無題のテキスト

彼方灯火

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第4話 ✕

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 喫茶店で暇を潰してから、再びショッピングセンターの中を歩いた。歩いている内に、本屋を見ようと思いついた。リィルも僕もそれなりに本を読むので、この点では共通しているといえる。ただし、読む本の傾向は異なっている。リィルは一つのジャンルに限らず広く読むが、僕は自分の専門分野と関連のあるものしか読まない。どちらが良いというわけでもないだろう。ただ、何でも読めるのは凄いと思う。沢山ある本の中から次に読むものを見つけられるだけで凄い。彼女の中に一定の基準が設けられているのかもしれない。今度その点についてきいてみようか、と僕は考える。

 時刻は午後三時半。三十分後に待ち合わせる約束をして、僕とリィルは店内で分かれた。

 僕は基本的に言語学に関する本を読む。言語学に関するといっても、直接的に関係しているとは限らない。普通には何の関係もないように思える本を読むこともある。関係が見出せないものの間に何らかの関係を見出したとき、それを発見と呼ぶ。

 言語学というのは随分都合の良い学問で、生物学と似ている。たとえば、人間に関係のある事物であれば、何でも生物学に放り込むことができる。コーヒーの苦味の程度や、コンピューターのマウス感度の調整方法なども、広い意味では生物学が取り扱う問題といえる。それらは人間の感覚器官と関係があり、そして、人間は動物で、動物は生物の内だから、結局のところ生物学で扱うことができるという理屈だ。これと同じ理屈で、人間に関係のあることなら、何でも言語学に放り込むことができる。人間が認識する対象となるものは、必ず何らかの言語で表されるからだ。反対に、言語がなければ、その対象を認識することはできないともいえる。この場合の言語というのは、典型的な音や文字であるとは限らない。もっと抽象的な概念やイメージの場合もある。

 生物や言語といった曖昧な言葉が意味する内容は、どこまでも拡張することができる。これも言語の性質の一つといえるだろう。言語について考えていると、この種の困難に直面することが少なくない。本来、意味を考えるために言葉が存在しているのに、その言葉の意味を考えるためには別の言葉が必要となる。この連鎖はいつまでも続くから、生物や言語といった曖昧な言葉が意味する内容を定義しようとしても、普通は上手くいかない。

 しかし、実際には、この連鎖はある程度のところで収束する。

 理由は簡単で、言葉ではない何かが終止符を打つからだ。

 その正体とは何だろう?

 僕にはそれが未だに分かっていない。物凄く簡単に言ってしまえば、感覚、ということになるだろう。ある言葉が意味する内容を、別の言葉を用いて定義しようとするとき、そこにはたらいているのは思考であり、思考は感覚と対を成す。そして、思考だけではどうにも上手く処理できないから、仕方なく感覚を用いて処理することになる。

 けれど、この場合の「感覚」というのも、やはり言葉であって、この言葉が意味する内容がどの程度の広がりを持っているのかということは、やはり曖昧になってしまう。

 この議論をこのまま進めていくと、最終的には、ある言葉が意味する内容がどの程度の広がりを持っているのか分からないのに、なぜ人間はコミュニケーションをとることができるのか、引いては、そもそもコミュニケーションとは何か、真にコミュニケーションをとることは可能か、という問題に繋がる。

 しかし、それを議論する際にも、やはり言葉が必要になる。

 本棚の間を歩きながらそんなことを考えていると、妙に惹かれる本を見つけた。惹かれたのはその表紙だ。僕がタイトルや内容で本を選ぶことは少ない。本来的な意味での外形で判断することが多い、と自己分析している。これは、リィルの中身ではなく、外形の方が大事だと主張しているのと大して変わらない。

 ただ、今は、僕のその一般的な傾向を無視しても構わなかった。

 その一般的な傾向すら、ないものとして扱えるような事象だったからだ。

 本の表紙には、大きな湖と、その隅に浮かぶ小舟、それから、手前にそびえ立つ古ぼけた城のイラストが描かれていた。おそらく、油絵の具を用いて描かれたもので、僕はこの手のイラストがあまり好きではない。それでも、やはり惹かれるものがある。

 その本の最大の特徴として、タイトルがないという点が挙げられる。加えて、作者の名前もない。手に取って表紙を開いてみたが、その内側にも、さらには奥付にも、タイトルも作者の名前も書かれていなかった。

 不意に現実を意識して、腕時計を見る。針は数字の三を指している。

「何か、面白そうな本、あった?」

 突然、背後から抱き締められて、僕は体勢を崩す。

 首だけで後ろを振り返ると、リィルがにっこり笑っていた。
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