皿かナイフか

羽上帆樽

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第2章 改札口前後

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 店内に入ってきた少年は、カウンター席に座って店主にコーヒーを注文した。どうやら顔馴染みのようだ。月夜はここに来たのは初めてだったので、この時間にこの場所にいるのは、少年の方ではなく、彼女の方がおかしいのかもしれなかった。

 膝の上でもそもそと動くフィルにときどき構いながら、月夜は引き続き絶賛勉強中だった。誰に絶賛されているのかは不明だが、とにかく頭を回転させてペンを動かしていた。頭を回転させるというのは、首から上が回転機構になっていて、遠心力を生じさせながら一周ぐるりと、という意味ではない。

「お前以外にも、夜遊びしているやつはいるんだな」自分の手を舐めながら、フィルが言った。

「夜遊びしているつもりは、ないけど」

「でも、外に出ているじゃないか」

「うん……」月夜は小さく頷く。「じゃあ、そうかも」

「そういうところは、案外素直に認めるんだな」

「うん」

「素直にするべきところを、間違えているんじゃないか?」

「じゃあ、どこを素直にしたらいいの?」

「まずは、自分に対してだな」

「自分に対して、何を素直にしたらいいの?」

「気持ちだよ」

「気持ち?」

「それは、気持ちとは、どこにあるのか、という質問か?」

「ううん。気持ちとは、どのようにしてあるのか、という質問」

「なかなか頭が冴えているみたいだな」

「そうかも」

 店内では何の音楽もかかっていないので、話すときは声を落とさなくてはならなかった。新しく客が来たからではない。ほかに誰もいなくても、なんとなくそうしなくてはならないような気がする。かつての月夜は、そういうこところはかなり鈍感だったが、最近になって少しずつ配慮ができるようになった。

「あまり、丸くなりすぎるのも、よくないだろう」欠伸をしながら、なんとなくという感じで、フィルが零す。

「丸く、なる?」

「自分でも、そんな感じがしないか?」

「丸くなる、の意味がよく分からない」

「社会の波に揉まれて、角ばっていた部分が自然と磨り減っていくことだよ」

「つまり?」

「社会の言いなりになるってことだな」

「それなら、そんなことはない、と、思うけど」

「そう思いたい、の間違いじゃないか?」

 月夜は一度顔を上げ、正面を真っ直ぐ見つめる。暫くするとまた手もとに目を戻し、首を振った。

「それも、違うと思う」

 テーブルの上には依然として何もない。これ以上何かを注文する気は、月夜にはなかった。この店には、どういうわけか、砂糖や紙ナプキンの類は何一つとして用意されていない。経費節約のためかもしれない。

「要するに、それが青春というものだ」フィルが言った。

 月夜は彼の言葉に反応しない。黙って参考書のページを捲り続ける。

「それまでは角ばっていたものが、そのとき色々と削り取られていくんだ。語弊はあるが、そうやって人間らしくなっていく。それが人間として正しい在り方だと、そう思おうとするんだろうな。でも、暫くすると、今度はその角を求められるようになるんだ。まったくもって理不尽な社会だな」

「何の話をしているの?」月夜は通常のトーンで尋ねる。

「現代社会に対する一考察」

「誰のために?」

「独り言」

「そう……」

「聞いていて、面白いだろう?」

「うん」

 月夜は本気で頷いたつもりだった。

「月夜は、声がいいな」

 フィルには愚行をやめる気はないらしい。

「いい、とは?」意識の内の五パーセントをフィルに向けて、月夜は彼の相手をする。

「聞いていて、落ち着く」フィルは答えた。「何か、特殊な要素が含まれているのかもしれない」

「要素?」

「波長か」

「君がずっと一緒にいた人と、似ている、とか?」

「それも、あるかもしれない」フィルは真剣な顔で頷く。「やはり、長い間傍にあるものの影響は強く受けるようだ」

「私の声を聞いていると、落ち着くの?」

「そうだな」

「そう……」

「どうしたんだ?」

「いや、どうも」

 月夜が勉強しているのは、社会科目だった。今のところ、特に大きな障害はない。

「うん、と答えるときの、最後の方に違う音が混じっている感じが、個人的には好きだ」フィルは話した。「ん、のところだけ掠れているというか……。こういうのは、真似しようと思ってもできるものではない。やはり、個人に与えられた宝物なんだろう。少なくとも俺には無理だ」

「そう」

「俺の話、聞いているか?」

「聞いているよ」

「では、今、俺は何と言った?」

「では、今、俺は何と言った?」

「その前だ」

「うん、と答えるときの、最後の方に違う音が混じっている感じが、個人的には好きだ。ん、のところだけ掠れているというか……。こういうのは、真似しようと思ってもできるものではない。やはり、個人に与えられた宝物なんだろう。少なくとも俺には無理だ」

「そうそう、その通り」

「ん」

「え?」

「こういう感じ?」

「今日は気前がいいな、月夜。何かいいことでもあったのか?」

「何も、ないけど……」

「けど?」

「何もない」

 フィルは沈黙する。もともと話す気力のない月夜も、それに伴って口を閉ざした。

 背後で人の動く気配がして、月夜は初めて後ろを振り返った。先ほど店内に入ってきた少年が、店主に出されたコーヒーを啜っていた。丁寧にソーサーごと持ち上げて液体を喉に通している。ただ、月夜にはそれがコーヒーの正しい飲み方なのか分からなかった。食事をする機会が少ないが故に、テーブルマナーに触れることがないからだ(現代では、そもそもテーブルマナーを意識する機会自体ないが)。

 少年はどちらかというと小柄な方で、前髪が目の辺りまでかかっていた。月夜も前髪はそれなりに長いが、目にかかるほどではない。彼の手脚は細く、けれど不思議と貧弱そうな感じはしなかった。そうなりたくないのにそうなっているのではなく、その形で確固たる存在としてそこにあるような感じだ。服は部屋着と思えるようなもので、上はパーカー、下は厚みのある生地で作られたジャージのようなズボンを身に着けていた。

 後ろに向けていた顔を前に戻すと、フィルがノートの上に座っていた。

 目があって、月夜は尋ねる。

「どうしたの?」

 一度大きく瞬きをして、フィルは答えた。

「いや、どうも」

 フィルは尻尾を揺らしている。でもきっとそれは、喜びや楽しさを表しているのではない。意図的にそうした様を装っているのだ。もっとも、月夜は彼のそうした仕草が装いであることを知っていたから、彼はそれを知ったうえでわざとそうした動作をしているといえる。

 これも、コミュニケーションの一つかもしれない、などと勝手に想像。

 フィルを抱き上げようと伸ばした腕が、ノートの傍に置いてあったペンに当たって、動いた。

 猫の胴体を掴みかけていた手を、その上部に繋がる腕から、瞬時に方向転換できるはずもなく、ペンは物理宇宙の法則に従ってテーブルの上を転がり、やがてその端に至って床に向かって落下する。

 からん、と小さな音を立てて、ペンは床に接した。

 一瞬遅れて、月夜はその行方を追う。

 一秒間は視線で。

 次の一秒は、ようやく制御できるようになった手で。

 けれど、円柱形の物体が転がる速度はそれなりに速い。

 ペンはあっという間に床の上を転がっていき、そして、カウンター席の椅子のパイプにぶつかると、やっとその動きを止めた。

 伸ばしていた腕、その先の手、それがペンに触れようとした直前で、何者かの力によって、ペンは上方向へと持ち上げられる。

 目で、それを追う。

 自分のものではない手が、ペンを掴んでいた。

 顔を完全に上げて、何が起きたのかを確認する。

 隠れていた、二つの眼球。

 それらに見つめられ、月夜は少しの間固まった。

「……どうぞ」

 口(と思われるもの)を動かして、少年がペンを掴んだ手を月夜の方へと差し出した。

 数秒遅れて、月夜は差し出されたものに手を伸ばす。

「ありがとう」

 とりあえず、感謝の言葉を述べておいた。

 月夜がペンを受け取ると、差し出されていた手は引っ込められ、またもとの位置へと戻っていった。手は衣服の前面に拵えられたポケットの中へと入っていき、以後再び姿を現すことはなかった。

 前屈み気味になっていた身体をゆっくりと持ち上げて、月夜は少年を見下ろす。月夜も背が高いわけではないが、椅子に座った人物よりは視点は上にあった。

「何?」

 月夜に見つめられ、少年は声を出す。少しだけ低く、どこか掠れた、奇妙な声だった。

「いや、何も」フィルと接するのと変わらない口調で、月夜は答える。

 少年は首を傾げる。

 どうしようかと少しだけ考えて、月夜はもう一度彼に礼を述べてから、自分の席に戻った。

 フィルは、まだテーブルの上に座っていた。

 月夜と少年のやり取りをそこから見ていたようだ。

 何もなかったかのようなスムーズな流れでフィルをノートの上から退かし、ペンを片手に月夜は再び勉強を始めた。その流れの一部であるかのように、月夜はフィルに尋ねた。

「フィルの、知り合い?」

 月夜に退かされて彼女の隣の椅子に座っていたフィルは、首を傾げて答えた。

「知り合いではないな」

「じゃあ、フィルと関係のある人?」

「直接関係があるわけではない。いや、関係があるという言い方がそもそもおかしい。俺は関係の有無は問題にしない」

「何らかの繋がりがある、という表現でいい?」

「いいね」フィルは笑った。「遊びがあって、螺子が緩んでいる感じが、いい」

「遊びがある、というのと、螺子が緩んでいる、というのは、同じなのでは?」

「そうなのか? 言葉が違うのなら、違うと思うが」

 月夜は沈黙する。

 フィルは、ときどき、月夜の知らないところで、色々なことをする。それは、月夜に影響を与える場合もあるし、そうでない場合もある。

 彼がどういうつもりでそういうことをするのか、彼女は未だに理解できていなかった。けれど、それが親切心に似たようなものから発せられることは理解していたから、そんな彼の行動について積極的に触れようとはしなかった。

「月夜は、遠慮しすぎだな」フィルが言った。「自分のしたいようにするのが、一番なのに」

 突然そんなことを言われたから、月夜は顔を横に向けてフィルを見た。

「遠慮? したいこと?」

「そんなふうに見える」

「何の話?」

「さあ、何の話だろうな」

 月夜は沈黙する。

「ご飯を、もう少し食べた方がいい、ということ?」

 彼女の答えを聞いて、フィルは声を出して笑った。

「いや……。……まあ、いいさ。たとえば、したいようにしないのが、したいことだという人間もいるだろう。それならそれでいいんだ。それが、その人の幸せとして正しいのならな」

「正しいかどうか、どうやって分かるの?」

「自分でそう思ったら、そうなんだ」

「客観的には、分からない?」

「たぶん」

 参考書とノートを片づけて、月夜は喫茶店を出た。コーヒーを二杯とミルクを一皿注文したが、店主のサービスでミルクはおまけしてもらえた。

 喫茶店は地下にあるから、外気に触れるには階段を上る必要がある。上方向に移動すると、すぐ目の前にバスのロータリーがあった。その先に駅がある。駅の周辺は最近になって徐々に開発されつつあるが、肝心の駅舎そのものは未だに手が加えられておらず、新しいものと古いものが混じった、ちぐはぐな感じのする一帯だった。

 駅舎の裏に回って、そのまま道を真っ直ぐ進めば、月夜の通う学校に至る。家に帰るには、電車に乗って何駅か通過する必要があった。

 最近になってできた長い階段を上って、改札口に至る。時間帯のせいか、周囲には誰もいなかった。でも、ときどき、遠くの方から、自動車の走る音が聞こえてくる。街が寝静まっても、活動している人間は少なからずいる。月夜もその内の一人だ。

 定期券をタッチして改札を通り抜け、階段を下りてホームに至る。三分ほど待つと、向こうの方から明るい光が近づいてきた。停車した電車に乗り込み、月夜はフィルと一緒にドアに近い席に座る。

 一人だけの、車内。

 正確には、二人。

 でも、彼は人ではない。

「明日も、また、学校か?」

 フィルが訊いてきた。

 月夜は静かに頷く。

「毎日、大変だな」

「大変、ではない」月夜は応えた。「何も、感じない。明日というのは、今日のこと?」

「家で勉強するだけでも、充分なのにな」月夜の質問には答えずに、フィルは一人で話した。「学校なんて、面倒なだけだと思わないか? 一人で勉強できるやつには、無用の場所だよ。どうして、時間をかけて行って、非効率的な手段で勉強しなくてはならないんだ?」

「きっと、知識以外に得られるものがある、と、大人は考えているからだと思う」

「彼らの思い出が、そういうものに飾られているからかな」

「そうかも、しれない」

 フィルは月夜の肩の上に載り、自分の頰を彼女の頰に擦りつけた。

「寂しくなったら、いつでも甘えてくれていいんだぜ」

「寂しいのは、フィルの方じゃないの?」

「そういうときもある」

「今は?」

「今も」

 少しだけ首を傾げて、月夜はフィルのスキンシップに応じる。彼の頰は暖かくて、けれどどこか冷たかった。

「話を、聞いてくれないか?」フィルが言った。

「いいよ」月夜は応じる。

「俺は、できるなら、月夜には一人でいてほしくないんだ」彼は話した。「別に、月夜が自分で判断して、そう決めたのなら、それでいい。けれど、実際のところは違うだろう? いや……。お前が、傍に誰かがいても、いなくても、変わらないことは知っている。でも……。……かつては埋まっていた部分が、今は空白なことに、戸惑いを覚えているんじゃないか? それを、寂しいと感じることがあるんじゃないのか?」

 窓の外では、街の明かりが軌跡となって流れていた。ただ、灯っている明かりは限られていて、軌跡は途切れ途切れになって、現れては消えていった。

「そうかも、しれない」月夜は答える。「その指摘は、正しいと思う」

「まだ、自覚はないのか?」

 横目でフィルを見て、月夜は頷く。

「そうか……。……まあ、いいさ。じゃあ、俺の趣味だと思って、付き合ってくれ」

「フィルのやりたいことに付き合うのは、構わないよ」

「そうか? 楽しいと、感じてくれるか?」

「うん、楽しい」

「嘘が上手だな、月夜」

「嘘ではない。でも、楽しい、というのが、どういうことかいまいち分からないから、とりあえず、肯定しておこう、と、思った」

「優しいな、月夜」

「優しい?」

「ああ、とても」

「ありがとう」

 目的地の駅に到着して、月夜は電車を下りた。先ほどまでいた場所とは違って、ここには喧騒がほとんどなかった。駅舎は比べ物にならないほど寂れ、改札が扉を開く音が暗闇に木霊する。

 駅を出た先は、左右に道が続いている。月夜は左に曲がって自宅へと向かった。この辺りには、どういうわけか街灯が設置されていない。どういうわけか、というよりも、おそらく、治安が良いからだろう。この周辺で何らかの事件が起こったという話を、月夜は聞いたことがない。事件を起こすほどポテンシャルの高い人間がいないのだろう。

「女の子が、夜道を一人で歩くと、危険らしいな」

 月夜の歩く速度に合わせて、フィルは素早く脚を動かす。顔を少し上に向けて彼は話した。

「今は、フィルと一緒」月夜は彼に応じる。

「いつも一緒とは限らないだろう?」

「たしかに」

「これからは、いつも一緒に帰ってやろうか?」

「帰るって、どこから?」

「学校から」

「毎晩、学校に来るの?」

 月夜は、学校がある日は、大抵夜遅くまで学校に残る。大学生ならありえることだが、彼女はまだ高校生だ。だから、それは明らかに規則に反している。けれど、今のところ彼女がそうしたことをしているのを知る者は、誰一人としていなかった。いや、いるにはいるが、その者たちは彼女が通う学校とは何の関わりもないから、彼女が危険に晒されることはないと考えられる。

「歩いていくのは大変だが、まあ、一種の運動だと思えば、それほど苦ではないな」

「そこまでしてくれなくても、大丈夫」

「それは、自分が女の子だという認識がない、ということか?」

 フィルに問われ、月夜は考える。彼の指摘は少し違う気がした。生物学的に認められる二つの性の内、自分が雌個体、つまり女性に属することを月夜は認識している。そのくらいには彼女は自分のことを知っている。ただ、夜道を一人で歩いていて、それで誰かに襲われるようなことがあっても、それを自分が問題だと捉えるかは、分からないと思ったのだ。そういうことをする者には、きっと何らかの理由がある。合理的な理由ではなくても、衝動という名の何かがそこにあるに違いない。そうした衝動を、いけないこととか、犯罪とか、そういった言葉で纏めてしまって良いものだろうかと、彼女は疑問に思うのだ。

「認識はあるけど、夜道を一人で歩くと危険ということに、性別はそこまで関係ないと思う」今考えたことを少しだけアレンジして、月夜はフィルに言った。「私とフィルの性別が逆でも、たぶん、君は、同じことを私に言ったと思う」

「なるほど。俺が心配性だと言いたいんだな」フィルはにやにやしながら話す。

 それも違うと思ったが、月夜は特に指摘しないでおいた。

 間もなく家に到着した。何の変哲もない、至って普通の一軒家だ。今のところ、特にこれといった思い入れはない。それは本当のことで、だから強がりでも何でもなかった。

 玄関のドアのノブに鍵を差し込み、回転して施錠する。室内に入ったらまた鍵をかけ、自動的に灯った照明に照らされながら靴を脱ぎ、洗面所で手を洗う。

 リビングに入り、明かりを点ける。そのままソファに座り、月夜は暫くの間静止した。

 フィルが、脚力を発揮して、また月夜の膝の上に載る。

 月夜は、前を見たまま、感覚だけで彼の頭を辿り、そこを撫でる。

 穏やかな一時、という感じはしない。

 そんな名前をつけてしまったら、もう、この一瞬は二度と手に入らなくなるだろう。

「お腹、空いたか?」

 フィルに問われ、月夜は小さく首を振る。

「喉、渇いたか?」

 月夜はもう一度首を振る。

 空気が停滞していたが、今は換気はしなくても良いと月夜は思った。なんとなく、立ち上がる気になれなかった。物理的には簡単な動作でも、それが億劫に感じられることが彼女にはある。どういうわけか分からないが、とにかく、少しでもエネルギーを消費することが、気持ち悪く感じられるのだ。

 目の前には、真っ黒なテレビがある。

 学校に行っても、家にいても、常に眼前に在り続ける黒い平面。

 まるで、そこに自分が映り込むことこそ、この世界が求めている一つの形なのだと思える。

 いや、そう思いついた。

 静寂。

 フィルがここに来る前は、月夜はこの家で一人で生活していた。でも、ときどき別の知り合いが尋ねてきて、だから、そのときも、ずっと一人だったわけではなかった。

 人間は、一人では生きていけないと言われる。自分の直近の経歴を振り返れば、その通りかもしれないという気がしてくる。けれど、自分が積極的に誰かを求めているわけではないことを、月夜は理解している。

 誰かを好きになりたいという気持ちはある。でも、そのとき求めているものは、好きになる誰かではなく、好きだという気持ちだ。つまり、ものではなく感情を求めている。それは、曲解すれば、好きになる誰かが実在しなくても、その感情さえあれば良いということでもある。存在して、触れられる対象でなくても良いのだ。自分の頭の中だったり、テレビの中だったり、そんな空想の世界にいる対象にも、好きという気持ちをはたらかせることはできる。

 どうして、そんなことを考えているのだろう。

 月夜は自問する。

 ただし、自答はしなかった。

 できなかったといった方が正しい。

 そもそも、最初の文は、疑問文ではなかったのだ。

 鞄を持って二階にある自室へと向かった。フィルも彼女のあとをついてくる。器用に階段を上り、一緒に部屋の前のドアまでやって来る。

 家自体がシンプルなのに呼応するように、月夜の部屋もシンプルだった。部屋の奥に小さな窓があり、その隣に勉強机と椅子が配置されている。あとはベッドがあるだけだ。

 制服のブレザーを脱いでワイシャツ一枚になり、窓を開けてその向こうを眺めた。フィルは窓の隙間から外に出て、屋根の上に乗った。彼だけ一歩空に近づいたが、今日は月は見えなかったから、得られる恩恵はあまり大きくなさそうだった。

「受験に合格して、大学に通うようになったら、それからどうするんだ?」

 問いかけてくるのは、ほとんどフィルからだ。月夜はあまり社交的ではない。でも、それは意図的にそうしようとしているのではなかった。そういう人間なのだ。たしかに、なるべく合理的に行動したい、という考えが根底にあるのは間違いない。この場合の合理的とは、間違いなく、エネルギー効率が良いという意味だろう。

「どうするって、どういうこと?」

 月夜が問い返しても、フィルはすぐには答えなかった。前方にある山と、その上に広がる空に目を向けたまま、黙っている。

「……今は、それが目的になっているんじゃないか、と思ってな」彼は言った。「目的がある内はいいが、なくなれば戸惑うことになる。人間とはそういうものだ。いや、俺は人間ではないから、よくは分からないが……。……今のお前を見ていると、危ないと感じることがあるんだ。何が危ないのかと訊かれても上手く答えられないが、まあ、いうなれば、若さ故の勢いってやつかな」

「若さ故の勢い?」月夜は首を傾げる。「どういう意味?」

「いうなれば、と言っただろう。……つまり、その言葉はあまり適切ではない。でも、言葉ではそうとしか表現できない」

 フィルの言う意味を、月夜はなんとか汲み取ろうとする。なんとなく言いたいことは分かったが、でもやはり、それは言葉では上手く表現できそうになかった。

 では、どうやって表現したら良いのか?

 月夜は窓枠から腕を伸ばし、フィルを背後から抱き締める。彼は軽いから、少し力を入れただけで、身体が持ち上がってしまいそうだった。

「たぶん、大丈夫」

 少しだけ首を後ろに向けて、フィルは月夜を見る。

「本当にか?」

「うん」

 短く息を漏らして、フィルはまた正面を向いた。

「そりゃあ、たぶん大丈夫だろう。でもな、たぶん大丈夫ということは、もしかすると大丈夫ではないかもしれないということだ。それは分かるだろう? それが心配なんだよ。お前のそういうところが、見ていて一番ひやひやするんだ」

 なんとなく、月夜はフィルを抱き締める力を強める。

「平気だよ」

 月夜がそう言うと、フィルはそれ以上何も言わなくなった。

 風が吹く。

 今は春だ。冬が終わって、暖かい季節がやって来る。でも、夜になると、まだ空気は冷たい。

 きっと、夏になっても、同様の感想を抱くだろう。

 つまり、事実に基づいて考えているのではない。

 人間は、印象を基に行動する。

 印象が何もかもを支配してしまう。

 ただ、月夜は、自分がフィルに抱く印象と、その実が違うことを、理解していた。

 だから自分はまだ大丈夫だと思った。

 ……まだ?

 いや、これからも大丈夫だろう。

 彼と一緒にいる限りは。
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