み、やがて一つの襖を開けると、四畳間から十畳間ほどの部屋に出る。テレビが夏の特番の再放送を垂れ流し、あたりに脱ぎ捨てた服が散乱していた。
畳の上にころがる赤い頭を踏みつけると、死にかけた蝉のように裸の背中がもがく。
「なァにすんだよっ! 殺す気か! 」
「おまえ、もう三度も死んでいるじゃないか」
「この半年で何度殺す気だ! 痛みはあるんだよ! 」
奇抜な赤い頭の下には、どんぐり眼の童顔がある。いくら目を釣り上げても、永遠の十七歳では可愛いものだ。威嚇する聖を鼻で笑って、大陽は聖の向かいに座った。
「あ~……くっそ」
聖は畳の上に突っ伏して、低く唸った。死んだはずの人物が外をうろついているのはまずいということで、神殿奥に軟禁状態になって数日たっているのだ。大陽は慰める様に言った。
「病院で気をやったのがまずかったな、聖」
「まさか中学生に二度も殺されるとは、俺だって思わなかったんだよ。あの場に純坊来てたんだろ? さいあくだ……なんか変だって気づいただろな……」
「そんなもん、とっくに坊ちゃんは気づいてる。この状況だぞ? とりあえずチェシャー猫は捕まったけど、早いとこ腰を据えて話をしないと……」
「なあ大陽。純はどうだ? サキ様がいきなり現れて、何か変わったことはないか」
「サキ様が現れる時は、いつも周囲の意識も変える。純坊ちゃんも、サキ様を妹だと疑ってないはずだよ。今までもそうだったじゃあないか」
「本当に純は、俺を殺したことは覚えてないんだよな? 」
「覚えてないと思うよ。もしかしておまえ、坊ちゃんに嫌われないかが不安で泣いたのか? くくく……目玉が真っ赤になってるぞ」
「……ウーン。これなあ」
聖はウーンウーンと唸りながら、畳をごろごろと転がりまわる。
「うざったいなあ。なんだよ」
「……大陽、外の奴らにゃまだ言うなよ」
聖は不貞腐れた顔で、のっそりと起き上がった。
「……昨日、サキ様がここに来たんだよ」
「は? 」大陽は耳を疑った。「どうやって」
「知るかよ! そこの襖から入ってきたんだ。それで……俺の叔父貴の電話番号だとか渡してきて、電話を……」そう説明する聖の表情は固い。
聖はまた、ウーンと唸って、ちゃぶ台に額を押し付けた。
「なあ、大陽……俺たちの神様、まずいことになってんじゃねえか? 」
聖の指摘に、大陽は立ち上がった。子供のようにうずくまって震える聖を見下ろして、大陽はその肩を蹴り飛ばす。
「いてっ! 何すんだよ! 」
「私は使命を忘れてないぞ」
「そ、そんなの……俺だって! 」
「どうして私たちは、人に生まれたんだろうな」
「……知るかよ。神さまの、望むことなんて……」
「あの方は、何を望んでるんだろうな」
丸くなった目を遮るように背を向けて、大陽は襖戸に手をかけた。
「……私はいちど帰る。おまえも後から来い」
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「地上で待ってるよ。ダーリン」
襟足にかかる髪を掻き上げて、きつく結ぶ。
(なぜ今生では人に生まれてしまったのだろう。裏切り者の種なんてものに……)
坂上大陽と辻聖には、多くの共通点がある。
大陽と聖は、同じ職についている。
大陽と聖は、同じ夢を見たことがある。
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大陽と聖は、同じ宿命を負っている。
大陽と聖は、『サキ』という少女を守らなくてはならない。
大陽と聖は……同じ記憶を共有している。
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世界を濡らすほど涙を枯らした神は、疲れて眠りについてしまった。
神はまだ、長い眠りの中にいる。
たまに自分が愛した創造物の形を模して、地上に現れる。大陽と聖は、何度も主人のために地上に生まれ出た。形を変え、種を変え、性を変え、言葉を変え、関係を変え、主人が再び地上に現れる時を、二人きりで待った。
神官たちは、かつて出会ったものたちの末裔だ。彼らは世界が海になった時代から、魔女に侵されないまま血を絶やさずにここにいる。
使命はひとつ。無垢なる神を守ること。
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魔女は、ただ知識欲が深いだけの生き物だ。ここで何か珍しいものが見られるから、物見山にやってきただけに過ぎない。それにしたって、五十年も早くやってくるのは気が長すぎると思うけれど。
『少し深入りしすぎでは? 』
確かに、そうかもしれない。
『俺たちの神様、まずいことになってんじゃねえか? 』
それは自分たちがヒトとして生まれたことと、なにか意味があるのだろうか。
今生では、魔女に毒された種に生まれてしまった。今までにない迷いは、その『血』に毒されているのかもしれない。
人としての大陽には、年の離れた弟妹がいる。きっと自分は、純を代わりにしている。ふとした時、それを後ろ暗く思ってしまうのが、その証である。
それでもあの子を、弟のように思ってしまっているのは、本当なのだ。
大陽は歩みを止める。
長い長い海の姿をした回廊は、朝日に似たものが淡く下から照らす。
そこに不自然に存在する、白く塗られた鉄の扉。大陽はドアノブの無いその扉に手を押し当て、小さく『解呪』の文句を口にした。
「……出なさい。チェシャー猫」
暗闇で鮮烈に発光する白緑色の光は、壁から長く伸びて垂れていた。発光する鎖を大陽が手に取ると、それは劣化したプラスチックのように砕け散る。
白緑色を映して輝く二つの金色の眼が、上目遣いに大陽を睨みつけていた。
「どういうつもりだ……? 」
片方の牙を剥き出したチェシャーが、解放された手首を擦りながら問う。大陽は皮肉気に笑んで、痩せた猫のような少年を見下ろした。
「……なぜ今、人に生まれたか。その意味がわかったんだよ」
大陽は瞳を伏せる。長い睫毛の陰から再び現れた瞳は、暗闇に金色に光っている。
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72話で完結です。
私たちの離婚幸福論
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ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
それは思い出せない思い出
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俺には、食べた事の無いケーキの記憶がある。
丸くて白くて赤いのが載ってて、切ると三角になる、甘いケーキ。自分であのケーキを作れるようになろうとケーキ屋で働くことにした俺は、無意識に周りの人を幸せにしていく。
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