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第7章 総体か相対
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リィルと生活し始めてから三ヶ月が経った。当然ながら、この間に僕とリィルは段々と新しい生活スタイルに慣れていったし、家での役割分担も自然と決まっていった。僕は文章を書くごく簡単な仕事をしているだけなので、基本的にリィルを置いて家を留守にすることはない。だから、洗濯物をしたり、食事を作ったり、ということは、僕とリィルで分担して行うことになった。女性が家事全般を担当するというのはもはや古い習わしで、そんな慣習に従う意味もなければ、反対に、男性が必ず金銭を稼がなくてはならないわけでもない。多種多様な規定が存在する現代だけれど、それらのほとんどは全然合理的ではないし、そうするだけの根拠と理由に欠けている。だから、少しでもそれがおかしいと感じるのであれば、個人的に新たな規定を設けてしまえば良い。僕がリィルのようなウッドクロックと生活しているのも、一般的ではないといえば一般的ではない。そもそも、彼女以外のウッドクロックは今のところ存在しないことになっているし、そんなスペシャルな彼女と一緒に生活している僕も、世間から見れば、スペシャルな人間として判断されるのかもしれなかった。
今のところ、と断ったのには理由がある。
それは、僕の友人であるベソゥが、ウッドクロックである可能性が高いからだ。
そのベソゥが務める施設に関することだが、つい先日、彼の管理するブルースカイシステムがとある事件の解決に貢献した、といった内容のニュースを耳にした。もちろん、彼の名前とか、ブルースカイとか、そういった具体的な内容が公開されたわけではない。事件の内容も比較的平和なもので、しかも、その報道というのは、この街の中で起きたことを取り扱うごく小規模なものだったから、そんなに素晴らしい活躍をしたとはお世辞にもいえない。けれど、僕には、それでも、なんとなく、彼がその事件に関わっていることが分かった。雰囲気というか、彼にしか解決できないような、そんな感じがニュースからひしひしと伝わってきたのである。ベソゥ本人に確認をとったわけではないけれど、おそらく、僕の考えている通りで間違いないだろう。
そして、今日。
いつも通りの時刻に目を覚ました僕は、リィルを連れて、近所の森林公園まで散歩に来ていた。
まだ早朝といっても良い時間帯だから、辺りには僕たち以外に人の姿は見られない。見渡す限り草原と森林が広がっているだけで、とても開放感のある公園である。都市部の一角に、しかも僕の家からほど近い場所に、こんな素敵な場所があることを知っていたから、前々からリィルと一緒に来てみたいな、と思っていた。その願いがやっと実現したのだ。別に、願いとか、祈りとか、そんな大層なものではないけれど、こんなふうに何か一つでも目標を達成すると、それなりに清々しく感じる。しかし、来たいと思いながらもなかなか足を運ばなかったのは、それほど心の底から望んでいたのではなかったからかもしれない、といった悲観的な推測が僕の中に少しの間存在していた。
でも、それは、本当に少しの間だったから、僕はその推測を無視して、リィルとの散歩を楽しんだ。
「風が、少し寒い」土が剥き出しになった小道を歩きながら、僕は言った。リィルは僕の左隣に並んで歩いている。「コートを着てくればよかったかな」
「うん、たしかに、もうすぐ春というのには、気温が低い、と感じる」
「君は、今、楽しい?」
「楽しいよ、それなりに」
「それなり、というのは?」
「家の中で散歩をするよりは、外で散歩をした方が楽しいね、ということだよ」
「家で散歩をしているの?」
「いや、してないけど」
「じゃあ、意味が分からない比較だなあ」僕は笑った。「君さ、ときどき、そういう訳の分からないことを言うけど、それが、また、いい持ち味になっていると思うよ」
「うん、それは、自分でもそう思った」
「なんだ、今日は随分と積極的じゃないか」
「そう?」リィルは首を傾げる。
「そうだよ。でも、そういう方がいいよ。君は、なんていうのか……、ちょっと、僕に優しすぎるから」
「そうかな……。自分では全然そんなつもりはないけど」
「自覚があったら、それは優しさじゃないよ。自己満足というんだ」
「へえ……」
「今度は、随分と、気のない返事だね」
「ウッドクロックだから、気、というものは、もともと存在しないんだよ」
「そんなことないんじゃないかな」
「あ、でもさ、好き、という感情が存在するということは、それも、やっぱり、自己満足の裏返しなんじゃない?」
「それ、どういうこと?」
「ごめん」リィルは謝った。「口から出任せを言った」
僕は、彼女の返答がなんだか面白かったので、そのまま素直に感情を表に出して、笑った。
小鳥の囀りがどこからか聞こえてくる。ウッドクロックは可視光線とは別の方法で世界を認識しているらしいけれど、僕が「赤」だと認識したものは、彼女にも「赤」として認識できるから、結果として意思の疎通に齟齬が生じることはない。僕にとって「赤」に見えるものが、彼女にとっては「青」に見えたとしても、それを彼女が口で「赤」だと言えば済む話なので、それほど気にするような言語的な齟齬ではない、といえる。そもそも、人間同士だって、僕の言う「赤」とほかの誰かの言う「赤」は完全に同じものではないので、そういった点を鑑みれば、僕とリィルのコミュニケーションも人間同士のそれと同じだと考えることもできる。そして、音の認識については、僕と彼女との間にそれほどの差異がないことが分かっている。それは、会話が成立していることからも分かるし、ウッドクロックは人間をモデルに作られているから、当たり前といえば当たり前、反対に、あえて(根本的な)言語を揃えない意味はないということからも、そういった結論に辿り着く。
森の中に入る。陽光が減る分体感温度もかなり低くなった。
「寒い」リィルが呟く。
「やっぱり」
「何がやっぱりなの?」
「いや、特に深い意味はない」
動物の気配は感じられるものの、その姿を直接視認することはできない。では、どうして、気配を感じられるのだろう、と僕は不思議に思う。それは動物に限った話ではなく、人間相手でも同じことがいえる。人間が背後に立っていたら間違いなく気配を感じるし、さらには、リィルが僕の背後に立っていても、人間のそれと同様の気配を感じる。だから、それは、生き物であるか否か、ということとは関係がないのかもしれない。それが生き物らしいものであれば、なんでも気配を察知する対象になりえる。
森の中に作られた散歩道を一周回って、僕たちはもといた地点に戻ってきた。そのまま森を抜け、公園を出て、家に着くとだいたい一時間が経過していた。
僕はリビングで朝ご飯を食べる。その間、リィルは本を読んでいることが多い。僕は紙の本はあまり読まない質なので、それに伴って彼女も電子書籍をよく読むようになった。紙の本も買わないわけではないが、管理が大変だし、何より置き場所に困るから、本としての価値があるものしか僕の家には置かれていない。
そうやって、特別なことが起きることもなく日常は消費されていく。しかし、それは、「消費」なのだから、使い切ってしまえば次にはもう日常はやって来ない。
それが、もしかすると、今日かもしれなかった。
僕は、自分でも知らない内に、毎日、日常と呼べるものを、消費していたのである。
それには、きっと、リィルも気づいていない。
だから、彼女は、今日も、いつも通りに読書をしていたし、僕も、いつも通りに席に着いて朝食をとり始めた。
「そんなに、毎日情報を取り込んでいて、疲れない?」僕はフレンチトーストをナイフで切りながらリィルに尋ねた。
「うん、そんなに疲れない」リィルは顔を上げないで答える。
「今は、どんな本を読んでいるの?」
「人間が書いた本」
「そんなの当たり前じゃないか」僕は笑った。「あ、でも、君も何か書いてみたらいいんじゃないかな? 人間ということにしておくとか、僕が書いたことにしておくとか、方法は色々ありそうだよ」
「うーん、でも、私の頭って、あまり発想するのには向いていないみたいだから……」
それはたしかにそうかもしれない。どうしてなのかはまったく分からないが、リィルの情報処理能力は人間のそれとあまり変わらないのである。というよりも、人間の平均値を少し下回るくらいだといった方が正しい。僕も全然頭の回転は速い方ではないけれど、少なくとも、彼女以上には多くの発想をする方だという自覚はあった。
しかし、リィルも、まったく秀でた部分がないわけではない。僕が思うに、彼女は他人の感情を汲み取る能力に長けている。彼女の根本的な思考基盤にそういった種類のプログラムが存在しているのかもしれないが、後天的なものである可能性もあるし、どうしてそういう能力に長けているのか、言い換えれば、どうしてそういう部分だけ秀でているのか、僕にはさっぱり分からなかった。でも、それは悪いことではないし、むしろ素晴らしいことだと思うから、僕は彼女のそういった点を非常に尊敬している。僕は人間なのに、全然他人の感情を汲み取ることができない。けれど、それは、彼女がウッドクロックであることを強調したいわけではない。
ウッドクロックである彼女は、いったい、僕のことをどう思っているのだろう?
どう、というのは非常に抽象的な問いだが、抽象的なものは指針を示すときに役に立つ傾向がある。
だから、一度、そんな抽象的な質問を彼女にしてみるのも良いかもしれない。
まあ、僕にそんな度胸があればの話だけれど……。
暫くの間、僕は黙ってフレンチトーストを食べ続ける。リィルはソファに座ったまま読書を続けていた。タッチパネル式のディスプレイを備えた端末を使って、彼女は雑多な情報を頭の中へと保存していく。ウッドクロックには、人間と同じように、それほど重要ではない情報を自然と喪失していく性質があるらしい。人間でいうところの「忘れた」という状態がそれに当たる。忘れるといっても、コンピューターみたいに完全に情報がゼロになるわけではないから、ちょっとしたキーによって、忘れていた情報が一時的に蘇ることもある。どうやら、リィルは、そういった一種の「閃き」のために読書をしているみたいだった。それは僕が読書をするのと同じ動機だから、行為として特に不自然な点はない。
ただ、ウッドクロックという、少なからずメカニカルな機構を備えた人工生命体が、どうしてここまで人間と同じような行動をするのだろう、というところが、僕は非常に気になって仕方がなかった。彼女に出会ってからというもの、僕はずっとそのことについて考え続けている。人間ではないのに、人間の真似をするな、と言っているのではない。ウッドクロックを開発した人物が、どうしてここまで人間を模倣するのに拘ったのか、その点がいまいち僕には理解できないのである。どうせ新たな生命体を作るのなら、既存の生命体を超えるものを作らないとはっきりいって意味がない。そんなふうにある種の「制限」を設ける理由といえば、人間が持つ能力を超えないように保険をかける、といった酷く陳腐な理由しか思いつかない。それは僕に思考力が足りないからかもしれないけれど、それにしても、なんだか違和感があるな、と僕はずっと思っていた。
ただ一つ、リィルは、外見はかなり秀でている。
つまり、意図的に内面の能力が落とされているのだ。
彼女を作った人物は、いったい、どんな目的を持って、彼女にこういった個性を与えることにしたのだろう?
考えても分からないから、僕はフレンチトーストをホットコーヒーで流し込む。
けれど、そんなふうに急速に糖分を補給しても、分からない問題は分からない問題として残存するだけだった。
「そういえばさ」不意に、読書を一旦停止して、ソファに座るリィルが呟いた。「君は、あれから、彼の所に行ってないけど、心配じゃないの?」
「彼?」僕は彼女の言葉をすぐに理解する。「ああ、ベソゥのこと?」
「何か、変なこととか起きていないかな」
「彼に? うーん、どうかな……。ああ見えても、ベソゥは、なかなか器が大きいというか、まあ、色々と柔軟に対応できるからね。僕なんかが心配しても、あまり意味がない、というか」
「そうかな? 私には、なんていうのか、こう……。……うん、誰かに、助けを求めているように見えたけど……」
「彼の幼さに騙されたんじゃないの?」僕は笑う。
「そうかな……」
「まあ、あまり気にする必要はないよ。もし何かあったら、まず僕に連絡が来る。なんか、自分で言うのは変かもしれないけど、彼には、親しい人間が、僕くらいしかいないんだ」
「彼のことについて、何か考えていたんじゃないの?」
リィルの視線がいつも以上に真剣だったから、僕は少しだけ自分の態度を改めた。彼女は僕に説明を求めているのである。それにすぐに気づかなかったことが、僕にしては珍しく、ちょっとだけ残念に思えてならなかった。
「うん、そう」僕は曖昧に頷く。「何か、は、考えているよね、普通は」
「何を思いついたの?」
「いや、別に何も思いついていない」僕は言った。「ただ、彼があの施設にいるのには、何か意味があるんじゃないかな、と思ってさ」
「意味?」
「うん……。ブルースカイを管理する、というのも、きっと建前上の理由にすぎない。というよりも、彼が意図してそうしているんじゃなくて、むしろその反対、彼は、誰かの意図によって、そうさせられているんじゃないかな、と僕は考えている」
「具体的には?」
「だから、直接的に言えば、トラブルメーカーが関わっている、ということ」
トラブルメーカーというのは、ベソゥにブルースカイシステムの管理を委託した企業のことだ。ベソゥは彼にとって有益な条件を持ち出され、その結果施設ごとブルースカイを管理するようになった。
「大したことはなくても、トラブルメーカーがあれだけの情報を彼に公開するのは、やっぱりどう考えてもおかしい。彼を騙すならまだ分かるけど、あの情報は、どう考えても、まったくの嘘だとは思えない。街が、海と、山と、そして、最後の空によって管理されているなんて、確認すればすぐに真実だと分かるし、わざわざそれを彼に伝えるのは、そうすることで、情報に信憑性を持たせようとしている、ということだと思う。あるいは、彼にそう信じ込ませておいて、本当はそうではない、要するに、彼を操作する、というのが目的という可能性もあるけど、でも、そうすると、今度は、与えられた情報の質がどうにも低いように思えてしまう」
「うーん、そうかな……。私には、あまり、よく、分からないけど」
「僕も分からないよ」
「でも、何か引っかかるんでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、やっぱり、何かある、ということだよね」
「え、どうして?」
「だって、君がそう言うから」
「君さ、今、誰と会話しているの?」
「どういう意味?」
「いや、撤回しよう」僕は言った。「とりあえず、僕の言葉をすぐに鵜呑みにしないでね」
リィルは怪訝そうな顔をしたが、数秒後には素直に頷いてくれた。
僕はフレンチトーストを食べ終わる。
「あのさ、ちょっと、ここにコーヒーを注ぎ足してきてくれないかな」ホットコーヒーをすべて飲み干してしまったので、僕はリィルにコップを差し出して要請する。「いっぱい入れなくていいからさ、半分くらいで、お願い」
「自分で入れてきたら?」そう言いながらも、リィルは立ち上がって僕のカップを受け取ってくれた。
「いや、そうなんだけど、君に入れてもらった方が、美味しさが増すだろう?」
「それ、冗談?」
「うん、そうだけど」
「最低」
リィルは笑顔のままリビングから立ち去る。リビングと廊下を繋ぐドアの隣にもう一つドアがあって、その先にキッチンがある。リィルはキッチンの中に入り、一度静かにドアを閉めた。
僕は、なんだか、最近、リィルに甘えているようである。
そう……。
そんな気がしてならない。
再会したばかりの頃は、お互いにそれなりに遠慮というものがあったと思う。それは僕たちの再会がある程度のブランクを置いて発生したものであり、事実上、初対面とそう変わらない出会いだったからだ。けれど、想像以上に僕たちの仲はスムーズかつシームレスに深まっていったから、それに乗じて礼儀というものを多少失ってしまったのではないか、と考えている。はっきりいって、あまりよくない傾向だといえる。彼女がどう思っているのかは分からないけれど、少なくとも、僕としては、このままこんな関係を持続させて良いとは思っていなかった。
もしかすると、そう感じるのは、僕が臆病者だからかもしれない。少しでも他者との関係が変わってしまったり、自分が無礼な態度をとってしまうと、言葉では表せないような恐怖に襲われるのである。こういう経験は一度や二度ではないから、慣れているといえば慣れている。だから、その慣れに従って、今回も、リィルとの関係がもとの状態に戻るのを望んでいるのかもしれない、と分析することができた。
でも……。
そうだ……。
きっと、リィルは、そんなことはまったく望んでいない。
彼女は、自分にとって気に食わないことがあれば、僕に直接それを伝えようとするだろう。
そうに違いない。
だから、僕一人で判断してはいけない。
おそらく、僕が間違っている可能性の方が遥かに高い。
さっきだって、リィルは、文句を言いつつも、笑いながら、僕のカップを受け取ってくれたのだ。
なんという優しさ。
僕は、そんな彼女の優しさに感謝しなくてはならない。
リィルはとても優しい。
そもそも、僕みたいな駄目な人間と婚約を交わしてくれるなんて、もう、その時点で、優しさの塊みたいなものではないか。
彼女が帰ってきたら、少しは感謝の気持ちを伝えてみよう。
僕は、臆病者だけれど、それくらいのことはできる。
それなら、できることをやるしかない。
それ以外の選択肢は存在しない。
感謝、感謝……。
一言言葉にするだけでも、違うだろう。
そんなことを考えていると、キッチンの方から何かが割れるような音がして、僕の意識は一気に現実へと引き戻された。
今の音はなんだろう?
いや、考えるまでもない。この家には僕とリィルしかいないのだから、僕が何かを割ったのではないのなら、それはリィルが引き起こしたもの以外にありえない。
嫌な予感を抱きながらも、僕は椅子から立ち上がって、キッチンへと足を向けた。
でも、臆病者の僕は、自身の内側に沸き起こった予感に不安を抱いて、すでに震え始めていた。
キッチンのドアを開ける。
少し暗い。
すぐにリィルの姿を見つける。
彼女に声をかけようと思ったときには、僕はリィルの傍に駆け寄っていた。
「リィル、どうしたの?」
リィルは、背後にある食器棚に自分の背中を預けるようにして座っている。座っている、という表現はおそらく間違っていて、正確には、足を投げ出している、といった方が彼女の状態を適切に表すように思える。
床にカップの破片が散らばっている。幸い、彼女は怪我をしていなかった。
「リィル?」
僕は、当然、驚いたけれど、どうしてか、その分、冷静に行動しようとする自分がいて、大きな声を出したりはしなかった。
リィルを自分の腕の中に抱き抱え、彼女の肩を何度か前後に揺らす。
しかし、反応はない。
「どうしたの? リィル?」
僕が何度声をかけても、彼女は一度も言葉を返してくれなかった。
僕は、彼女の目を、そっと覗き込む。
目?
そうだ……。
僕は、そのとき、初めて、彼女の目が開いたままになっているのに気がついた。
やはり、これは並大抵のことではない。
キッチンのドアを大きく開いて、彼女を抱えたままリビングへと戻る。
窓の外に広がるのは、鼠色の雲。
それまで晴れ渡っていた春の空は、色彩を失い、すでに骸と化していた。
僕はリィルをソファの上に寝かせる。
「リィル? リィル?」
彼女の瞳と、僕の瞳は、ついに一度も合わなかった。
*
リィルが意識を失ってから一時間が経過しても、僕は今自分にできることを何も思いつかなかった。普段から頭の回らない馬鹿な人間だから、緊急時にだけ優れた知性を発揮できるわけがない、と言われても何も反論はできない。けれど、いざこういう事態に直面してみると、自分の無能さが想像以上にひけらかされるようで、僕はもどかしくてどうしようもなかった。自分で「僕は馬鹿な人間なんです」と言うのと、他人から「お前は馬鹿な人間だ」と言われるのとでは、受けるダメージがまったく違うという話である。
時刻は午後一時。まだ人間が活動している時間帯だから、誰かに助けを求めることもできなくはない。しかし、物理的に助けを求めることができても、僕にはそれができない理由がある。まず、リィルはウッドクロックだから、人間を専門とする救助機関に連絡したら、すぐに彼女が人間ではないことがばれてしまう。それだけはなんとしても避けなければならない。そして、もしそういった事態になった場合に、今度はベソゥに関する一連の内容が外部に露呈してしまう可能性が高い。彼は自分がウッドクロックであることを認識していないから、リィルが人間ではないことがばれてしまったら、間違いなくベソゥの方にも危険が及ぶことになる。
だから、今の僕に誰かの手を借りるという選択肢はない。
今までリィルに何もかも頼ってきたから、そのつけが回ってきた、と考えれば帳尻が合うかもしれない。けれど、そんなふうに、プラスマイナスゼロになるからそれで良い、という話ではないし、現状がマイナスに傾いているのなら、今すぐにそれをプラスに変えるために行動するべきである。
と、こんなふうに考えている間にも、時間は刻々と過ぎていく。
僕は、どうしたら良いだろう?
思わず、リィル、教えてくれ、と言いたくなってしまう。
しかし、今はそれができない。
彼女の腹部に耳を当ててみると、どうやら、呼吸まで途絶えているわけではないらしい、ということが分かった。人間と同じ位置に肺があるわけではないから、正確なことは言えないけれど、空気が通るような周期的な音が聞こえることから、おそらく、それが、呼吸器が働いている証拠だと考えられる。そうなると、彼女全体を根本的に支えるウッドクロックが、呼吸器としての機能を維持しつつ、ほかの機能に支障を来した、と考えるべきだろう。
おそらく、それは、ウッドクロックの中の記憶媒体としての機能に違いない。
記憶……。
何かがトリガーになって、彼女はこんな症状を引き起こしたのだろうか?
それなら、何か解決方法があるはずである。
しかし、何も思いつかない。
どうしようもなくて、僕が小さく溜息を吐いたとき、リィルに変化があった。
彼女が、ソファから勢いよく起き上がる。
座ったまま、僕の方を見て、一度小さく瞬きをした。
僕は驚いて彼女を直視する。
目が合った。
けれど……。
その目が、今は、青く、光を放っていた。
「……リィル?」
僕の声に反応して、彼女は僅かに首を傾ける。
「おはようございます、ご主人」そして、リィルは、簡潔に挨拶の言葉を紡いだ。「状態は、如何ですか?」
四肢。挙動。発音。
僕は、もう一度、リィルを見つめる。
しかし、そこにいるのは、彼女ではなかった。
青色の光。
「君は誰?」僕は質問する。
「私と、貴方は、同じです」彼女は答えた。
今のところ、と断ったのには理由がある。
それは、僕の友人であるベソゥが、ウッドクロックである可能性が高いからだ。
そのベソゥが務める施設に関することだが、つい先日、彼の管理するブルースカイシステムがとある事件の解決に貢献した、といった内容のニュースを耳にした。もちろん、彼の名前とか、ブルースカイとか、そういった具体的な内容が公開されたわけではない。事件の内容も比較的平和なもので、しかも、その報道というのは、この街の中で起きたことを取り扱うごく小規模なものだったから、そんなに素晴らしい活躍をしたとはお世辞にもいえない。けれど、僕には、それでも、なんとなく、彼がその事件に関わっていることが分かった。雰囲気というか、彼にしか解決できないような、そんな感じがニュースからひしひしと伝わってきたのである。ベソゥ本人に確認をとったわけではないけれど、おそらく、僕の考えている通りで間違いないだろう。
そして、今日。
いつも通りの時刻に目を覚ました僕は、リィルを連れて、近所の森林公園まで散歩に来ていた。
まだ早朝といっても良い時間帯だから、辺りには僕たち以外に人の姿は見られない。見渡す限り草原と森林が広がっているだけで、とても開放感のある公園である。都市部の一角に、しかも僕の家からほど近い場所に、こんな素敵な場所があることを知っていたから、前々からリィルと一緒に来てみたいな、と思っていた。その願いがやっと実現したのだ。別に、願いとか、祈りとか、そんな大層なものではないけれど、こんなふうに何か一つでも目標を達成すると、それなりに清々しく感じる。しかし、来たいと思いながらもなかなか足を運ばなかったのは、それほど心の底から望んでいたのではなかったからかもしれない、といった悲観的な推測が僕の中に少しの間存在していた。
でも、それは、本当に少しの間だったから、僕はその推測を無視して、リィルとの散歩を楽しんだ。
「風が、少し寒い」土が剥き出しになった小道を歩きながら、僕は言った。リィルは僕の左隣に並んで歩いている。「コートを着てくればよかったかな」
「うん、たしかに、もうすぐ春というのには、気温が低い、と感じる」
「君は、今、楽しい?」
「楽しいよ、それなりに」
「それなり、というのは?」
「家の中で散歩をするよりは、外で散歩をした方が楽しいね、ということだよ」
「家で散歩をしているの?」
「いや、してないけど」
「じゃあ、意味が分からない比較だなあ」僕は笑った。「君さ、ときどき、そういう訳の分からないことを言うけど、それが、また、いい持ち味になっていると思うよ」
「うん、それは、自分でもそう思った」
「なんだ、今日は随分と積極的じゃないか」
「そう?」リィルは首を傾げる。
「そうだよ。でも、そういう方がいいよ。君は、なんていうのか……、ちょっと、僕に優しすぎるから」
「そうかな……。自分では全然そんなつもりはないけど」
「自覚があったら、それは優しさじゃないよ。自己満足というんだ」
「へえ……」
「今度は、随分と、気のない返事だね」
「ウッドクロックだから、気、というものは、もともと存在しないんだよ」
「そんなことないんじゃないかな」
「あ、でもさ、好き、という感情が存在するということは、それも、やっぱり、自己満足の裏返しなんじゃない?」
「それ、どういうこと?」
「ごめん」リィルは謝った。「口から出任せを言った」
僕は、彼女の返答がなんだか面白かったので、そのまま素直に感情を表に出して、笑った。
小鳥の囀りがどこからか聞こえてくる。ウッドクロックは可視光線とは別の方法で世界を認識しているらしいけれど、僕が「赤」だと認識したものは、彼女にも「赤」として認識できるから、結果として意思の疎通に齟齬が生じることはない。僕にとって「赤」に見えるものが、彼女にとっては「青」に見えたとしても、それを彼女が口で「赤」だと言えば済む話なので、それほど気にするような言語的な齟齬ではない、といえる。そもそも、人間同士だって、僕の言う「赤」とほかの誰かの言う「赤」は完全に同じものではないので、そういった点を鑑みれば、僕とリィルのコミュニケーションも人間同士のそれと同じだと考えることもできる。そして、音の認識については、僕と彼女との間にそれほどの差異がないことが分かっている。それは、会話が成立していることからも分かるし、ウッドクロックは人間をモデルに作られているから、当たり前といえば当たり前、反対に、あえて(根本的な)言語を揃えない意味はないということからも、そういった結論に辿り着く。
森の中に入る。陽光が減る分体感温度もかなり低くなった。
「寒い」リィルが呟く。
「やっぱり」
「何がやっぱりなの?」
「いや、特に深い意味はない」
動物の気配は感じられるものの、その姿を直接視認することはできない。では、どうして、気配を感じられるのだろう、と僕は不思議に思う。それは動物に限った話ではなく、人間相手でも同じことがいえる。人間が背後に立っていたら間違いなく気配を感じるし、さらには、リィルが僕の背後に立っていても、人間のそれと同様の気配を感じる。だから、それは、生き物であるか否か、ということとは関係がないのかもしれない。それが生き物らしいものであれば、なんでも気配を察知する対象になりえる。
森の中に作られた散歩道を一周回って、僕たちはもといた地点に戻ってきた。そのまま森を抜け、公園を出て、家に着くとだいたい一時間が経過していた。
僕はリビングで朝ご飯を食べる。その間、リィルは本を読んでいることが多い。僕は紙の本はあまり読まない質なので、それに伴って彼女も電子書籍をよく読むようになった。紙の本も買わないわけではないが、管理が大変だし、何より置き場所に困るから、本としての価値があるものしか僕の家には置かれていない。
そうやって、特別なことが起きることもなく日常は消費されていく。しかし、それは、「消費」なのだから、使い切ってしまえば次にはもう日常はやって来ない。
それが、もしかすると、今日かもしれなかった。
僕は、自分でも知らない内に、毎日、日常と呼べるものを、消費していたのである。
それには、きっと、リィルも気づいていない。
だから、彼女は、今日も、いつも通りに読書をしていたし、僕も、いつも通りに席に着いて朝食をとり始めた。
「そんなに、毎日情報を取り込んでいて、疲れない?」僕はフレンチトーストをナイフで切りながらリィルに尋ねた。
「うん、そんなに疲れない」リィルは顔を上げないで答える。
「今は、どんな本を読んでいるの?」
「人間が書いた本」
「そんなの当たり前じゃないか」僕は笑った。「あ、でも、君も何か書いてみたらいいんじゃないかな? 人間ということにしておくとか、僕が書いたことにしておくとか、方法は色々ありそうだよ」
「うーん、でも、私の頭って、あまり発想するのには向いていないみたいだから……」
それはたしかにそうかもしれない。どうしてなのかはまったく分からないが、リィルの情報処理能力は人間のそれとあまり変わらないのである。というよりも、人間の平均値を少し下回るくらいだといった方が正しい。僕も全然頭の回転は速い方ではないけれど、少なくとも、彼女以上には多くの発想をする方だという自覚はあった。
しかし、リィルも、まったく秀でた部分がないわけではない。僕が思うに、彼女は他人の感情を汲み取る能力に長けている。彼女の根本的な思考基盤にそういった種類のプログラムが存在しているのかもしれないが、後天的なものである可能性もあるし、どうしてそういう能力に長けているのか、言い換えれば、どうしてそういう部分だけ秀でているのか、僕にはさっぱり分からなかった。でも、それは悪いことではないし、むしろ素晴らしいことだと思うから、僕は彼女のそういった点を非常に尊敬している。僕は人間なのに、全然他人の感情を汲み取ることができない。けれど、それは、彼女がウッドクロックであることを強調したいわけではない。
ウッドクロックである彼女は、いったい、僕のことをどう思っているのだろう?
どう、というのは非常に抽象的な問いだが、抽象的なものは指針を示すときに役に立つ傾向がある。
だから、一度、そんな抽象的な質問を彼女にしてみるのも良いかもしれない。
まあ、僕にそんな度胸があればの話だけれど……。
暫くの間、僕は黙ってフレンチトーストを食べ続ける。リィルはソファに座ったまま読書を続けていた。タッチパネル式のディスプレイを備えた端末を使って、彼女は雑多な情報を頭の中へと保存していく。ウッドクロックには、人間と同じように、それほど重要ではない情報を自然と喪失していく性質があるらしい。人間でいうところの「忘れた」という状態がそれに当たる。忘れるといっても、コンピューターみたいに完全に情報がゼロになるわけではないから、ちょっとしたキーによって、忘れていた情報が一時的に蘇ることもある。どうやら、リィルは、そういった一種の「閃き」のために読書をしているみたいだった。それは僕が読書をするのと同じ動機だから、行為として特に不自然な点はない。
ただ、ウッドクロックという、少なからずメカニカルな機構を備えた人工生命体が、どうしてここまで人間と同じような行動をするのだろう、というところが、僕は非常に気になって仕方がなかった。彼女に出会ってからというもの、僕はずっとそのことについて考え続けている。人間ではないのに、人間の真似をするな、と言っているのではない。ウッドクロックを開発した人物が、どうしてここまで人間を模倣するのに拘ったのか、その点がいまいち僕には理解できないのである。どうせ新たな生命体を作るのなら、既存の生命体を超えるものを作らないとはっきりいって意味がない。そんなふうにある種の「制限」を設ける理由といえば、人間が持つ能力を超えないように保険をかける、といった酷く陳腐な理由しか思いつかない。それは僕に思考力が足りないからかもしれないけれど、それにしても、なんだか違和感があるな、と僕はずっと思っていた。
ただ一つ、リィルは、外見はかなり秀でている。
つまり、意図的に内面の能力が落とされているのだ。
彼女を作った人物は、いったい、どんな目的を持って、彼女にこういった個性を与えることにしたのだろう?
考えても分からないから、僕はフレンチトーストをホットコーヒーで流し込む。
けれど、そんなふうに急速に糖分を補給しても、分からない問題は分からない問題として残存するだけだった。
「そういえばさ」不意に、読書を一旦停止して、ソファに座るリィルが呟いた。「君は、あれから、彼の所に行ってないけど、心配じゃないの?」
「彼?」僕は彼女の言葉をすぐに理解する。「ああ、ベソゥのこと?」
「何か、変なこととか起きていないかな」
「彼に? うーん、どうかな……。ああ見えても、ベソゥは、なかなか器が大きいというか、まあ、色々と柔軟に対応できるからね。僕なんかが心配しても、あまり意味がない、というか」
「そうかな? 私には、なんていうのか、こう……。……うん、誰かに、助けを求めているように見えたけど……」
「彼の幼さに騙されたんじゃないの?」僕は笑う。
「そうかな……」
「まあ、あまり気にする必要はないよ。もし何かあったら、まず僕に連絡が来る。なんか、自分で言うのは変かもしれないけど、彼には、親しい人間が、僕くらいしかいないんだ」
「彼のことについて、何か考えていたんじゃないの?」
リィルの視線がいつも以上に真剣だったから、僕は少しだけ自分の態度を改めた。彼女は僕に説明を求めているのである。それにすぐに気づかなかったことが、僕にしては珍しく、ちょっとだけ残念に思えてならなかった。
「うん、そう」僕は曖昧に頷く。「何か、は、考えているよね、普通は」
「何を思いついたの?」
「いや、別に何も思いついていない」僕は言った。「ただ、彼があの施設にいるのには、何か意味があるんじゃないかな、と思ってさ」
「意味?」
「うん……。ブルースカイを管理する、というのも、きっと建前上の理由にすぎない。というよりも、彼が意図してそうしているんじゃなくて、むしろその反対、彼は、誰かの意図によって、そうさせられているんじゃないかな、と僕は考えている」
「具体的には?」
「だから、直接的に言えば、トラブルメーカーが関わっている、ということ」
トラブルメーカーというのは、ベソゥにブルースカイシステムの管理を委託した企業のことだ。ベソゥは彼にとって有益な条件を持ち出され、その結果施設ごとブルースカイを管理するようになった。
「大したことはなくても、トラブルメーカーがあれだけの情報を彼に公開するのは、やっぱりどう考えてもおかしい。彼を騙すならまだ分かるけど、あの情報は、どう考えても、まったくの嘘だとは思えない。街が、海と、山と、そして、最後の空によって管理されているなんて、確認すればすぐに真実だと分かるし、わざわざそれを彼に伝えるのは、そうすることで、情報に信憑性を持たせようとしている、ということだと思う。あるいは、彼にそう信じ込ませておいて、本当はそうではない、要するに、彼を操作する、というのが目的という可能性もあるけど、でも、そうすると、今度は、与えられた情報の質がどうにも低いように思えてしまう」
「うーん、そうかな……。私には、あまり、よく、分からないけど」
「僕も分からないよ」
「でも、何か引っかかるんでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、やっぱり、何かある、ということだよね」
「え、どうして?」
「だって、君がそう言うから」
「君さ、今、誰と会話しているの?」
「どういう意味?」
「いや、撤回しよう」僕は言った。「とりあえず、僕の言葉をすぐに鵜呑みにしないでね」
リィルは怪訝そうな顔をしたが、数秒後には素直に頷いてくれた。
僕はフレンチトーストを食べ終わる。
「あのさ、ちょっと、ここにコーヒーを注ぎ足してきてくれないかな」ホットコーヒーをすべて飲み干してしまったので、僕はリィルにコップを差し出して要請する。「いっぱい入れなくていいからさ、半分くらいで、お願い」
「自分で入れてきたら?」そう言いながらも、リィルは立ち上がって僕のカップを受け取ってくれた。
「いや、そうなんだけど、君に入れてもらった方が、美味しさが増すだろう?」
「それ、冗談?」
「うん、そうだけど」
「最低」
リィルは笑顔のままリビングから立ち去る。リビングと廊下を繋ぐドアの隣にもう一つドアがあって、その先にキッチンがある。リィルはキッチンの中に入り、一度静かにドアを閉めた。
僕は、なんだか、最近、リィルに甘えているようである。
そう……。
そんな気がしてならない。
再会したばかりの頃は、お互いにそれなりに遠慮というものがあったと思う。それは僕たちの再会がある程度のブランクを置いて発生したものであり、事実上、初対面とそう変わらない出会いだったからだ。けれど、想像以上に僕たちの仲はスムーズかつシームレスに深まっていったから、それに乗じて礼儀というものを多少失ってしまったのではないか、と考えている。はっきりいって、あまりよくない傾向だといえる。彼女がどう思っているのかは分からないけれど、少なくとも、僕としては、このままこんな関係を持続させて良いとは思っていなかった。
もしかすると、そう感じるのは、僕が臆病者だからかもしれない。少しでも他者との関係が変わってしまったり、自分が無礼な態度をとってしまうと、言葉では表せないような恐怖に襲われるのである。こういう経験は一度や二度ではないから、慣れているといえば慣れている。だから、その慣れに従って、今回も、リィルとの関係がもとの状態に戻るのを望んでいるのかもしれない、と分析することができた。
でも……。
そうだ……。
きっと、リィルは、そんなことはまったく望んでいない。
彼女は、自分にとって気に食わないことがあれば、僕に直接それを伝えようとするだろう。
そうに違いない。
だから、僕一人で判断してはいけない。
おそらく、僕が間違っている可能性の方が遥かに高い。
さっきだって、リィルは、文句を言いつつも、笑いながら、僕のカップを受け取ってくれたのだ。
なんという優しさ。
僕は、そんな彼女の優しさに感謝しなくてはならない。
リィルはとても優しい。
そもそも、僕みたいな駄目な人間と婚約を交わしてくれるなんて、もう、その時点で、優しさの塊みたいなものではないか。
彼女が帰ってきたら、少しは感謝の気持ちを伝えてみよう。
僕は、臆病者だけれど、それくらいのことはできる。
それなら、できることをやるしかない。
それ以外の選択肢は存在しない。
感謝、感謝……。
一言言葉にするだけでも、違うだろう。
そんなことを考えていると、キッチンの方から何かが割れるような音がして、僕の意識は一気に現実へと引き戻された。
今の音はなんだろう?
いや、考えるまでもない。この家には僕とリィルしかいないのだから、僕が何かを割ったのではないのなら、それはリィルが引き起こしたもの以外にありえない。
嫌な予感を抱きながらも、僕は椅子から立ち上がって、キッチンへと足を向けた。
でも、臆病者の僕は、自身の内側に沸き起こった予感に不安を抱いて、すでに震え始めていた。
キッチンのドアを開ける。
少し暗い。
すぐにリィルの姿を見つける。
彼女に声をかけようと思ったときには、僕はリィルの傍に駆け寄っていた。
「リィル、どうしたの?」
リィルは、背後にある食器棚に自分の背中を預けるようにして座っている。座っている、という表現はおそらく間違っていて、正確には、足を投げ出している、といった方が彼女の状態を適切に表すように思える。
床にカップの破片が散らばっている。幸い、彼女は怪我をしていなかった。
「リィル?」
僕は、当然、驚いたけれど、どうしてか、その分、冷静に行動しようとする自分がいて、大きな声を出したりはしなかった。
リィルを自分の腕の中に抱き抱え、彼女の肩を何度か前後に揺らす。
しかし、反応はない。
「どうしたの? リィル?」
僕が何度声をかけても、彼女は一度も言葉を返してくれなかった。
僕は、彼女の目を、そっと覗き込む。
目?
そうだ……。
僕は、そのとき、初めて、彼女の目が開いたままになっているのに気がついた。
やはり、これは並大抵のことではない。
キッチンのドアを大きく開いて、彼女を抱えたままリビングへと戻る。
窓の外に広がるのは、鼠色の雲。
それまで晴れ渡っていた春の空は、色彩を失い、すでに骸と化していた。
僕はリィルをソファの上に寝かせる。
「リィル? リィル?」
彼女の瞳と、僕の瞳は、ついに一度も合わなかった。
*
リィルが意識を失ってから一時間が経過しても、僕は今自分にできることを何も思いつかなかった。普段から頭の回らない馬鹿な人間だから、緊急時にだけ優れた知性を発揮できるわけがない、と言われても何も反論はできない。けれど、いざこういう事態に直面してみると、自分の無能さが想像以上にひけらかされるようで、僕はもどかしくてどうしようもなかった。自分で「僕は馬鹿な人間なんです」と言うのと、他人から「お前は馬鹿な人間だ」と言われるのとでは、受けるダメージがまったく違うという話である。
時刻は午後一時。まだ人間が活動している時間帯だから、誰かに助けを求めることもできなくはない。しかし、物理的に助けを求めることができても、僕にはそれができない理由がある。まず、リィルはウッドクロックだから、人間を専門とする救助機関に連絡したら、すぐに彼女が人間ではないことがばれてしまう。それだけはなんとしても避けなければならない。そして、もしそういった事態になった場合に、今度はベソゥに関する一連の内容が外部に露呈してしまう可能性が高い。彼は自分がウッドクロックであることを認識していないから、リィルが人間ではないことがばれてしまったら、間違いなくベソゥの方にも危険が及ぶことになる。
だから、今の僕に誰かの手を借りるという選択肢はない。
今までリィルに何もかも頼ってきたから、そのつけが回ってきた、と考えれば帳尻が合うかもしれない。けれど、そんなふうに、プラスマイナスゼロになるからそれで良い、という話ではないし、現状がマイナスに傾いているのなら、今すぐにそれをプラスに変えるために行動するべきである。
と、こんなふうに考えている間にも、時間は刻々と過ぎていく。
僕は、どうしたら良いだろう?
思わず、リィル、教えてくれ、と言いたくなってしまう。
しかし、今はそれができない。
彼女の腹部に耳を当ててみると、どうやら、呼吸まで途絶えているわけではないらしい、ということが分かった。人間と同じ位置に肺があるわけではないから、正確なことは言えないけれど、空気が通るような周期的な音が聞こえることから、おそらく、それが、呼吸器が働いている証拠だと考えられる。そうなると、彼女全体を根本的に支えるウッドクロックが、呼吸器としての機能を維持しつつ、ほかの機能に支障を来した、と考えるべきだろう。
おそらく、それは、ウッドクロックの中の記憶媒体としての機能に違いない。
記憶……。
何かがトリガーになって、彼女はこんな症状を引き起こしたのだろうか?
それなら、何か解決方法があるはずである。
しかし、何も思いつかない。
どうしようもなくて、僕が小さく溜息を吐いたとき、リィルに変化があった。
彼女が、ソファから勢いよく起き上がる。
座ったまま、僕の方を見て、一度小さく瞬きをした。
僕は驚いて彼女を直視する。
目が合った。
けれど……。
その目が、今は、青く、光を放っていた。
「……リィル?」
僕の声に反応して、彼女は僅かに首を傾ける。
「おはようございます、ご主人」そして、リィルは、簡潔に挨拶の言葉を紡いだ。「状態は、如何ですか?」
四肢。挙動。発音。
僕は、もう一度、リィルを見つめる。
しかし、そこにいるのは、彼女ではなかった。
青色の光。
「君は誰?」僕は質問する。
「私と、貴方は、同じです」彼女は答えた。
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