1 / 5
第1話 異
しおりを挟む
布団の中で目を覚ますと、午前六時二十分だった。
彼女にしては、いつもより幾分早い目覚めだった。夜遅くに眠って、朝遅くに起きるというのが彼女の生活習慣になりつつあったから、そのルールに抵触する行為といって良い。別に、日々の繰り返しの中で勝手に決まるルールに少し抵触したくらいで、どうということもない。明日になればまたもとに戻る可能性が高い、と彼女は考えた。
伸びをして、欠伸をする。
順番を間違えたかと思ったが、やってしまったあとだから、もう仕方がなかった。
いつもの癖で、誰もいないのに、おはよう、と彼女は一人で挨拶をする。自分の口から放たれた声は、当然自分の耳にも入る。だから、自分に向かって挨拶をしたと解釈できる。けれど、声に出さなくても、自分で自分におはようと言うことはできる。この、内面世界において自分に語りかけることができるということは、実のところ、自己という存在を肯定する最良な根拠になる。
などということを、起きたばかりの頭で考える。もっとも、彼女の頭はいつも何かしらのことを考えている。それは誰の頭でも同じことかもしれないが、彼女の頭は特にその傾向が強い。布団に入ってもなかなか寝つけないのは、ぐるぐるといつまでも考え込んでしまうからだ。ちなみに、昨日の夜は、トイレットペーパーに刻まれた模様の通りに竹輪を切ったら、どのような状態になるのかといった、難度の高い問題と格闘していた。特に何の結論も出ない内に眠ってしまったが。
「あああ、今日も、一日が始まってしまった」彼女は布団の外へ出ると、独り言を呟きながら身支度を始めた。「始まりとは何で、終わりとは何だろうか」
寝間着からワンピースへと着替え、視力が悪いから眼鏡をかける。そのまま洗濯物を持って階下へと向かった。洗面所に入り、たった今かけたばかりの眼鏡を外して顔を洗う。うがいは二回。歯はご飯を食べてから磨けば良いので、今はまだ磨かない。それでは口の中の雑菌を飲み込むことになるという指摘を受けるかもしれないが、彼女は自分自身が雑菌のようなものではないか、と考えている。きっと、スケールを宇宙全体に据えればそのように見えるだろう。
「急がないと、急がないと」
特別急ぐ必要もないのに、朝といえば急ぐイメージだから、そんな呪文を唱えながらリビングに向かう。
リビングは真っ暗だ。シャッターを持ち上げて、室内に陽光を取り込む。それで一度に明るくなる。太陽の強烈な光が、眼鏡の奥の目を焼いた。じじじという音が聞こえた気がする。けれど、今は秋で、別に太陽が特別勢力を増しているというわけでもない。彼女が魚のように直射日光に弱いだけだ。
「いたたたた……」
別にそれほど痛くもないのに、彼女は一人でそんなジェスチャーをする。
この家には、彼女のほかに誰も住んでいない。ときどき、リスとか、ヤマアラシとか、タヌキとか、ネコとかが、我が物顔で家の中に入ってくることがあるが、彼らは家族でも何でもない。だからといってまったくの他人かといえば、そういうわけでもなかった。事実として、彼女は彼らの内の何匹かとは知り合いだ。向こうがどういうふうに思っているのかは分からないが、少なくとも彼女はそのように認識していた。ちなみに、認識していた、というのは、今、まさに、認識するという行為の真っ最中だ、ということを意味しない。彼女がそのことに気づいたのは、中学校で英語の勉強を始めてすぐのこと。そうして、それを機に英語の勉強はやめてしまった。それ以上学ばなくても、行き着く先が見えてしまったからだ。
キッチンに入って、トーストを焼く。冷蔵庫から取り出した牛乳をカップに注ぎ、そのまま一口飲む。
牛乳の味がした。
ふと思いつき、フライパンを火にかけて、暫くしてからその表面に牛乳を零してみる。すると、じゅじゅじゅという音とともに牛乳は瞬く間に蒸発し、液体ではない何かがそこに残った。
「なるほど。これは単なる水分ではない、ということだな」
そう言って、彼女は一人で納得する。
何事も、試してみなければ分からない、と彼女は考えている。
しかし、一つだけ、どうしても試せないことがある。
それは、死ぬこと。
どうにかして一度以上死ぬことができないだろうかという問題は、彼女が昔から心に抱いているものだった。それが解決されれば、色々なことが分かるようになるだろう、という予感があるのだ。でも、今のところ、それが解決される目処は立っていない。
その場で朝食を食べて、予告通り歯磨きをした。誰に予告したわけでもないが、自分で自分にした予告に従った、という感覚が彼女の中にある。
朝食が終われば、次は玄関先の道路の掃除をする。彼女は箒と塵取りを持って、玄関の外に出る。
一歩。
そこで、彼女の足は止まる。
見慣れた景色が、そこになかった。
眼鏡の奥で、ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
「なんということでしょう……」
思わず、声が零れた。
玄関の先にあるはずの駐車場も、その先にあるはずの道路も、そのさらに先にあるはずの住宅も、今はない。
暗い空。
涼しい風。
いつの間にか、玄関は別世界への入り口と化していたようだ。
彼女にしては、いつもより幾分早い目覚めだった。夜遅くに眠って、朝遅くに起きるというのが彼女の生活習慣になりつつあったから、そのルールに抵触する行為といって良い。別に、日々の繰り返しの中で勝手に決まるルールに少し抵触したくらいで、どうということもない。明日になればまたもとに戻る可能性が高い、と彼女は考えた。
伸びをして、欠伸をする。
順番を間違えたかと思ったが、やってしまったあとだから、もう仕方がなかった。
いつもの癖で、誰もいないのに、おはよう、と彼女は一人で挨拶をする。自分の口から放たれた声は、当然自分の耳にも入る。だから、自分に向かって挨拶をしたと解釈できる。けれど、声に出さなくても、自分で自分におはようと言うことはできる。この、内面世界において自分に語りかけることができるということは、実のところ、自己という存在を肯定する最良な根拠になる。
などということを、起きたばかりの頭で考える。もっとも、彼女の頭はいつも何かしらのことを考えている。それは誰の頭でも同じことかもしれないが、彼女の頭は特にその傾向が強い。布団に入ってもなかなか寝つけないのは、ぐるぐるといつまでも考え込んでしまうからだ。ちなみに、昨日の夜は、トイレットペーパーに刻まれた模様の通りに竹輪を切ったら、どのような状態になるのかといった、難度の高い問題と格闘していた。特に何の結論も出ない内に眠ってしまったが。
「あああ、今日も、一日が始まってしまった」彼女は布団の外へ出ると、独り言を呟きながら身支度を始めた。「始まりとは何で、終わりとは何だろうか」
寝間着からワンピースへと着替え、視力が悪いから眼鏡をかける。そのまま洗濯物を持って階下へと向かった。洗面所に入り、たった今かけたばかりの眼鏡を外して顔を洗う。うがいは二回。歯はご飯を食べてから磨けば良いので、今はまだ磨かない。それでは口の中の雑菌を飲み込むことになるという指摘を受けるかもしれないが、彼女は自分自身が雑菌のようなものではないか、と考えている。きっと、スケールを宇宙全体に据えればそのように見えるだろう。
「急がないと、急がないと」
特別急ぐ必要もないのに、朝といえば急ぐイメージだから、そんな呪文を唱えながらリビングに向かう。
リビングは真っ暗だ。シャッターを持ち上げて、室内に陽光を取り込む。それで一度に明るくなる。太陽の強烈な光が、眼鏡の奥の目を焼いた。じじじという音が聞こえた気がする。けれど、今は秋で、別に太陽が特別勢力を増しているというわけでもない。彼女が魚のように直射日光に弱いだけだ。
「いたたたた……」
別にそれほど痛くもないのに、彼女は一人でそんなジェスチャーをする。
この家には、彼女のほかに誰も住んでいない。ときどき、リスとか、ヤマアラシとか、タヌキとか、ネコとかが、我が物顔で家の中に入ってくることがあるが、彼らは家族でも何でもない。だからといってまったくの他人かといえば、そういうわけでもなかった。事実として、彼女は彼らの内の何匹かとは知り合いだ。向こうがどういうふうに思っているのかは分からないが、少なくとも彼女はそのように認識していた。ちなみに、認識していた、というのは、今、まさに、認識するという行為の真っ最中だ、ということを意味しない。彼女がそのことに気づいたのは、中学校で英語の勉強を始めてすぐのこと。そうして、それを機に英語の勉強はやめてしまった。それ以上学ばなくても、行き着く先が見えてしまったからだ。
キッチンに入って、トーストを焼く。冷蔵庫から取り出した牛乳をカップに注ぎ、そのまま一口飲む。
牛乳の味がした。
ふと思いつき、フライパンを火にかけて、暫くしてからその表面に牛乳を零してみる。すると、じゅじゅじゅという音とともに牛乳は瞬く間に蒸発し、液体ではない何かがそこに残った。
「なるほど。これは単なる水分ではない、ということだな」
そう言って、彼女は一人で納得する。
何事も、試してみなければ分からない、と彼女は考えている。
しかし、一つだけ、どうしても試せないことがある。
それは、死ぬこと。
どうにかして一度以上死ぬことができないだろうかという問題は、彼女が昔から心に抱いているものだった。それが解決されれば、色々なことが分かるようになるだろう、という予感があるのだ。でも、今のところ、それが解決される目処は立っていない。
その場で朝食を食べて、予告通り歯磨きをした。誰に予告したわけでもないが、自分で自分にした予告に従った、という感覚が彼女の中にある。
朝食が終われば、次は玄関先の道路の掃除をする。彼女は箒と塵取りを持って、玄関の外に出る。
一歩。
そこで、彼女の足は止まる。
見慣れた景色が、そこになかった。
眼鏡の奥で、ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
「なんということでしょう……」
思わず、声が零れた。
玄関の先にあるはずの駐車場も、その先にあるはずの道路も、そのさらに先にあるはずの住宅も、今はない。
暗い空。
涼しい風。
いつの間にか、玄関は別世界への入り口と化していたようだ。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
ワシの子を産んでくれんか
KOU/Vami
ライト文芸
妻に先立たれ、息子まで亡くした老人は、息子の妻である若い未亡人と二人きりで古い家に残された。
「まだ若い、アンタは出て行って生き直せ」――そう言い続けるのは、彼女の未来を守りたい善意であり、同時に、自分の寂しさが露見するのを恐れる防波堤でもあった。
しかし彼女は去らない。義父を一人にできないという情と、家に残る最後の温もりを手放せない心が、彼女の足を止めていた。
昼はいつも通り、義父と嫁として食卓を囲む。けれど夜になると、喪失の闇と孤独が、二人の境界を静かに溶かしていく。
ある夜を境に、彼女は“何事もない”顔で日々を回し始め、老人だけが遺影を直視できなくなる。
救いのような笑顔と、罪のような温もり。
二人はやがて、外の世界から少しずつ音を失い、互いだけを必要とする狭い家の中へ沈んでいく――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる