燃え盛るヒ

羽上帆樽

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第10章 愛別離苦

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 最終日。

 前日の夜間も、火花はずっと作業を続けていた。時間は押してしまっているが、どうにか間に合いそうだとのことだった。ただ、一緒に花火を見る約束については、果たせないかもしれないとも火花は話した。それは仕方がないことだし、何より彼女の作業が最優先なので、月夜も何か協力できることがないかと尋ねたが、これ以上は何もないと火花は言った。

 今日はいつもより三時間ほど早く遊園地までやって来た。花火は利用客がいる時間帯に打ち上げられるからだ。海上から打ち上げられるため、遊園地の敷地内の大抵の場所から見ることができる。

 月夜は、管理棟に上がる扇形の階段に至り、そこに座って火花が来るのを待っていた。火花は、今日は例外的に、この時間帯から作業を始めていた。すでにメインのプログラミングは終わり、最終段階に突入しているので、余程のことがない限り一般客に危害が及ぶことはないと判断して、そうすることにしたとのことだった。

 周囲は喧騒に包まれている。今日は休日だった。ずっと春休みの期間が続いていたが、今日はいつにも増して利用客が多い。この季節に花火を打ち上げるのは珍しいから、噂を聞きつけて多くの人が足を運んだのかもしれない。

 管理棟は地上よりも高い所にあるから、月夜の周囲にも、同じように、階段に腰をかけて花火を鑑賞しようとしている者が多くいた。友人や恋人、それに家族と一緒に来ている者もいる。反対に、月夜のように一人でここに座っている者はほとんどいなかった。

 もちろん、正確には彼女一人ではない。月夜の膝の上ではフィルが丸まっていて、まるでそこが自分のベッドであるかのようにすうすうと寝息を立てていた。

 遠くの方を眺めながら、月夜は彼の頭を撫でる。

 たとえ火花が間に合わなくても、月夜は一人で花火を見るつもりだった。花火を見ること自体を目的にスケジュールを立てることはないが、せっかく来たのだから、何もせずに帰るよりは良いと思えるくらいの社会性は、彼女にも備わっていた。もっとも、その程度の社会性は普通誰にでも備わっているものだが……。

「お前は一般的な人間ではないからな」

 閉じていた目を唐突に開き、顔を上げてフィルが呟いた。

「起きた?」

「見て分からないか?」

 フィルは月夜の膝の上から下り、彼女の隣に行儀良く座る。片方ずつ腕を軽く舐め、それから黄色い瞳で月夜の顔を見つめた。

「様子を見てきたらどうだ?」

 月夜は応答する。

「火花の?」

「海豚の様子を見ても、仕方がないだろう?」

 月夜は前を向いて答える。

「できるだけ、邪魔はしたくない」

 フィルは溜め息を吐くように笑い、月夜と同じように再び前を向く。

 あと一日経てば、また学校が始まる。学校からここまではそう離れていないから、来ようと思えばいつでも来られるが、月夜は、自分がそんなことをすることは、おそらくないだろうと思っていた。以前、火花にプログラムが上手く作動しているか確認してほしいと頼まれたから、それはするつもりだったが、自分が観光目的でここへ再び足を運ぶ可能性は、限りなくゼロに近いと考えていた。

「火花のためにも、お前から会いに行くべきだと思うがな」フィルが言った。「それが、友情というものではないのか?」

「私は、一般的な人間ではないみたいだから、そんな友情の在り方についても、私には適用できない可能性が高い」

「機嫌を損ねたようなら、謝る」

「機嫌?」

「皮肉のつもりで言ったんじゃないのか?」

 月夜は首を傾げ、本当に困惑したような顔をする。事実として彼女は困惑していた。

「……皮肉?」

 月夜の反応を確かめて、フィルはそっぽを向く。

「まあ、いいさ。今の台詞は、聞かなかったことにしてくれ」

「参考には、するよ」

「それでいい」

 花火の前段階として、遊園地に存在する様々な設備がライトアップされ始めた。水族館は青とも紫ともいえない淡い光を纏い、敷地内に立ち並ぶ照明は、いつもとは異なる橙色の光を放っている。遠くの方に見えるジェットコースターに至っては、エメラルドグリーンに点灯されていた。何もかもが特別な彩りとなり、お祭りが執り行われるような高揚した雰囲気が感じられる。

 ふと、左手に目を向ける。

 そこには、火花が作業をしている三角形のモニュメントがある。

 そちらの方を眺めていても、やはり彼女のもとに行く気にはなれなかった。それが自分が今とるべき行動だとは思えなかったからだ。

 そして、花火が上がった。

 正面の空に巨大な赤い輪が打ち上げられ、大きな音を轟かせながら、それは海上に霧散して消失していく。その残滓が完全に消えてなくなる前に、今度は青と緑の花火が続けて二つ打ち上げられた。

 勢いを得たように、花火は次々と打ち上げられていく。空が暗い分、花火が上がる度に周囲はその色に照らされる。人々の頰が皆一様に染まり、その瞬間だけ表情をはっきりとさせる光景は、不思議と愉快で月夜は少しだけ楽しくなった。

 しかし、それと同時に何らかの寂しさのようなものが生じたことにも、彼女は気がついた。

 階段に座ったまま、前方に上がる花火を眺め続ける。

 フィルは黙っていた。この雰囲気を壊さないように、くだらないジョークを言うのを自制しているのかもしれない。

「フィル、何か言って」

 前を向いたまま、月夜は彼に要求した。

 フィルは小さな顔を彼女に向ける。

「何を言ってほしいんだ?」

「何でも」月夜は答える。「君が、今思いついたこと」

 花火の音で所々掻き消されてしまったとしても、彼に自分の言葉の意味は伝わったはずだった。

 しかし、どれほど待ってもフィルは何も言わなかった。

 それが、彼の答えだったからだ。

 月夜は立ち上がり、階段を下りるために足を進める。座っている人が点在しているから、その度に機敏に方向転換をしなくてはならなかった。花火が打ち上げられている状況下で、座っている大衆の間を通り抜けていくのは邪魔でしかないが、今はそんなことは気にせずに、月夜は自分のしたいようにしようと思った。

 道を左に向かって歩く。その辺りのエリアも、いつもに比べれば混んでいた。進むのは大変だったが、月夜は速度を緩めなかった。

 やがて、三角形のモニュメントの前に到着する。

 扉が自動的に開かれ、内部へと進む道が示された。

 月夜は建物に足を踏み入れる。

 本来なら、一般客に見られる危険がある状況下で、この建物の扉が開かれることはない。これはあくまでモニュメントとして機能しているだけで、建物の地下に別の役割を持った空間が存在することなど、火花の直近以外誰一人として知らないからだ。

 細い階段を下りると、目の前が唐突に開けた。

 そこには照明が灯っている。

 正面に椅子があった。

 しかし、そこに火花の姿はない。

 室内に足を踏み入れた月夜は、右手の床に誰かが横たわっているのを見つけた。それはもちろん火花だった。ただ、彼女は脱力したように床に倒れ、不自然な形のまま手脚を投げ出していた。

 月夜は火花の傍に近寄り、彼女の身体に触れる。

 まだ温かかった。

 ゆっくりと首を動かし、火花は月夜を見上げる。それから、顔に笑みを浮かべ、いつにも増してか細い声で呟いた。

「来てくれたんですね」

 火花の片方の腕を掴み、月夜はどうにか彼女の上体を起こさせる。壁際に背を預けるように座らせ、彼女の様子を観察した。

「……どこも、痛くない?」

 月夜の質問を受けて、火花は一度首を横に振る。

「いえ、痛くはありません。ただ、もう力が入らないみたいです」

「花火は、もう始まっている」月夜は言った。「外に出て、一緒に見よう」

「月夜さん」ぎこちなく首を傾け、火花は話す。「私は、もう歩けそうにありません。私が約束したことなのに、果たせなくて、申し訳ない限りです」

 火花の左腕は痙攣するように震えている。彼女はそれを右手で掴み、動きを抑えようとしていた。

「プログラミングは、上手くできた?」

「ええ……。……お陰様で、間に合いました。これで、私の使命は全うできました」

「上手く作動しているか、様子を見に行こう」

「プログラムが実際に作動し始めるのは、今日ではありません。少し時間の幅を保たせてあります。急な変化にならないように、少しずつ段階を踏んで機能していくようになっています」

「ここは少し暑いから、外に行こう」

「私には、ちょうどいいです」

 目を細め、月夜は意識的に火花を睨みつける。そんな月夜の表情を見て、火花は可笑しそうに息を漏らした。

「どうしても、一緒に行こうとするんですね」

 月夜は火花の手を握り、少し自分の方に引っ張る。

「そう、約束したから」

「律儀ですね、月夜さん」

「うん、そうだよ」月夜は言った。「最後まで、傍にいる」

 脚に力が入らず、火花は立つことができなさそうだったから、月夜は身を屈めて、彼女を自分の背に負ぶることにした。火花の身体は驚くほど軽く、月夜は容易に彼女を背負ったまま歩くことができた。

 フィルが月夜の前を歩き、ナビゲートをしてくれる。建物の外に出ると背後で自動的に扉が閉まった。

 すでに、空にはいくつも花火が打ち上げられている。音に反応して顔を少し上げ、火花はそれを見たみたいだった。

「綺麗ですね」

 月夜は頷く。

「まだ、始まったばかりだから、最後まで見よう」

 火花を背負ったまま、月夜は遊園地の敷地内を歩く。当然人の目を引くが、声をかけてくる者は誰もいなかった。それはいつものことだから、特に不思議なことではない。

 遊園地の敷地の外に出て、海水浴場へと向かう。月夜は途中で一度火花を下ろし、それからもう一度背負い直した。いくら軽くても、人を背負って歩けば疲労する。火花はすでに脱力しているから、その分負荷がかかり、歩きにくかった。

 松林と海の間に切り開かれた道を進んでいく。

 途中で左手に道を逸れ、砂浜に足を踏み入れた。

 地面が柔らかくて、月夜は上手くバランスをとることができない。

 一歩足を進めるごとに重心が変化し、足は蟻地獄に落ちたように滑っていく。

 手近な岩を見つけて、月夜はそこに火花を下ろした。彼女は自分で座ることができないから、月夜は隣に一緒に座り、片方の腕を背後から回して、彼女が倒れないように支えた。

 月夜よりも火花の方が背が高いから、自然と彼女の身体が月夜の方へと凭れかかってくる。体温は感じられたが、もう温いとは感じなかった。冷たくはないが、皮膚の表面が水分を失って、生気がほとんど感じられなくなっている。

 花火は依然として打ち上げられ続けている。空に大輪の花が咲く度に、光が海面に反射してきらきらと輝いた。

「花火、見える?」

 火花の頭は月夜の肩に寄せられている。それでも彼女は前を向いているようで、頷く動作が髪の接触によって伝わってきた。

「とても、綺麗です」火花は呟くように言った。「……前に花火を見たのは、もう、十年以上も前だったと思います」

「毎年、打ち上げられているんじゃないの?」

「ええ、そうですが……。……私には、見る機会はありませんでした。……もしかすると、意図的に見ないようにしていたのかもしれません。……そんなふうに、何かを楽しむことに、抵抗があったのでしょうか……」

 フィルは岩の上から飛び降り、砂浜を海の方に向かって歩いていく。波に侵食される一歩手前まで来たところで立ち止まり、そのまま行儀良く座って上空を眺めた。

 花火の轟音が鳴り響いているのに、周囲はとても静かだ。

 炸裂音の狭間に聞こえる波の音が、花火の衝撃を緩和している。

 風が吹き、松の木がかさかさと音を立てる。葉の隙間を通った風が、海に向かって流れていく。

 月夜は顔を少し横に向ける。すぐ傍に火花の顔があったが、もう彼女は笑うのも辛そうだった。力が抜け、どうにか目を開けている程度だ。口から漏れる息も細く、間隔も大分空くようになっている。

「月夜さん」

 首を少し上に向けて、火花は声を出した。

「最後まで、私と一緒にいてくれますか?」

 月夜は頷く。

「今、いるよ」

 火花は力なく微笑む。

「ええ、そうでしたね……。……私は、これで最期です」

「火花、好きだよ」月夜は言った。「友達だから、傍にいるよ」

 月夜の言葉を聞き、火花はもう一度笑った。

「無理に言わせてしまって、ごめんなさい」

 月夜は首を振る。

「そんなことはない」

「もう、何も望みません」火花は言った。「……私は、とても幸せです」

 砂浜には二人のほかには誰もいない。

 二人でここに座っている状況が、まるでこの世の終わりのように感じられるくらい、目の前に広がる光景は幻想的で、現実離れしていた。

 夜だから、太陽の姿は見えない。けれど、それに匹敵するくらい瞬間的に訪れる光は明るい。

 明日になれば、また元通りの日常がやって来る。花火が上げられることもなく、ただ平穏な海面が目の前に広がっているだけだ。

 火花に完全に身体を預けられ、その力に押されて月夜は倒れそうになる。自分も火花の方に身体を傾けて、力を均衡させてなんとかバランスを保った。

 明日からどのように過ごそうか、と月夜は考える。

 問題に直面しているときにそれとは関係のないことを考えるのは、月夜がする現実逃避の一つの方法だった。もっと大きな問題と比較することで、目の前の問題を縮小させたり、問題そのものを一時的に放棄して、いつか考えるべき問題として保留したりする。そうやって何度も現状から目を逸らしてきた。きっと、これからも同じ手段に頼るはずだ。

 火花はもう両目を閉じていた。手を握れば微かに握り返してくるから、まだ彼女が生きていることは分かる。しかし、それも単なる条件反射のようにしか思えなくなり、月夜はより強く彼女の手を握るようになる。

 火花は、目を開け、優しく微笑んだ。

 口を開きかけたが、彼女は何も言葉を口にしなかった。

 ただ、笑うだけだ。

 それが、唯一のコミュニケーションの方法だったから、月夜も笑った。

 母親と子どもが最初に交すような意思伝達だった。

 それしかできなかった。

 やがて、火花は目を閉じ、そして、もう、月夜が手を握っても、彼女が手を握り返してくることはなかった。

 火花の体重だけが残される。

 月夜は前を向いて、打ち上げられる花火を暫くの間眺めていた。

 赤や緑の光に照らされる度に、黒猫のシルエットが薄く浮かび上がる。

 月夜は目を閉じた。

 もう、眠ってしまいたかった。

 できるなら、二度と目を覚ましたくなかった。

 自然と瞼の裏に涙が滲む。自分と火花が出会ったことが偶然ではなくても、彼女と過ごした時間には意味があると思いたかった。

 それは……。

 きっと、彼女と出会った意味とも言い換えられる。

 彼女と出会って、自分は少しだけ成長した。

 その成長のために火花は存在していたのではない。彼女は個の人間として、月夜の事情に関係なく存在していたのだ。

 それでも、月夜は彼女から影響を受けた。

 そして、その影響を与えた個体が、今、失われた。

 とても、悲しかった。

 とても、寂しかった。

 今だけは、そんな幻想に浸っていても良いだろうか?

 火花なら、どのように答えるだろう?

 応えてくれる火花はもういない。

 残っているのは彼女の形だけ。

 背の高い、ほっそりとした四肢が、その抜け殻だけが、自分の傍に残されている。

 だが……。

 突然、左半身にかかっていた圧が緩み、今まで感じていた重みが自分の身体から離れていくのを月夜は感じた。

 彼女は目を開く。

 完全に預けられていた火花の頭が、ゆっくりと垂直方向に持ち上げられていく。

 月夜は動くことができなかった。

 火花は身体を真っ直ぐに正し、閉じていた目を開く。

 視線。

 その瞳は生気を帯びたように月夜を捉える。

「月夜さん、ありがとうございます」

 口を動かして、火花は言葉を発した。

「最後まで一緒にいてくれて、本当に……」

 火花は月夜の手を握り返す。極めて自然なプロセスを経て指は動き、月夜の掌を内包する。

「……火花?」辛うじて、月夜は声を出す。

「私は消えていなくなりますが、あの場所はそのまま残り続けます。……少ししたら、いつかお願いしたように、プログラムが正常に作動しているか、確認をお願いしますね」

 そう言って、火花は首を傾げて優雅に笑う。

 素敵な笑顔だったが、月夜は現状を理解することができなかった。

 火花に握られた掌が熱を帯び始める。

 月夜は、視線を下に向け、自分の掌と、火花の掌が、結合している様を見る。

 そんな光景は、前にも見たことがあった。

 そのときは、火花の手ではなかった。

 今、握られている手は、火花によって、完全に掌握されている。

「私も好きです、月夜さん」

 火花の身体が熱を帯びているのが、目で見ても分かった。そして、それは触覚を伴って確かなものになる。

 あまりにも暖かくて、熱いと形容できるほど温かくて、月夜の頭は徐々に朦朧としていった。

 火花は笑っている。

 とても優しそうな、母性を感じさせる笑みだ。

 熱かった。

 すでに、感覚は過去のものと化そうとしている。

 意識を失う直前、月夜の瞳は、青みを帯びた閃光のようなものを捉えていた。それは稲光のように激しく姿を変え、飛沫を撒き散らしながら四方八方にうねりを広げていく。

 それを捕捉したのは、視覚だけ。

 光景を反映した情報が、彼女の頭脳で処理されることはなかった。





 波の音に聴覚を刺激されて、月夜は目を開けた。すぐ目の前に見慣れた黒猫の顔が見える。フィルは舌を出して、月夜の頰を舐めていた。とっさのことに理解が追いつかずに、月夜は暫くの間ぼうっとしていたが、すぐに全身に力を入れる術を取り戻して、ゆっくりと身体を起こしていった。

 前方には、波飛沫を上げる海が見える。少しだけ荒れていたが、比較的穏やかな朝の海だった。船が遠くの方に浮かんでいるのを見て、いつもと変わらない日常が目の前に広がっていることを認識する。

 空はすでに明るくなっていた。気持ちの良い朝の風が、彼女の身体を包み込んだ。

「やっと起きたか」

 フィルは月夜の上から下り、砂浜に着地する。足が汚れてしまったが、仕方がなかった。

「ずっと、気を失ったように眠っていたぜ。身体はなんともないか?」

 ぼうっとした表情のまま、月夜は周囲に視線を巡らせる。それから、両手で自分の全身に軽く触れた。

「……火花は?」

 月夜の問いを受けても、フィルは首を振るだけだった。

「どこかに、消えてしまった」彼は答える。「俺が振り返ったときには、お前しかいなかった」

 月夜は、現状を理解しようと努力する。もう朝になっているから、夜の間ずっと眠っていたことになる。花火はとっくにすべて打ち上げられ、何もかもが終わり、それでもなお彼女は眠り続けていた。そして、今になってやっと目を覚ました。

「火花は、どこ?」

「混乱しているようだな」フィルは話す。「しかし、俺にも分からない。それが現実だ」

 月夜は自分の額に触れる。風に吹かれて砂が付着した嫌な感触が、掌に伝わってくる。

 立ち上がろうとして、月夜は砂の地面に手をついた。

 そこで、彼女の掌は、硬質な何かに触れる。

 砂の中から掬い取るように、月夜は手に触れたものを握った。それは何かの破片のようで、金属とも、プラスチックとも思えないような、不思議な素材でできている。

 皮膚に鋭利な先端が食い込み、掌から薄く血が滲み出した。

 月夜はそれを舐める。

 鉄分と、組織液の味は、どこまでも動物らしく、そして、どこまでも作り物めいていた。





 学校が始まってから一週間が経った。月夜は進級し、三年生になったが、生活は今までと何も変わらなかった。

 相変わらず、夜まで学校に残る日が大半だったが、最近は読書ではなく、勉強をすることが多かった。受験生だからという意識が芽生えたわけではなく、単純に課題の量が増えたからだ。課題というのは、要するに宿題のことだが、その宿題というのが、範囲が予め定められない形式に変更された。自分で計画を立てて、その通りに進めるという方式になったため、宿題と勉強の境界がなくなり、夜まで勉強しなくてはならなくなったのだ。

 環境が変わっても、月夜にとってそんなことはどうでも良かった。進級しても、二年生から三年生ではクラスメートは変わらないし、担任も変わらない。そして、当然、すでに形成されている人間関係も何一つとして変化がない。月夜のポジションは以前のままだったし、彼女の方もそれを変えようという意識はなかった。

 週末の土曜日、月夜はフィルと一緒に遊園地に出かけた。

 もう気温は大分高くなっており、毎日薄手で出かけても問題はなかった。学校のルールでは、通学する際にはブレザーを着なくてはならないことになっているので、それは仕方がない。脱がないと気になるほど暑いわけではなかったし、むしろ無駄な労力を使う必要のない季節になったといえそうだった。

 日中の遊園地は、比較的人の数が多かった。

 入り口を通ってすぐの所に、メリーゴーラウンドがある。いつか聞いた音楽が流れ、馬や馬車に乗った子どもたちが、周りの大人たちに手を振っていた。

 道を左に進むと噴水があり、そして、そのすぐ傍に火花と最初に出会った傾斜地帯が広がっていた。そこは一日中日陰になっているから、休憩している利用客が何人かいる。

 そのまま真っ直ぐ進むと、今度は青い塔型のアトラクションに辿り着いた。ここのメンテナンスは、月夜も何度か担当したことがあった。

 道を右に曲がり、広場に出る。正面には水族館があり、右手には桟橋のあるエリア、そしてその上に管理棟として使われているカフェがあった。

 扇形の階段を上ってカフェの前に立つと、店内が混雑している様子が見てとれた。火花が作ってくれた新作のメニューを試食したことがあったが、あれは正式なメニューとしてすでに加えられただろうかと、月夜はぼんやりと考える。

 階段を下りて、水族館の方へと向かう。

 途中で道を逸れ、三角形のモニュメントの前まで来た。

 建物の前に立つ。

 しかし、それだけだった。

 扉は、もう開かなかった。

 道を引き返し、飲食店が密集した建物の下を通って、反対側の道に出る。そのまま進めば、ジェットコースターがあるエリアに到着する。しかし、月夜は道を真っ直ぐには進まずに、その手前にある芝生の広場を横切って、道を左に曲がった。

 ホテルの前を通り過ぎた頃には、人はほとんどいなくなっていた。こちらには、一般の利用客に用がある場所はあまりない。

 道は行き止まりになる。

 その左手。

 そこには港へと続くゲートがある。

 正面に視線を固定し、月夜はその前で立ち止まる。

 ゲートが開いていた。

 周囲を見渡してみたが、彼女を見ている者は誰もいなかった。監視カメラが傍に設置されていたが、撮影されても構わないと判断して、月夜はゲートの中へと足を踏み入れた。

 L字型の港を先へと進み、海と陸との境界に至る。

 正面には、水族館の壁面が見える。

 まるで蟻の群衆のように、人が右に行ったり左に行ったりしている様子が遠目に窺えた。

 暫くの間そこに立ち続けていたが、月夜はその場を立ち去ろうとする。

 しかし、状況の変化に気づいて、月夜は後ろに進みかけていた足を止めた。

 水族館の巨大な壁面に、一瞬だけ文字が投影される。


Dear Moonlight Night, From Spark


 視界の隅に、眩い光を捉える。

 青色をした塔型のアトラクションが、二度光を点滅させた。
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