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第5章 天界も展開
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テーブルの上にホットミルクが並べられ、なんだ、せっかくならコーヒーにしてくれれば良いのに、と僕は思った。コーヒー牛乳という言い方はするが、牛乳コーヒーという言い方はしない。これはカレーライスにも同じことがいえる。順番によってどちらがメインなのか判断できるということだと思うが、重要な方を先に言う理由は分からない。むしろこれは英文法に顕著な傾向で、日本語だとその反対、つまり重要なことをあとに述べる方が多い。英語だと”I did not go to school”と否定を先に言うのに対して、日本語だと「私は学校に行きませんでした」と最後に否定を言うという話である。
などと余計なことを考えていると、隣に座る少女に小さく肩を叩かれた。
「何?」
僕は彼女に対して首を傾ける。
「私、食事をしないんだけど……」
「ああ、そうだね」僕は言った。「まあ、適当に誤魔化せばいいと思うよ。彼、意外と単純だからさ。牛乳は飲めないんですとか、トイレに近くなるからいりませんとか、それくらいの誤魔化し方なら君でも思いつくだろう?」
「まあ、そうか。確かに、そういう方法もあるかも」
「もしかして、全然考えていなかったとか、そういうのじゃないよね?」
「いや、そういうの」彼女は普通に肯定する。「なんかさ、生まれつき頭があまり回らなくて」
「どこか錆びついているんじゃないの?」僕は笑った。「毎日油を差した方がいいね」
「え、どこに?」
「だから、君の頭に」
「シャンプーで洗ったあと、リンスを付けているけど、あれは油なのかな?」
「さあ」僕は言った。「知らないよ」
僕と彼女は並んで椅子に座っている。部屋は比較的整理整頓されていて、僕たちが席に着いているテーブルのほかに目立ったものは何もない。壁はコンクリートが打ちっぱなしになっていて、所々に円形の窪みと細いスリットのようなものが入っていた。照明は天井に一つだけ。白色の明かりで、エネルギー効率はほどほどに良さそうである。もっとも、僕は他人と比べてエネルギー消費が激しい人間なので、僕の言うほどほどが一般的なものと同等である保証はない。
反対に、エネルギー効率が極端に良い存在といえば、まさに今僕の隣に座っている彼女である。彼女は人間ではない。ウッドクロックと呼ばれる人工生命体で、心臓と肺と脳の機能を備えたスペシャル極まりない装置をもとに動いている。機器が分散されていない分エネルギーの消費が抑えられ、人間よりも非常に効率良く動くことができるらしい(その装置にかかる負担もそれほど大きくないため、三つの機能を一つの装置に纏めることによって、逆にエネルギー効率が下がるということはない)。彼女は人間ではないが、外見は限りなく人間に似せて作られている。それなのに、人間と同じように栄養の摂取をしたりすることはない。彼女が食事をしないと言った理由はそこにある。
「君はさ、もう少し融通を利かせた方がいいよね」特に目ぼしい話題がなかったので、僕はたった今思いついたことを口にした。「融通といっても色々な種類があるけど、うん、まあ、なんていうのか、たとえば、口にする前に考える習慣をつける、というのもその内の一つだと思う」
「融通って、何? 運送会社?」
「国語の授業って受けたことあるの?」
「ないけど……。でもさ、日本語ってほかの言語に比べると難しいって、前にどこかで聞いたことがあるよ」
「それはまやかしなんじゃないかな」
「そうなの?」
「さあ、詳しいことは知らないけど……」僕は話す。「言語としては、普通に一般的だと思うよ。あ、今みたいに、普通と一般的では同じ意味だけど、そういうふうに似た意味の言葉を重複させても良いというのも、日本語の特徴だよね」
「どういう意味?」
「人の話を聞いていなかったの?」僕は軽く彼女を睨みつけた。
「いや、聞いていたけど、理解が追いつかなかったような気が……」
僕は小さく溜息を吐く。
目の前にあるカップを持ち上げて、ホットミルクを食道に流し込んだ。
普通に美味しい。
一般的にも美味しかった。
しかし、僕は一般的な人物ではないらしい。非常に困ったことである。
さて……。
僕たちがそんなくだらないやり取りをしていると、ドアが開いて男性が一人部屋に入ってきた。ホットミルクをここまで運んだのも彼である。ドアの向こう側にはキッチンがあって、彼はそこまで茶菓子なるものを取りに行って帰ってきたところだった。
「いやあ、茶菓子なんていっても、やっぱりうちには何もないな」そう言いながら、彼は僕の対面に腰かける。「普段から茶菓子なんて食べないからさ、ちゃちゃちゃのちゃ、という感じで誤魔化そうと思ったんだけど、生憎と淹れたのは茶ではないし、そもそも何も淹れてないから、ちゃちゃっと話して帰ってもらおうと思ってさ」
訳の分からない台詞を吐きながら、彼はテーブルの上に皿に入った何かを置く。僕が身を乗り出して中を見ると、幾つのも金平糖がかなりの密度で犇めき合っているのが分かった。
「君は、僕たちに勉強しろとでも言うつもりかな?」
僕は目の前に座る彼に質問する。
「どういう意味?」
「こんなに沢山飴ばかりあっても、食べるのに困るだけじゃないか」
「まあ、そうかもしれないな」
「君は普段から飴ばかり食べているの?」
「いや、普段はそもそもお菓子は食べないんだ」彼は言った。「だから、その飴も随分と昔のもので、はっきり言って健康によくないと思う」
僕は皿の中に人差し指と親指を入れ、ピンセットで掴むように金平糖を一粒摘み上げる。確かに、表面の所々に黒ずんでいる箇所があって、お世辞にも美味しそうとは言えそうになかった。
結局、僕はその金平糖を食べるのはやめた。
彼はこの施設の管理人を務めている者で、ベソゥという名前である。この建物はかつて図書館として機能していたのを改造したものであり、今は街中のありとあらゆる情報を収拾し、多種多様な事態に対する処理を行う機関として存在している。ちなみに、職員は彼たった一人だけである。ほとんどの作業はコンピューターが遂行してくれるから、人間はそれらの機器の管理を行うだけで良い。その管理を行うのが彼というわけである(したがって、彼は正真正銘の「管理人」である)。
この男性は、先ほどまで血を流して倒れていた。それを僕の隣にいる彼女が助けたのである。
そして、正確にいえば、彼が流していたのは血液ではなかった。
そう……。
彼はウッドクロックである可能性が高い。
「貴方は、ここで何をしているのですか?」
僕が黙っていると、隣に座る少女、もといリィルと呼ばれるウッドクロックが、対面に座る彼に質問した。
「ああ、僕?」ベソゥは答える。「最近は、ただただぐうたらしているだけだったかな」
「ぐうたらって、具体的には、どんなことを?」
「うーん、そうだな……。本を読んだり、音楽を聴いたり、あとは、ゲームをしたり……。ああ、でもね、ときどきコンピューターのメンテナンスをしなくてはならないから、そういうときはきちんと仕事をしているよ」
彼の返答を聞いて、リィルは下を向いて考え込むような素振りをみせる。
彼女が何を考えているのか僕には分からない。そもそも、今の返答から何か考えるようなことがあったのかと疑問に思う。彼女にはどこか抜けている部分があって、特にやらなくても良いことに対して面白いほど興味を示すことが多い。もちろん、その反対もいえる。要するに、やる必要があることに対して面白いほどに興味を示さないのである。
「いや、それにしても、君にこんな素敵な彼女がいるとは知らなかったな」ベソゥが言った。「僕はなかなか外に出られないから、出会いというものがそもそも少ないけど、君の性格からしたら、こんな出会いは奇跡よりも確率が低いんじゃないか」
僕は腕を組んで椅子の背凭れに寄りかかる。
「まあ、否定はしないけど」
「どんな出会いだったの?」
「いや、それほど素晴らしい出会いではなかったけど……」僕は嘘を吐く。「なぜか分からないけど、バス停で雨宿りをしていたら、突然彼女に告白されたんだ」
僕がそんなことを言うと、隣でリィルが顔を上げた。
「え? 違うんじゃない?」
僕は彼女を睨む。
「そうだったじゃないか」
「えっと……。……え?」リィルは首を何度も左右に傾けた。「確か、丘の上にある公園で……」
どうやら、彼女には他人の話に合わせるつもりがないらしい。いや、というよりも、その方法を知らないといった方が正しいだろう。
「まあ、とにかく」僕は強引に話を修正した。「僕と彼女は婚約したんだ。それ以上のことは何もない」
「ま、僕はどうだっていいけど」ベソゥは話す。「一つだけ付け足すなら、君と出会う前に、彼女は僕と出会うべきだった、ということだね」
沈黙。
意味が分からなかったが、彼の話していることの六十二・八パーセントには意味がないので、僕はその言葉に対して特に反応を示さなかった。
さて、こんなことを話している場合ではない。
そう……。
僕は、彼に伝えるべきか、伝えないべきか、それを頭の片隅でずっと考えている。
何を伝えるのかといえば、それは彼自身がウッドクロックであるという事実である。驚くべきことに、彼は自分が人間ではないことに気づいていない。これは本当に驚異的なことである。僕が聞いても驚いたのだから、本人が聞いたら驚いて失神してしまうに違いない。誰だって自分のことはよく知らないけれど、少なくとも自分が人間であるということは知っている。そういった根本的な部分が崩れてしまえば、最悪の場合精神に支障を来すおそれがある。そうした事態は極力避けるべきであるし、他人の精神に干渉する際には細心の注意を払う必要がある。
彼は僕よりも背の低い青年である。詳細な年齢は知らない。顔にまだ幼さを残す愛嬌のある男性で、男性という表現を使うのが憚れるくらい可愛らしい。
そんな彼に、君は人間じゃない、なんて言える人間がいったいどこにいるのだろう?
それは、もしかすると、僕が弱虫なだけなのかもしれない。
きっとそちらの可能性の方が高い。
けれど……。
それでも、今の僕にそれを伝えられる能力がないことに変わりはなかった(そんな言い訳をしているだけだと言われれば、確かにその通りかもしれないけれど……)。
僕は暫くの間沈黙する。その間、リィルもベソゥも特に口を開かなかった。
ベソゥを背負ったとき、リィルの衣服には彼の体液が付着したが、今はその痕跡は跡形もなく消えていた。彼らの体液はそういう性質を持っているらしい。人間の場合、血液が赤色をしていれば視覚的にかなり目立つことになるから、結果として周囲の人間に助けてもらえる可能性が高くなる。それはウッドクロックも同じことであるけれど、その視覚的効果が持続される時間がかなり短く設定されているみたいである。あるいは、生体が一定量の活力を取り戻した場合、自動的に救援反応を収束させるようにできているのかもしれない。そんなことを可能にする技術が本当に存在するのか分からないけれど、リィルのような存在を見る限り、そういったことも不可能ではないように思えてならなかった。
僕は瞳だけを横に動かして、リィルに自分の意思を伝えようと努力する。
ベソゥは下を向いたまま動かない。
リィルは僕の視線に気づき、そのまま僕の顔をじっと見つめてくる。
視線が交差した。
数秒間。
リィルは、なぜだか分からないけれど、僕に向かってウインクをしてくる。
僕は呆気にとられて心臓が止まりそうになった。
その仕草の意味が分からなかったからではない。
ウインクをした彼女の表情が、あまりにも魅力的だったからである。
「ねえ、ベソゥ」
僕は閉ざしていた口をゆっくりと開く。今しがた見たリィルの反応を考慮して、彼女に僕の意思が伝わったものと判断した。
「うん、なんだい?」
僕の言動に呼応するように、ベソゥもゆっくりと顔を上げる。
「君が管理しているシステムについて、少し詳しく教えてもらえないかな?」
「少し教えてほしいのか、詳しく教えてほしいのか、どちらなのかな?」彼は笑った。
「説明は詳しい方が望ましい。ただし、君がその説明に割くエネルギーについては、どちらかといえば、少しの方が望ましいと思う」
「なるほど」
そう言って、ベソゥは腕と脚を同時に組んだ。
「君も聞きたいだろう?」僕はリィルに尋ねる。
「え?」彼女は僕の顔を見て、数回静かに瞬きした。「うん、まあ……。情報としては、ないよりはあった方がいいと思うけど」
「何かな、その言い方は」
「だって、難しい話は、聞きたくないから……」
「難しいってどういうこと?」
「理解するのにかなりの量のエネルギーを必要とする、ということなんじゃない?」
「それは違うと思う」
「なんで?」
僕が答えようとする前に、対面に座るベソゥが言葉を発した。
「それは、簡単でも、エネルギーを多く消費するものがあるからだよ」ベソゥは話す。「というよりも、むしろ簡単なものの方が理解するのが大変なんだ」
「うーん、そうなの?」リィルは僕とベソゥの顔を交互に見る。
僕は黙って頷き、ベソゥは軽く口元を持ち上げた。
「まあ、いいよ。じゃあ、話そうじゃないか、僕の天職について、長々と」ベソゥは笑みを深める。
「無駄に長くする必要はない」
僕がそう言うと、ベソゥは片手を上げてそれをひらひらと振った。これは「分かっている」という意味のジェスチャーである(と、僕は思っている)。
「僕がここにいるのは、この施設にあるコンピューターを管理するためだ」やがて、ベソゥは説明を始めた。「ここには様々なコンピューターがあるけど、実は本当に重要な装置は一つしかない。それが、ブルースカイと呼ばれる演算処理装置だ」
テーブルに置いてあるホットミルクを手に取って、僕はそれを一口飲んだ。
彼の説明は続く。
「ブルースカイという名前には、この街を取り囲む環境に由来がある。……街の周囲には、北に海があり、南に山がある。こんなふうに、この街はこれらの要素によって一種の制限を受けているんだ。制限という言い方が気に入らないのなら、規定と言ってもいい。とにかく、その二つの要素で街は完全に隔離されている。そして、その隔離をより強固にするためのもの、それが、最後に残された、空なんだ」
「あのさ、その話は、誰から聞いたの?」あまり好ましくないタイミングだったけれど、僕は彼に質問した。
「それは、まだ内緒」ベソゥは話す。「後々教えるから、もう少し待ってくれないかな」
僕は大人しく引き下がった。
「さて、そうなると、このブルースカイは何のためにあるのか、そして、何をしているのか、という話になってくる。それが、この施設が存在する意味なんだ。この建物はかつて図書館として機能していたけど、今は完全にその機能を失っている。そして、設備が改装されて、ブルースカイを稼働させるための専門施設に変化した」彼は話す。「ブルースカイは、この街で起こるありとあらゆる事象を把握している。それらの事象を解析し、問題が起こればその一つ一つに対処する。対処するというのは、合理的な結論を導き出すという意味だ。たとえば、当事者同士で解決できない問題が起これば、最も合理的な解決策を導出して、それを仲介業者に提供したりするし、ほかにも、ある人間にあまりにも富が集中するようなことがあれば、なんとかしてそのバランスを平定しようとする。まあ、後者のようなケースはかなり稀だけどね。……要するに、この街の根幹を担う装置、それが、僕が管理しているこのブルースカイシステムなんだ」
ベソゥの話を聞いて、僕は自分の考えを整理した。
彼とは昔からの知り合いであるから、僕もこの施設に関するある程度のことは知っている。彼が管理している装置がブルースカイと呼ばれていることも知っていたし、様々な事象に対して合理的な処理を行うというような、ブルースカイの存在意義についてもなんとなく理解していた。
しかし、それでも、僕が知らなかったことが一つある。
それは、さっき僕が彼に質問したこと。
つまり、海と、山と、空によって、この街が規定されている、ということである。
「君の仕事は、ブルースカイの……、いうなれば、手入れをすることなんだよね?」顔を上げて、僕はベソゥに尋ねた。「メンテナンスというか、故障しないように定期的に埃を払うというか……」
「ま、実際に埃を払ったりするわけじゃないけど」ベソゥは笑いながら話す。「でも、うん、大体はその通りだと思うよ。はっきり言って、けっこう楽な作業だと思う。仕事をしている感覚はないと言っても間違いじゃないね。まあ、僕はあまり活動的な方じゃないから、それくらいでちょうどいいとも思っているんだけど」
活動的でないというのは、彼が抱える奇妙な性質について述べているのだろう。
どういうわけか分からないが、彼は建物の外に出るとその場で眠ってしまうことがある。彼が言うにはそれは病気ではないらしい。
でも……。
僕は、そこにある種の可能性を感じ始めていた。
それは、すなわち、彼のそれは眠っているのではなく、もっと短絡的に、本当は……、フリーズしているのではないか、という可能性だった。
そう……。まだ完全に信じているわけではないけれど、彼はリィルと同じウッドクロックなのである。先ほどまで怪我をしていたのにも関わらず、彼の損傷はすでに治まっているし、そもそも、どうして怪我をするようなことになったのか、彼がその経緯を覚えているような様子は見られない。もし思い当たる節があるのなら、目覚めて真っ先に僕たちにそれを伝えるだろうし、そうしないことを考えると、おそらく、彼には先ほどまで自分が重症を負っていたという記憶が存在しないのだろう。
それは……。
なんていうのか、とても不思議なことだ、と僕は思う。
一種の自己防衛機能ともいえるかもしれない。
そういう点では、確かに人間と酷似している。
それでも、やはり、システムとしてかなり高尚だし、正確性に長けている、と思えてならない。
言ってしまえば、そこに何らかのプログラムが存在しているように感じるのである。
「なるほどね」
僕が一人で考え事をしていると、その隣でリィルが力強く頷いた。
「なんとなく分かった気がする。貴方の役割も、この施設の存在意義も」
「だろう?」ベソゥは得意そうに顎を上げた。「昔から感じているんだけど、僕はなかなか説明が上手いんだ」
「あ、そうなの?」
「そう感じなかったかい?」
「うん、まあ……」リィルは曖昧に頷く。「でも、その……、その役割を担っているのが、貴方だっていう理由がまだちょっと理解できないんだけど……」
それは僕も同感だった。僕と彼はそれなりに親しい間柄だけれど、その点について僕が彼に直接訊いたことはない。なぜかというと、それが僕のポリシーというものだからである。別にそこまで拘っているわけではないけれど、僕の思考回路の根底には必ずそのポリシーが居座っているから、結局はどうしても行動が消極的になってしまう。
でも、今なら尋ねてもそれほど差し障りはないだろうと思って、リィルに便乗して僕も彼にそれとなく視線を向けてみた。
「うん、まあ、そうだね」僕たちの問いを受けて、ベソゥは確かにといった顔で頷く。「もちろん、それについても説明しようと思っているよ」
そう言って、彼は椅子から立ち上がる。立ち上がると余計に彼の背の低さが目立つようになった。
彼は、そのまま辺りをぶらぶら歩き始める。
ステップを踏むように。
ボタンを押すように。
コンクリートの地面をゆっくりと闊歩していく。
「僕が今この施設の管理人を務めているのは、そうするように指示されたからだ」やがて、彼は部屋の片隅で立ち止まり、人差し指を立てて、僕たちに説明を始めた。「そうするように指示を出したのは、トラブルメーカーと呼ばれる企業だった」
「トラブルメーカー?」僕は訊き返す。
「そう……。そこの幹部から依頼を受けて、承諾した。確か、あれは十三年前のことだったと思う」
僕は、そのとき、自分の鼓動が速くなるのを体感した。
それは、もちろん、十三年前、という単語に引っかかるものを感じたからである。
十三年前といえば、僕とリィルが初めて出会ったのと同じタイミングだ。
「……君は、どうしてその依頼を引き受けたの?」
僕の質問を受けて、ベソゥはゆっくりとこちらを振り返る。その表情はいたっていつも通りだったけれど、もしかすると、僕の顔の方が引き釣っていたかもしれない。
「この施設の管理人を担っている限り、僕の生活を保証する、という条件を持ち出されたからだよ」彼は言った。「僕は外に出られないから、その条件は僕にとってプラスになる。ただし、その代わりに、なぜ僕がその役割に選ばれたのか、それについては一切情報を開示しない、という条件も付け加えられた」
「そのとき、君はいくつだった?」僕は彼に尋ねる。
「五歳だったよ」ベソゥは答えた。「僕は、五歳のときにそれを引き受けたんだ」
僕の隣でリィルが息を呑むのが分かる。いくら凡才な彼女でも、ここまで来ればさすがに事態の異常さに気がついたのだろう。
僕は暫くの間沈黙して考える。
僕とベソゥは昔からの知り合いであるけれど、少なくとも、五歳を迎えたあとにお互いを認知し合ったことは確かである。さらにいえば、仕事をしていてもおかしくない年齢になってから知り合ったことも確実であるし、だからこそ彼がどのような経緯でこの仕事に就いたのか、その点について僕が今まで疑問を抱くことはなかった。
いったいどういうことだろう?
十三年という数字が偶然である可能性はある。けれど、僕には到底偶然だとは思えない。
それは、どうしてだろう?
どうして、それが偶然ではないと感じるのか?
「私は、そのときは、まだ、生まれてなかったかな」
僕が黙っていると、リィルが唐突にそんなことを呟いた。
僕は彼女を見る。
「でも……。貴方は、どうして、五歳なのに、そんなことができたの?」
リィルの質問を受けても、ベソゥは特に動揺したりしない。それくらいの質問は想定していたというように、いつも通りの調子で答える。
「うん……。僕はね、なぜだか分からないけど、うーん、なんて言ったらいいのかな……。まあ、要するに、早熟だったんだよ」彼は説明する。「ああ、でも、これは、もちろん、天才だったとか、頭が良かったとか、そういうことじゃない。その証拠に、今では全然身長も伸びないし、それほど頭が切れるわけでもないしね……。うーん、そうだな……。早くに成長して、そのまま若さを維持して歳をとらない、とでも言えばいいのかな」
僕は震えて何も言えなくなる。
……。
落ち着くために一度小さく溜息を吐いて、僕は最後にずっと気になっていたことを質問した。
「ベソゥ、君は、どうして、ブルースカイの役割について知っているのかな?」
僕の質問を受けて、ベソゥはある程度真剣な表情で回答する。
「それは、もちろん、トラブルメーカーからすべて説明されたからだよ」
「いや、そうじゃない。彼らがそんなことをする必要はないはずだ。君には管理だけを任せておいて、詳細な情報は伝えない方がいい。それなのに、どうして、彼らはそんなことをしたんだろう?」
僕も、リィルも、ベソゥも、黙り込む。
コンクリートの灰色。
ホットミルクの白。
ベソゥが呟いた言葉が、それらの無色に溶けて消えていった。
「確かに、空まで使う必要はなかったかもしれないな」
などと余計なことを考えていると、隣に座る少女に小さく肩を叩かれた。
「何?」
僕は彼女に対して首を傾ける。
「私、食事をしないんだけど……」
「ああ、そうだね」僕は言った。「まあ、適当に誤魔化せばいいと思うよ。彼、意外と単純だからさ。牛乳は飲めないんですとか、トイレに近くなるからいりませんとか、それくらいの誤魔化し方なら君でも思いつくだろう?」
「まあ、そうか。確かに、そういう方法もあるかも」
「もしかして、全然考えていなかったとか、そういうのじゃないよね?」
「いや、そういうの」彼女は普通に肯定する。「なんかさ、生まれつき頭があまり回らなくて」
「どこか錆びついているんじゃないの?」僕は笑った。「毎日油を差した方がいいね」
「え、どこに?」
「だから、君の頭に」
「シャンプーで洗ったあと、リンスを付けているけど、あれは油なのかな?」
「さあ」僕は言った。「知らないよ」
僕と彼女は並んで椅子に座っている。部屋は比較的整理整頓されていて、僕たちが席に着いているテーブルのほかに目立ったものは何もない。壁はコンクリートが打ちっぱなしになっていて、所々に円形の窪みと細いスリットのようなものが入っていた。照明は天井に一つだけ。白色の明かりで、エネルギー効率はほどほどに良さそうである。もっとも、僕は他人と比べてエネルギー消費が激しい人間なので、僕の言うほどほどが一般的なものと同等である保証はない。
反対に、エネルギー効率が極端に良い存在といえば、まさに今僕の隣に座っている彼女である。彼女は人間ではない。ウッドクロックと呼ばれる人工生命体で、心臓と肺と脳の機能を備えたスペシャル極まりない装置をもとに動いている。機器が分散されていない分エネルギーの消費が抑えられ、人間よりも非常に効率良く動くことができるらしい(その装置にかかる負担もそれほど大きくないため、三つの機能を一つの装置に纏めることによって、逆にエネルギー効率が下がるということはない)。彼女は人間ではないが、外見は限りなく人間に似せて作られている。それなのに、人間と同じように栄養の摂取をしたりすることはない。彼女が食事をしないと言った理由はそこにある。
「君はさ、もう少し融通を利かせた方がいいよね」特に目ぼしい話題がなかったので、僕はたった今思いついたことを口にした。「融通といっても色々な種類があるけど、うん、まあ、なんていうのか、たとえば、口にする前に考える習慣をつける、というのもその内の一つだと思う」
「融通って、何? 運送会社?」
「国語の授業って受けたことあるの?」
「ないけど……。でもさ、日本語ってほかの言語に比べると難しいって、前にどこかで聞いたことがあるよ」
「それはまやかしなんじゃないかな」
「そうなの?」
「さあ、詳しいことは知らないけど……」僕は話す。「言語としては、普通に一般的だと思うよ。あ、今みたいに、普通と一般的では同じ意味だけど、そういうふうに似た意味の言葉を重複させても良いというのも、日本語の特徴だよね」
「どういう意味?」
「人の話を聞いていなかったの?」僕は軽く彼女を睨みつけた。
「いや、聞いていたけど、理解が追いつかなかったような気が……」
僕は小さく溜息を吐く。
目の前にあるカップを持ち上げて、ホットミルクを食道に流し込んだ。
普通に美味しい。
一般的にも美味しかった。
しかし、僕は一般的な人物ではないらしい。非常に困ったことである。
さて……。
僕たちがそんなくだらないやり取りをしていると、ドアが開いて男性が一人部屋に入ってきた。ホットミルクをここまで運んだのも彼である。ドアの向こう側にはキッチンがあって、彼はそこまで茶菓子なるものを取りに行って帰ってきたところだった。
「いやあ、茶菓子なんていっても、やっぱりうちには何もないな」そう言いながら、彼は僕の対面に腰かける。「普段から茶菓子なんて食べないからさ、ちゃちゃちゃのちゃ、という感じで誤魔化そうと思ったんだけど、生憎と淹れたのは茶ではないし、そもそも何も淹れてないから、ちゃちゃっと話して帰ってもらおうと思ってさ」
訳の分からない台詞を吐きながら、彼はテーブルの上に皿に入った何かを置く。僕が身を乗り出して中を見ると、幾つのも金平糖がかなりの密度で犇めき合っているのが分かった。
「君は、僕たちに勉強しろとでも言うつもりかな?」
僕は目の前に座る彼に質問する。
「どういう意味?」
「こんなに沢山飴ばかりあっても、食べるのに困るだけじゃないか」
「まあ、そうかもしれないな」
「君は普段から飴ばかり食べているの?」
「いや、普段はそもそもお菓子は食べないんだ」彼は言った。「だから、その飴も随分と昔のもので、はっきり言って健康によくないと思う」
僕は皿の中に人差し指と親指を入れ、ピンセットで掴むように金平糖を一粒摘み上げる。確かに、表面の所々に黒ずんでいる箇所があって、お世辞にも美味しそうとは言えそうになかった。
結局、僕はその金平糖を食べるのはやめた。
彼はこの施設の管理人を務めている者で、ベソゥという名前である。この建物はかつて図書館として機能していたのを改造したものであり、今は街中のありとあらゆる情報を収拾し、多種多様な事態に対する処理を行う機関として存在している。ちなみに、職員は彼たった一人だけである。ほとんどの作業はコンピューターが遂行してくれるから、人間はそれらの機器の管理を行うだけで良い。その管理を行うのが彼というわけである(したがって、彼は正真正銘の「管理人」である)。
この男性は、先ほどまで血を流して倒れていた。それを僕の隣にいる彼女が助けたのである。
そして、正確にいえば、彼が流していたのは血液ではなかった。
そう……。
彼はウッドクロックである可能性が高い。
「貴方は、ここで何をしているのですか?」
僕が黙っていると、隣に座る少女、もといリィルと呼ばれるウッドクロックが、対面に座る彼に質問した。
「ああ、僕?」ベソゥは答える。「最近は、ただただぐうたらしているだけだったかな」
「ぐうたらって、具体的には、どんなことを?」
「うーん、そうだな……。本を読んだり、音楽を聴いたり、あとは、ゲームをしたり……。ああ、でもね、ときどきコンピューターのメンテナンスをしなくてはならないから、そういうときはきちんと仕事をしているよ」
彼の返答を聞いて、リィルは下を向いて考え込むような素振りをみせる。
彼女が何を考えているのか僕には分からない。そもそも、今の返答から何か考えるようなことがあったのかと疑問に思う。彼女にはどこか抜けている部分があって、特にやらなくても良いことに対して面白いほど興味を示すことが多い。もちろん、その反対もいえる。要するに、やる必要があることに対して面白いほどに興味を示さないのである。
「いや、それにしても、君にこんな素敵な彼女がいるとは知らなかったな」ベソゥが言った。「僕はなかなか外に出られないから、出会いというものがそもそも少ないけど、君の性格からしたら、こんな出会いは奇跡よりも確率が低いんじゃないか」
僕は腕を組んで椅子の背凭れに寄りかかる。
「まあ、否定はしないけど」
「どんな出会いだったの?」
「いや、それほど素晴らしい出会いではなかったけど……」僕は嘘を吐く。「なぜか分からないけど、バス停で雨宿りをしていたら、突然彼女に告白されたんだ」
僕がそんなことを言うと、隣でリィルが顔を上げた。
「え? 違うんじゃない?」
僕は彼女を睨む。
「そうだったじゃないか」
「えっと……。……え?」リィルは首を何度も左右に傾けた。「確か、丘の上にある公園で……」
どうやら、彼女には他人の話に合わせるつもりがないらしい。いや、というよりも、その方法を知らないといった方が正しいだろう。
「まあ、とにかく」僕は強引に話を修正した。「僕と彼女は婚約したんだ。それ以上のことは何もない」
「ま、僕はどうだっていいけど」ベソゥは話す。「一つだけ付け足すなら、君と出会う前に、彼女は僕と出会うべきだった、ということだね」
沈黙。
意味が分からなかったが、彼の話していることの六十二・八パーセントには意味がないので、僕はその言葉に対して特に反応を示さなかった。
さて、こんなことを話している場合ではない。
そう……。
僕は、彼に伝えるべきか、伝えないべきか、それを頭の片隅でずっと考えている。
何を伝えるのかといえば、それは彼自身がウッドクロックであるという事実である。驚くべきことに、彼は自分が人間ではないことに気づいていない。これは本当に驚異的なことである。僕が聞いても驚いたのだから、本人が聞いたら驚いて失神してしまうに違いない。誰だって自分のことはよく知らないけれど、少なくとも自分が人間であるということは知っている。そういった根本的な部分が崩れてしまえば、最悪の場合精神に支障を来すおそれがある。そうした事態は極力避けるべきであるし、他人の精神に干渉する際には細心の注意を払う必要がある。
彼は僕よりも背の低い青年である。詳細な年齢は知らない。顔にまだ幼さを残す愛嬌のある男性で、男性という表現を使うのが憚れるくらい可愛らしい。
そんな彼に、君は人間じゃない、なんて言える人間がいったいどこにいるのだろう?
それは、もしかすると、僕が弱虫なだけなのかもしれない。
きっとそちらの可能性の方が高い。
けれど……。
それでも、今の僕にそれを伝えられる能力がないことに変わりはなかった(そんな言い訳をしているだけだと言われれば、確かにその通りかもしれないけれど……)。
僕は暫くの間沈黙する。その間、リィルもベソゥも特に口を開かなかった。
ベソゥを背負ったとき、リィルの衣服には彼の体液が付着したが、今はその痕跡は跡形もなく消えていた。彼らの体液はそういう性質を持っているらしい。人間の場合、血液が赤色をしていれば視覚的にかなり目立つことになるから、結果として周囲の人間に助けてもらえる可能性が高くなる。それはウッドクロックも同じことであるけれど、その視覚的効果が持続される時間がかなり短く設定されているみたいである。あるいは、生体が一定量の活力を取り戻した場合、自動的に救援反応を収束させるようにできているのかもしれない。そんなことを可能にする技術が本当に存在するのか分からないけれど、リィルのような存在を見る限り、そういったことも不可能ではないように思えてならなかった。
僕は瞳だけを横に動かして、リィルに自分の意思を伝えようと努力する。
ベソゥは下を向いたまま動かない。
リィルは僕の視線に気づき、そのまま僕の顔をじっと見つめてくる。
視線が交差した。
数秒間。
リィルは、なぜだか分からないけれど、僕に向かってウインクをしてくる。
僕は呆気にとられて心臓が止まりそうになった。
その仕草の意味が分からなかったからではない。
ウインクをした彼女の表情が、あまりにも魅力的だったからである。
「ねえ、ベソゥ」
僕は閉ざしていた口をゆっくりと開く。今しがた見たリィルの反応を考慮して、彼女に僕の意思が伝わったものと判断した。
「うん、なんだい?」
僕の言動に呼応するように、ベソゥもゆっくりと顔を上げる。
「君が管理しているシステムについて、少し詳しく教えてもらえないかな?」
「少し教えてほしいのか、詳しく教えてほしいのか、どちらなのかな?」彼は笑った。
「説明は詳しい方が望ましい。ただし、君がその説明に割くエネルギーについては、どちらかといえば、少しの方が望ましいと思う」
「なるほど」
そう言って、ベソゥは腕と脚を同時に組んだ。
「君も聞きたいだろう?」僕はリィルに尋ねる。
「え?」彼女は僕の顔を見て、数回静かに瞬きした。「うん、まあ……。情報としては、ないよりはあった方がいいと思うけど」
「何かな、その言い方は」
「だって、難しい話は、聞きたくないから……」
「難しいってどういうこと?」
「理解するのにかなりの量のエネルギーを必要とする、ということなんじゃない?」
「それは違うと思う」
「なんで?」
僕が答えようとする前に、対面に座るベソゥが言葉を発した。
「それは、簡単でも、エネルギーを多く消費するものがあるからだよ」ベソゥは話す。「というよりも、むしろ簡単なものの方が理解するのが大変なんだ」
「うーん、そうなの?」リィルは僕とベソゥの顔を交互に見る。
僕は黙って頷き、ベソゥは軽く口元を持ち上げた。
「まあ、いいよ。じゃあ、話そうじゃないか、僕の天職について、長々と」ベソゥは笑みを深める。
「無駄に長くする必要はない」
僕がそう言うと、ベソゥは片手を上げてそれをひらひらと振った。これは「分かっている」という意味のジェスチャーである(と、僕は思っている)。
「僕がここにいるのは、この施設にあるコンピューターを管理するためだ」やがて、ベソゥは説明を始めた。「ここには様々なコンピューターがあるけど、実は本当に重要な装置は一つしかない。それが、ブルースカイと呼ばれる演算処理装置だ」
テーブルに置いてあるホットミルクを手に取って、僕はそれを一口飲んだ。
彼の説明は続く。
「ブルースカイという名前には、この街を取り囲む環境に由来がある。……街の周囲には、北に海があり、南に山がある。こんなふうに、この街はこれらの要素によって一種の制限を受けているんだ。制限という言い方が気に入らないのなら、規定と言ってもいい。とにかく、その二つの要素で街は完全に隔離されている。そして、その隔離をより強固にするためのもの、それが、最後に残された、空なんだ」
「あのさ、その話は、誰から聞いたの?」あまり好ましくないタイミングだったけれど、僕は彼に質問した。
「それは、まだ内緒」ベソゥは話す。「後々教えるから、もう少し待ってくれないかな」
僕は大人しく引き下がった。
「さて、そうなると、このブルースカイは何のためにあるのか、そして、何をしているのか、という話になってくる。それが、この施設が存在する意味なんだ。この建物はかつて図書館として機能していたけど、今は完全にその機能を失っている。そして、設備が改装されて、ブルースカイを稼働させるための専門施設に変化した」彼は話す。「ブルースカイは、この街で起こるありとあらゆる事象を把握している。それらの事象を解析し、問題が起こればその一つ一つに対処する。対処するというのは、合理的な結論を導き出すという意味だ。たとえば、当事者同士で解決できない問題が起これば、最も合理的な解決策を導出して、それを仲介業者に提供したりするし、ほかにも、ある人間にあまりにも富が集中するようなことがあれば、なんとかしてそのバランスを平定しようとする。まあ、後者のようなケースはかなり稀だけどね。……要するに、この街の根幹を担う装置、それが、僕が管理しているこのブルースカイシステムなんだ」
ベソゥの話を聞いて、僕は自分の考えを整理した。
彼とは昔からの知り合いであるから、僕もこの施設に関するある程度のことは知っている。彼が管理している装置がブルースカイと呼ばれていることも知っていたし、様々な事象に対して合理的な処理を行うというような、ブルースカイの存在意義についてもなんとなく理解していた。
しかし、それでも、僕が知らなかったことが一つある。
それは、さっき僕が彼に質問したこと。
つまり、海と、山と、空によって、この街が規定されている、ということである。
「君の仕事は、ブルースカイの……、いうなれば、手入れをすることなんだよね?」顔を上げて、僕はベソゥに尋ねた。「メンテナンスというか、故障しないように定期的に埃を払うというか……」
「ま、実際に埃を払ったりするわけじゃないけど」ベソゥは笑いながら話す。「でも、うん、大体はその通りだと思うよ。はっきり言って、けっこう楽な作業だと思う。仕事をしている感覚はないと言っても間違いじゃないね。まあ、僕はあまり活動的な方じゃないから、それくらいでちょうどいいとも思っているんだけど」
活動的でないというのは、彼が抱える奇妙な性質について述べているのだろう。
どういうわけか分からないが、彼は建物の外に出るとその場で眠ってしまうことがある。彼が言うにはそれは病気ではないらしい。
でも……。
僕は、そこにある種の可能性を感じ始めていた。
それは、すなわち、彼のそれは眠っているのではなく、もっと短絡的に、本当は……、フリーズしているのではないか、という可能性だった。
そう……。まだ完全に信じているわけではないけれど、彼はリィルと同じウッドクロックなのである。先ほどまで怪我をしていたのにも関わらず、彼の損傷はすでに治まっているし、そもそも、どうして怪我をするようなことになったのか、彼がその経緯を覚えているような様子は見られない。もし思い当たる節があるのなら、目覚めて真っ先に僕たちにそれを伝えるだろうし、そうしないことを考えると、おそらく、彼には先ほどまで自分が重症を負っていたという記憶が存在しないのだろう。
それは……。
なんていうのか、とても不思議なことだ、と僕は思う。
一種の自己防衛機能ともいえるかもしれない。
そういう点では、確かに人間と酷似している。
それでも、やはり、システムとしてかなり高尚だし、正確性に長けている、と思えてならない。
言ってしまえば、そこに何らかのプログラムが存在しているように感じるのである。
「なるほどね」
僕が一人で考え事をしていると、その隣でリィルが力強く頷いた。
「なんとなく分かった気がする。貴方の役割も、この施設の存在意義も」
「だろう?」ベソゥは得意そうに顎を上げた。「昔から感じているんだけど、僕はなかなか説明が上手いんだ」
「あ、そうなの?」
「そう感じなかったかい?」
「うん、まあ……」リィルは曖昧に頷く。「でも、その……、その役割を担っているのが、貴方だっていう理由がまだちょっと理解できないんだけど……」
それは僕も同感だった。僕と彼はそれなりに親しい間柄だけれど、その点について僕が彼に直接訊いたことはない。なぜかというと、それが僕のポリシーというものだからである。別にそこまで拘っているわけではないけれど、僕の思考回路の根底には必ずそのポリシーが居座っているから、結局はどうしても行動が消極的になってしまう。
でも、今なら尋ねてもそれほど差し障りはないだろうと思って、リィルに便乗して僕も彼にそれとなく視線を向けてみた。
「うん、まあ、そうだね」僕たちの問いを受けて、ベソゥは確かにといった顔で頷く。「もちろん、それについても説明しようと思っているよ」
そう言って、彼は椅子から立ち上がる。立ち上がると余計に彼の背の低さが目立つようになった。
彼は、そのまま辺りをぶらぶら歩き始める。
ステップを踏むように。
ボタンを押すように。
コンクリートの地面をゆっくりと闊歩していく。
「僕が今この施設の管理人を務めているのは、そうするように指示されたからだ」やがて、彼は部屋の片隅で立ち止まり、人差し指を立てて、僕たちに説明を始めた。「そうするように指示を出したのは、トラブルメーカーと呼ばれる企業だった」
「トラブルメーカー?」僕は訊き返す。
「そう……。そこの幹部から依頼を受けて、承諾した。確か、あれは十三年前のことだったと思う」
僕は、そのとき、自分の鼓動が速くなるのを体感した。
それは、もちろん、十三年前、という単語に引っかかるものを感じたからである。
十三年前といえば、僕とリィルが初めて出会ったのと同じタイミングだ。
「……君は、どうしてその依頼を引き受けたの?」
僕の質問を受けて、ベソゥはゆっくりとこちらを振り返る。その表情はいたっていつも通りだったけれど、もしかすると、僕の顔の方が引き釣っていたかもしれない。
「この施設の管理人を担っている限り、僕の生活を保証する、という条件を持ち出されたからだよ」彼は言った。「僕は外に出られないから、その条件は僕にとってプラスになる。ただし、その代わりに、なぜ僕がその役割に選ばれたのか、それについては一切情報を開示しない、という条件も付け加えられた」
「そのとき、君はいくつだった?」僕は彼に尋ねる。
「五歳だったよ」ベソゥは答えた。「僕は、五歳のときにそれを引き受けたんだ」
僕の隣でリィルが息を呑むのが分かる。いくら凡才な彼女でも、ここまで来ればさすがに事態の異常さに気がついたのだろう。
僕は暫くの間沈黙して考える。
僕とベソゥは昔からの知り合いであるけれど、少なくとも、五歳を迎えたあとにお互いを認知し合ったことは確かである。さらにいえば、仕事をしていてもおかしくない年齢になってから知り合ったことも確実であるし、だからこそ彼がどのような経緯でこの仕事に就いたのか、その点について僕が今まで疑問を抱くことはなかった。
いったいどういうことだろう?
十三年という数字が偶然である可能性はある。けれど、僕には到底偶然だとは思えない。
それは、どうしてだろう?
どうして、それが偶然ではないと感じるのか?
「私は、そのときは、まだ、生まれてなかったかな」
僕が黙っていると、リィルが唐突にそんなことを呟いた。
僕は彼女を見る。
「でも……。貴方は、どうして、五歳なのに、そんなことができたの?」
リィルの質問を受けても、ベソゥは特に動揺したりしない。それくらいの質問は想定していたというように、いつも通りの調子で答える。
「うん……。僕はね、なぜだか分からないけど、うーん、なんて言ったらいいのかな……。まあ、要するに、早熟だったんだよ」彼は説明する。「ああ、でも、これは、もちろん、天才だったとか、頭が良かったとか、そういうことじゃない。その証拠に、今では全然身長も伸びないし、それほど頭が切れるわけでもないしね……。うーん、そうだな……。早くに成長して、そのまま若さを維持して歳をとらない、とでも言えばいいのかな」
僕は震えて何も言えなくなる。
……。
落ち着くために一度小さく溜息を吐いて、僕は最後にずっと気になっていたことを質問した。
「ベソゥ、君は、どうして、ブルースカイの役割について知っているのかな?」
僕の質問を受けて、ベソゥはある程度真剣な表情で回答する。
「それは、もちろん、トラブルメーカーからすべて説明されたからだよ」
「いや、そうじゃない。彼らがそんなことをする必要はないはずだ。君には管理だけを任せておいて、詳細な情報は伝えない方がいい。それなのに、どうして、彼らはそんなことをしたんだろう?」
僕も、リィルも、ベソゥも、黙り込む。
コンクリートの灰色。
ホットミルクの白。
ベソゥが呟いた言葉が、それらの無色に溶けて消えていった。
「確かに、空まで使う必要はなかったかもしれないな」
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