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「教訓」

正直者が馬鹿を見る

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暮らしを豊かにするには、日々のルーティンを大切にしなければならない。7時に夕飯の席につき、8時に風呂に浸かる。何でもない習慣でも、いやだからこそ非日常に押しつぶされないための憩いの場だ。重荷やら責任やらを纏った衣を脱ぎ、すっぽんぽんになっていざ踏み込む。気分は爽快だが、モザイク処理が必要な絵面だ。

「ういふうぃ~~」

 湯船に浸かると芯から体が温まって、思わず声が漏れてしまった。気持ちが良くて声が抑えられないのは、マゾあるあるなので仕方がない。最近は、風呂にスマホを持ち込んだり、備え付きのテレビがあったりなんてするが、あれはナンセンスだ。身軽かつ手ぶらで浴槽世界の蒸気に包まれながら目を瞑り、日々の疲れを癒す場所なのだから。
 そのような考でいつもの様に長風呂を楽しんでいたが、先ほどから遠くで雑音がする。そっちに意識が持っていかれそうになるのが嫌で必死に逸らすが、無機質な機械音から情報社会に生きる人間は逃げ出すことはできないようだ。

『ん、委員長? 俺今ちょっと忙しいんだけど……』
『いいから早く来て! 火村さんがまだ家に帰ってないみたいなの』

 おかしい。火村とは数時間前に喫茶店で別れ、それぞれ自分の帰路についたはずだ。脳裏によぎるのは、あの別れ際の言葉。あれと何か関係しているのならば、郁に責任がないわけではない。

『分かった。駅で合流しよう』
『うん。寄り道せずに早く来てよね』

 至高の時間が邪魔されてしまったが、後ろめたさを感じたままでは楽しむべきものも楽しめない。ぼっちは皆が騒ぐ体育前後の着替えを極力早く終わらせる精神を持っているため、高速着替えはお手の物だ。
 パーカにその辺にあった適当なズボンを合わせて家を出る。放任主義の神野家は夜に黙って家を出て行っても怪しまれることはなく、大方、コンビニにでも行ったんだろうと思われる。郁にとっては楽だが、仮にも高校生の息子が夜の街をうろうろすることに抵抗はないのだろうか。その点、火村は心配されているだけやはり両親にも大切されているのだろう。

「あ、来た来た。遅いよ」
「これでも家からダッシュしてきたんだが」
「なんですぐバレる嘘つくの? 全然汗かいてないよね」

 ラフな部屋着の上から薄手の上着を羽織った梨沙は、額に少し汗をかいている。おそらく、火村行方不明の報を受けて、いろいろ探し回っていたのだろう。

「別にそんな大騒ぎしなくていいから」

 もう一つ見知った顔があった。赤嶺はむすっと不機嫌な顔付きで郁を見つめている。

「悪いな。こんなことに付き合わせて」
「どうせ委員長には逆らえないからな」
「何か言った? 神野君~?」
「聞こえてるくせによ……」

 そんなこんなで火村の捜索が始まった。郁には何の心当たりもないため、捜索は難航するように思われたが、赤嶺には火村を探し当てる自信があるようだ。冷静に誰かに電話でコンタクトを取っている。

「じゃあ、行こう」
「どこに?」
「小学校。俺とまほが通ってたとこ」
「なんでそんなとこに……隠れる場所あるか?」
「あいつにとって、あそこは居場所っつーか居たい場所だからな」

 二人の間に何があったのかは分からないが、今は素直に赤嶺について行くのが得策らしい。

「察するに今日みたいなことはよくあるのか?」
 
 赤嶺の後を梨沙とともについて歩きながら尋ねてみる。

「ああ。体育祭の時期が近づいてくるとよくいなくなるな」
「体育祭に未練でもあるのか?」
「未練か……あれは一種の心の病気だ」
「病気?」

 郁が鸚鵡返しに問い返すと、赤嶺は大きく息を吐いた後、観念したように事情を話し始めた。

「まほが俺に応援団長をやらせたがってるのを昼間に見ただろ? あれは小学校の時に俺が応援団長の座を奪われたからなんだ」
「それだけでなんで火村がおかしくなるんだよ」
「応援団長を決める時にクラスで対抗応援合戦をやったんだ。そんでまほは副団長候補だった」
「あの火村さんが?」

 梨沙の驚きも最もだ。あの風体からしてとても応援団が務まるような器には思えない。

「今じゃ想像つかねーだろうが、小学生の時のまほは明るくてクラスの人気者だったんだよ」
「壮大なフラグを立てるんだな……」
「お前って少し嫌な奴だよな」
「察しが良いって言ってくれ。まどろっこしいのは好きじゃない」
 
 あれこれ話していると目的の小学校に着いた。赤嶺は校門を通ると真っすぐに体育倉庫へと向かった。

「おい。いるんだろ、まほ」
 
 赤嶺は例の如く低く冷たい声音を出しながら、乱暴に扉を叩く。その姿は少し非情だ。

「おい、ちょっと言い方きつすぎないか」
「甘やかしたら逆効果だ。これくらいが丁度いい」

 赤嶺は痺れを切らしたのか、冷酷な表情で扉を開けた。中には体育座りで小さくなっている火村の姿があった。

「帰るぞ。おばさんも心配してる」
「嘘。それはない。お母さんももう慣れてる」
「拗ねてんじゃねーよ。周りに迷惑かけてんだぞ」

 赤嶺はちらっとこちらに視線を向けながら言う。彼の意見は正論だが、今の光景を見てあまり好印象は抱けない。

「拗ねてない」
「拗ねてんじゃねーか」
「もう終わったから帰る」

 外にいる郁達からは、火村の表情をはっきり窺うことはできない。けれど、視認できるはずの赤嶺は彼女の方を見向きもしない。やがて赤嶺の脇を通り越して、火村が体育倉庫から出てきた。

「勝手にしろ」

 冷たい台詞を吐き捨てるようにして、赤嶺も立ち去っていく。

「意地っ張りってめんどくさいよね」
「ん? なんだそれ」
「神野君には分からないよ」
「そうかよ」

 梨沙が意味深なことをいう時は、郁に何か見落としがあるということだ。彼女なりの助言つもりなのだろう。
 彼らの関係は冷めきっている。到底、今の彼らに応援団を頼める空気ではないようだ。


 ● ● ●


「てな感じで応援団を人に押し付けるのは無理そうです」
「おいおい、酷い言い草だな」

 翌日。郁は珍しく私文の元に足を運んでいた。昼休みになると、彼はよく体育館裏で煙草を吸っているのだ。

「思ったんですが……」
「なんだ?」
「そもそも、いくらできそうにないからって他人に仕事を押し付けるのは無責任じゃないですか。誰かが名乗り出てくれるのを待つしかない」

 郁が不貞腐れながら言うと、私文はふうっ~と一息吐いて神妙な面になった。

「ほんと、面白い奴だなお前」
「は?」
「おいおいそんな怖い顔すんなよ。別にふざけてるわけじゃない」
「じゃあなんなんですか」
「俺はノリで生きてきた人間だからな。お前に上手く伝えられる保証はないな」

 はははっ、と騒がしい笑い方を見せてくる。私文のペースに乗せられて郁のイライラは更に募っていく。

「悪い悪い、お前がえらく不器用な生き方してるからな。ちょっとおかしくて笑っちまった」
「結局、何が言いたいんすか」
「毎回、互いに満足した状況に持っていくなんて無理だな。どっかで妥協は必要だし、できるだけ自分が楽な方が良いに決まってる」
「当たり前じゃないですか」
「その当たり前をお前はできてない。ほんと今時珍しいよな」

 そして、今度は郁を見て噴き出すように笑いやがった。今度、生徒の前での受動喫煙で教育委員会に報告してやろう。

「俺だって……」
「でも他人に迷惑をかけるのは耐えられないんだろ?」
「他人になら。ある程度、近しい関係なら迷惑はかけちゃうでしょ」
「そうだな。でも話を聞いた限りでは、草薙も宍戸も。協力関係であっても迷惑はかけられてない」
「あいつらは身近の人間と言われると微妙なところですが」
「二人が聞いたら悲しむんじゃないか?」
「まさか、ないですよ」

 梨沙はまだしも、翠音は郁本人には対して興味がないはずだ。上手く扱えて、面倒でなければそれでいいというスタンス。

「二人も俺も自分がそうしたいからそうするだけっすよ」
「利用し利用される関係か……まるで大学時代の俺みたいだな」
「どういうことですか」
「何事もスタートが肝心。最初にぼっちにならないように友達代わりに使われたり、真面目な奴のレジュメを見せてもらうために知り合いになっておいたり」
「くそみたいな学生生活ですね」
「こらこら、教師をそんなごみを見るような目で見下すな」

 相談した相手が間違っていたのかもしれない。

「いいか、神野。この世界は今、楽してるやつとしんどい思いしてるやつの二種類の人間で成り立っている。だが、お前の信条を遵守するならこのまま一生後者のままだ」

 うんざりしたので、私文の戯言を無視して踵を返す。引き戸に手をかけて、そこで一端動きを止める。

「ならどうすりゃいいんすか」
「友達を作れ。そうじゃなくても、甘えていい人と知り合いになっとけ」
「無理ゲーすぎんだろ」
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