Next to Her Last Message

羽上帆樽

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第7章 宛先に配送する作業

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 夕食の場。

 テーブルの上にある料理を適当に取って、僕はそれを食べる。ここに来て毎日続けてきたことだから、この家の特徴的な食事に、僕はもう大分慣れていた。ここに来て、色々なことを経験してきた気がする。仕事が与えられれば、そのために様々な場所に赴くが、今回のように人様の家にお邪魔することは稀だった。大抵の場合、企業に行くか、あるいはどこにも行かず自分の家で作業をする。クレイル一家の生活ぶりは、僕とリィルのそれとはかなり違っていたから、良い経験をすることができた。

「ねえ、リィル」ヴィが口を開いた。「明日は、何をする?」

 子どもたちは、リィルのことを、リィル、と呼び捨てにするようになった。彼女がそう呼ぶように言ったのか、二人が自然とそう呼ぶようになったのか、僕には分からない。ただ、良い傾向だとは思った。変に敬語を使われるよりも、気を遣われていない感じがして、リィルも良いと感じているだろう(あくまで、僕の推測では)。

「ヴィは?」リィルは首を傾げる。「何がしたい?」

「うーん、私は……。あ、じゃあ、かくれんぼ」ヴィは言った。「この間、やろうって言って、できなかったら、やりたい」

「分かった」

「私も、一緒にやる」パンを口にしていたココが、呟くように告げる。

「いいよ」リィルは笑顔を彼女に向け、頷いた。

 最初は、ヴィの方が、ココよりも大人しいように感じられたが、実際にはその逆だということを、僕は最近になって理解した。人見知りの度合いがヴィの方が大きかっただけで、彼女は基本的に活発だ。ココは、活発ではないわけではないが、歳相応というか、ヴィよりも大人らしい対応をする。姉という立場が、そうした態度に関係しているのかもしれない。

「二人とも、楽しそうで、よかったわ」僕の隣で、クレイルが言った。「あと少しだから、よろしくね」

 クレイルの言葉を受けて、ヴィが少し下を向く。

「そっか……。もう、リィル、いなくなっちゃうんだね……」

「また、きっと、会えるよ」リィルは応える。「それよりも、あと二日楽しむことを考えないと」

 ヴィは小さく頷いた。

 左隣に座るココを、僕は目だけを動かしてそっと見る。彼女はいつも僕の隣に座っていたが、彼女を意識したことはあまりなかった。意識する、というのは言い方がおかしいが、隣に座る存在を、気にかけたことがほとんどなかった、という意味だ。

 ココは、大抵、あまりご飯を食べない。今もパンを一つ手に取って、それを千切りながら少しずつ口に運んでいる。これしか食べないか、もう少し何かを食べるくらいで、彼女の食事は終わる。

「それだけで、足りる?」

 良い機会だと思って、僕はココに尋ねた。

 彼女は顔を上げて、無表情で僕を見る。

「うん……」

「何か、取ろうか?」

「ううん」ココは首を振った。「いらない」

 僕の正面では、リィルとヴィが楽しそうに話している。クレイルは、そんな二人の様子を笑顔で眺めている。

「ココ」僕は、そのとき、初めて彼女の名前を口にした。「外で遊ぶのって、辛くない?」

「え?」ココは首を傾げる。「どういうこと?」

「いや、ちょっと気になったから……。リィルって、けっこう活発だろう? それにやんちゃだから、彼女と一緒に遊ぶのって、なかなか疲れるんじゃないかな、と思って……」

「うーん、あまり、辛くはないけど……」ココは答えた。「リィルは、私達のこと、ちゃんと見てくれるから、平気」

「そう? それなら、よかった」

 質問の意図を自分で変えてしまったので、僕はもう一度彼女に質問した。

「じゃあさ、これは、ちょっと、気になったから訊きたいだけなんだけど……」僕は話す。「いつも、二人とも、ドレスみたいな、厚い服を着ているけど、大丈夫?」

「え?」

「いや……。ちょっとした興味でさ。僕って、男だから、そういう服を着たことがなくて……。うーん、そういうのだと、体温の調節とか、難しいんじゃないかと思ってね」

「うん……。外で走り回るのは、大変かも」

「熱くはない?」

「熱い?」ココは再び首を傾げる。「熱くは、ない、かな……」

「寒くは?」

「寒くも、ないよ」

 僕は頷いた。

 食事が終わり、僕はすぐに自分の部屋に戻った。リィルは、今日はヴィと一緒に風呂に入るみたいだった。さすがに三人一緒には入れないので、ココは一人だ。あるいは、クレイルと一緒に入るのかもしれない。仲が良くて、良いな、と僕は素直に感じた。

 いつも通りベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。もちろん、何もない。古びた板材が続いているだけだ。

 二日目に手紙を書く練習をしたお陰で、僕は普段と異なる種類の単語を引き出せるようになっていた。手紙を書く際には、言い回しが重要だということも、実践を通して理解した。クレイルの話し言葉を、彼女らしい書き言葉にする過程は、それなりに興味深い。文の意味や、単語の意味を考えないように意識したことで、言葉と言葉の連結を言語的な視点から見られるようになった。一つのデメリットから、一つのメリットが生じたことになる。

 僕は、そのまま眠ってしまった。部屋の照明を点けたままだったが、気にならなかった。

 暫くして、肩を揺すられて目を覚ました。

 すぐそこにリィルが立っていた。

「風邪引くよ」

 僕はゆっくりと身体を起こし、自分の額に触れる。少しだけ目眩がしたが、すぐに治まった。

「毛布もかけないで、大丈夫?」

「うん」僕は頷く。「僕が、毛布にかかっていたから」

 梯子を上って、リィルは上に上がった。

「ヴィとの風呂は、どうだった?」

 僕が尋ねると、リィルは笑いを含んだ声で答える。

「そんなことが気になるの? 嫌らしいなあ」

「うん、そうかもね」

「うーん、なかなか大変だったよ、配分が」彼女は説明した。「私がお湯に浸かっている間、ヴィには身体を洗ってもらったんだけど、彼女、洗うのが遅くてさ……。まあ、私も他人のこと言えないから、お互いに、茹で蛸になりそうだった」

「一緒に、お湯に浸かったわけじゃないんだね」

「……何それ。本当に、そんなこと妄想しているわけ?」

「うん」

「気持ち悪い」

「想像するのは、人の自由だ」

「うわ……」

「その反応は、何? 想像しちゃ駄目なの?」

「酷い」

「何が?」

 しかし、リィルは答えなかった。

 僕は携帯端末を取り出して、画面を見る。ニュースを見るのではなく、天気を調べた。最近はずっと晴れていたが、明日は雨が降るみたいだった。先ほど外に出たとき、空は曇っていたが、雨が降りそうな様子ではなかった。これから急変するのかもしれない。

「……そういえば、君は、さっき、ココの身体に触れたって言っていたけど……」僕は尋ねた。「それは、どういう経緯で、そうなったの?」

 リィルは、ココとヴィと遊んでいる際に、ココが何かに躓いて倒れそうになったから、それを支えたのだ、と説明した。特に走っていたわけではないが、自分の隣を歩いていたココが体勢を崩したため、手を添えて、抱きかかえるように彼女の身体に触れた。

「君の話を聞いて、僕も色々考えたんだけど……。うん、やっぱり、まだ、何もいえないと思うよ。さっきは、どうかしていたんだと思う。少し急ぎすぎた。それに、事態は君が考えているほど悪くはないと思う。いや、君が考えているのと、悪さの方向性は異なるといった方が近いかな……」

「それ、どういう意味?」頭上からリィルの声が聞こえる。

「そのままの意味だよ。ただ……。……人によって、何が良くて、何が悪いのかは、違うということ」

「……君は、何か分かっているの?」

「いや、まだ、分からない」僕は話す。「明日、確認してみるから、それまでは何もいえない」

 僕の言葉を聞いて、リィルは黙った。

 僕とリィルの思考回路は、似ているところもあれば、似ていないところもある。当たり前だ。どんな人間にも、似ているところと、そうでないところがある。それは僕たちも変わらない。

 ただ……。

 リィルには、どういうわけか、最悪の事態を、思考の枠組みから排除する癖があった。無意識の内にそうしているのだろうが、それはある意味では危険だ。予め最悪の事態を想定できていれば、いざその事態に直面したときに、慌てずに対処できる。一方、そうではない場合、束の間の安心感を抱くことはできるかもしれないが、その事態に直面したときにどうしようもなくなってしまう。もちろん、僕にも最悪の事態を想定したくない気持ちは分かる。明日地球に巨大な隕石が降ってくるという事実が判明したら、もうどうしようもないから、潔く死のうと考えるのが前者の考え方だが、後者の場合は、降ってきても何とか助かるはずだ、そうでありたい、そう願いたいと考える。後者の方が美しい生き方であることが確かだ。

「ココと、ヴィは、仲が良いの?」

 リィルが何も話さないから、僕はたった今思いついたことを質問した。

「うん……。二人は、とても仲よしだよ」リィルは答える。「ヴィはココを信頼しているし、ココも、ヴィに頼られるのをよしとしているし……」

「まあ、僕にも、そんなふうに見える」

「それが、どうかしたの?」

「いや、どうもしない。ただ、気になっただけ」

「遺書の執筆は、上手くいっている?」リィルは唐突に話題を変えた。

「たぶん、あと二日もすれば終わると思うよ」僕は答える。「クレイルも、そのつもりだと思う」

 沈黙。

 どうも、会話が続かない。会話が続かない原因は、主に二つある。一つは、一方が他方を好んでいないこと。そしてもう一つは、そもそも会話の前提が噛み合っていないことだ。

 午後十一時になり、部屋の照明は自動的に消えた。それに伴って、僕とリィルも布団に入った。ここに来てから、毎日この時間帯に眠っているから、大分健康的といえる。夜更しするのも良いが、早く眠ると、健康を貯金しているみたいで、僕の性分には合っていた。

 意識的に何も考えない時間が続く。

 夢は見なかった。

 何か音が聞こえたような気がして、僕の意識は急速に現実に引き戻される。

 目を開けた。

 辺りは暗闇に包まれていて、何も見えない。

 部屋の暗さに目が慣れるのに、少し時間がかかった。

 周囲を見渡す。

 ドアを一枚隔てた向こう側で、何かが床に落ちるような音がした。

 それが、二、三回と続く。

 枕もとに置いてある懐中電灯を手に取って、僕はベッドを抜け出す。

 ハンガーを通してベッドの縁にかけてあったジャケットを手に取り、それを羽織った。

 リィルは目を覚まさかった。小さな寝息が聞こえる。

 ドアを開けて部屋の外に出る。

 懐中電灯の電源を入れ、正面を照らした。

 何もない。

 ずっと遠くの方に、クレイルたちの寝室のドアが見える。

 音は、もう聞こえなかった。

 二階には、僕たちが借りているものと、クレイルたちが使っているものの、二つしか部屋がない。

 先ほどの音はすぐ傍で響いていた。

 部屋と、廊下で何も起きていないとなれば、考えられる場所は階下しかない。

 足もとを照らして、僕はゆっくりと階段を下りる。

 空間を下方向に移動。

 玄関に到着する。

 左を見て、次に右を見る。

 右手に持った懐中電灯の光が、リビングのドアを薄く照らし出した。

 光の一部が向こう側へと突き抜ける。

 ドアに隙間ができていた。

 たった今ドアが開かれた形跡がある。

 僕はそのまま廊下を進み、リビングの前までやって来る。

 その向こう側に誰かの気配を感じた。

 僕はその場で立ち止まる。

 しかし、何も躊躇する必要はなかった。

 ノブを握り、ドアをこちら側に引く。

 流出する暗闇。

 リビングに足を踏み入れる。

 直進。

 そして右側。

 シンクの辺りに誰か立っている。

 僕はその人物に懐中電灯を向ける。

 細い四肢。

 長い髪。

 片手にコップを持ったココが、こちらをじっと見つめていた。

「どうしたの?」

 緊張していたのか、僕の口からは上擦った声が出た。

 ココは、口に含んでいた液体を、ゆっくりと喉に流し込む。

 瞳は、少し濡れているように見えた。

「……喉が、乾いたから……」息を吐くように、ココは答えた。「お茶を、飲もうと思って……」

 懐中電灯の光を向けたまま、僕はココに近づく。

 コップには、まだ半分ほどお茶が入っていた。ココはそれを少しずつ口に入れ、少しずつ飲み込んでいく。本当は一度に飲みたいのに、それができなくて、やむをえず少量ずつ飲んでいるような、そんな不思議な動作だった。

「貴方は、どうして……」

 お茶を飲み込んで、ココは僕に尋ねる。

「音がしたから、気になって、見に来たんだ」僕は説明した。「階段を下りるとき、足取りが覚束なかったみたいだけど、大丈夫?」

 僕がそう尋ねると、ココは若干睨むような目つきで僕を見た。瞳の表面には、やはり涙が滲んでいる。懇願するような目で見つめられて、僕は少し苦しくなった。

「……私は、平気です」

「そう? それなら、いいけど……」

 シンクに置いてあったお茶のボトルを傾けて、ココはさらにコップに液体を注ぐ。それから、先ほどと同じように、少しずつ水分を体内に取り込んでいく。

 コップを水切り台から一つ取って、僕もお茶を飲んだ。ココの隣に立って、彼女と同じように、ゆっくりと冷たい液体を喉に流し込む。

「夜に飲むと、不思議な味がするよね」僕は言った。「何気なく飲むと何の味もしないけど、意識して飲むと、少し甘い気がする」

 ココは静かに頷く。

「寝ているときに、喉が乾いて目を覚ますのは、よくあること?」

 僕の質問を受けて、ココは一度首を傾けたが、すぐに頷いた。

「……寝ていなくても、喉は乾く」

 ココのカップを受け取って、僕は自分のカップと一緒にそれを洗った。水切り台にカップを戻し、傍にかけられていたタオルで手を拭く。

 その間、ココはテーブルの椅子に座っていた。

 洗い物を終えた僕は、彼女の傍まで歩いていく。

 そして、彼女の肩に触れた。

 体温の伝達。

 驚いたような挙動で、ココは顔を上げて僕を見る。

「身体、震えているよ」僕は言った。「本当に、平気?」

 ココは答えない。

 そのまま僕の顔をじっと見つめ、彼女は何度も懸命に瞬きを繰り返した。

 長い髪が、寝間着の隙間から見える鎖骨に触れていて、扇情的だ。

 けれど、そんな様子も、僕にはとても脆弱に思えた。

 彼女を見て、自分のものにしたい、という欲望が現れたのは、間違いではない。

 ただし、それは、一般的な形とは異なっている。

 僕は、彼女を守りたいと思った。

 本当に、それだけだった。

 細い肩に触れて、強くそう感じた。

 震える唇を見て、酷くそう思った。

 でも……。

 それは、僕には叶わないと、同時に悟った。

 だから、何もできなかった。

 肩に触れた手を離し、僕は彼女から離れる。

 ココは立ち上がり、ごめんなさい、と僕に言った。

 僕は、なぜ、謝られたのか、分からなかった。

 一緒にリビングを出て、階段を上った。廊下でココと別れて、僕は自分の部屋に戻る。懐中電灯の明かりを消し、布団に潜って、ぼんやりと上方の床板を眺めた。

 ココと二人で話したのは、初めてだった。

 リィルが、クレイルのことをあまり知らないように、僕もココのことを知らなかった。

 だから、今、多少なりとも彼女を知れて、良かったと思った。

 そして、もう、彼女と二人で話す機会は、ないかもしれないとも感じた。

 それから、あまり眠れないまま夜を過ごした。意識は遠退いていたが、眠っているとは形容できないような、浅い眠りだった。疲れも完全にはとれず、朝になって身体を起こすと、微妙に重たい感じがした。リィルはよく眠れたようで、目を覚ますと、二段目のベッドから勢い良く飛び降りてきた。

「危ないじゃないか」

 僕がそう言うと、彼女は不思議そうな顔をして言った。

「そうだよ。当たり前じゃん」

 着替えを済ませて、洗面所で顔を洗ってから、二人揃ってリビングに入る。いつも通りテーブルには料理が並べられており、ココとヴィは所定の位置に座っていた。

 僕たちが部屋に入ると、二人が挨拶をしてくれた。こうなったのは、三日ほど前からだ。

 僕が隣に座ったのを確認して、ココが少しだけこちらに視線を向けてきた。昨夜のやり取りがあったから、多少気にしているようだ。僕は無難な笑顔を作り、何も言わないで軽く肩を竦めてみせた。ココは、僕のジェスチャーの意味を考えているみたいだったが、やがて一度小さく頷くと、顔を正面に戻してしまった。

 クレイルが、ホワイトシチューが入った鍋を、テーブルの中央に置く。朝からシチューを煮込むとは、なかなか気合が入っているな、と僕は思った。今朝のメインディッシュはシチューだが、食べたい人は食べ、食べたくない人は食べる必要はないといったルールが、この家庭には築かれている。大抵の場合、ココはメインディッシュを少しだけ食べるか、ほかのものを食べるかのどちらかだが、ヴィは例外なくメインディッシュに手を伸ばす。僕とクレイルは、すべてのものをバランス良く食べるようにしている点が、共通していた。

 軽く挨拶を交わしてから、それぞれ朝食をとり始める。

「ねえ、お母さん」食事が始まると、ココがすぐに口を開いた。「私……、今日は、一人で自分の部屋にいてもいいかな?」

 ココの言葉を聞いて、クレイルは彼女を見る。

「ええ、いいわ」理由を尋ねるかと思ったが、クレイルはココの要求を無条件に承諾した。「じゃあ、今日は、ヴィだけをお願いします」

 クレイルの言葉を受けて、リィルは軽く頷く。彼女の頭の上には疑問符が浮かんでいたが、それは僕も同じだったかもしれない。今日と明日しかないのに、リィルと接する機会をココが放棄することに対して、クレイルが何も言わなかったのが不思議だったのだ。

「今日は、どうする?」

 シチューを食べながら、ヴィが隣に座るリィルに尋ねた。

「え? ああ、うーん、そうだね……」リィルは考える。「ヴィは、何がしたいんだっけ?」

「かくれんぼだけど、雨が降るみたいだから……」ヴィは言った。「だから、リィルがしたいことでいいよ」

「うーん、そう言われても……。……あ、じゃあ、二人だけだから、トランプでもする?」

「え? トランプって、二人でもできるの?」

「できるよ。まあ、ちょっと、意地悪な感じになるけど」

「意地悪って、どういうこと?」

「やってみれば分かるよ」リィルは不敵に笑った。「意地悪なこと、したい?」

「したい」

 二人揃って、悪に染まったようだ。小さな子どもに変な教育をしないでほしいと思ったが、今さら言っても遅いだろう。今までだって、リィルが二人に何を教えてきたか分からない。もう少し早い段階で注意しておくべきだった。

 朝食は程なく終わり、今日はリィルが食器を洗うことになった。いつもならココが洗っているが、彼女は早々に自分の部屋に戻ってしまった。クレイルは洗濯物の仕分けをしている。日によって、ヴィが手伝うこともあった。どういうわけか、この家に来てから、僕はあまり家事をしていない。クレイル曰く、一番重要な仕事をしてもらっているのだから、これ以上ほかの仕事をさせるわけにはいかない、とのことだったが、僕としては申し訳ない気持ちが強かった。

 しかし、今日は、それが良い方向に作用した。

 ほかの人たちがそれぞれ作業を行っている間に、僕は一人で応接室に向かった。ドアを開けて中に入り、後ろ手にドアを閉める。中央にあるデスクを迂回し、その向こう側にあるキャビネットに近づいた。そちらの壁はほとんどが硝子張りになっており、唯一このキャビネットだけが置かれている。キャビネットの引き出しからアルミ性の箱を取り出し、その中に入っている鍵を手に取る。引き出しをもとに戻し、キャビネットの硝子扉にある鍵穴に鍵を差し込んで、右側に九十度捻って解錠した。

 扉の向こう側には、僕とクレイルが今まで書いてきた遺書の束がある。何枚もの羊皮紙がトレイ型のケースに入れられており、上から順番に文字の記された手紙が続いている。

 僕はその紙の束をすべて取り出した。

 一度、深呼吸をする。

 それから、最初から順番に目を通していった。

 自分が書いたものなのに、初めて読むような気分だった。事実として、僕はそれを読んだことがない。自分で考えたことを文章にするのは、頭の中にある内容を可視化する作業だから、書いている最中には、読んでいなくても内容を理解している。けれど、これはクレイルが話したことを僕が文章にしたものだから、それとは違う。僕は、いってみればクレイルの腕になっていたわけだが、その腕は、彼女の脳と繋がっていたわけではない。

 そして、僕がそれを読むのが初めてだと感じるのは、それだけが原因ではなかった。

 そう……。

 それが、僕が犯したミスだ。

 手紙に記されている内容は、僕が想定していたものと随分違っていた。クレイルは、初めからそのつもりだったのだ。本当なら、僕は最初の時点でそれについて彼女に言及するべきだった。しかし、僕がそれをしなかったから、クレイルは不思議に思ったに違いない。そのあと、クレイルがどのような結論に至ったのか、僕には分からない。ただ、彼女の中で何らかの結論が出されて、それに則って僕に接していたことは間違いない。

 突然、背後でドアの開く音がした。

 僕は後ろを振り返る。

 こうなることは、ある程度は予想していた。

 けれど、実際に事態に直面すると、どんなふうに対応したら良いのか分からなかった。

「ああ、やっと、気づいたのね」クレイルは笑顔で言った。「あまりにも遅いから、心配していました」

 彼女は自然な動作で部屋の中に入り、いつものように椅子に腰かける。それから、背後にいる僕に目を向けて、僅かに首を傾げてみせた。

「どうかしましたか? まだ、始めないつもりですか?」

「……これを、読んでもいいですか?」

 僕がそう尋ねると、クレイルは笑顔のまま頷いた。

「ええ、どうぞ。でも……、今まで貴方が書いてきたものなのに、今さら読み返したいなんて、変だわ」

「ええ……。どうして、今まで気づかなかったんでしょう」

「さあ、どうしてかしら……」

 僕が手紙の内容を確認している間、クレイルはずっと無言だった。ただ、彼女はずっと笑顔だった。それが彼女にとっての無表情なのだろう。ただ、意識的にそうしているのか、本当にそれがデフォルトなのか、僕には判断できなかった。

 ココでも、ヴィでもなく、僕が本当に知らなかったのは、クレイルだった。

 手紙に一通り目を通し終え、僕はそれをケースの中に戻して、キャビネットの扉を閉めた。鍵をもとの場所に戻し、引き出しを閉じる。

 クレイルの対面に座り、僕は暫くの間黙っていた。

「どうしたの?」クレイルが訊いた。「何か、気に障ることでもありましたか?」

 僕は彼女を見つめる。

 自分がどんな表情をしているのか、分からなかった。

「……どうして、嘘を吐いたんですか?」

 笑顔のまま、クレイルは僕の質問に答える。

「嘘を吐いたつもりなんて、なかったわ」彼女は言った。「たしかに、依頼をする際には事実と異なることを伝えましたけど、貴方がここに来て、最初に仕事をしてもらうときに、気づいてもらえると思っていました。でも……。貴方は、何も言わなかった。それどころか、何も気づいていないみたいだった。最初の内は、気づいたうえで、あえて言及しないのかとも思っていました。けれど、その後の貴方の行動を見て、それが違うことが分かった。だから、どういうつもりなのか、暫く観察しようと思ったの。貴方が気づくまで、私も黙っていることにしたわ」

 僕は沈黙する。

「……あと、どれくらい保つんですか?」

「その数字に、嘘はありません」クレイルは答える。「三ヶ月です。長いのか、短いのか、分かりませんけど……」

「貴女は、それでいいんですか?」

「いいえ、よくありません。でも、私にはどうすることもできないんです」

 目の前に置かれている万年筆を手に取って、僕は意味もなくその先端を見つめる。ペン先は鋭く尖っている。それがあれば、皮膚を裂くことくらい容易にできそうだ。

 その連想に意味はない。

 ただ、マイナスな思考から、そうした連想をしてしまっただけだ。

 僕は酷い人間だった。

 いや、人間ではない。

 人間としての優しさを、どこかに置いてきてしまったのかもしれない。

「ココは、もうすぐ死にます」

 クレイルの声が聞こえる。

 ずっと笑顔だった彼女が、その瞳から涙を流したのを、僕は見逃さなかった。
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