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羽上帆樽

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第2章 極細繊維の油炒め

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 少女が目を覚ますまで二時間ほどかかった。時計の針はもう午後七時を指している。夕食を作り始めるとなると、少し遅い時間だが、少年は遅めの夜ご飯が好きだった。きっと少女もそうなのだろう。その美貌に恐ろしいほどマッチした好みだといえる(意味が分からないが、気にしてはいけない)。

「ビーフシチューかあ……。なんか、面倒臭くなってきちゃったなあ……」テーブルに突っ伏したまま少女が言った。

「え、そうなの?」彼女の対面で新聞を読んでいた少年は、顔を上げて応答する。「じゃあ、もう、今日はご飯を食べるのはやめる?」

「そんなの、お腹が空いちゃってどうしようもないじゃん」

「まあ、そうだろうね。当たり前だよね、そんなの」

「私が作るのかあ……」

「僕に作ってほしいわけ?」

「君になんて任せられないよ。ねえ、覚えている? 君、昔さ、鍋の中に炭酸飲料を入れて沸騰させたことがあったでしょう? それで大爆発が起きて、私のお気に入りのワンピースが真っ黒になっちゃったんだから」

「僕、そんなことしたかな……」

「したよ。あれは、本当に酷かったね。もうね、弁償してもらおうかと思ったけど、そのあと、君はすぐに遠くに行っちゃったから……」

「ああ、思い出した。うんうん、たしかにそんなこともあったね。いやあ、あれは楽しかったなあ……。まさかあんなに激しく爆発するとは思っていなかったから……。もう、びっくり仰天だったよ。飛び上がるほど驚いたね」

「当たり前じゃん。炭酸なんだからさあ」

「あ、なんか、炭酸飲料を飲みたくなってきた」

「うちにあるよ。飲む?」

「飲む飲む」

 少女はシンクの傍にある冷蔵庫を開け、中から黒色の炭酸飲料を取り出した。世界的に有名なあれだ。しかし、世界的に有名なあれは二種類あるから、この表現からどちらであるかを特定することはできない。

 少女はそのままビニール袋の中身を取り出し、夕飯の支度に取りかかった。

 少年は炭酸飲料を飲みながら新聞を読み続ける。くだらない記事ばかりだった。そもそも、新聞はくだらないことを伝えるためにあるのかもしれない。テレビだってそうだ。なるほど、そうすると、世界ではくだらないことばかり起こっているのだな、と少年は一人で納得する。そして、きっと自分もくだらない存在だろう。少女だってそうかもしれない。

 部屋が大分暗かったから、少年は窓にカーテンを引いて、照明の電源を入れた。橙色の明かりだった。異国情緒な感じがしてなかなか風情がある。風情という言葉は、英語ではどのように訳すのだろう、と少年はふと思いつく。

 少女はエプロンを身に着けて、鼻歌を歌いながらニンジンとジャガイモを切っていた。少年は彼女の後ろ姿を眺める。そのまま卒倒してしまいそうになったが、両足に力を込めてなんとか倒れないように頑張った。

 ああ、なんて素晴らしい夜なんだろう、というのが彼の最も素直な感想だった。こんな奇跡的な夜が今まであっただろうか? いや、あるはずがない。彼女の家で数日間一緒に過ごしたこともあったが、そのときはまだ二人とも幼かったから、ロマンというものをいまいち理解していなかった。それが、今日になってこれだ。もうロマンチックな雰囲気が漂いすぎて、却って煙たいくらいだといって良い。修学旅行の夜にキャンプファイアーをするが、あのとき放出される煙と同じくらい濃密な雰囲気が漂っていた。

 少女が後ろを振り返る。

「何、見ているの?」

 椅子に座っていた少年は、新聞を使って顔を隠した。

「いや、何も……」

「写真撮ってもいいよ」

「え、本当に?」

「撮りたいの?」少女はにやにやしている。

「撮りたい。もの凄く撮りたい」

 少年はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、それで少女の姿を撮影する。今度は反対側を向いてもらい、少女の後ろ姿も撮影した。

「どうもありがとう。じゃあ、夜ご飯期待しているよ」

「期待しても何にもならないけどね」

 暫くの間、タマネギをカットする音だけが響いていた。タマネギの汁が飛び跳ねても、少女の目が涙で濡れることはない。やはり何か特殊な防御を持っているようだ。

 さて……。

 ここで一端、少年は自分の脳内活動を停止させることにした。つまり、スリープモードに移行するということだ。無駄なエネルギーを消費しないための方策だった。

 瞼を下して深く肺に空気を取り込む。それから数秒かけて二酸化炭素を排出し、クリーンな状態でスリープモードに入る。スリープモードというのは、コンピューターの待機状態のことだが、彼はコンピューターではない。というわけで、人間がスリープモードに入るというのは、要するに、眠るということになる。

 彼は眠る決意をする。

 ずっとお眠だったのだ。

 テーブルに押しつけるように上半身を倒し、その上から新聞紙を被る。

 間もなく、彼は豪快に寝息を立て始めた。

 少年は夢を見た。

 夢の中では、少年は空を飛ぶことができた。右にも左にも自由に移動できる。山の中腹にあるこの街から飛び出して、あっという間に何百メートルも空中を進んでいった。速度もある程度は自分で制御できる。しかし、空を飛ぶといった非科学的な行為をする場合でも、物理の影響は受けるようで、急に動きを止めたり、また急に加速したりといったことはできなかった。それでも、いや、それだからこそ、空中遊泳はとてつもなく楽しかった。それなりの制限があるからこそ、面白さは生まれると少年は思う。

 少女は一緒ではなかった。あくまで彼一人だけだ。眼下に広がる都市の町並みを見て、ああ、自分もやはり一人の人間なのだな、と少年は漠然と考えた。少なくとも、彼が生き物であることは間違いない。だから空を飛ぶのはやはり怖かった。着地できそうな場所がなかなか見つからなくて、彼は適当に電波塔の頂上に不時着する。感電するかもしれないと思ったが、全然そんなことはなかった。非常に眺めが良い。吹きつける風が心地良かった。

 そのとき、電波塔がもの凄い勢いで変形し、根本から地面に目がけて折れ始めた。突然の衝撃を受けて、少年は小さな悲鳴を上げる。しかし、助けて、と言葉を発することはできなかった。そこまで頭が回らない。なんとかして上に上がろうとしたが、そもそもこれ以上上がれる場所など存在しない。そのまま引力に引っ張られて落下を始め、もう駄目だと思って彼は思いきり目を瞑った。

 身体に衝撃が走る。

 瞼を持ち上げると、目の前に四本の脚に囲まれた奇妙な空間があった。

 椅子から滑り落ちたようだ。

 ゆっくりと起き上がると、少女が心配そうな顔で彼を見ていた。

「大丈夫?」少女は少し笑いながら彼に尋ねる。

「ああ、うん、大丈夫……」椅子の位置を直して、彼は再びそこに座った。

「どうしたの? 何か、変な夢でも見た?」

「うーんと……。……そうね、変な夢ではなかったかな」

「椅子から滑り落ちるような夢って、どんな夢?」少女は楽しそうだ。「いいなあ、私も一緒に眠りたかったよう……」

 彼女は片手にお玉を持っている。その背後では鍋がぐつぐつと音を立てていた。もうすぐビーフシチューが出来上がりそうだ。

 少しずつ落ち着きを取り戻して、少年は一度深呼吸をした。

「僕、お風呂に入ってこようかな……」少年は呟く。

「え!? 今から!?」少女は大きな声を出した。「何言っているの? もうシチューできるんだよ?」

「まあ、そうだろうね」

 少女は少年を睨みつける。お前は何を言っているんだ、というメッセージが鋭い眼光に込められていた。

 少年は少女の瞳をじっと見つめる。

「本気なんだ」

「何が?」

「今、本気でお風呂に入りたいんだ」

「……どうしても?」

「うん、どうしても」

 少女は大きく溜息を吐く。それから、今度は急に優しい表情になった。

「いいよ、じゃあ、入ってきなよ。……でも、なるべく早く出てきてね。シチューが冷めちゃうから」

「冷めても、もう一度温め直せばいいよ」

「そういう問題じゃないの!」

 少年はリビングから出た。

 洗面所はリビングの隣にある。トイレと洗面所と浴室が一体になった部屋で、リビングと同じくらい広かった。洗面台にはそれなりに大きい鏡が嵌め込まれている。その隣に洗濯機があり、さらにその向こう側がトイレと浴室になっていた。

 どういうわけか、もう風呂は沸いていた。彼が眠っている間に少女が沸かしたのかもしれない。蓋を持ち上げると、可視化された気体状の水が天井に向かって上がり、ちょうど良い温度であることを彼に知らせた。

 衣服を脱いで、彼は浴室に入って扉を閉める。

 先に身体と頭を洗ってから浴槽に入った。

 自然と息が漏れた。

 それにしても……。

 まるで夢のような一日だったな、と彼はぼんやりと考える。

 彼が今までこの近辺にいなかったのは、本当にちょっとした理由からだった。しかし、ちょっとした理由というのは、あくまで彼にとってはその程度というだけで、一般的な観点から見てもそういえるかは分からなかった。いや、おそらくそうはいえないだろう。彼は自分の尺度と世間の尺度がずれていることを知っている。しかし、少女のずれはそんな彼のずれを遥かに凌駕するものだった。それが、彼が彼女に惹かれた第一の理由だ。反対に、それ以外に明確な理由は存在しないといって良い。人は自分を超える能力を持つものに憧れを抱くものだ。

 だから……。

 そんな彼女と再び会うことができて、少年はどうしようもないくらい幸せだった。一生分の運気を使い果たしてしまったとさえ感じるほどだ。たとえ本当にそうだとしても、彼にとってはそれで良かった。彼女との再会にはそれくらいの価値がある。それは間違いない。だからといって、彼女が自分と同じように感じているとは限らないが……。

 入ってから二十分くらい経過してから、少年は風呂から出た。着替えは用意してある。背負ってきたリュックに予備の衣服が入っていた。もちろん、こうなることを想定していたわけではない。彼はそこまで高尚な未来予測ができる人間ではなかった。

 リビングに戻ると、タイミング良く少女がシチューをよそったところだった。

「あ、出たね」少女は笑いながら皿をテーブルに置く。「ベストタイミング」

「君は?」

「え? 何?」

「茄子?」

「は?」

 席に着いて少年は少女と向かい合う。こんなシチュエーションは本当に久し振りだった。この街を去る前に、彼女と一緒に食事をしたことを彼はふと思い出す。

 特に乾杯はせず、二人は黙ってシチューを食べ始めた。

「うん、美味しいね、普通に」少年は言った。

「普通だって?」少女はにやにやしながら話す。「もう少し褒めてくれてもいいんじゃない?」

「とびきり美味しい」

「わざとらしいなあ」

「第一さ、レシピの通りに作るんだから、誰が作ってもまともな味にならないとおかしいよね。なんだってそうじゃないか。説明書も読まずにいきなり触るから、何もしない内からCDプレイヤーを壊したりするんだよ」

「へえ、CDプレイヤーを壊したことがあるの?」

「……うん、まあ」

「今どきCDで音楽を聴くんだね。レコードよりはましだけど……」

「ましって何? レコードの方がよくない?」

「そうなの? 詳しいことは分からないから」少女はシチューを食べる。「でもさでもさ、結局のところ、音楽が聴ければそれでいいんでしょう? じゃあ、やっぱり媒体なんて何でもいいじゃん。拘る人もいるけど、私にはその価値観は分からないなあ……」

「君は何かに拘ることがあるの?」

「うーん、どうだろう……」少女は天井を見る。「そういう拘りってさ、自分がどういうキャラクターなのかということを示すためにあるようなものでしょう? つまり、自分という人間を加工するための装飾品にすぎないというか……。なんていうのかなあ、私は、そういうことにあまり価値を感じないんだよね……。どうでもいいじゃん、そんなこと。自分が楽しければそれでいいんだからさ、他人からどう思われようと関係ないでしょう?」

「まあ、そういう人もいるね」少年はスプーンを動かす。

「君は違うの?」

「半々くらいかな」彼は言った。「拘ることもあるし、拘らないこともある。人ってさ、自分が得意なことにはとことん拘りたくなるだろう? そういう自分勝手さがあるんだよ、きっと」

「ふーん。……まあ、分からなくはないけど」

「君は自由奔放な感じだからね。それでいいんじゃないの?」

「いいのかなあ……」

「何か変えたいところがあるの?」

「いや、ないけど」

「じゃあ、いいじゃないか」

「でもさ、趣味とか訊かれたときに、すぐに答えられれないと困るでしょう?」

「何が困るの? ないんだから、ないですって素直に言えばいいと思うけど」

「つまらない人だと思われるじゃん」

「つまらない人なんだから、そう思われるのは当然なんじゃないの?」

「あ、今、私のことを侮辱したな」

「一般論だって」

「分かっているけど」少女は笑う。彼女はいつも楽しそうだ。「うーん、なんかなあ……。でも、やっぱり、そういう一種のステータスみたいなものがあった方がいいような……」

「じゃあ、何か適当に用意しておけば? 僕が代わりに考えてあげようか?」

「遠慮しとこうかな」

「酷いね、まったく。信頼されていないみたいだ」

「信頼はしているって。そこは安心していいよ」

「全然安心できない」

「ふうん。変なの」

「悪口?」

「どう聞こえる?」

「うーん、半々かな」

「半々が好きみたいだね。まあ、でも、そうか。半々なら、状況に応じてどちらにも傾けるわけだから」

「そうそう。そういう感じ。そんなふうに、定まらないキャラクターを掲げておくのが一番だよ」

「二番は?」

「二番は……。……君、かな」

「それ、どういう意味?」

「え? 意味なんてないでしょう、普通に考えて」

「普通に考えたら、必ず意味はあるものだよ」

 少年はスプーンを落としそうになる。

「……そうなの?」

「え?」

「いやあ、そうなのか……。へええ……」

「君、頭大丈夫?」

「うん、ちょっと、大丈夫じゃないかも」

 シチューはあっという間になくなった。少年が言った通り、普通に美味しいシチューだった。

 シチューとカレーの違いがよく分からない、と思うことが少年にはときどきある。どちらも同じ色をしているし、味もそこまで変わらない気がする。スパイシーか否かという違いしかないといっても良いかもしれない。彼はシチューもカレーも作ったことがないから、それらを作る工程についてはまったく知らなかった。

 少女が食器を洗っている間、彼はサーバーとドリッパーを使ってコーヒーを淹れた。こちらも普通に美味しいコーヒーになった。普通に作っているのだから当たり前だ。

 二人はコーヒーを飲みながら話をした。

「ねえ、君さ、もう、どこにも行くつもりはないの?」少女が尋ねた。

「え? ああ、うん……」マグカップを片手に少年は答える。「たぶん、行かないとは思うけど……」

「思うけど?」

「自分の意思でどうこうできる問題ではないかな、と思って」

「なるほど」少女は頷く。「それはそうだ。うーん、じゃあ、暫く私の家で暮らさない?」

「じゃあ、という接続詞がどんなはたらきをしているのか分からないんだけど」

「細かいことは気にしなくていいの。そんなところまでいちいち突っ込んでさ、ほんと、馬鹿じゃないの?」少女は笑いながら話す。「そういうところだよ、君のいけないところ。そこまで神経質にならなくていいんだって。もう少し肩の力を抜いて生活しなよ。それとも、何? 私と一緒にいると緊張するとでもいうの?」

「いやいや、そんなことはないけど……。ベークドチーズケーキみたいにべっとりした理論だなあ、なんて思っちゃったりして……。ごめんごめん、悪いことしたね」

「ベイクドチーズケーキは、全然べっとりなんてしていないじゃん。何言っているの?」

「そういう細かいことは、気にしなくていいんじゃなかったの?」

「私は頻度が低いからいいの。君はその頻度が高いってこと。だから、普段から気をつけなさいって言っているの」

「分かりました。気をつけます」

 二人同時にコーヒーを飲む。

 窓は今は開いていた。隙間から涼しい風が室内に入り込んでくる。少年はすでに風呂に入っているから、風が少し冷たく感じられた。

 彼女の家で一緒に暮らすとなると、少しばかり荷物を持ってこないといけないな、と少年は考えた。といっても、彼はあまりものを持っていない。数冊の本と数着の衣服、それに数種類の歯ブラシくらいしかない。彼は歯ブラシマニアを自称していて、使う歯ブラシを毎日変えるといった酷く奇怪極まりない趣味を持っている。自分でもそう思うのだから、他人が聞いたらきっと引いてしまうだろう。しかし、歯ブラシというものは非常に興味深い道具だ。最近では電動ブラシなどというものも開発されていて、自分で腕を動かさなくてもブラシが自動で歯を磨いてくれるらしい。けれども、どちらかというと、彼はまったく電動の部分のない、いたってシンプルな歯ブラシが好きだった。糸ブラシみたいなものもときどき使うが、あれは手間がかかりすぎて良くない。やはり、どんなものでもシンプルなものがベストだ。余計な装飾はできる限り少ない方が良い。

「ふああ」少女が元気に欠伸をした。「なんだかもう眠くなってきちゃった……。お風呂に入るの面倒だし、今日はこのまま寝ちゃおうかな……」

「あのね、君」少年は話す。「女性なんだから、そういう発言や行動は、もう少し控えるべきだと思うよ」

「ええ……。でもさでもさ、どうせ君しか傍にいないんだし、それくらい許してくれてもいいじゃん」

「許す許さないの問題じゃない。普段からそういう態度で生きていると、いつの間にか本当にそういう人間になってしまうかもしれない、だからやめた方がいい、と言っているんだ」

「だから、それのどこが問題なの?」

「問題と感じないのが問題なんだよ」

「当たり前じゃん、そんなの」少女は言った。「だからさあ、そんなことはどうでもいいんだって。どうせ死ぬんだし、一日くらいお風呂に入らなくても全然大したことないよ。もうね、いちいちそんなことで悩む方が馬鹿馬鹿しいと思う。どんなときも、判断は素早く行うべきだよ。人生は有限なんだからさ。あまり、自覚している人はいないみたいだけど」

「いくら素早くても、的確な判断じゃなければ意味がないよ」少年は反論する。「そういうのを拙速というんだよ。急いで雑な判断をするより、落ち着いて丁寧な判断する方がいい」

「ふうん」

 少女はテーブルに肘をつき、その上に自分の顎を載せる。

「何?」

 少女にじっと見つめられたから、少年は鋭い視線を返した。

「いやあ、何も?」

「いいから、早くお風呂に入ってきなって。ぱっぱと済ませればいいだろう?」

「そういう話じゃない」

「分かった。入りたくないんだね。でも、入った方がいい」

「面倒なんだもん……」

「誰だって面倒だよ」

「じゃあ、いいじゃん」

 少年は小さく溜息を吐く。

 彼は座ったままタップダンスをした。

 多少は気持ちが落ち着く。

「分かった分かった。じゃあ、好きにしなよ。僕はもう知らないから……」

「そう言うと思った」少女は悪戯っぽく笑った。「そう言ってもらえるのを待っていたんだ」

「どういう意味?」

「ふふん。どういう意味だと思う?」

「知らないよ」

「私、近所の銭湯まで行ってくるから、何か適当に遊んでいていいよ」

「え、銭湯? どこにあるの?」

「秘密」

 少女は行ってしまった。

 少年はリビングで待機する。退屈だった。しかし、退屈していても仕方がないから、何か面白いものがないか探すことにした。そう……。彼女が先ほどバドミントンのラケットを使っていたのを思い出す。少年はそれを探した。やがて、玄関の靴箱の上にラケットが置いてあるのを見つけた。シャトルも同じ所にあった。

 それらを手にしたとき、彼の頭に僅かな閃光が走った。

 少年はラケットを落としそうになる。

 シャトルは手から離れて落ちていった。

 玄関の床に当たる音。

 少年はその場に立ち尽くしたまま、様々なことを考えた。いや、考えなくてはならなかった。今そうするタイミングだったのだ。今でなくてはならない。このときを逃したら、もう一生同じ発想には至れないように思えた。それは大問題だ。少女を永遠に失うのと同じくらいの損失に違いない。

 少女はどうして銭湯まで行ったのか?

 どうして、自宅の風呂では駄目だったのか?

 違う。そうではない。

 場所が問題なのではない。

 たしかに、場所に問題があるともいえるが、最も重要なポイントはそこではない。

 そう……。

 この家に現在認められる、いつもと異なる点は一つしかない。

 それは、つまり、彼がいること。

 脚の力が完全に抜けて、少年はその場に崩折れそうになる。

 しかし、なんとか力の放散を阻止した。

 勢い良く玄関のドアを開き、彼は外に向かって走り出す。

 今から追いかければ、追いつくだろうか?

 いや……。その可能性は低い。

 どうしたら良いだろう?

 そう考えた瞬間、彼の背後でもの凄い重低音が鳴り響いた。

 地響きが伝わってくる。彼は立っていられなかった。

 後ろを振り返る。

 たった今出てきた家が、巨大な炎の渦に呑み込まれている。

 爆発したのだ。

 彼は危機一髪で助かった。あと少し判断が遅れていたら……。

 少年は、全身に汗を掻いているのに気がつく。無理もない。死んでしまいそうになったのだ。しかも、人為的なトラップにかけられて……。

 そう、人為的。

 正面に顔を戻すと、目の前に銭湯の暖簾があった。

 少年は唾を飲む。

 暖簾は紫色をしている。つまり、男性と女性の区別がない。

 脚が言うことを利かなかったが、彼は立ち上がって一心不乱に暖簾の向こうへ駆けていった。

 古い木造建築の中に入る。すぐ目の前に番台があったが、今は誰の姿も見られなかった。それどころか、客の姿も一人も見当たらない。

 いや、そんなはずはない。彼女はこの中にいるのだ。

 廊下を真っ直ぐ進み、またしても登場した紫色の暖簾を潜る。

 そして、彼は、彼女を見つけた。

 少年は立ち止まる。

 籐製の椅子に腰かけていた少女が、濡れた髪を翻してこちらを振り返った。

「……どうしたの?」少女は不思議そうな顔で彼に尋ねる。彼女は浴衣を着ていた。片方の手にミルクカフェオレの瓶を握っている。「何かあったの?」

「家が、燃えて……」少年は震える声で答える。

「ああ、そういうこと」少女は言った。「何もかも計画通りになったんだね。よかったよ、上手くいって」

「うん……」

「さあ、これで、もう、あの場所には帰れなくなった。行こう、一緒に、まだ見ぬ世界へ」

「……僕なんかと、一緒でいいの?」

「君じゃないと駄目なんだよ」少女は飛びきりの笑顔で話す。「私には、もう君しかいないんだから」

 少女の前まで歩いていき、少年は彼女の空いている手をそっと握る。

 少女は嬉しそうに彼を見つめた。

 膝を曲げて、軽く接吻を。

 少女の唇は、甘いミルクカフェオレの味がした。

「契約完了」少女が呟く。

「どんな契約?」

「誰にも解除できない、人生で最大の契約」

 そう言ったきり、瞼を閉じて、少女は息を引き取るように黙り込んでしまった。
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