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電車の加速する、低い音が聞こえる。僕は椅子の端に座ったまま、目線を上げた。
遊休資産についての広告を見つける。”不動産を売る際の仲介を務めます” 緑色のゴシック体に、太い字で書いてある。僕の視力では小さな字はよく見えない。
僕は大学へ向かっている。乗り換えの赤羽駅に向かう途中の電車の中で、アナウンスを聞いている。
「次は、王子。王子です」
低い女性の声。静かな空間。周りにいる数人の人々も、誰一人言葉を発する事なく、長方形の端末に視線を落としている。
「駅とホームの間にある、暗い空間にお気をつけください。暗い空間。暗い空間。暗い空間」
アナウンスはそう告げている。車内はとても暖かく、静かだ。誰も動かない。何一つ音は聞こえない。電車は東へ向かう。東の向こうには東があり、そのまた東には、東がある。誰も動かない。人々はスマートフォンに視線を落としている。誰も動かない。彼らのいくつかはそのまま停止してしまった。時間の流れの中に閉じ込められてしまった。もう動く事はないだろう。向かいに座るやや年老いた女性の鞄から、マクドナルドのフライドポテトが溢れ出す。時間は流れている。フライドポテトの山は膨れ上がり、彼女を覆ってしまう。彼女はついに埋もれて見えなくなってしまった。山は動かなくなった。
「次は、暗い空間。暗い空間。電車とホームの間の王子駅にお気をつけください。暗い空間。暗い空間。暗い空間」
低い女性の声。車内はとても静かだ。間も無く全ての時間が停止する。僕は大学に向かっている。ドアが開く。冷たい風が足首にあたる。もう冬がやってくる。時計は9時27分を示していた。
僕は電車を降りる。水色のイヤホンが僕のポケットから滑り落ちる。イヤホンは電車とホームの間の暗い空間に取り残されてしまった。おやすみなさい、水色のイヤホン。イヤホンは何も喋らずに僕に微笑む。やがて電車は役目を終え、少しずつ暗い空間になるだろう。安らかに眠ってください。
王子駅のホームのイスに、老人が座っていた。老人はただ俯いている。灰色の足が見えた。彼の足は既にホームの地面との境界線を失ってしまった。
「お元気ですか」
僕は彼に声をかける。
「ああ、寒いくらいに」
老人はそう言って僕に微笑みかける。正確には、僕に微笑みかけているのではない。僕の少し右の空間と、僕の右頬の間の輪郭に微笑みかけているのだろう。彼がその輪郭との会話を望むのなら、僕は喜んでその輪郭の代弁者になろう。
「君はどこへ? 有孔虫?」
と老人は言う。
「いいえ、僕は大学へ向かっています」
「おお、そうか、それは可哀想な事をしたね」
「あなたのせいではありません」
「そうかい。でも私は、責任を感じている。冬の中に、春が宿っている」
老人はこくりと二回頷く。彼はそれきり動かなくなった。老人の顔を思い出すことはできなくなった。辺りにたくさんの蕾が芽吹き、やがて花が一斉に咲いた。淡い黄緑色の花だ。ホームはくすんだ花でいっぱいになった。
僕が振り返ると、僕のすぐ横に中年の男性がいた。彼の両目は私を捕らえる事ができないほどに腫れあがっている。
「あなたは?」
と僕は言う。
「妖精。雨に溶けたミミズ。本当にただの青だったと知覚している」
彼はその言葉を最後に、膨れ上がる。大きく息を吸っている。彼の背中から無数の触手が伸びる。彼は背中からゆっくりと浮かび始めた。
「大学へ行こう。誰も悲しまないうちに」
風がそう言っていた。僕は大学へ行かねばならない。僕はすかさず彼の左腕を握る。彼の腕は彼の胴体から離れ、ドロドロと溶け出てしまった。僕は彼の触手の一つに捕まった。僕の足が地面から離れていく。彼の赤い頭皮が、好意的に僕を呼んでいた。頭皮は、時間がないと言っている。僕がこくりと頷くと、僕は空高く昇っていった。星空に手が届く。暖かい雪の感触だ。たしかに雪は暖かかった。どうして忘れてしまっていたのだろう?人々の笑い声が聞こえる。視界はぼやけている。全てが黄色く霞んで見えた。
僕は目を閉じた。ずっと目を閉じている。柔らかな感触が僕を包んでいるのを感じた。僕はピンク色の丸い部屋にひとりいる。とても暖かかった。甘い液体で部屋は満たされていく。僕の体はふわりと宙に舞う。
「ねえ」
誰かが僕に声をかけた。僕は目を開く。僕には彼女が天使だと一目でわかった。黒い髪をしていた。冷たい瞳だった。
天使に近づこうとしたら、足が少し沈んだ。辺り一面に黄色い砂が広がっていた。無限に広がる砂浜だった。波の音が聞こえる。空はオレンジ色だった。とても粗い世界だった。一つ一つの粒子が見えてしまっていた。心地よかった。僕は故郷に帰ってきた。
「悲しい目をしている」
と僕は言った。彼女は何も答えなかった。
僕はこの場所で永遠の時間を過ごすと理解した。砂浜は永遠に続いていた。二度と夕日が沈むことはないだろう。僕はこの世界の一員になった。優しい気持ちになった。永遠の時間が流れている。僕は今、巡り合えた全ての心に感謝している。
僕の粒子が浮き出ている。やがて僕は僕のものではなくなってしまった。僕の目に僕が映っている。僕はただの視界となった。僕はきちんとこの世界の役目を果たしている。視界は安心した。視界は長い眠りにつく。もう永遠に目を覚ますことはないのかもしれない。
「貴方に会えてよかったです」
と、僕が言っているのが聞こえた。
天使は何も答えない。
「ここが大学?」
間があって、天使はそう言った。
「はい」
僕は単調に言う。
「そう」
天使はそれだけ言って、ゆっくりと僕から去っていった。後には何も残らなかった。波の音が優しく響いている。
“おやすみなさい”
心の中で、そう呟いた。
遊休資産についての広告を見つける。”不動産を売る際の仲介を務めます” 緑色のゴシック体に、太い字で書いてある。僕の視力では小さな字はよく見えない。
僕は大学へ向かっている。乗り換えの赤羽駅に向かう途中の電車の中で、アナウンスを聞いている。
「次は、王子。王子です」
低い女性の声。静かな空間。周りにいる数人の人々も、誰一人言葉を発する事なく、長方形の端末に視線を落としている。
「駅とホームの間にある、暗い空間にお気をつけください。暗い空間。暗い空間。暗い空間」
アナウンスはそう告げている。車内はとても暖かく、静かだ。誰も動かない。何一つ音は聞こえない。電車は東へ向かう。東の向こうには東があり、そのまた東には、東がある。誰も動かない。人々はスマートフォンに視線を落としている。誰も動かない。彼らのいくつかはそのまま停止してしまった。時間の流れの中に閉じ込められてしまった。もう動く事はないだろう。向かいに座るやや年老いた女性の鞄から、マクドナルドのフライドポテトが溢れ出す。時間は流れている。フライドポテトの山は膨れ上がり、彼女を覆ってしまう。彼女はついに埋もれて見えなくなってしまった。山は動かなくなった。
「次は、暗い空間。暗い空間。電車とホームの間の王子駅にお気をつけください。暗い空間。暗い空間。暗い空間」
低い女性の声。車内はとても静かだ。間も無く全ての時間が停止する。僕は大学に向かっている。ドアが開く。冷たい風が足首にあたる。もう冬がやってくる。時計は9時27分を示していた。
僕は電車を降りる。水色のイヤホンが僕のポケットから滑り落ちる。イヤホンは電車とホームの間の暗い空間に取り残されてしまった。おやすみなさい、水色のイヤホン。イヤホンは何も喋らずに僕に微笑む。やがて電車は役目を終え、少しずつ暗い空間になるだろう。安らかに眠ってください。
王子駅のホームのイスに、老人が座っていた。老人はただ俯いている。灰色の足が見えた。彼の足は既にホームの地面との境界線を失ってしまった。
「お元気ですか」
僕は彼に声をかける。
「ああ、寒いくらいに」
老人はそう言って僕に微笑みかける。正確には、僕に微笑みかけているのではない。僕の少し右の空間と、僕の右頬の間の輪郭に微笑みかけているのだろう。彼がその輪郭との会話を望むのなら、僕は喜んでその輪郭の代弁者になろう。
「君はどこへ? 有孔虫?」
と老人は言う。
「いいえ、僕は大学へ向かっています」
「おお、そうか、それは可哀想な事をしたね」
「あなたのせいではありません」
「そうかい。でも私は、責任を感じている。冬の中に、春が宿っている」
老人はこくりと二回頷く。彼はそれきり動かなくなった。老人の顔を思い出すことはできなくなった。辺りにたくさんの蕾が芽吹き、やがて花が一斉に咲いた。淡い黄緑色の花だ。ホームはくすんだ花でいっぱいになった。
僕が振り返ると、僕のすぐ横に中年の男性がいた。彼の両目は私を捕らえる事ができないほどに腫れあがっている。
「あなたは?」
と僕は言う。
「妖精。雨に溶けたミミズ。本当にただの青だったと知覚している」
彼はその言葉を最後に、膨れ上がる。大きく息を吸っている。彼の背中から無数の触手が伸びる。彼は背中からゆっくりと浮かび始めた。
「大学へ行こう。誰も悲しまないうちに」
風がそう言っていた。僕は大学へ行かねばならない。僕はすかさず彼の左腕を握る。彼の腕は彼の胴体から離れ、ドロドロと溶け出てしまった。僕は彼の触手の一つに捕まった。僕の足が地面から離れていく。彼の赤い頭皮が、好意的に僕を呼んでいた。頭皮は、時間がないと言っている。僕がこくりと頷くと、僕は空高く昇っていった。星空に手が届く。暖かい雪の感触だ。たしかに雪は暖かかった。どうして忘れてしまっていたのだろう?人々の笑い声が聞こえる。視界はぼやけている。全てが黄色く霞んで見えた。
僕は目を閉じた。ずっと目を閉じている。柔らかな感触が僕を包んでいるのを感じた。僕はピンク色の丸い部屋にひとりいる。とても暖かかった。甘い液体で部屋は満たされていく。僕の体はふわりと宙に舞う。
「ねえ」
誰かが僕に声をかけた。僕は目を開く。僕には彼女が天使だと一目でわかった。黒い髪をしていた。冷たい瞳だった。
天使に近づこうとしたら、足が少し沈んだ。辺り一面に黄色い砂が広がっていた。無限に広がる砂浜だった。波の音が聞こえる。空はオレンジ色だった。とても粗い世界だった。一つ一つの粒子が見えてしまっていた。心地よかった。僕は故郷に帰ってきた。
「悲しい目をしている」
と僕は言った。彼女は何も答えなかった。
僕はこの場所で永遠の時間を過ごすと理解した。砂浜は永遠に続いていた。二度と夕日が沈むことはないだろう。僕はこの世界の一員になった。優しい気持ちになった。永遠の時間が流れている。僕は今、巡り合えた全ての心に感謝している。
僕の粒子が浮き出ている。やがて僕は僕のものではなくなってしまった。僕の目に僕が映っている。僕はただの視界となった。僕はきちんとこの世界の役目を果たしている。視界は安心した。視界は長い眠りにつく。もう永遠に目を覚ますことはないのかもしれない。
「貴方に会えてよかったです」
と、僕が言っているのが聞こえた。
天使は何も答えない。
「ここが大学?」
間があって、天使はそう言った。
「はい」
僕は単調に言う。
「そう」
天使はそれだけ言って、ゆっくりと僕から去っていった。後には何も残らなかった。波の音が優しく響いている。
“おやすみなさい”
心の中で、そう呟いた。
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