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第5章 封筒に仕舞う作業
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次の日も、朝食をとったあと、僕とクレイルは応接室に移動して、遺書の執筆を行った。二日目にしてクレイルも段々と慣れてきたようで、僕が書く速度と彼女が話す速度は、適切な具合で合うようになった。僕の方も万年筆の使い方には慣れ、昨日よりはインクを付ける頻度が小さくなった。文字の大きさやインクの厚みも一定になってきて、着実に進歩しているのが実感できた。
リィルは、昨日話していたように、クレイルに許可をとって、子どもたち二人と外へ出かけたようだ。玄関を出る際、ココとヴィは不安そうな顔をしていたが、リィルは二人の面倒を上手く見れているだろうか。草原で遊ぶのは大変そうだから、森まで行ってくるとリィルは話していたが、その分怪我をするリスクは増えることになる。まあ、何だかんだいってリィルは運動神経が良いし、大事には至らないと思うが……。それに、ココもヴィも長い間ここで暮らしているのだから、当然外で遊ぶ機会もあっただろう。
羊皮紙が二枚埋まったタイミングで、僕とクレイルは少しだけ休憩した。昨日は同じ分量を書くのに三時間を要したが、今日は二時間ほどで終わった。
「体調は、大丈夫ですか?」
持ってきてもらった熱いお茶を飲みながら、僕はクレイルに質問した。
「ええ、お陰様で」彼女は微笑む。「私、これでも、もうすぐ最期を迎えるとは思えないくらい元気なんです。毎日きちんと家事もできているし、このままなら、もう少し長生きできるのではないかと考えているくらい」
僕には、それが強がりであることが分かった。家事も、子どもたちの世話も、彼女は無理をして行っている。本当は辛いはずだ。けれど、辛いと正直に言えない気持ちも、僕にはなんとなく分かった。僕も無理をしてしまう質だし、他人に心配をかけたくないとは常々思う。
「……彼女たちは、どこまで知っているんですか?」
カップをソーサーに戻す素振りとともに、僕はそれとなく質問した。
クレイルは、反対に、カップを持ち上げ、それを一口飲む。
目を伏せて、喉に液体を通す表情。
お茶を飲み終えた彼女と、僕は自然と目が合った。
「まだ、何も話していません」クレイルは言った。「でも……。ええ、そう、あの子たちは、もう気づいていると思います。私が言うのは変かもしれませんけど、なかなか賢い子たちなの。昔からそうだった。二人とも、私の言うことをよく聞いてくれる。きっと、私一人で世話をしなくてはならないから、色々と考えてくれたのね」
「伝えなくて、いいんですか?」
それは、僕が言うべき言葉ではないと分かっていたが、僕はあえて尋ねた。クレイルなら許してくれると思ったからだ。
「ええ、そうね……」クレイルは、僕に笑いかけてくれた。「本当は、伝えるべきだと分かっています。でも……。やっぱり、なかなか伝えられないんです。どう言ったらいいのか分からない。いえ、本当は分かっている。本当のことを、正直に言えばいいのですからね。それでも、言えない。私は、あの子たちとは違って、弱い人間なんです。身体も、心も、弱い。だから、あの子たちを置いて、先に行ってしまうの」
「……遺書は、そのために、書いているんですか? その、つまり……、自分が死んだことを伝えるために……」
「それもあります。ただ、すべては伝えられないから、今の内に、本当に伝えたいことをピックアップしておこうと思いました」
僕は頷いた。
さらに一時間ほどかけて、僕たちはもう一枚分執筆を行った。もう、僕は、クレイルが話す内容をほとんど理解していなかった。合計で数時間にも満たない経験から、僕は、人が話す内容に耳を傾けている振りをする技能を、習得してしまったのだ。こういう実益のない技能は、不思議とすぐに身につく。悪戯をするときだけ悪知恵がはたらく子どもと同じだ。
正午を過ぎた頃、玄関の方から音がした。そして、間髪を入れずに、応接室のドアが開かれた。
僕とクレイルは同時に顔を上げ、部屋の入り口に顔を向ける。
リィルが、息を切らして立っていた。
見ると、服や、顔が、汚れている。
汚れの原因は、土だけではない。
乾いた血が付着しているのが分かった。
「ヴィが、怪我をしてしまって……」
リィルは震えた声で呟いた。
クレイルは立ち上がり、応接室を出ていく。リィルも彼女と一緒に部屋を出ていった。少し遅れたが、僕も二人のあとについて玄関に向かった。
玄関のドアを入った辺りに、ココとヴィが立っていた。ヴィの衣服に付着した泥を、ココが叩いて落としている。しかし、二人とも泣いている様子はなく、いたって冷静な表情で状況に対応していた。
クレイルがヴィに近づき、様子を観察する。怪我は大したものではなく、腕と脚の一部を擦り剥いた程度だった。
ヴィの世話をするとき、クレイルは終始笑顔だった。
ヴィも、何ともないような顔で、母親の顔を見つめていた。
「大丈夫?」
クレイルは、手を伸ばしてヴィの頭を撫でる。
「あのね、木に上っていたら、落ちちゃって……」ヴィは説明した。「それで、でも……、そのお姉さんが、助けてくれた」
そう言って、ヴィはリィルを指差す。僕とクレイルは彼女に視線を向けたが、リィルはきょとんとした顔で固まっているだけだった。
「落ちそうになったのを、下で受け止めてくれたんだよ」今度はココが言った。「だから、ヴィは怪我しないで済んだ」
「そう……」クレイルは頷く。「貴女たちが無事で、よかったわ」
ヴィを風呂場に連れていき、クレイルはヴィの怪我の手当てを始めた。その間、僕はリビングでリィルの方の手当てを行った。先ほどは、彼女は怪我をしていないと思ったが、見ると、腕に少し深い傷ができていた。ただ、もう血は出ていない。彼女の体液はそれなりに早く乾く性質を持っているようだ。リィルには、赤、青、そして黄色の体液が流れているが、今回欠損した管は赤色の体液が流れるもので、色々な意味で不幸中の幸いだった。
消毒液を借りて、ガーゼを使って僕はそれをリィルの肌に押し当てる。
彼女は少し顔を顰めたが、声は上げなかった。
「大丈夫?」僕は尋ねる。
リィルは黙って一度頷いた。
リビングのドアが開いて、ココが室内に入ってくる。その後ろからクレイルとヴィも姿を現した。僕が治療セットをクレイルに手渡すと、今度は彼女がヴィの消毒を始める。
僕とリィルは彼女たちから少し距離を置いて、話した。
「それにしても、君が転んだのは、どういうこと?」僕は質問した。
「え、いや、えーと……」リィルは答える。「実は、わざと転んだ」
「え? どうして?」
「危なかったからだよ。そうしないと、衝撃が大きくて、ヴィの怪我が酷くなりそうだっ
たから……」
「なるほど」
リィルの身体には、万能のスタビライザーが搭載されている。そのため、相当な衝撃が加わらない限り、彼女は転倒しない。落ちてきたものを受け止めたり、ちょっとした石に躓いたりしただけでは、バランスを崩すことがあっても、そのまま踏ん張ってすぐに体勢を立て直す。だから、彼女が転んで怪我をしたというのは、僕には疑問だったのだ。
「木って、どのくらいの高さ?」
治療されるヴィを遠目に見ながら、僕はリィルに尋ねる。
「そんなに高くないよ。せいぜい、私の背より、少し高いくらい」
「上りたいって、二人が言ったの?」
「うん……。危ないから、やめた方がいいって言ったんだけど、どうしてもって言うから……」
「阻止できなかったのは、君の責任かもね」
「うん……」
「いや、冗談だよ。クレイルがどう思うは分からないけど、うん、僕は、そんなふうには思っていないから、安心して」
「じゃあ、最初からそう言ってよ」
「たしかに」
傷の手当てが終了し、ヴィは椅子から立ち上がった。特に痛みを感じるわけではないらしい。風呂に入るときに痛むかもしれないが、怪我の程度を見る限りすぐに治るだろう。
ゆっくりとした足取りで、ヴィが僕たちの方に近づいてくる。
それから、彼女はリィルに向かって軽く頭を下げた。
「迷惑をかけて、ごめんなさい……」
呟くように小さな声だったが、今まで聞いた中では、僕には一番感情が籠もっているように聞こえた。
リィルは、戸惑いながらも、ヴィの謝罪に応える。
「いや、私の方こそ、うん……、怪我させちゃって、ごめんね」
「今度から、気をつけます」
「うん、気をつけて」
ヴィはクレイルの傍に戻っていく。彼女は笑顔でヴィの頭を撫でた。
ちょうど良い時間だったから、昼食をとることになった。昨日のように庭に赴くことはせず、今日は朝と同じようにリビングで食べた。
昼食の場では、ココとヴィはいつにも増して快活だった。いや、平均以上に快活な印象は受けないが、いつもに比べれば元気があった。外で遊んだ様子をクレイルに説明し、何が楽しかったのか、それぞれ感想を述べた。食事をしながら僕は二人の話を聞いていた。
どうやら、リィルは二人と打ち解けることができたようだ。完全ではないにせよ、少しずつ前進しているのは確かだろう。特に、落ちそうになったのを助けるというのは、信頼関係を築くのにプラスに作用した可能性が高い。そうしたアクシデントは起きないに超したことはないが、実際に危険な状況に遭遇し、それをリィルが解決したとなれば、好感度が上がる要因になったのは間違いない。
昼食をとり終えると、僕とクレイルは再び応接室に向かった。ココとヴィは室内で勉強をするらしい。もちろん、その場にはリィルが付き添うことになる。
「なかなか、上手くいっているみたいじゃないか」仕事を始める前に、僕はリィルに言った。
「うん、まあね」
リィルの表情は、まだ迷いはあるのだろうが、比較的明るかった。
「子どもたちと仲よくして頂いているみたいで、本当に助かります」応接室に入ったタイミングで、クレイルが僕に言った。「彼女には、怪我を負わせてしまったみたいで、本当に申し訳ありません」
「ええ、いえ……」僕は椅子に座る。
「でも、子どもたちも心を開いてくれたようで、よかったわ」
「お二人は、よく、外で遊ばれるのですか?」気になったので僕は尋ねた。
「もう少し小さかった頃は、私と一緒に遊びに行きましたけど、最近はあまり……」
「静かで、いい環境ですからね」
「ええ、そうね」クレイルは頷く。「でも、本当は、もう少しほかの場所にも連れて行きたかったと思っています」
午前中の成果は羊皮紙三枚だったので、午後は二枚を完成させることを目標にした。クレイルにはまだ伝えたいことのストックが沢山あるようで、途中で考え込むようなことはなかった。
母親がこんな状態だから、ココもヴィも、一緒に外で遊んでくれるリィルが嬉しかったのかもしれない。僕も、子どもの頃は、今よりは家の外に出ることが多かった。夏に虫捕りをしたこともあるし、冬に雪達磨を作ったこともある。けれど、僕は一人で遊ぶことがほとんどで、僕の傍に友人がいることは稀だった。だから、姉妹という関係は多少なりとも憧れる。遊ぶことだけではなく、勉強や食事など、生活そのものを一緒に経験できる者が傍にいるというのは、それだけで心強い。もちろん、一人の方が良い面もある。ただ、僕にはココとヴィのような関係が羨ましく感じられた。
午後四時を迎えたタイミングで、今日の仕事を終えた。書き終えた羊皮紙を纏めて、昨日の分と合流させる。片づけをしてクレイルと一緒に応接室を出た。
リビングに入る前から、三人の話し声が聞こえていた。
テーブルが置かれた一画で、ココとヴィはリィルと向かい合って座っている。
適宜説明をしながら、リィルは二人に勉強を教えていた。
二人も説明を熱心に聞いている。
僕たちの気配を感じて、リィルが顔を上げた。
ココとヴィもこちらを振り返る。
三人が良好に仲を深められているようで、僕は安心した。
夕飯までの間、僕とリィルは自室で休憩することにした。クレイルから貰ったコーヒーを飲みながら、僕は一人で読書をする。リィルはベッドに上がって、そこで寝転がっていた。
「なんか、思ったより、明るい子たちだった」
僕が本を読んでいると、リィルが唐突にそんなことを言った。
「へえ、そうなの?」僕は応答する。
「うん……。やっぱり、私のことを知らないから、不安だったみたい。一度一緒に遊び出したら、けっこう、積極的に話してくれたよ。あと、勉強するときも、色々質問してくれたし……」
「よかったじゃないか」
「うん……」
沈黙。
開いている窓の隙間から、涼しい風が室内に流れ込む。
布団のシーツが軽く靡いて音を立て、それからまた無音に戻った。
「そっちは、どう?」
リィルの問いを受けて、僕は考える。
「うん、まあ、順調かな」僕は答えた。「クレイルも、色々と考えてくれたみたいで、なかなかいいペアワークができている」
「まだ、二日か……」
「意外と、長く感じるよね」
「うん……。でも、この二日間、慣れるのに大分体力を使った気がする」
僕も同感だったので、頷いた。
「一週間したら、家に帰るわけだけど、そのとき、名残惜しいといいなあ……」リィルが言った。
「どうして?」
「いや、なんとなく……。それくらい、二人と仲よくなれれば、いいなってこと」
「二人は、いい子だって、クレイルが言っていたよ」僕は言った。「きっと、君のことももう信頼してくれたんじゃないかな」
「そうだといいけど」
「まだ、自信がないの?」
「うーん、どうだろう……」
二人と接点が少ない分、ココとヴィの人柄について、僕はあまり詳しく知らない。きっと、想像しているよりも、二人は個性的な人間なのだろう。子どもと付き合うのは大変だが、リィルはその難問に短期間で攻略法を見つけたのかもしれない。僕が知らない一面を、リィルもまだ沢山抱えているようだ。
夜に近づくにつれて、この辺りは暗くなる。暗くなるのはどこでも同じだが、周囲に人家がない分、より一層闇の濃度が増す。部屋の照明を点ければ問題ないが、窓の外を見ても、もう先の様子はほとんど窺えない。
生活するだけなら、これ以上ないくらい良い空間だ。不便な部分もあるが、対処できないわけではない。都会にいて、静かな環境を持ってくることはできないが、静かな環境下で、必要なものを届けてもらうことはできる。そう考えると、僕たちが住んでいる場所よりも、こちらの方が優れた条件下にあるのかもしれない。少なくとも、ココやヴィがほかの人間と異なった環境で育ったことは、将来の二人にプラスの影響を齎すだろう。
今日は僕の方が先に風呂に入ることになった。
階段を下りて、洗面所に向かう。浴室の扉を開け、湯船に浸かった。
自然とルルのことを思い出した。
予言書がルルからのメッセージだとすれば、そこには何らかの内容があるはずだ。当たり前だが、もしそうであれば、僕たちはそれが何か確認する必要がある。しかし、今のところ確認する方法は考えられていない。何らかの方法で予言書を調べなくてはならないが、その方法が分からない。
ルルは、どうして、僕たちにそのメッセージを伝えようとしているのだろう?
そして……。
それ以前の問題として、ルルは本当に存在しているのか?
分からないことだらけだった。逆に、分かることだらけの場合など滅多にない。そして、リィルと出会ってからというもの、僕の周りでは分からないことばかり目立つようになった。その中には解決したものもあるが、一つが解決すると、次が分からなくなることがほとんどだ。生きていくとは、日々直面する問題を一つずつ解決していくのと同義だが、それにしても、解決しなくてはならない問題の数が、すでに飽和しているように思える。
本当のところ、解決しなくてはならない問題というのは存在しない。僕が意識的にそれらを避ければ、何も考えなくて済む。解決しなくてはならないと感じるのは、僕の性分も大きく関係している。一度それを問題だと認識してしまうと、どうしても解決したくなってしまうのだ。普段は、そうした状態に陥らないように、やはり意識的に問題との直面を回避している。けれど、ルルやリィルに関することについては、その意識がはたらく前に、問題を問題として捉えてしまう傾向にある。
それは、ルルやリィルの存在が、僕にとって大きいということでもある。
自分の人生の中で、彼女たちは重要なファクターとしてはたらいている。
ルルからのメッセージを、僕たちは解き明かさなくてはならない。
そのゴールには、きっとルル本人がいる。
理由は分からないが、僕にはそう思えた。
風呂から出てリビングに向かうと、クレイルが料理を作っていた。ココやヴィの姿は見当たらない。二階の部屋にいるのだろう。
クレイルに許可をとって、冷蔵庫からお茶が入ったボトル取り出し、コップに注いで飲む。キッチンに立つクレイルの姿は、どこか家庭的な雰囲気で溢れていた。エプロンを付けているからかもしれない。それ以前に、彼女の柔和な性格がそう感じさせるというのもある。
「夕飯、楽しみにしていますね」
社交辞令のつもりで、僕はクレイルにそう伝えた。
彼女はこちらを振り向き、僕に笑いかける。
「ええ、そう言って頂けると、嬉しいわ」
キッチンを出て、自室に戻った。
もう一人風呂に入るくらいの時間はあったが、リィルは、本を読んでいて、食事のあとで入ると話した。昨日と立場が逆だ。こういうことは割と頻繁に起こる。人と人との関係は、互いに影響し合って形作られるものだから、特に不思議ではないかもしれない。
リィルはデスクの前に座っている。彼女が行儀良く座っているのを、僕は久し振りに見た気がした。
「何?」
ベッドに座って後ろ姿を眺めていると、リィルはこちらを振り向いた。
「いや、何も」僕は答える。
「何か、変なこと考えていたでしょう」
「変なこと?」僕は首を傾げた。「何も、考えていないけど」
「今日の夕飯、何だと思う?」リィルは突然話題を変える。
「さあ……。まあ、たぶん、昨日と同じではないだろうね。彼女、豊富なバリエーションを持っていそうだから」
「秋刀魚の塩焼きは、ありそう?」
「いや、だから、それはないと思うよ」僕は言った。「君さ、なんで、そんなに秋刀魚に拘るわけ?」
「え、だから、格好良いから」
「何が?」
「フォルムが」
「それについて、一日考えてみたんだけど、やっぱり僕には理解できない」
「そんなこと、考えていないでしょう?」
「うん、そうだけど、考えても、理解できなかったと思う」
「秋刀魚と鮪だったら、秋刀魚の方が、圧倒的に格好良いでしょう?」リィルは説明した。「秋刀魚のしゅっとした体型が、私にはぴったりなの。鮪って、どっちかっていうと、割とふっくらしているじゃない? そうじゃなくて、魚らしい、鋭利な感じの方が、心にぐっと来るっていうか……。それが、私が秋刀魚が好きな理由だよ」
「ごめん、全然分からなかった」
僕がそう言うと、リィルは若干目を釣り上げた。
「君さ、私の話聞いていなかったの? 今、ちゃんと、説明したじゃん」
「説明されたけど、その説明の意味が、理解できなかったってことだよ。適当な順番に単語を並べて文章を作ったら、単語の意味は分かっても、文章の意味は分からないだろう?」
「私の説明が、文章になっていないって言うの?」
「うん、まあ、そう」
「酷い」リィルは勢い良く顔を背ける。「まったく。人が一生懸命説明しているのに」
「君さ、何をそんなにかっかしているわけ?」
「していないから!」
「しているよ」
危険な感じがしたので、僕はそれ以上彼女には触れなかった。
夕食の場でも、ココとヴィはリィルとコミュニケーションをとってくれた。二人の方から話しかけてくることはあまりないが、リィルが何かを尋ねると、大抵の質問には答えてくれた。ただ答えるだけではなく、ごく自然な感じで自分の意見も述べてくれたりする。彼女たちの距離は、今日一日で大分縮まったようだ。
しかし、僕にはまだ気を許してくれていないみたいで、二人ともなかなか僕の方を見ようとしなかった。話した回数が少ないから当たり前だが、なんとなく、もう少し話せたら良いな、とは思う。他人との関係に積極的な方ではないから、僕にも改善するべきところはあるだろう。
ココとヴィは、食事が終わるとすぐに自室へと戻った。リィルは風呂に入ると言って、リビングを出ていった。
部屋には、食器を洗うクレイルと、僕だけが残された。
食事が終わったタイミングで、洗い物を手伝うとクレイルに申し出たが、彼女はそれを断った。大事な客人を煩わせるわけにはいかない、というのが彼女の主張だった。客人だからといって、何でもやってもらうわけにはいかないと僕も食い下がったが、寛いでもらった方が嬉しいと言って、クレイルは譲らなかった。
窓際にあるソファに腰をかけて、僕はじっと天井を見つめている。リビングの照明は消えていて、クレイルが立つシンクの辺りだけ明るかった。
顔を横に向けて、窓の外を見る。空は見えないが、そこに沢山の星が輝いていることは知っている。自室の窓から確かめたからだ。
「ここでの生活には、慣れましたか?」
僕がぼうっとしていると、洗い物を続けながら、クレイルが尋ねてきた。
「ええ、まあ……」僕は彼女の方を見て答える。「普段自分たちでやっていることを、色々とやってもらっているから、負荷がかからなくて助かります」
「それならよかったわ」クレイルは振り返った。「本当は、お客様をお呼びすることはあまりないから、私もわくわくしているの」
「普段は、訪問者は、あまりいないんですか?」
「ええ、そうね……」クレイルは再び前を向く。「場所が場所ですから、特別な用がない限り誰も来ません」
暫くの間無言が続く。
食器が擦れる音が響いた。
「……身体の方は、大丈夫ですか?」
今尋ねるべきだと思って、僕は質問した。
「ええ……」クレイルは答える。「不自由はしていません。自分では、体調は良いつもりです」
「その病気は、その……、発症してから、どのくらいなんですか?」
「もう、ずっとです。二人が生まれてから、すぐに症状が表れて……。だから、あの子たちには、本当に健康な母親の姿を、一度も見せられなかったことになります」
僕は頷く。
「でも、それでもよかったと思っているの。二人が生まれる前に病気を患っていたら、あの子たちがどうなっていたのか、分かりませんから……」
僕は再び顔を上に向ける。
生物学的な観点からいえば、クレイルは、個体としての役目をすでに全うしたといえる。生物の役目とは、自分の遺伝子を後世に残すことだ。クレイルには二人の子どもがいるから、その遺伝子が今後も存続する可能性は、一人の場合よりも明らかに高い。人間以外の動物では、子どもを産むとすぐに死んでしまう種も多い。そう考えれば、この十二年間、クレイルは立派に親として機能したといって良い。
ただ……。
人間には、生物学的な観点からでは説明のできない、欲というものが存在する。
それは、人によって様々な形を成す。
自分が産んだ子どもの行く末を、最後まで見届けたいと思うのも、その一つだ。
あるいは、その反対の立場でも……。
「何か、飲みますか?」
気がつくと、クレイルが僕の前に立っていた。
僕は椅子の背に預けていた身体を起こし、彼女の質問に答える。
「じゃあ、お願いします」
「何がいいですか?」
「何でも」僕は言った。「あ、でも、アルコール以外でお願いします」
リィルは、昨日話していたように、クレイルに許可をとって、子どもたち二人と外へ出かけたようだ。玄関を出る際、ココとヴィは不安そうな顔をしていたが、リィルは二人の面倒を上手く見れているだろうか。草原で遊ぶのは大変そうだから、森まで行ってくるとリィルは話していたが、その分怪我をするリスクは増えることになる。まあ、何だかんだいってリィルは運動神経が良いし、大事には至らないと思うが……。それに、ココもヴィも長い間ここで暮らしているのだから、当然外で遊ぶ機会もあっただろう。
羊皮紙が二枚埋まったタイミングで、僕とクレイルは少しだけ休憩した。昨日は同じ分量を書くのに三時間を要したが、今日は二時間ほどで終わった。
「体調は、大丈夫ですか?」
持ってきてもらった熱いお茶を飲みながら、僕はクレイルに質問した。
「ええ、お陰様で」彼女は微笑む。「私、これでも、もうすぐ最期を迎えるとは思えないくらい元気なんです。毎日きちんと家事もできているし、このままなら、もう少し長生きできるのではないかと考えているくらい」
僕には、それが強がりであることが分かった。家事も、子どもたちの世話も、彼女は無理をして行っている。本当は辛いはずだ。けれど、辛いと正直に言えない気持ちも、僕にはなんとなく分かった。僕も無理をしてしまう質だし、他人に心配をかけたくないとは常々思う。
「……彼女たちは、どこまで知っているんですか?」
カップをソーサーに戻す素振りとともに、僕はそれとなく質問した。
クレイルは、反対に、カップを持ち上げ、それを一口飲む。
目を伏せて、喉に液体を通す表情。
お茶を飲み終えた彼女と、僕は自然と目が合った。
「まだ、何も話していません」クレイルは言った。「でも……。ええ、そう、あの子たちは、もう気づいていると思います。私が言うのは変かもしれませんけど、なかなか賢い子たちなの。昔からそうだった。二人とも、私の言うことをよく聞いてくれる。きっと、私一人で世話をしなくてはならないから、色々と考えてくれたのね」
「伝えなくて、いいんですか?」
それは、僕が言うべき言葉ではないと分かっていたが、僕はあえて尋ねた。クレイルなら許してくれると思ったからだ。
「ええ、そうね……」クレイルは、僕に笑いかけてくれた。「本当は、伝えるべきだと分かっています。でも……。やっぱり、なかなか伝えられないんです。どう言ったらいいのか分からない。いえ、本当は分かっている。本当のことを、正直に言えばいいのですからね。それでも、言えない。私は、あの子たちとは違って、弱い人間なんです。身体も、心も、弱い。だから、あの子たちを置いて、先に行ってしまうの」
「……遺書は、そのために、書いているんですか? その、つまり……、自分が死んだことを伝えるために……」
「それもあります。ただ、すべては伝えられないから、今の内に、本当に伝えたいことをピックアップしておこうと思いました」
僕は頷いた。
さらに一時間ほどかけて、僕たちはもう一枚分執筆を行った。もう、僕は、クレイルが話す内容をほとんど理解していなかった。合計で数時間にも満たない経験から、僕は、人が話す内容に耳を傾けている振りをする技能を、習得してしまったのだ。こういう実益のない技能は、不思議とすぐに身につく。悪戯をするときだけ悪知恵がはたらく子どもと同じだ。
正午を過ぎた頃、玄関の方から音がした。そして、間髪を入れずに、応接室のドアが開かれた。
僕とクレイルは同時に顔を上げ、部屋の入り口に顔を向ける。
リィルが、息を切らして立っていた。
見ると、服や、顔が、汚れている。
汚れの原因は、土だけではない。
乾いた血が付着しているのが分かった。
「ヴィが、怪我をしてしまって……」
リィルは震えた声で呟いた。
クレイルは立ち上がり、応接室を出ていく。リィルも彼女と一緒に部屋を出ていった。少し遅れたが、僕も二人のあとについて玄関に向かった。
玄関のドアを入った辺りに、ココとヴィが立っていた。ヴィの衣服に付着した泥を、ココが叩いて落としている。しかし、二人とも泣いている様子はなく、いたって冷静な表情で状況に対応していた。
クレイルがヴィに近づき、様子を観察する。怪我は大したものではなく、腕と脚の一部を擦り剥いた程度だった。
ヴィの世話をするとき、クレイルは終始笑顔だった。
ヴィも、何ともないような顔で、母親の顔を見つめていた。
「大丈夫?」
クレイルは、手を伸ばしてヴィの頭を撫でる。
「あのね、木に上っていたら、落ちちゃって……」ヴィは説明した。「それで、でも……、そのお姉さんが、助けてくれた」
そう言って、ヴィはリィルを指差す。僕とクレイルは彼女に視線を向けたが、リィルはきょとんとした顔で固まっているだけだった。
「落ちそうになったのを、下で受け止めてくれたんだよ」今度はココが言った。「だから、ヴィは怪我しないで済んだ」
「そう……」クレイルは頷く。「貴女たちが無事で、よかったわ」
ヴィを風呂場に連れていき、クレイルはヴィの怪我の手当てを始めた。その間、僕はリビングでリィルの方の手当てを行った。先ほどは、彼女は怪我をしていないと思ったが、見ると、腕に少し深い傷ができていた。ただ、もう血は出ていない。彼女の体液はそれなりに早く乾く性質を持っているようだ。リィルには、赤、青、そして黄色の体液が流れているが、今回欠損した管は赤色の体液が流れるもので、色々な意味で不幸中の幸いだった。
消毒液を借りて、ガーゼを使って僕はそれをリィルの肌に押し当てる。
彼女は少し顔を顰めたが、声は上げなかった。
「大丈夫?」僕は尋ねる。
リィルは黙って一度頷いた。
リビングのドアが開いて、ココが室内に入ってくる。その後ろからクレイルとヴィも姿を現した。僕が治療セットをクレイルに手渡すと、今度は彼女がヴィの消毒を始める。
僕とリィルは彼女たちから少し距離を置いて、話した。
「それにしても、君が転んだのは、どういうこと?」僕は質問した。
「え、いや、えーと……」リィルは答える。「実は、わざと転んだ」
「え? どうして?」
「危なかったからだよ。そうしないと、衝撃が大きくて、ヴィの怪我が酷くなりそうだっ
たから……」
「なるほど」
リィルの身体には、万能のスタビライザーが搭載されている。そのため、相当な衝撃が加わらない限り、彼女は転倒しない。落ちてきたものを受け止めたり、ちょっとした石に躓いたりしただけでは、バランスを崩すことがあっても、そのまま踏ん張ってすぐに体勢を立て直す。だから、彼女が転んで怪我をしたというのは、僕には疑問だったのだ。
「木って、どのくらいの高さ?」
治療されるヴィを遠目に見ながら、僕はリィルに尋ねる。
「そんなに高くないよ。せいぜい、私の背より、少し高いくらい」
「上りたいって、二人が言ったの?」
「うん……。危ないから、やめた方がいいって言ったんだけど、どうしてもって言うから……」
「阻止できなかったのは、君の責任かもね」
「うん……」
「いや、冗談だよ。クレイルがどう思うは分からないけど、うん、僕は、そんなふうには思っていないから、安心して」
「じゃあ、最初からそう言ってよ」
「たしかに」
傷の手当てが終了し、ヴィは椅子から立ち上がった。特に痛みを感じるわけではないらしい。風呂に入るときに痛むかもしれないが、怪我の程度を見る限りすぐに治るだろう。
ゆっくりとした足取りで、ヴィが僕たちの方に近づいてくる。
それから、彼女はリィルに向かって軽く頭を下げた。
「迷惑をかけて、ごめんなさい……」
呟くように小さな声だったが、今まで聞いた中では、僕には一番感情が籠もっているように聞こえた。
リィルは、戸惑いながらも、ヴィの謝罪に応える。
「いや、私の方こそ、うん……、怪我させちゃって、ごめんね」
「今度から、気をつけます」
「うん、気をつけて」
ヴィはクレイルの傍に戻っていく。彼女は笑顔でヴィの頭を撫でた。
ちょうど良い時間だったから、昼食をとることになった。昨日のように庭に赴くことはせず、今日は朝と同じようにリビングで食べた。
昼食の場では、ココとヴィはいつにも増して快活だった。いや、平均以上に快活な印象は受けないが、いつもに比べれば元気があった。外で遊んだ様子をクレイルに説明し、何が楽しかったのか、それぞれ感想を述べた。食事をしながら僕は二人の話を聞いていた。
どうやら、リィルは二人と打ち解けることができたようだ。完全ではないにせよ、少しずつ前進しているのは確かだろう。特に、落ちそうになったのを助けるというのは、信頼関係を築くのにプラスに作用した可能性が高い。そうしたアクシデントは起きないに超したことはないが、実際に危険な状況に遭遇し、それをリィルが解決したとなれば、好感度が上がる要因になったのは間違いない。
昼食をとり終えると、僕とクレイルは再び応接室に向かった。ココとヴィは室内で勉強をするらしい。もちろん、その場にはリィルが付き添うことになる。
「なかなか、上手くいっているみたいじゃないか」仕事を始める前に、僕はリィルに言った。
「うん、まあね」
リィルの表情は、まだ迷いはあるのだろうが、比較的明るかった。
「子どもたちと仲よくして頂いているみたいで、本当に助かります」応接室に入ったタイミングで、クレイルが僕に言った。「彼女には、怪我を負わせてしまったみたいで、本当に申し訳ありません」
「ええ、いえ……」僕は椅子に座る。
「でも、子どもたちも心を開いてくれたようで、よかったわ」
「お二人は、よく、外で遊ばれるのですか?」気になったので僕は尋ねた。
「もう少し小さかった頃は、私と一緒に遊びに行きましたけど、最近はあまり……」
「静かで、いい環境ですからね」
「ええ、そうね」クレイルは頷く。「でも、本当は、もう少しほかの場所にも連れて行きたかったと思っています」
午前中の成果は羊皮紙三枚だったので、午後は二枚を完成させることを目標にした。クレイルにはまだ伝えたいことのストックが沢山あるようで、途中で考え込むようなことはなかった。
母親がこんな状態だから、ココもヴィも、一緒に外で遊んでくれるリィルが嬉しかったのかもしれない。僕も、子どもの頃は、今よりは家の外に出ることが多かった。夏に虫捕りをしたこともあるし、冬に雪達磨を作ったこともある。けれど、僕は一人で遊ぶことがほとんどで、僕の傍に友人がいることは稀だった。だから、姉妹という関係は多少なりとも憧れる。遊ぶことだけではなく、勉強や食事など、生活そのものを一緒に経験できる者が傍にいるというのは、それだけで心強い。もちろん、一人の方が良い面もある。ただ、僕にはココとヴィのような関係が羨ましく感じられた。
午後四時を迎えたタイミングで、今日の仕事を終えた。書き終えた羊皮紙を纏めて、昨日の分と合流させる。片づけをしてクレイルと一緒に応接室を出た。
リビングに入る前から、三人の話し声が聞こえていた。
テーブルが置かれた一画で、ココとヴィはリィルと向かい合って座っている。
適宜説明をしながら、リィルは二人に勉強を教えていた。
二人も説明を熱心に聞いている。
僕たちの気配を感じて、リィルが顔を上げた。
ココとヴィもこちらを振り返る。
三人が良好に仲を深められているようで、僕は安心した。
夕飯までの間、僕とリィルは自室で休憩することにした。クレイルから貰ったコーヒーを飲みながら、僕は一人で読書をする。リィルはベッドに上がって、そこで寝転がっていた。
「なんか、思ったより、明るい子たちだった」
僕が本を読んでいると、リィルが唐突にそんなことを言った。
「へえ、そうなの?」僕は応答する。
「うん……。やっぱり、私のことを知らないから、不安だったみたい。一度一緒に遊び出したら、けっこう、積極的に話してくれたよ。あと、勉強するときも、色々質問してくれたし……」
「よかったじゃないか」
「うん……」
沈黙。
開いている窓の隙間から、涼しい風が室内に流れ込む。
布団のシーツが軽く靡いて音を立て、それからまた無音に戻った。
「そっちは、どう?」
リィルの問いを受けて、僕は考える。
「うん、まあ、順調かな」僕は答えた。「クレイルも、色々と考えてくれたみたいで、なかなかいいペアワークができている」
「まだ、二日か……」
「意外と、長く感じるよね」
「うん……。でも、この二日間、慣れるのに大分体力を使った気がする」
僕も同感だったので、頷いた。
「一週間したら、家に帰るわけだけど、そのとき、名残惜しいといいなあ……」リィルが言った。
「どうして?」
「いや、なんとなく……。それくらい、二人と仲よくなれれば、いいなってこと」
「二人は、いい子だって、クレイルが言っていたよ」僕は言った。「きっと、君のことももう信頼してくれたんじゃないかな」
「そうだといいけど」
「まだ、自信がないの?」
「うーん、どうだろう……」
二人と接点が少ない分、ココとヴィの人柄について、僕はあまり詳しく知らない。きっと、想像しているよりも、二人は個性的な人間なのだろう。子どもと付き合うのは大変だが、リィルはその難問に短期間で攻略法を見つけたのかもしれない。僕が知らない一面を、リィルもまだ沢山抱えているようだ。
夜に近づくにつれて、この辺りは暗くなる。暗くなるのはどこでも同じだが、周囲に人家がない分、より一層闇の濃度が増す。部屋の照明を点ければ問題ないが、窓の外を見ても、もう先の様子はほとんど窺えない。
生活するだけなら、これ以上ないくらい良い空間だ。不便な部分もあるが、対処できないわけではない。都会にいて、静かな環境を持ってくることはできないが、静かな環境下で、必要なものを届けてもらうことはできる。そう考えると、僕たちが住んでいる場所よりも、こちらの方が優れた条件下にあるのかもしれない。少なくとも、ココやヴィがほかの人間と異なった環境で育ったことは、将来の二人にプラスの影響を齎すだろう。
今日は僕の方が先に風呂に入ることになった。
階段を下りて、洗面所に向かう。浴室の扉を開け、湯船に浸かった。
自然とルルのことを思い出した。
予言書がルルからのメッセージだとすれば、そこには何らかの内容があるはずだ。当たり前だが、もしそうであれば、僕たちはそれが何か確認する必要がある。しかし、今のところ確認する方法は考えられていない。何らかの方法で予言書を調べなくてはならないが、その方法が分からない。
ルルは、どうして、僕たちにそのメッセージを伝えようとしているのだろう?
そして……。
それ以前の問題として、ルルは本当に存在しているのか?
分からないことだらけだった。逆に、分かることだらけの場合など滅多にない。そして、リィルと出会ってからというもの、僕の周りでは分からないことばかり目立つようになった。その中には解決したものもあるが、一つが解決すると、次が分からなくなることがほとんどだ。生きていくとは、日々直面する問題を一つずつ解決していくのと同義だが、それにしても、解決しなくてはならない問題の数が、すでに飽和しているように思える。
本当のところ、解決しなくてはならない問題というのは存在しない。僕が意識的にそれらを避ければ、何も考えなくて済む。解決しなくてはならないと感じるのは、僕の性分も大きく関係している。一度それを問題だと認識してしまうと、どうしても解決したくなってしまうのだ。普段は、そうした状態に陥らないように、やはり意識的に問題との直面を回避している。けれど、ルルやリィルに関することについては、その意識がはたらく前に、問題を問題として捉えてしまう傾向にある。
それは、ルルやリィルの存在が、僕にとって大きいということでもある。
自分の人生の中で、彼女たちは重要なファクターとしてはたらいている。
ルルからのメッセージを、僕たちは解き明かさなくてはならない。
そのゴールには、きっとルル本人がいる。
理由は分からないが、僕にはそう思えた。
風呂から出てリビングに向かうと、クレイルが料理を作っていた。ココやヴィの姿は見当たらない。二階の部屋にいるのだろう。
クレイルに許可をとって、冷蔵庫からお茶が入ったボトル取り出し、コップに注いで飲む。キッチンに立つクレイルの姿は、どこか家庭的な雰囲気で溢れていた。エプロンを付けているからかもしれない。それ以前に、彼女の柔和な性格がそう感じさせるというのもある。
「夕飯、楽しみにしていますね」
社交辞令のつもりで、僕はクレイルにそう伝えた。
彼女はこちらを振り向き、僕に笑いかける。
「ええ、そう言って頂けると、嬉しいわ」
キッチンを出て、自室に戻った。
もう一人風呂に入るくらいの時間はあったが、リィルは、本を読んでいて、食事のあとで入ると話した。昨日と立場が逆だ。こういうことは割と頻繁に起こる。人と人との関係は、互いに影響し合って形作られるものだから、特に不思議ではないかもしれない。
リィルはデスクの前に座っている。彼女が行儀良く座っているのを、僕は久し振りに見た気がした。
「何?」
ベッドに座って後ろ姿を眺めていると、リィルはこちらを振り向いた。
「いや、何も」僕は答える。
「何か、変なこと考えていたでしょう」
「変なこと?」僕は首を傾げた。「何も、考えていないけど」
「今日の夕飯、何だと思う?」リィルは突然話題を変える。
「さあ……。まあ、たぶん、昨日と同じではないだろうね。彼女、豊富なバリエーションを持っていそうだから」
「秋刀魚の塩焼きは、ありそう?」
「いや、だから、それはないと思うよ」僕は言った。「君さ、なんで、そんなに秋刀魚に拘るわけ?」
「え、だから、格好良いから」
「何が?」
「フォルムが」
「それについて、一日考えてみたんだけど、やっぱり僕には理解できない」
「そんなこと、考えていないでしょう?」
「うん、そうだけど、考えても、理解できなかったと思う」
「秋刀魚と鮪だったら、秋刀魚の方が、圧倒的に格好良いでしょう?」リィルは説明した。「秋刀魚のしゅっとした体型が、私にはぴったりなの。鮪って、どっちかっていうと、割とふっくらしているじゃない? そうじゃなくて、魚らしい、鋭利な感じの方が、心にぐっと来るっていうか……。それが、私が秋刀魚が好きな理由だよ」
「ごめん、全然分からなかった」
僕がそう言うと、リィルは若干目を釣り上げた。
「君さ、私の話聞いていなかったの? 今、ちゃんと、説明したじゃん」
「説明されたけど、その説明の意味が、理解できなかったってことだよ。適当な順番に単語を並べて文章を作ったら、単語の意味は分かっても、文章の意味は分からないだろう?」
「私の説明が、文章になっていないって言うの?」
「うん、まあ、そう」
「酷い」リィルは勢い良く顔を背ける。「まったく。人が一生懸命説明しているのに」
「君さ、何をそんなにかっかしているわけ?」
「していないから!」
「しているよ」
危険な感じがしたので、僕はそれ以上彼女には触れなかった。
夕食の場でも、ココとヴィはリィルとコミュニケーションをとってくれた。二人の方から話しかけてくることはあまりないが、リィルが何かを尋ねると、大抵の質問には答えてくれた。ただ答えるだけではなく、ごく自然な感じで自分の意見も述べてくれたりする。彼女たちの距離は、今日一日で大分縮まったようだ。
しかし、僕にはまだ気を許してくれていないみたいで、二人ともなかなか僕の方を見ようとしなかった。話した回数が少ないから当たり前だが、なんとなく、もう少し話せたら良いな、とは思う。他人との関係に積極的な方ではないから、僕にも改善するべきところはあるだろう。
ココとヴィは、食事が終わるとすぐに自室へと戻った。リィルは風呂に入ると言って、リビングを出ていった。
部屋には、食器を洗うクレイルと、僕だけが残された。
食事が終わったタイミングで、洗い物を手伝うとクレイルに申し出たが、彼女はそれを断った。大事な客人を煩わせるわけにはいかない、というのが彼女の主張だった。客人だからといって、何でもやってもらうわけにはいかないと僕も食い下がったが、寛いでもらった方が嬉しいと言って、クレイルは譲らなかった。
窓際にあるソファに腰をかけて、僕はじっと天井を見つめている。リビングの照明は消えていて、クレイルが立つシンクの辺りだけ明るかった。
顔を横に向けて、窓の外を見る。空は見えないが、そこに沢山の星が輝いていることは知っている。自室の窓から確かめたからだ。
「ここでの生活には、慣れましたか?」
僕がぼうっとしていると、洗い物を続けながら、クレイルが尋ねてきた。
「ええ、まあ……」僕は彼女の方を見て答える。「普段自分たちでやっていることを、色々とやってもらっているから、負荷がかからなくて助かります」
「それならよかったわ」クレイルは振り返った。「本当は、お客様をお呼びすることはあまりないから、私もわくわくしているの」
「普段は、訪問者は、あまりいないんですか?」
「ええ、そうね……」クレイルは再び前を向く。「場所が場所ですから、特別な用がない限り誰も来ません」
暫くの間無言が続く。
食器が擦れる音が響いた。
「……身体の方は、大丈夫ですか?」
今尋ねるべきだと思って、僕は質問した。
「ええ……」クレイルは答える。「不自由はしていません。自分では、体調は良いつもりです」
「その病気は、その……、発症してから、どのくらいなんですか?」
「もう、ずっとです。二人が生まれてから、すぐに症状が表れて……。だから、あの子たちには、本当に健康な母親の姿を、一度も見せられなかったことになります」
僕は頷く。
「でも、それでもよかったと思っているの。二人が生まれる前に病気を患っていたら、あの子たちがどうなっていたのか、分かりませんから……」
僕は再び顔を上に向ける。
生物学的な観点からいえば、クレイルは、個体としての役目をすでに全うしたといえる。生物の役目とは、自分の遺伝子を後世に残すことだ。クレイルには二人の子どもがいるから、その遺伝子が今後も存続する可能性は、一人の場合よりも明らかに高い。人間以外の動物では、子どもを産むとすぐに死んでしまう種も多い。そう考えれば、この十二年間、クレイルは立派に親として機能したといって良い。
ただ……。
人間には、生物学的な観点からでは説明のできない、欲というものが存在する。
それは、人によって様々な形を成す。
自分が産んだ子どもの行く末を、最後まで見届けたいと思うのも、その一つだ。
あるいは、その反対の立場でも……。
「何か、飲みますか?」
気がつくと、クレイルが僕の前に立っていた。
僕は椅子の背に預けていた身体を起こし、彼女の質問に答える。
「じゃあ、お願いします」
「何がいいですか?」
「何でも」僕は言った。「あ、でも、アルコール以外でお願いします」
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