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「普通」

普通の依頼

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「は……? 知らない?」

  自然と皆の視線が健人に集まる。郁の視線の先にも瞠目する健人の姿。

「はは、冗談はよしてくれよ。それともまだあの時のこと、怒ってるのかい?」
「ん、もういいや。私帰る」
「どうしたいきなり」
「なんかつまんないし」

  まただ。時折見せる冷気を放ったような顔つき。

「あ、そだ。郁ちゃん。また夜電話するからね」

  悪魔の宣告だった。今日も十分な睡眠とゲームを満喫する時間は望めない。

「一体どういうことだ……」
「俺も同じ感想だ」

  だが、帰ってしまった事実は変わらない。そして、翠音が居なくなった今、変に気を回す必要もない。

「おい陽キャ。お前翠音と何があった」
「それより君は翠音のなんなんだ」
「こいつ会話できないの? ほんとに人間?」
「あなたは人のこと言えないでしょ」

  質問に質問で返すのはご法度だ。せっかく落ち着いて話を勧められると思ったが、健人は翠音が帰ってしまったことに落ち目を感じているようでぶつぶつと悔恨の念を吐き出していた。
 
「……僕と翠音は一年の時、生徒会庶務だったんだ」
「なんだいきなり」
「いいから人の話は最後まで聞いてくれ」

  人を敵視してくると思えば、どういう風の吹き回しか身の上話を始めた。まったく、陽キャの考えていることは分からない。

「生徒会庶務といっても名ばかりで仕事なんてほとんど無くて退屈だった。軽い雑用を済ませた後は大体、先輩の手伝いをするか早々に帰るかのとてもホワイトな生徒会だったよ」
「ほーん、いいじゃねぇか」
「楽ではあったけど、やりがいなんてなかったよ」

  確かにバイトなんかをする際の一番の苦痛は暇な時間帯らしい。時間が進むのが著しく遅く感じるとかなんとか。

「それでも毎日翠音と二人で下校できたから良かった、とは言えるね」

  何故かドヤ顔でマウントを取られた。とりあえず適当に流しておくと、健人は更に躍起になったのか流暢に続きを喋り出す。

「僕らの距離が縮まるのに時間はかからなかった。直ぐに連絡先も交換したし、夜は毎日のように電話して、休日に二人で遊ぶようになった」

  何だかとても馴染みのある流れである。どうやら次は休日デートが待ち受けているらしい。

「もうあとの流れは言わずとも分かるだろう? 僕は意を決して翠音に告白し、晴れて僕らは付き合うことになった」

  わざわざ前置きをしたのに、丁寧に説明してくれる実に親切なやつである。

「でも別れたんだろ?」
「……まだ別れてない」

  核心を突いた質問だったのか、健人は急に不貞腐れ始めた。

「確かに僕が少し重かったのかもしれない……。でも翠音は僕と付き合い始めてからも他の男との距離が近かったんだっ! 向こうにも非があるはずだっ」
「いつもこんなテンションなのか?」
「んー、バカなのに変わりはないかな」

  健人が案外扱いやすいことに気づいたので、早急に話を進めることにした。

「んできっかけは?」
「僕の方が教えて欲しいくらいさ。付き合って5日目でラインをブロックされた。その翌日には翠音は転校してしまっていたよ……おまけに翠音の男友達との間の溝は深いまま。悪いことづくめだよ」

  大体の概要は頭に入った。つまり、普通の女子ではない翠音と少しバカだが一般的な高校生男子である健人が短命カップルの模倣のような恋愛をして、翠音の方から関係を切ったということだ。

「でも、きっと何か僕に話せないほどの事情があったはずなんだ! 転校先でこんな前科持ちみたいなやつに絡まれるなんてむしろ翠音の方が災難かもしれない!」

 聞き捨てならない言葉を吐かれたが、ここで過度に反応してしまうと、事態を複雑にしかねない。

「参考になった。サンキューな」
「貴様の感謝なんて欲しくないね」
「まーまー、私が宍戸さんにそれとなく聞いとくから」
「……頼む。何故か翠音は僕と話してくれないからね」

  他力本願。梨沙が健人を上手く宥めてその場は何とか収まった。

「んじゃそろそろ俺は行くわ」

  翠音の分の代金と一緒に机に置いて立ち去る。どうやら翠音は思ったより普通の女子ではないらしい。


                         ◆  ◆  ◆


  喫茶店を出ると、空は夕闇に染まっていた。駅から少々歩いたところにあるこの喫茶店の周辺は人通りが少ない都合のいいロケーションだ。
  念の為、すぐ近くの住宅街まで移動し、通話を始めた。

『お前の方からかけてくるなんて誠に珍しいな』
『それだけ急ぎの用なんだよ』
『ほう、それは興味深いな』

  電話先の主はくくっと少し小馬鹿にした笑い声を漏らした。

『単刀直入に聞く。翠音はメンヘラか?』
『メンヘラ……か。便利な言葉だが、違うな。そんな生温いものではない』
『じゃあ一体なんなんだ』
『あれは天然ものだ。あいつはただ自分の欲望に忠実に生きている。無論、身勝手な行為ばかりするという意味ではないがな』

 電話先の主――伊澄は勿体つけたような説明をする。それが更に郁を焦れったくさせる。

『俺にもわかるように説明してくれ。翠音の為だ』
『よかろう。つまり、あいつは周囲の人間関係を無意識に壊す。常人の感性で触れてはならない。男女の垣根、恋人としての一般的な振る舞い。そういうものをあいつに期待したらジ・エンドということだ』
『まるで自分が経験してきたような物言いだな』
『……私は失敗したからな』

 冗談めかして言ったのに、伊澄の声音には闇が鎌首をもたげていた。

『翠音を普通の女子にする。それも本人に私の画策を感づかれないようにするという条件付きで……。それが何を意味するか、いやでもわかるだろう?』
『結局、俺はお前の尻拭いかよ』
『それでもお前は引き受けるはずだ』
『どうしてわかるんだよ』

 理由は知っていたけれど、あえて聞き返してやった。 
 話を聞く限り分が悪くおまけに効率も悪い試み。郁の惰眠時間もソシャゲや音ゲーに費やす自堕落な生活も大幅に削られてしまうだろう。それでも伊澄への借りを返す機会と翠音の問題を見て見ぬふりをする後ろめたさを天秤にかけると、後者が少し重い。
 そして郁の原動力となるもの。その解はきっと彼女が答えてくれる。

『お前は生粋のマゾだからな』

 伊澄の勝ち誇ったような笑みを目の当たりにして、郁はさらに口角を吊り上げる。

『当たり前だ。もっと俺が屈辱を感じて落ちるくらいの無理難題を頼むぞ』
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