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第9章 陶酔や統帥
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僕は、今まで、ずっと、自分が人間だと思って生きてきた。それは、きっと、ほかの人もそうだと思う。それは疑いようのない事実で、ほかの可能性を考えることすらない、酷く当たり前のこととして、誰しもに受け入れられている。
けれど、それは事実ではなかった。僕は人間ではない。ウッドクロックは人間そっくりな見た目をしているけれど、だからといって、人間と同じものではない。身体はバイオロジカルなパーツだけで構成されているのではないし、世界を認識する方法だって、人間のそれとは明らかに違っている。ただ、人間をモデルに作られたものだから、人間との互換性がある、というだけだ。しかし、その互換性が、僕が誤解する原因となった。ルルに事実を伝えられる前から、僕は薄々気がついていた。いや、それは、気がついていた、という言葉では上手く表せない。そんな可能性を想定していたというだけで、僕も、そんなことはないだろう、と勝手に思い込んでいた。けれど、可能性がある限り、決してありえないわけではない。僕が人間であるか、そうでないか、ということについては、ゼロか一のどちらかでしかない。yesかnoかという問いに対して、僕がnoであることが判明した、ということである。
僕にその事実を告げたルルは、一呼吸置いてから、説明を再開した。
「貴方は、私が生産したウッドクロックの中で、唯一完成した個体でした」ルルは話す。「ベソゥも、テュナも、そしてリィルも、それぞれ何らかの不備を抱えている。ベソゥにはフリーズが起こり、テュナは早熟すぎて死亡してしまった。そして、リィルは、生まれながらにして、自分がウッドクロックであることを悟っていたのです」
「……それは、不備ですか?」
「不備です」僕が質問すると、ルルは何の躊躇も見せずに答えた。「私の目的は、人間と同じようなものに、自分が人間だと思い込ませて、生み出すことでした。彼女は、自分が人間ではないことに気づいてしまった。おそらく、ベーシックの配列に、何らかの誤りがあったのでしょう。詳細は分かりません。……そして、貴方は、自分が人間だと思い込んで、今日まで生きてきた。だから、私にとって、貴方は、唯一の実験の成功例なのです」
「実験って……。……僕は、どうしたらいいんですか?」
僕は、自分で自分が分からなくなるくらいに、現実を理解することができなくなっていた。予想していても、結果を目の当たりにすれば、それに伴って感情も揺れ動く。
「どうしようもありません。人間の人生は、何もないゼロからではなく、自分が存在しているという、一からすべてが始まります。一から百に向かうのか、それとも、ゼロに向かうのか、それは分かりませんが、貴方はすでに存在しているのです。そして、ベーシックの記述によって、貴方には確かにに『意思』も存在している。過去は変えられません」
キッチンには、リィルが落として割れたカップの破片が、そのまま散らばっているだろうな、と、僕は、なぜか、そんな、どうでも良いことを、ぼんやりと、頭の片隅で考えていた。自分でも、意外と客観的に現状を把握できていることに驚く。問題は主観的な視点の方で、そちらは、感情によるシャットアウトが発生したのか、今は正しく作動していなかった。
「さて、そろそろ、私の説明も終わりに差しかかろうとしています。残っているのは、それでは、どうして、リィルは貴方に会いに来たのか、ということです」
僕は、もう口を開かなかった。
駄目だ、何も話せない、と感じる。
「リィルは、貴方に会う一日前に、テュナと会っていました。……そうです。貴方は、テュナが将来的に存続できなかった場合の、保険です」
僕は黙って頷く。
「リィルの本命は、テュナでした。自分が唯一ウッドクロックであることを自覚している彼女には、人間と仲良くなる前の段階として、自分がウッドクロックであることを自覚していない者と、関係を築いてもらう必要がありました。つまり、リィルは、テュナをスカウトしに来た。しかしながら、テュナには先ほど述べた不備があった。そこで、テュナと貴方の二人をスカウトの対象とすることで、どちらかとは確実に関係を築けるようにしたのです」
ルルの青い瞳が僕を見つめる。
「貴方を第一の候補に選ばずに、リスクを負いながらも、テュナを第一の候補にしたのには、理由があります。それは、リィルが、貴方よりも、テュナの方を気に入ったから、というわけではありません。テュナには、もう一つ、特徴がありました。……彼の寿命が平均以上に短いことは、予め分かっていましたが、もし、その予測が外れて、彼が死亡しなかった場合、彼のウッドクロックは半永久機関になる可能性がある、という検査結果が出ていたのです。それが、リィルにテュナを第一の候補として選ばせた理由です。それに対して、貴方には、早熟ながらも、死亡するほどのリスクはなかった。だから、テュナの次に貴方が選ばれた。ベソゥに関しては、先述した致命的な不備が存在していたため、最初の段階で、すでにスカウトの対象から外されていました」
「どうして、わざわざ、僕に、僕が人間ではない、ということを、伝えに来たのですか?」僕は訊きたいことを素直に質問した。
「さあ、どうしてだと思いますか?」
僕とルルは数秒間黙って見つめ合う。
リィルに見つめられると、胸の内がとても温かくなるのに、ルルに見つめられても、全然そんな感じはしなかった。
でも……。
ルルの視線も、決して嫌いではない。
彼女は、きっと、彼女なりの優しさのつもりで、今、僕にこうして接してくれている。
ルルが教えてくれなくても、その答えは僕にも分かった。
だから、僕はそれ以上は尋ねなかった。
そう……。
忘れていたけれど、それが、僕のポリシーというものである。
「貴方は、今日、私の説明を聞いて、自分が人間ではないことを知りました」質問に答える代わりに、ルルは話した。「私の遺志をお伝えするこの音声データの機能が失われれば、貴方は、また、リィルと一緒に暮らすことになります。いえ、正確には、その選択も可能だ、ということです。貴方は、今まで通り、彼女と生活することを望みますか?」
ずっと緊迫していた空気が、彼女のその一言で、ふっと弛緩したような気がした。
僕は少し笑って答える。
「たぶん、そうすると思います」
「それは、なぜですか?」
「なぜ、という質問には答えられません」僕は言った。「僕が、そうしたいから、では駄目ですか?」
「それを決めるのは、貴方自身です」ルルは話す。「自分が何者で、何をするのか、何を目的に生きるのか、それは、すべて、貴方が決めることです。たとえ、貴方が、私に作られた人工的な存在だとしても……」
僕は彼女に試されていると思った。もし、僕がそれらのことを放棄してしまえば、ルルの実験は失敗することになる。なぜなら、それらの決定を自ら行うのが、人間という生き物だからだ。ウッドクロックが人間と等しい存在であるのなら、それらの決定を実行し、自ら自分を規定しなくてはならない。だから、ルルの実験の成功は、僕がどう応えるかにかかっている。
けれど、僕がその質問に答える時間はなかった。
「時間です」ルルが唐突に言った。
そして、彼女の胸部にあるウッドクロックが、前方に半透明のディスプレイを投影する。そこには時計の文字盤が表示されていて、長い針はゼロを指していた。
「貴方が、どのような答えを選ぶのか、その確認は、リィルに任せようと思います」
「貴女は、僕に会えてよかったですか?」
「ええ、よかったです」
「僕もです」僕は言った。「またいつか、会えますか?」
「いいえ、もう会えません」ルルは答える。「会えなくても、伝わる関係を、リィルとの間に築いて下さい」
ルルは最後まで笑顔だった。まるで遠い未来を見つめるように、彼女の表情は終始清々しかった。悩みなど何もなく、自分がやってきたことに自信を持っているような、そんな素晴らしい存在であるように、僕には見えた。
ルルの目から青色の光が消失し、彼女は椅子から落ちそうになる。
僕は瞬時に立ち上がって、リィルが床に倒れる前に、彼女の身体を支えた。
そう……。
リィルは、その完璧なスタビライザーで、いつでも僕を支えてくれる。
だから、今は、僕が彼女を支えよう。
そんな関係が、僕とリィルには相応しい。
言葉では答えられなかったけれど、最後の最後で、この行動が示す意味が、ルルにも伝わっていればいいな、と僕は思った。
それに応えるように、目を閉じたまま、リィルは微笑んだ。
*
目を覚ますと、部屋のシャッターがすべて開いていた。窓から陽光が差し込み、この閉鎖的な空間をぼんやりと照らし出している。天井に写る影が規則的に揺れ、僕とこの空間との間に、夢心地な境界が存在するような錯覚に囚われる。僕は立ち上がって、影を作る原因であるレースのカーテンを開いて、大量の日の光を部屋の中に取り込んだ。それでも、まだ部屋は薄暗い。朝になったばかりだった。今日は日曜日だ、と僕は何の脈絡もなく思い出す。
振り返ると、リィルが立っていた。
彼女は、首を傾げて、僕を見つめている。
「おはよう」
僕は言った。
リィルは軽く頷き、それから少し微笑む。
「昨日の話、全部、聞いていた?」
僕がそう尋ねると、リィルは小さく頷いた。しかし、彼女はそのまま顔を下に向けてしまう。
「まあ、仕方がないよ。というよりも、僕は、むしろ、君が聞いていてくれてよかったと思っている。説明するのも面倒だし、何よりも、一番その話を聞かなくてはいけないのは、君だからね」
リィルは再度首を傾ける。今度は先ほどよりも角度が大きかった。これは、どういう意味か、と尋ねる際に見せるジェスチャーである。
「うん、つまりね、君の母親の話は、君が聞くべきだ、ということだよ」
リィルは、僕を指差した。
「何?」
彼女はその動作を二、三度と繰り返す。
「どうしたの?」
リィルは軽く溜息を吐いた。僕には、その意味を理解することができない。呆れられているのか、それとも、自分の意思が伝わらなくて、落胆しているのか……。
?
意思が伝わらない?
どうしてそんなことが起きるのだろう?
口で話せば良いだけではないか……。
「……あのさ、リィル。それじゃあ、何も伝わらないから、きちんと話してくれないかな」
僕がそう言うと、リィルは、なんだか悲しそうな顔を僕に向けてくる。
僕は嫌な予感がした。
「何? どうしたの? 分からないから、口で説明してよ」
リィルは苦笑いをする。
僕は唾を飲み込んだ。
そう……。
悪い予感は、必ずといって良いほど的中する。
彼女は口を開いて声を発した。
けれど……。
それは、聞くことができても、理解できるものではなかった。
「glbっbg,qbhfrgfhzrvふvgねんっゔぁbんjんんえなんゔぁあqんxrqb」
彼女の言葉は、文字化けしていた。
*
会話ができないリィルをソファに座らせて、僕たちはなんとか意思を伝え合うことに成功した。彼女に紙とペンを手渡して、文字による筆談を行おうとしたが、なんと、彼女のバグは、筆記される言葉にまで文字化けを引き起こした。だから、僕が一方的に質問して、それに彼女がyesかnoで答える、という方法を採用した。yesなら頷き、noなら首を振ってもらうだけである。そのせいで、いつもなら五分で終了する情報交換に、三十分ほどかかってしまった。
リィルには、ルルが乗り移っていたときのログが完璧に残されていた。ルルの音声データは、彼女のウッドクロックが特定の数値を刻んだタイミングで作動するようになっていて、リィルの頭脳にルルの人格を一時的にポップアウトさせることで、外界との接触を可能にする、というものだった。だから、僕が会話をしたのがルル本人だったかというと、実はそういうわけではない。
リィルに残されたログには、ルルが僕に話した内容が、より詳細に記録されていた。リィルが自身のウッドクロックを展開して、大気中にディスプレイを投影することで、僕はその内容を確認することができた。
そのログには、ルルが話したメインの内容はもちろん、それ以外の、もっと細かいことまで、本当にすべてが記録されていた。たとえば、リィルが僕のもとへスカウトに来る二日前に、トラブルメーカーの幹部がベソゥのもとにやって来た、といった内容がその一例である。十三年前のその日、ベソゥはルルたちからブルースカイシステムを預けられて、例の施設で隔離された生活を始めることになった。その次の日に、テュナがスカウトを受け、そして、さらにその翌日に、僕とリィルが出会った、ということらしい。
そう……。
本当に、僕たちの出会いは、ルルに規定されていたのである。
その規定が、僕たちに、運命、と呼ばれるものを意識させたことは間違いない。
それ以前に、僕がウッドクロックである時点で、僕の人生や、運命は、予め決められていた、といった方が正しいだろう。
それは、きっと、リィルも同じである。彼女は自分がウッドクロックであることを早い段階で悟っていたから、もしかすると、普段からそんなことを意識することが多かったかもしれない。そう思うと、僕は少しだけ寂しいような気持ちになった。
ルルがログとして残したことが、本当に事実であるのか、それを証明する方法はない。しかし、それが記録というものである。観察した事象を記述した瞬間に、事実は事実ではなくなる。その結果、後々辻褄の合わない部分が出てくることもある。それは、多くの場合、情報の不足が原因であるけれど、もっと個人的な、こうだったら良いな、といった種類の願望が関係している場合もある。ルルが意図的に記録を改竄して、僕たちにそれを伝えた可能性もないとはいえない。だからといって、彼女が僕に伝えた内容が、まったく信じられないというわけではなかった。おそらく、その内のほとんどは事実だろう。そうでないと、ルルがわざわざ僕に会いに来た理由が分からなくなる。
ルルは、僕に質問しに来たのかもしれない。
僕は、いったい何者なのか、と……。
考え事をしている僕の隣に、リィルが不機嫌そうな顔で座っている。意思の疎通が上手くいかなかったから、彼女は少々ご立腹の様子だった。肘を自分の膝の上について、窓の外を眺めている。そんなリィルの肩を僕が叩くと、彼女は、肘をついたまま顔をこちらに向けて、黙って一度首を傾げた。
「あのさ、一つ訊いてもいいかな?」僕は尋ねる。
リィルは首を上下に動かして、了承の意思を示した。
「君は、ルルが話したことを、知っていたの?」
リィルは頷く。
「そう……」僕は言った。「えっと、どれくらい? すべて知っていたの? それとも、部分的に知っていただけ?」
僕の質問を受けて、リィルは左右に首を何度か傾ける。暫く首の往復運動が続いた。よく分からないが、おそらく、これは中立を示すジェスチャーだろう。つまり、知っていた部分もあるし、知らなかった部分もある、ということである。
「まあ、分かったよ。でも、気にしなくていいよ。君には、君なりの考えがあって、黙っていたんだろうし……」僕は話す。「それよりも、今考えなくてはならないのは、君の、その……、文字化けを改善する方法について、だ」
僕がそう言うと、リィルは二度頷いた。
リィルの文字化けは、ルルの人格が消えたあとに表れたから、当然、ルルの音声データが何らかの引き金になった、と考えるのが自然である。音声データそのものに原因がないとしても、リィルの内部に予め仕かけられていた何かが、ルルの人格が現れることによって作動したのは間違いない。
僕がぼんやりと考えていると、リィルが僕の肩を叩いてきた。
「うん? 何?」僕は尋ねる。
リィルは、なんだかもじもじとした様子で、視線がなかなか定まらない。
「何? あ、えっと、何か言いたいことがあるんだね?」
リィルは頷く。
「えっと……、なんだろう。あ、僕に、ご飯を食べたら、と言っているの?」
僕の問いに対して、リィルはふるふると首を振る。
「じゃあ、テレビでも観て楽しんだら、ということかな?」
リィルは怪訝そうな顔をして、さらに激しく首を振った。たしかに、この状況で、彼女がそんなことを言うはずがない。
「うーん、あとは、なんだろう……。構ってほしい、というわけでもなさそうだし……。うん……。あ、そうか、分かった」僕は言った。「お風呂に入りたいんだね?」
リィルは勢い良くソファから立ち上がり、リビングから出ていこうとする。
「いや、僕が悪かったよ」僕は笑いながら彼女を引き止める。
僕が肩に触れようとした途端、リィルは後ろを振り返って、激しく言葉を吐き出した。
「zbh, まmらあjんんっgrxへらんゔぁあqんんえん!」
僕は驚いて、一歩後ろに下がる。
「あんtんvんvqんvっflばっvhなあqんんえん,fhxbfvxへんv,jんgんfゔぁbっvgんvxbgbjbfんっfvgrlb!」
……。
僕は沈黙して、口を開けたままリィルの顔を見つめる。何か感情が篭ったことを言われたのは分かったが、言葉を理解できないので、意味を正しく把握することができなかった。僕には、どうしても、意味のないただの音に聞こえてしまう。もちろん、そこに意味の存在を感じることはできる。けれど、僕の側にその意味を受容できる型が存在しないから、彼女が話す言葉から内容を推察することは不可能だった。
「……ごめん」僕は謝る。
少し間を空けてから、リィルはにっこりと笑った。
僕もリィルも落ち着きを取り戻す。
「少し、外に出ない?」僕は提案した。「家にいても、意思の疎通ができないなら、何もできない。少し散歩でもして、気分を落ち着けよう」
僕も色々と整理したいことがあった。まだ、ルルに教えてもらったことが、完全には理解できていない。彼女と話し終えてから、一度眠ってしまったから、身体の調子が狂ってしまって、今はお腹も空いていなかった。運動をすれば、多少は食欲も湧いてくるかもしれない。
そう、食欲……。
僕はウッドクロックだけれど、人間と同じように食事をする。それだけではない。皮膚を損傷すれば血も流れるし、感動すれば涙も零れる。もはや、普通の人間と何も変わらない。
でも……。
だからといって、リィルと僕が対等な存在ではない、とは言いたくなかった。むしろ、彼女は、限りなく僕に似ている。そして、事実として僕と彼女は同じ生き物なのである。
そう考えると、少しだけ胸の内が明るくなるような気がした。
そうだ。
自分が人間であろうと、そうでなかろうと、そんなことはどうでも良い。
瑣末なことだ。
もっと気にしなくてはいけないことがある。
「さあ、行こう」僕はリィルの手を取って、彼女と玄関に向かった。「二足歩行すれば、誰でも人間だよ」
*
僕とリィルは、歩いて丘の上にある公園に向かった。そこは僕と彼女が十三年前に初めて出会った場所で、そして、十三年振りに再開した場所でもある。街の片隅にあるこの公園には今は誰の姿もなかった。時間帯も関係しているかもしれないけれど、そもそも、こんな場所に公園があることを知っている人は少ない。僕も、ときどき散歩をするから、たまたまこの丘の上まで辿り着いたというだけで、誰かから聞いてこの公園の存在を知ったわけではなかった。
それが当たり前であるかのように、僕たちは並んでベンチに腰をかける。リィルは遠くの方を見たまま固まってしまって、僕の方を見ようとはしなかった。といっても、お互いに顔を見合わせても会話はできないのだから、必然的にそうするしかない。吹き抜ける風が心地良かった。今日は空は晴れている。青空というほどではなかったけれど、雲が一つもなくて、涼しい水色がずっと向こうまで続いていた。
上から見渡してみると、この街が如何に隔離されているかが分かる。北に海、南に山があるから、隔離、というのは何の比喩でもない。そして、この街は、トラブルメーカーが統治するブルースカイによって監視されている。その装置はベソゥが管理しているもので、僕は、彼はどうしているだろう、と少しだけベソゥのことが心配になった。ベソゥは一度自殺をしようとしているから、これからも、同じ論理的帰結に至る可能性がある。そうなったら本当に困るけれど、彼が自殺という結論に辿り着いたことは、記憶として存在しないことになっているから、それほど気に病む必要はないかもしれない。ただ、心配といえば心配だったし、最近会っていなかったから、時間を作って彼に会いに行こう、と思った。
視線を横に向けて、僕はリィルの顔を見つめる。
それに気がついて、彼女は僅かに首を傾げた。
そのジェスチャーを見て、いつも通りのリィルだ、と僕は一人で安心する。
これまで何度もそんなことを繰り返してきた。
そして、きっとこれからも……。
「ねえ、リィル」僕は言った。「もしも、僕と、君が、今後ずっと、意思の疎通が図れなかったら、どうする?」
リィルは首の角度を大きくする。
「君の文字化けが、永遠に続くとしたら、どうするのか、という質問なんだ」
僕の説明を聞いて、リィルは少しだけ悲しそうな顔をした。
しかし、彼女の口から言葉は出てこない。
「君はさ、それでも、僕とずっと一緒にいる?」
僕が質問すると、リィルは頷いた。
「そう……。それなら、いいよ。僕も、そうしたいと思っていたから」
強い風が吹いて、ブランコのチェーンを軋ませた。誰も乗っていなくても、シーソーは必ずどちらかに傾いている。バランスをとるのはとても難しい。限りなく偏りをゼロに近づけることはできても、完全にゼロにすることはできない。だから、必ずどちらかには傾いている。
僕は、意思の疎通が図れない彼女と、ずっと一緒にいることが、辛いか、否か、と自分に問い質した。答えはすぐに出た。だから、きっと、そちらの方に傾いているのだと思う。僕は、彼女と出会った瞬間から、そちらの方にすでに傾いていて、その結果として、今、躊躇なく答えを出すに至った。それは真実ではないかもしれない。今の僕がそう思いたいだけかもしれなかった。その可能性は充分にある。けれど、僕は今にしかいないのだから、それで良いだろう、と少しだけ前向きに考えることができた。
それは、僕がリィルに陶酔している証拠かもしれない。いや、きっとそうだろう。もう、陶酔しきってしまって、どうしようもない、といっても良いかもしれない。そんなこと、彼女には直接伝えられないけれど、本当に些細なことも伝えられない経験をして、やっぱり、伝えられる内に伝えておいた方が良いのかな、なんて考えたりもする。もちろん、考えることは簡単だから、それよりも難しい実行という観点から考えると、自分にそんなことができるのか疑わしい。けれど、僕は臆病者だから、それでちょうど良いかもしれない、とも思う。
どうしたら良いだろう?
まあ、どちらでも良いか……。
それが、僕という存在なのだから。
リィルが僕の袖を引っ張り、もう片方の手で空に向かって指をさす。
「何?」
空を見ると、遠くの方に飛行船が浮かんでいるのが見えた。
飛行船を見たのはいつ振りだろう?
最後に見たのは、幼稚園の頃かもしれない。
飛行船が見えなくなるのは、どうしてだろう?
気になったから、僕はリィルに尋ねた。
「ねえ、リィル。どうして、大きくなると、飛行船は見えなくなるのかな?」
リィルは口を開く。
「zvらんvzばぶん,あんvgっbzbvxb←lbはゔぁねhんえn」
彼女の言葉は理解できなかったけれど、僕はとりあえず応えた。
「君には、僕の思考が、見える?」
リィルは、驚いたような顔をして、それから、小さく微笑んだ。
けれど、それは事実ではなかった。僕は人間ではない。ウッドクロックは人間そっくりな見た目をしているけれど、だからといって、人間と同じものではない。身体はバイオロジカルなパーツだけで構成されているのではないし、世界を認識する方法だって、人間のそれとは明らかに違っている。ただ、人間をモデルに作られたものだから、人間との互換性がある、というだけだ。しかし、その互換性が、僕が誤解する原因となった。ルルに事実を伝えられる前から、僕は薄々気がついていた。いや、それは、気がついていた、という言葉では上手く表せない。そんな可能性を想定していたというだけで、僕も、そんなことはないだろう、と勝手に思い込んでいた。けれど、可能性がある限り、決してありえないわけではない。僕が人間であるか、そうでないか、ということについては、ゼロか一のどちらかでしかない。yesかnoかという問いに対して、僕がnoであることが判明した、ということである。
僕にその事実を告げたルルは、一呼吸置いてから、説明を再開した。
「貴方は、私が生産したウッドクロックの中で、唯一完成した個体でした」ルルは話す。「ベソゥも、テュナも、そしてリィルも、それぞれ何らかの不備を抱えている。ベソゥにはフリーズが起こり、テュナは早熟すぎて死亡してしまった。そして、リィルは、生まれながらにして、自分がウッドクロックであることを悟っていたのです」
「……それは、不備ですか?」
「不備です」僕が質問すると、ルルは何の躊躇も見せずに答えた。「私の目的は、人間と同じようなものに、自分が人間だと思い込ませて、生み出すことでした。彼女は、自分が人間ではないことに気づいてしまった。おそらく、ベーシックの配列に、何らかの誤りがあったのでしょう。詳細は分かりません。……そして、貴方は、自分が人間だと思い込んで、今日まで生きてきた。だから、私にとって、貴方は、唯一の実験の成功例なのです」
「実験って……。……僕は、どうしたらいいんですか?」
僕は、自分で自分が分からなくなるくらいに、現実を理解することができなくなっていた。予想していても、結果を目の当たりにすれば、それに伴って感情も揺れ動く。
「どうしようもありません。人間の人生は、何もないゼロからではなく、自分が存在しているという、一からすべてが始まります。一から百に向かうのか、それとも、ゼロに向かうのか、それは分かりませんが、貴方はすでに存在しているのです。そして、ベーシックの記述によって、貴方には確かにに『意思』も存在している。過去は変えられません」
キッチンには、リィルが落として割れたカップの破片が、そのまま散らばっているだろうな、と、僕は、なぜか、そんな、どうでも良いことを、ぼんやりと、頭の片隅で考えていた。自分でも、意外と客観的に現状を把握できていることに驚く。問題は主観的な視点の方で、そちらは、感情によるシャットアウトが発生したのか、今は正しく作動していなかった。
「さて、そろそろ、私の説明も終わりに差しかかろうとしています。残っているのは、それでは、どうして、リィルは貴方に会いに来たのか、ということです」
僕は、もう口を開かなかった。
駄目だ、何も話せない、と感じる。
「リィルは、貴方に会う一日前に、テュナと会っていました。……そうです。貴方は、テュナが将来的に存続できなかった場合の、保険です」
僕は黙って頷く。
「リィルの本命は、テュナでした。自分が唯一ウッドクロックであることを自覚している彼女には、人間と仲良くなる前の段階として、自分がウッドクロックであることを自覚していない者と、関係を築いてもらう必要がありました。つまり、リィルは、テュナをスカウトしに来た。しかしながら、テュナには先ほど述べた不備があった。そこで、テュナと貴方の二人をスカウトの対象とすることで、どちらかとは確実に関係を築けるようにしたのです」
ルルの青い瞳が僕を見つめる。
「貴方を第一の候補に選ばずに、リスクを負いながらも、テュナを第一の候補にしたのには、理由があります。それは、リィルが、貴方よりも、テュナの方を気に入ったから、というわけではありません。テュナには、もう一つ、特徴がありました。……彼の寿命が平均以上に短いことは、予め分かっていましたが、もし、その予測が外れて、彼が死亡しなかった場合、彼のウッドクロックは半永久機関になる可能性がある、という検査結果が出ていたのです。それが、リィルにテュナを第一の候補として選ばせた理由です。それに対して、貴方には、早熟ながらも、死亡するほどのリスクはなかった。だから、テュナの次に貴方が選ばれた。ベソゥに関しては、先述した致命的な不備が存在していたため、最初の段階で、すでにスカウトの対象から外されていました」
「どうして、わざわざ、僕に、僕が人間ではない、ということを、伝えに来たのですか?」僕は訊きたいことを素直に質問した。
「さあ、どうしてだと思いますか?」
僕とルルは数秒間黙って見つめ合う。
リィルに見つめられると、胸の内がとても温かくなるのに、ルルに見つめられても、全然そんな感じはしなかった。
でも……。
ルルの視線も、決して嫌いではない。
彼女は、きっと、彼女なりの優しさのつもりで、今、僕にこうして接してくれている。
ルルが教えてくれなくても、その答えは僕にも分かった。
だから、僕はそれ以上は尋ねなかった。
そう……。
忘れていたけれど、それが、僕のポリシーというものである。
「貴方は、今日、私の説明を聞いて、自分が人間ではないことを知りました」質問に答える代わりに、ルルは話した。「私の遺志をお伝えするこの音声データの機能が失われれば、貴方は、また、リィルと一緒に暮らすことになります。いえ、正確には、その選択も可能だ、ということです。貴方は、今まで通り、彼女と生活することを望みますか?」
ずっと緊迫していた空気が、彼女のその一言で、ふっと弛緩したような気がした。
僕は少し笑って答える。
「たぶん、そうすると思います」
「それは、なぜですか?」
「なぜ、という質問には答えられません」僕は言った。「僕が、そうしたいから、では駄目ですか?」
「それを決めるのは、貴方自身です」ルルは話す。「自分が何者で、何をするのか、何を目的に生きるのか、それは、すべて、貴方が決めることです。たとえ、貴方が、私に作られた人工的な存在だとしても……」
僕は彼女に試されていると思った。もし、僕がそれらのことを放棄してしまえば、ルルの実験は失敗することになる。なぜなら、それらの決定を自ら行うのが、人間という生き物だからだ。ウッドクロックが人間と等しい存在であるのなら、それらの決定を実行し、自ら自分を規定しなくてはならない。だから、ルルの実験の成功は、僕がどう応えるかにかかっている。
けれど、僕がその質問に答える時間はなかった。
「時間です」ルルが唐突に言った。
そして、彼女の胸部にあるウッドクロックが、前方に半透明のディスプレイを投影する。そこには時計の文字盤が表示されていて、長い針はゼロを指していた。
「貴方が、どのような答えを選ぶのか、その確認は、リィルに任せようと思います」
「貴女は、僕に会えてよかったですか?」
「ええ、よかったです」
「僕もです」僕は言った。「またいつか、会えますか?」
「いいえ、もう会えません」ルルは答える。「会えなくても、伝わる関係を、リィルとの間に築いて下さい」
ルルは最後まで笑顔だった。まるで遠い未来を見つめるように、彼女の表情は終始清々しかった。悩みなど何もなく、自分がやってきたことに自信を持っているような、そんな素晴らしい存在であるように、僕には見えた。
ルルの目から青色の光が消失し、彼女は椅子から落ちそうになる。
僕は瞬時に立ち上がって、リィルが床に倒れる前に、彼女の身体を支えた。
そう……。
リィルは、その完璧なスタビライザーで、いつでも僕を支えてくれる。
だから、今は、僕が彼女を支えよう。
そんな関係が、僕とリィルには相応しい。
言葉では答えられなかったけれど、最後の最後で、この行動が示す意味が、ルルにも伝わっていればいいな、と僕は思った。
それに応えるように、目を閉じたまま、リィルは微笑んだ。
*
目を覚ますと、部屋のシャッターがすべて開いていた。窓から陽光が差し込み、この閉鎖的な空間をぼんやりと照らし出している。天井に写る影が規則的に揺れ、僕とこの空間との間に、夢心地な境界が存在するような錯覚に囚われる。僕は立ち上がって、影を作る原因であるレースのカーテンを開いて、大量の日の光を部屋の中に取り込んだ。それでも、まだ部屋は薄暗い。朝になったばかりだった。今日は日曜日だ、と僕は何の脈絡もなく思い出す。
振り返ると、リィルが立っていた。
彼女は、首を傾げて、僕を見つめている。
「おはよう」
僕は言った。
リィルは軽く頷き、それから少し微笑む。
「昨日の話、全部、聞いていた?」
僕がそう尋ねると、リィルは小さく頷いた。しかし、彼女はそのまま顔を下に向けてしまう。
「まあ、仕方がないよ。というよりも、僕は、むしろ、君が聞いていてくれてよかったと思っている。説明するのも面倒だし、何よりも、一番その話を聞かなくてはいけないのは、君だからね」
リィルは再度首を傾ける。今度は先ほどよりも角度が大きかった。これは、どういう意味か、と尋ねる際に見せるジェスチャーである。
「うん、つまりね、君の母親の話は、君が聞くべきだ、ということだよ」
リィルは、僕を指差した。
「何?」
彼女はその動作を二、三度と繰り返す。
「どうしたの?」
リィルは軽く溜息を吐いた。僕には、その意味を理解することができない。呆れられているのか、それとも、自分の意思が伝わらなくて、落胆しているのか……。
?
意思が伝わらない?
どうしてそんなことが起きるのだろう?
口で話せば良いだけではないか……。
「……あのさ、リィル。それじゃあ、何も伝わらないから、きちんと話してくれないかな」
僕がそう言うと、リィルは、なんだか悲しそうな顔を僕に向けてくる。
僕は嫌な予感がした。
「何? どうしたの? 分からないから、口で説明してよ」
リィルは苦笑いをする。
僕は唾を飲み込んだ。
そう……。
悪い予感は、必ずといって良いほど的中する。
彼女は口を開いて声を発した。
けれど……。
それは、聞くことができても、理解できるものではなかった。
「glbっbg,qbhfrgfhzrvふvgねんっゔぁbんjんんえなんゔぁあqんxrqb」
彼女の言葉は、文字化けしていた。
*
会話ができないリィルをソファに座らせて、僕たちはなんとか意思を伝え合うことに成功した。彼女に紙とペンを手渡して、文字による筆談を行おうとしたが、なんと、彼女のバグは、筆記される言葉にまで文字化けを引き起こした。だから、僕が一方的に質問して、それに彼女がyesかnoで答える、という方法を採用した。yesなら頷き、noなら首を振ってもらうだけである。そのせいで、いつもなら五分で終了する情報交換に、三十分ほどかかってしまった。
リィルには、ルルが乗り移っていたときのログが完璧に残されていた。ルルの音声データは、彼女のウッドクロックが特定の数値を刻んだタイミングで作動するようになっていて、リィルの頭脳にルルの人格を一時的にポップアウトさせることで、外界との接触を可能にする、というものだった。だから、僕が会話をしたのがルル本人だったかというと、実はそういうわけではない。
リィルに残されたログには、ルルが僕に話した内容が、より詳細に記録されていた。リィルが自身のウッドクロックを展開して、大気中にディスプレイを投影することで、僕はその内容を確認することができた。
そのログには、ルルが話したメインの内容はもちろん、それ以外の、もっと細かいことまで、本当にすべてが記録されていた。たとえば、リィルが僕のもとへスカウトに来る二日前に、トラブルメーカーの幹部がベソゥのもとにやって来た、といった内容がその一例である。十三年前のその日、ベソゥはルルたちからブルースカイシステムを預けられて、例の施設で隔離された生活を始めることになった。その次の日に、テュナがスカウトを受け、そして、さらにその翌日に、僕とリィルが出会った、ということらしい。
そう……。
本当に、僕たちの出会いは、ルルに規定されていたのである。
その規定が、僕たちに、運命、と呼ばれるものを意識させたことは間違いない。
それ以前に、僕がウッドクロックである時点で、僕の人生や、運命は、予め決められていた、といった方が正しいだろう。
それは、きっと、リィルも同じである。彼女は自分がウッドクロックであることを早い段階で悟っていたから、もしかすると、普段からそんなことを意識することが多かったかもしれない。そう思うと、僕は少しだけ寂しいような気持ちになった。
ルルがログとして残したことが、本当に事実であるのか、それを証明する方法はない。しかし、それが記録というものである。観察した事象を記述した瞬間に、事実は事実ではなくなる。その結果、後々辻褄の合わない部分が出てくることもある。それは、多くの場合、情報の不足が原因であるけれど、もっと個人的な、こうだったら良いな、といった種類の願望が関係している場合もある。ルルが意図的に記録を改竄して、僕たちにそれを伝えた可能性もないとはいえない。だからといって、彼女が僕に伝えた内容が、まったく信じられないというわけではなかった。おそらく、その内のほとんどは事実だろう。そうでないと、ルルがわざわざ僕に会いに来た理由が分からなくなる。
ルルは、僕に質問しに来たのかもしれない。
僕は、いったい何者なのか、と……。
考え事をしている僕の隣に、リィルが不機嫌そうな顔で座っている。意思の疎通が上手くいかなかったから、彼女は少々ご立腹の様子だった。肘を自分の膝の上について、窓の外を眺めている。そんなリィルの肩を僕が叩くと、彼女は、肘をついたまま顔をこちらに向けて、黙って一度首を傾げた。
「あのさ、一つ訊いてもいいかな?」僕は尋ねる。
リィルは首を上下に動かして、了承の意思を示した。
「君は、ルルが話したことを、知っていたの?」
リィルは頷く。
「そう……」僕は言った。「えっと、どれくらい? すべて知っていたの? それとも、部分的に知っていただけ?」
僕の質問を受けて、リィルは左右に首を何度か傾ける。暫く首の往復運動が続いた。よく分からないが、おそらく、これは中立を示すジェスチャーだろう。つまり、知っていた部分もあるし、知らなかった部分もある、ということである。
「まあ、分かったよ。でも、気にしなくていいよ。君には、君なりの考えがあって、黙っていたんだろうし……」僕は話す。「それよりも、今考えなくてはならないのは、君の、その……、文字化けを改善する方法について、だ」
僕がそう言うと、リィルは二度頷いた。
リィルの文字化けは、ルルの人格が消えたあとに表れたから、当然、ルルの音声データが何らかの引き金になった、と考えるのが自然である。音声データそのものに原因がないとしても、リィルの内部に予め仕かけられていた何かが、ルルの人格が現れることによって作動したのは間違いない。
僕がぼんやりと考えていると、リィルが僕の肩を叩いてきた。
「うん? 何?」僕は尋ねる。
リィルは、なんだかもじもじとした様子で、視線がなかなか定まらない。
「何? あ、えっと、何か言いたいことがあるんだね?」
リィルは頷く。
「えっと……、なんだろう。あ、僕に、ご飯を食べたら、と言っているの?」
僕の問いに対して、リィルはふるふると首を振る。
「じゃあ、テレビでも観て楽しんだら、ということかな?」
リィルは怪訝そうな顔をして、さらに激しく首を振った。たしかに、この状況で、彼女がそんなことを言うはずがない。
「うーん、あとは、なんだろう……。構ってほしい、というわけでもなさそうだし……。うん……。あ、そうか、分かった」僕は言った。「お風呂に入りたいんだね?」
リィルは勢い良くソファから立ち上がり、リビングから出ていこうとする。
「いや、僕が悪かったよ」僕は笑いながら彼女を引き止める。
僕が肩に触れようとした途端、リィルは後ろを振り返って、激しく言葉を吐き出した。
「zbh, まmらあjんんっgrxへらんゔぁあqんんえん!」
僕は驚いて、一歩後ろに下がる。
「あんtんvんvqんvっflばっvhなあqんんえん,fhxbfvxへんv,jんgんfゔぁbっvgんvxbgbjbfんっfvgrlb!」
……。
僕は沈黙して、口を開けたままリィルの顔を見つめる。何か感情が篭ったことを言われたのは分かったが、言葉を理解できないので、意味を正しく把握することができなかった。僕には、どうしても、意味のないただの音に聞こえてしまう。もちろん、そこに意味の存在を感じることはできる。けれど、僕の側にその意味を受容できる型が存在しないから、彼女が話す言葉から内容を推察することは不可能だった。
「……ごめん」僕は謝る。
少し間を空けてから、リィルはにっこりと笑った。
僕もリィルも落ち着きを取り戻す。
「少し、外に出ない?」僕は提案した。「家にいても、意思の疎通ができないなら、何もできない。少し散歩でもして、気分を落ち着けよう」
僕も色々と整理したいことがあった。まだ、ルルに教えてもらったことが、完全には理解できていない。彼女と話し終えてから、一度眠ってしまったから、身体の調子が狂ってしまって、今はお腹も空いていなかった。運動をすれば、多少は食欲も湧いてくるかもしれない。
そう、食欲……。
僕はウッドクロックだけれど、人間と同じように食事をする。それだけではない。皮膚を損傷すれば血も流れるし、感動すれば涙も零れる。もはや、普通の人間と何も変わらない。
でも……。
だからといって、リィルと僕が対等な存在ではない、とは言いたくなかった。むしろ、彼女は、限りなく僕に似ている。そして、事実として僕と彼女は同じ生き物なのである。
そう考えると、少しだけ胸の内が明るくなるような気がした。
そうだ。
自分が人間であろうと、そうでなかろうと、そんなことはどうでも良い。
瑣末なことだ。
もっと気にしなくてはいけないことがある。
「さあ、行こう」僕はリィルの手を取って、彼女と玄関に向かった。「二足歩行すれば、誰でも人間だよ」
*
僕とリィルは、歩いて丘の上にある公園に向かった。そこは僕と彼女が十三年前に初めて出会った場所で、そして、十三年振りに再開した場所でもある。街の片隅にあるこの公園には今は誰の姿もなかった。時間帯も関係しているかもしれないけれど、そもそも、こんな場所に公園があることを知っている人は少ない。僕も、ときどき散歩をするから、たまたまこの丘の上まで辿り着いたというだけで、誰かから聞いてこの公園の存在を知ったわけではなかった。
それが当たり前であるかのように、僕たちは並んでベンチに腰をかける。リィルは遠くの方を見たまま固まってしまって、僕の方を見ようとはしなかった。といっても、お互いに顔を見合わせても会話はできないのだから、必然的にそうするしかない。吹き抜ける風が心地良かった。今日は空は晴れている。青空というほどではなかったけれど、雲が一つもなくて、涼しい水色がずっと向こうまで続いていた。
上から見渡してみると、この街が如何に隔離されているかが分かる。北に海、南に山があるから、隔離、というのは何の比喩でもない。そして、この街は、トラブルメーカーが統治するブルースカイによって監視されている。その装置はベソゥが管理しているもので、僕は、彼はどうしているだろう、と少しだけベソゥのことが心配になった。ベソゥは一度自殺をしようとしているから、これからも、同じ論理的帰結に至る可能性がある。そうなったら本当に困るけれど、彼が自殺という結論に辿り着いたことは、記憶として存在しないことになっているから、それほど気に病む必要はないかもしれない。ただ、心配といえば心配だったし、最近会っていなかったから、時間を作って彼に会いに行こう、と思った。
視線を横に向けて、僕はリィルの顔を見つめる。
それに気がついて、彼女は僅かに首を傾げた。
そのジェスチャーを見て、いつも通りのリィルだ、と僕は一人で安心する。
これまで何度もそんなことを繰り返してきた。
そして、きっとこれからも……。
「ねえ、リィル」僕は言った。「もしも、僕と、君が、今後ずっと、意思の疎通が図れなかったら、どうする?」
リィルは首の角度を大きくする。
「君の文字化けが、永遠に続くとしたら、どうするのか、という質問なんだ」
僕の説明を聞いて、リィルは少しだけ悲しそうな顔をした。
しかし、彼女の口から言葉は出てこない。
「君はさ、それでも、僕とずっと一緒にいる?」
僕が質問すると、リィルは頷いた。
「そう……。それなら、いいよ。僕も、そうしたいと思っていたから」
強い風が吹いて、ブランコのチェーンを軋ませた。誰も乗っていなくても、シーソーは必ずどちらかに傾いている。バランスをとるのはとても難しい。限りなく偏りをゼロに近づけることはできても、完全にゼロにすることはできない。だから、必ずどちらかには傾いている。
僕は、意思の疎通が図れない彼女と、ずっと一緒にいることが、辛いか、否か、と自分に問い質した。答えはすぐに出た。だから、きっと、そちらの方に傾いているのだと思う。僕は、彼女と出会った瞬間から、そちらの方にすでに傾いていて、その結果として、今、躊躇なく答えを出すに至った。それは真実ではないかもしれない。今の僕がそう思いたいだけかもしれなかった。その可能性は充分にある。けれど、僕は今にしかいないのだから、それで良いだろう、と少しだけ前向きに考えることができた。
それは、僕がリィルに陶酔している証拠かもしれない。いや、きっとそうだろう。もう、陶酔しきってしまって、どうしようもない、といっても良いかもしれない。そんなこと、彼女には直接伝えられないけれど、本当に些細なことも伝えられない経験をして、やっぱり、伝えられる内に伝えておいた方が良いのかな、なんて考えたりもする。もちろん、考えることは簡単だから、それよりも難しい実行という観点から考えると、自分にそんなことができるのか疑わしい。けれど、僕は臆病者だから、それでちょうど良いかもしれない、とも思う。
どうしたら良いだろう?
まあ、どちらでも良いか……。
それが、僕という存在なのだから。
リィルが僕の袖を引っ張り、もう片方の手で空に向かって指をさす。
「何?」
空を見ると、遠くの方に飛行船が浮かんでいるのが見えた。
飛行船を見たのはいつ振りだろう?
最後に見たのは、幼稚園の頃かもしれない。
飛行船が見えなくなるのは、どうしてだろう?
気になったから、僕はリィルに尋ねた。
「ねえ、リィル。どうして、大きくなると、飛行船は見えなくなるのかな?」
リィルは口を開く。
「zvらんvzばぶん,あんvgっbzbvxb←lbはゔぁねhんえn」
彼女の言葉は理解できなかったけれど、僕はとりあえず応えた。
「君には、僕の思考が、見える?」
リィルは、驚いたような顔をして、それから、小さく微笑んだ。
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