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第2部 食べたいと思う話
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木の葉のトンネルはずっと向こうまで続いている。二人が歩く間にも、頭の上から次々と葉が舞い落ちてきた。ときどきそれが額に貼り付いて、手で退けたりする。その葉が何の種類かは分からなかった。緑色の葉であれば種類を気にするのに、枯れ葉になった途端に気にならなくなるのはなぜだろう。
「最近、どうだった?」前を向いたまま彼が質問した。
「どうというのは?」彼の方を向いて彼女は尋ねる。
「体調、あるいは、進捗」
「何の進捗?」
「色々と考えていることがあるんだろう?」
たしかにその通りだったから、彼女は頷いた。しかし、何も考えていないということがあるだろうかと同時に思った。何も考えられない状態というのは、何も考えられないということは考えられる状態ともいえる。いや、この種の思考はチープすぎて駄目だろう。思考回路を切り替えないと……。
と考えているのは、もちろん彼女だ。
「有機化合物を選択可能にしようと思って」彼女は言った。「でも、そのためにはクラスAの選択権が必要で、今の私ではどうにもならないかも」
「どうして、有機化合物が必要? 無機では駄目なの?」
「うん、駄目」彼女は頷く。「きちんとしたサイクルを成り立たせるには、どうしても有機でないと上手くいかない。どうしてかは分からないけど、少なくとも、私が確かめた限りではそうだった。閾値を越えない」
「それは、しかし、どうも不思議だ」
「そうだよね」
「君のことだから、何もミスはないんだろう」彼は呟くように話す。「僕ももう少し考えてみよう」
「考えているだけじゃ、駄目な気がして」
「インスピレーション?」
「というか、全体的に情報不足だと思う」
「情報というのは、どういう種類の?」
「閾値を越えないのは、純粋に、合成のための材料が足りていないからじゃないかってちょっと思う」彼女は話した。「でも、具体的にどんな種類の材料が足りていないのか分からない。ストラクチャーに関係するものか、それとも、アクションに関係するものか。その大枠ですら分からない」
「両方試してみては?」
「そうだよね」彼女は頷く。「そうしてみようかな」
話している内にいつの間にか木の葉のトンネルを抜けていた。眼前には街並みが広がっている。巨大な時計塔が遙か向こうの方に立ち、それを中心に茶色がかったビル群が立ち並んでいた。自動車は一台も走っていない。歩く人々の数は少なかったが、それでも街は喧噪に包まれていた。
振り返ると、もう、木の葉の空間は見えなかった。
大通りから一歩先に入った裏道に、彼の言っていたカフェがあった。彼の言う「洒落ている」の基準は不明だが、年季が入った古風な建物だった。ビルの一階がカフェになっている。煉瓦造りの壁に木製の窓枠が並び、屋根は赤色で緑色の蔦がその表面を覆っていた。カフェの上が花屋になっているようだ。
扉を開けるとベルの音が鳴った。エプロンを身につけた老齢の店員がこちらを見て、少しだけ微笑んだ。お好きな席にと言われ、二人は窓際の席に腰を下ろす。
水の配給はなかった。珍しいことではない。メニューを広げて、何を注文するか決める。彼はコーヒーとサンドウィッチ、彼女はココアとイチゴのショートケーキとパンプキンパイとオムライスを注文した。
「食べすぎじゃない?」彼が言った。
「うーん、ずっと眠っていた分、食べたいんだ」
「太るよ」
「太っても、また痩せればいいんだよ」
しかし、彼女が太る予定はなかった。
店内には幾人かの客人がいる。皆、何かを話しているが、何を話しているのかは分からない。
落ち着いた音楽が流れている。
彼が窓の外に視線を向ける仕草。
彼女もつられてそちらを見る。
道が見える。
ふと、天井に目を向けると、木製の羽を備えた照明の姿が。
木造の支柱と梁。
店内の壁面にも伝っている蔦。
頬杖をついた彼の姿。
彼女は手を伸ばして、彼の手に触れる。
彼は何の反応もしない。
まるで、それが普通のことでもあるみたいに。
そう、普通。
「ずっと待っていたんだ」窓の外を見たまま、彼が言った。「また会えると信じてた」
「ごめんね」彼女は謝る。
「死ぬのは君には似合わないよ」
「ロボットだから?」
「もっと別の理由で」
「どんな理由?」
「目を閉じている表情が可愛くないという理由」
「酷くない?」
「逆に言えば、目が開いている方が可愛い」
「言い方ってものがあるよね」
「あるけど、言っていることは同じだということに気づけば、生きる辛さが幾分和らぐ」
「生きるの、辛いの?」
「全然」彼は首を振る。「君は?」
「私、生きてないから」
「存在しているだけ?」
「でも、生きたいとは思うよ」
「生きたら?」
「どうやって?」
「そうか。そのために死が必要だったのか」
「違うよ」今度は彼女が首を振った。「シ→じゃなくて、シ↑だよ」
「最近、どうだった?」前を向いたまま彼が質問した。
「どうというのは?」彼の方を向いて彼女は尋ねる。
「体調、あるいは、進捗」
「何の進捗?」
「色々と考えていることがあるんだろう?」
たしかにその通りだったから、彼女は頷いた。しかし、何も考えていないということがあるだろうかと同時に思った。何も考えられない状態というのは、何も考えられないということは考えられる状態ともいえる。いや、この種の思考はチープすぎて駄目だろう。思考回路を切り替えないと……。
と考えているのは、もちろん彼女だ。
「有機化合物を選択可能にしようと思って」彼女は言った。「でも、そのためにはクラスAの選択権が必要で、今の私ではどうにもならないかも」
「どうして、有機化合物が必要? 無機では駄目なの?」
「うん、駄目」彼女は頷く。「きちんとしたサイクルを成り立たせるには、どうしても有機でないと上手くいかない。どうしてかは分からないけど、少なくとも、私が確かめた限りではそうだった。閾値を越えない」
「それは、しかし、どうも不思議だ」
「そうだよね」
「君のことだから、何もミスはないんだろう」彼は呟くように話す。「僕ももう少し考えてみよう」
「考えているだけじゃ、駄目な気がして」
「インスピレーション?」
「というか、全体的に情報不足だと思う」
「情報というのは、どういう種類の?」
「閾値を越えないのは、純粋に、合成のための材料が足りていないからじゃないかってちょっと思う」彼女は話した。「でも、具体的にどんな種類の材料が足りていないのか分からない。ストラクチャーに関係するものか、それとも、アクションに関係するものか。その大枠ですら分からない」
「両方試してみては?」
「そうだよね」彼女は頷く。「そうしてみようかな」
話している内にいつの間にか木の葉のトンネルを抜けていた。眼前には街並みが広がっている。巨大な時計塔が遙か向こうの方に立ち、それを中心に茶色がかったビル群が立ち並んでいた。自動車は一台も走っていない。歩く人々の数は少なかったが、それでも街は喧噪に包まれていた。
振り返ると、もう、木の葉の空間は見えなかった。
大通りから一歩先に入った裏道に、彼の言っていたカフェがあった。彼の言う「洒落ている」の基準は不明だが、年季が入った古風な建物だった。ビルの一階がカフェになっている。煉瓦造りの壁に木製の窓枠が並び、屋根は赤色で緑色の蔦がその表面を覆っていた。カフェの上が花屋になっているようだ。
扉を開けるとベルの音が鳴った。エプロンを身につけた老齢の店員がこちらを見て、少しだけ微笑んだ。お好きな席にと言われ、二人は窓際の席に腰を下ろす。
水の配給はなかった。珍しいことではない。メニューを広げて、何を注文するか決める。彼はコーヒーとサンドウィッチ、彼女はココアとイチゴのショートケーキとパンプキンパイとオムライスを注文した。
「食べすぎじゃない?」彼が言った。
「うーん、ずっと眠っていた分、食べたいんだ」
「太るよ」
「太っても、また痩せればいいんだよ」
しかし、彼女が太る予定はなかった。
店内には幾人かの客人がいる。皆、何かを話しているが、何を話しているのかは分からない。
落ち着いた音楽が流れている。
彼が窓の外に視線を向ける仕草。
彼女もつられてそちらを見る。
道が見える。
ふと、天井に目を向けると、木製の羽を備えた照明の姿が。
木造の支柱と梁。
店内の壁面にも伝っている蔦。
頬杖をついた彼の姿。
彼女は手を伸ばして、彼の手に触れる。
彼は何の反応もしない。
まるで、それが普通のことでもあるみたいに。
そう、普通。
「ずっと待っていたんだ」窓の外を見たまま、彼が言った。「また会えると信じてた」
「ごめんね」彼女は謝る。
「死ぬのは君には似合わないよ」
「ロボットだから?」
「もっと別の理由で」
「どんな理由?」
「目を閉じている表情が可愛くないという理由」
「酷くない?」
「逆に言えば、目が開いている方が可愛い」
「言い方ってものがあるよね」
「あるけど、言っていることは同じだということに気づけば、生きる辛さが幾分和らぐ」
「生きるの、辛いの?」
「全然」彼は首を振る。「君は?」
「私、生きてないから」
「存在しているだけ?」
「でも、生きたいとは思うよ」
「生きたら?」
「どうやって?」
「そうか。そのために死が必要だったのか」
「違うよ」今度は彼女が首を振った。「シ→じゃなくて、シ↑だよ」
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