The Color of The Fruit Is Red of Blood

羽上帆樽

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第4章 芝居は連続的に

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 リィルと一緒に美術館の外に出ると、正面玄関のすぐ傍に見知らぬ男性が立っていた。彼は煙草を咥えて空を見ている。僕たちが傍を通り過ぎようとすると、彼から声をかけられたので、僕たちは立ち止まった。

「お二人とも、同業者?」

 男性の質問を受けて、僕は反応する。

「えっと、依頼されて、翻訳家としてここに来た者ですが……」

「ああ、そう。じゃあ、僕と同じだ」

 そう言うと、男性はズボンのポケットから小型の灰皿を取り出し、煙草をその中に捨てる。身につけていたジャケットのポケットに両手を入れて、なんともないような顔で僕たちをじっと見つめた。

「そういうことだから、よろしく」

 彼を加えて三人で僕たちは広場を歩いていった。男性の名前はボォダといい、ガザエルが言っていたもう一人の翻訳家らしい。今日はもう来ないと思っていたが、どうやら夜の山道を歩いてここまで来たようだ。彼曰く、登山には慣れているとのことだった。普段から趣味でアウトドアライフを満喫しているらしく、キャンプに関する一定の知識を持っていると彼は話した。

 ウルスと違い、ボォダはそれなりに歳をとっているように見える。歳をとっているといっても老人の部類には入らない。おそらく、中年くらいだろう。ガザエルとは知り合いらしく、ここではない別の場所で一緒に作業をしたことがあるらしい。ウルスとは初めて会ったと彼は言った。会ったと過去形なのは、ヴァイオリンの演奏の準備をするために先に出ていったウルスと、美術館の入り口で出会ったらしかったからだ。

 春になったとはいえ、まだ夜になると冷え込む。コートが必要なほどではないが、僕はなぜかコートを着てきていた。リィルは例によって猟銃を持っていてもおかしくないような格好をしている。ボォダの格好もジャケットに迷彩柄のズボンと、如何にもキャンプに適していそうな格好だったので、リィルと並んで歩いていても特に違和感はなかった。

 斜面を降りて一段目の広場に到着すると、舞台の前にパイプ椅子が何脚か並べられていた。ウルスはすでに舞台の上に立ち、ヴァイオリンを手に何やら作業を行っている。傍にガザエルの姿も見え、彼は会場のセッティングに勤しんでいるみたいだった。

 舞台といってもそれほど大がかりなものではないから、コンサートというイメージには乏しい。ウルスもそれを理解しているみたいで、友人が練習成果を披露するような雰囲気が漂っていた。ウルスが友人の集合に属するかは大分怪しいが、見ず知らずの人間の発表を聴くわけではないことは確かだ。

 僕たちがやって来たのを確認すると、ガザエルが一人に一つずつプラスチック製のコップを渡してきた。寒いから暖かい飲み物が欲しかったが、彼がくれたのはなぜかグレープジュースだった。僕は夕飯のときにもそれを飲んだので、今日二回目のグレープジュースだったが、貰えるものはありがたく貰っておくことにした。

 椅子は人数分しか並べられていないから、必然的に四人が並んで座ることになる。左端に僕が座り、その隣にリィル、リィルの隣にボォダ、そして右端がガザエルという配置になった。ガザエル以外の美術館の職員は、ここには一人も姿を現さなかった。

「では、始めますね」

 僕たちが揃ったのを確認すると、何の前触れもなくウルスはヴァイオリンを弾き始めた。コンサートの開演という感じはまったくしない。曲のタイトルすら紹介されないから、音楽に疎い僕にはそれが何の曲か分からなかった。

 ウルスの選曲はハードなものではなく、極めてスローテンポな楽曲だった。ヴァイオリンの精緻さを程良く活かせる曲という感じがする。ウルスの指捌きは非常に滑らかで、プロのような洗練された手つきではなかったが、無駄がなく、けれどどこか覚束ず、歩けるようになってやっと一年経った子どものような幼さが滲んでいた。

 春の夜に、繊細な弦と指が織りなす音色が溶けていく。

 たまたまこの場所に居合わせた仕事仲間が、並んで席に着いて音楽鑑賞をしているという不自然さは、今は意識しないでおくことにした。

 しかし、芸術とは、本来そういうものではないだろうか。

 そう……。

 特定の条件下で、限られた人々だけが評価できるものが芸術ではない。ある種の偶然性のもとにその場に居合わせた人々が、そのときの感覚だけで鑑賞し、評価する。それが芸術が持つ本質というものだ。

 一曲目の演奏が終わり、ウルスは小さくお辞儀をした。それに合わせて僕たちは拍手をし、続けて二曲目の演奏に移る。座っているだけでは寒く、何曲演奏するつもりなのか分からなかったが、ウルスの奏でる音色には不思議と引き込まれるものがあった。

 彼女の演奏を聴きながら、僕は頭の片隅で明日からの作業について考える。

 考えている内に、この演奏会に、明日以降の導入としての意味があるように思えてきた。その方が良いと、ガザエルが考えたのかもしれない。

 まあ、僕の勝手な想像にすぎないが……。

 ウルスの演奏はそのあとも続いた。非常に魅力的な演奏で、素晴らしい出来栄えだった。とても僕には真似できない。おそらく、リィルもヴァイオリンを弾けるようにはならないだろう。

 すべての演奏が終わり、椅子やステージの機器の片付けを皆でしてから、僕たちは美術館へと戻った。

「素敵な演奏でしたよ」もと来た道を戻りながら、僕はウルスに話しかけた。

「どうもありがとう」ウルスは答える。「そう言って頂けるなら、嬉しいです」

「ヴァイオリンは、いつから始めたんですか?」

「六歳からです」彼女は答える。「始めたのは遅かった方だと思います。もう十年になりますが、技術に関してはまだまだです」

「翻訳の方は?」

「それは、まだ八年」そう言って、ウルスは正面に顔を向ける。「そちらも、語学力を身につけるには遅すぎました。それでも、なんとか今まで生きてこれましたが」

 ガザエルとは正面玄関で別れ、その後僕たちもすぐに自分たちの部屋に戻った。ウルスが左手のブロック、ボォダが右手のブロックだ。明日の朝食は午前八時からだから、なるべく時間通りに来るようにとの指示を受けた。

 時刻は午後十一時半。部屋に戻ると、リィルはまたそのままベッドに突っ込んだ。

 別れる前にガザエルから聞いたことだが、風呂にはいつでも入って良いらしかった。なんと、すぐ傍に天然の温泉が湧いているとのことだ。行きに来た道を途中で逸れると辿り着けるらしい。そういうことはもっと早く言ってほしかったが、彼の性格上仕方がないのかもしれないとも思った。

「今から、風呂に入る?」椅子に座り、僕はリィルに尋ねる。

「うーん、どうしようかな……」毛布を抱き締めたままリィルは言った。「なんか、もう面倒臭くなってきちゃった」

 それは僕もそうだった。今から向かえば、返ってくる頃には日付が変わっているに違いない。

 暫くの間迷っていたが、僕はやがて立ち上がった。

「じゃあ、僕は行ってくるよ」

 僕がそう言うと、リィルは勢い良く顔を上げる。

「え、本当?」

「うん……。明日の朝入るのも、それはそれで大変だし、誰かと重なりそうだから……。……それに、温泉というのも気になるしね。夜に入る温泉なんて、そんな豪華な経験はなかなかできるものじゃないよ」

 リィルは首の力を抜き、また毛布に顔を押しつける。

「そっかあ……。……うん、まあ、いいや。私はもう寝るから」

「あそう。じゃあ、そういうことで」

 持ってきたバスタオルをリュックから取り出し、僕は部屋の外に出る。リィルは眠るらしいから、一応部屋の鍵はかけておくことにした。

 館内の照明はすでにほとんど落ちている。ロビーの辺りが薄く照らされているだけで、夜の美術館は、不気味というよりかは稀少な雰囲気に満ちていた。

 広間の中央まで来たところで、左手から誰かが歩いてくるのが見えた。ボォダがこちらに向かって歩いてきていた。

「やあ、奇遇」僕の傍まで来てボォダは言った。「お宅、これから風呂?」

「貴方もですか?」

「うん、そう。まあ、一緒に行こう」

 ボォダもここに来たのは始めてなので、二人でカウンターに向かって風呂の場所を訊くことにした。とはいっても、もうこの時間帯にはカウンターに詰める者はいない。カウンターに置かれていた呼び鈴を鳴らすと、ガザエル本人が姿を現した。

 ガザエルから風呂場の場所を聞き、同時に彼から寝間着を受け取った。日中を過ごす制服以外にもこの美術館専用のものがあるようで、寝間着にも関わらず上下ともに特徴的な意匠が施されていた。

 ガザエルに別れを告げ、僕とボォダは美術館の外に出る。一瞬二人で旅行に来たような錯覚に囚われたが、不吉な考えだと思って直ちに遮断した。

 真っ暗な広場を二人で歩く。幸い、ボォダが懐中電灯を持ってきてくれていたので、足もとは比較的よく見えた。

「貴方は、いつから翻訳業を始めたんですか?」

 暫くの間無言が続いていたが、僕は歩きながらボォダに質問した。

「だいたい、五年くらい前かな」飄々とした口調で彼は答える。「その前はね、非常勤講師をしていた。学校で、英語のね。だから、今でも僕は英語専門。ほかの言語は扱えない」

 翻訳家としての職歴は、ボォダよりもウルスの方が長いことになる。それ以前の経歴を加算すれば、ボォダの方がこの種の分野に携わってきた期間は長いかもしれない。まあ、ウルスのような人材がいるのを見ると、時間という要素もそれほど重要とは思えなくなるが……。

「君は?」

「僕ですか?」ボォダに問われ、僕は考える。「うーん……。ちょっと、明確には分かりません。あまり専門的なことはしてこなかったので……」

「翻訳家を志望していたわけではないの?」

「ええ、まあ……。……今も、それほど精力的に活動しているわけではないです。日雇いみたいなものですよ。依頼を受けたらどこにでも飛んでいく、便利屋みたいなものといえばいいかな」

「なるほど」ボォダは頷いた。「いいね、そういうの。僕、そういうの好きだよ」

 広場へと続く階段を下り、木でできた橋を渡る。階段は徐々に簡素なものへと変化していき、やがて土の地面へと戻った。

 さらに先へと進むと(この場合は、山を下っていることになる)、人為的に形成された道ではなく、山の斜面方向に伸びる獣道が現れた。ガザエルに聞いた通りに進むのなら、この獣道を歩かなくてはならない。

 周囲に背の高い木はなく、足元に草が茂っている程度だったから、なんとか最後まで道を進むことができた。道の先はまた広場のようになっている。ただし、こちらは頂上とは異なり、広大な敷地が用意されているわけではなかった。広場の中央に小規模な木造の建物があり、その向こう側は柵で囲まれている。

 どうやらそれが風呂場のようだった。僕とボォダは扉を開けて建物の中に入る。すぐ傍の壁にあったスイッチを押すと、部屋全体がぼんやりと照らし出され、壁に沿って木製の棚がいくつか並んでいるのが分かった。

 どうやら、温泉はこの一つしかないみたいだ。男女で分けられているわけではないから、時間を調整して使わなくてはならない。今の時間は誰もいなかったから、衣服を脱ぎ、僕はボォダと一緒に風呂へと繋がる硝子戸を開けた。

 湯船の周囲は岩で囲まれており、その向こう側に木製の柵が建っている。半露天風呂といった感じで、身体を洗うためのスペースが手前に二セットある以外は、目立ったものは何もなかった。必要最小限の温泉といった感じだ。手前のスペースには、シャワーと椅子と桶のセットが設置されている。そこで身体と頭を一通り洗ってから、僕は湯船に浸かった。

 お湯の温度はちょうど良かった。いつも家で入っているよりは若干熱いが、温泉に特有な芯まで温まるような温かさだ。

 少し遅れてボォダも湯船に入ってくる。二人で使う分には申し分ない広さで、僕は充分に寛ぐことができた。

「よく、こういう経験はされるんですか?」

 なんとなく思いついて、僕はボォダに質問した。

「いや、こういうのは、あまり」ボォダは答える。「僕の場合は、キャンプだからね。基本的に、風呂はない。ご飯を食べたらそのまま寝るんだ。テントだからさ、冬場は寒くてなかなか眠れないんだけど、まあ、その内、そんなことも忘れて、いつの間にか寝ちゃうんだ」

「週末に行くんですか?」

「まあ、そういうときもあるけど……。仕事の事情は関係なく、行っちゃうかな」

「疲れませんか? キャンプって、肉体労働という感じがしますけど……」

「まあね。慣れないと、そうだよ。でも、そのくらい、いいだろう? 次の日仕事ができないくらい疲れたらまずいけど、そこら辺の塩梅は、何回かやっている内に慣れる」

 なるほどと思って僕は頷く。

「今度、一緒に行ってみるかい?」

「僕とですか?」

「いや、誘っているわけじゃないんだ。興味があるのなら、手伝おうかと思ってね」そう言って、ボォダは少し笑った。柔和な笑みだったが、彼がそういう顔をすると何か悪巧みをしているように見える。

「いえ、僕は……」せっかくの誘いだったが、僕は断った。「あまり、アウトドアには向いていないので……」

「うん、たしかに、そういう感じ、するよね」ボォダは頷く。「下手に試すのは、あまりいいとはいえない。その分、時間がなくなる。自分がやりたいことを、最優先でやった方がいい」

 予期していない返事だったので、僕は多少なりとも驚いた。キャンプを趣味にしているような人間だから、もう少し、なんというのか、ポジティブな意見を口にすると思っていたが、彼の考えは酷くニュートラルなものだった。やはり、そういうところには彼なりの理論というか、信念のようなものが感じられる。かつて講師をしていて、そして今は翻訳業に従事しているというのは、ボォダがそうした学問的なものに敬意を持っているからかもしれない。

 本当は長く浸かっていたかったが、睡眠時間が削られるので、僕とボォダはすぐに温泉から出た。特に戸締まりの必要はないみたいだったので、自分たちの荷物を持って引き下がるだけで良かった。

 夜道を歩く。山の中では、傍に動物の気配はなくても、ちょっとした恐怖を覚える。

 頂上の広場へと続く階段に差しかかったところで、前方から足音が聞こえた。僕とボォダは一度立ち止まり、音のする方を見る。暫くすると、闇の中からぼんやりと人の輪郭が見えてきた。数メートル手前まで来てから、それが黒いコートに身を包んだウルスだと分かった。

「こんばんは」ウルスは小さな声で僕たちに挨拶した。「お風呂に行かれたんですか?」

「ええ……」僕は軽く頷く。

「そう……。では、また明日。明日から作業が始まります。よろしくお願いしますね」

 それだけ言って、ウルスは僕たちの隣を通り過ぎようとする。

「今から、温泉に行くんですか?」ウルスに向かって僕は尋ねた。

「ええ」彼女は立ち止まってこちらを振り返る。

「一人では、危なくありませんか?」

 僕がそう言うと、彼女は少しだけ笑って首を傾げた。

「お気になさらず」彼女はまた正面に顔を戻す。「では、おやすみなさい」

 少し心配だったが、僕はボォダと一緒に美術館へと戻った。

 自分の部屋に到着した頃には、すでに午前一時近くなっていた。部屋の照明は消えていて、リィルはベッドで寝息を立てている。先ほど倒れ込んだままの姿勢で眠ってしまったみたいで、またまた毛布がきちんとかかっていなかったから、冷えないように僕は彼女にそれをかけた。

 まるで僕たちの関係性を知っていたかのように、部屋にはベッドが一つしかなかった。仕方なくというか、いつも通りという感じで、僕はリィルの隣に静かに横になる。毛布とかけ布団も一枚しかなかったから、必然的にリィルと共有する形になった。

 僕とリィルは、いつも一つのベッドで眠っている。だからといって、それで関係性が一歩前進したことはなかった。いや、それは僕たちの場合最早前進とは呼べない。そちらを目標地点に定めていないのだから、もとから前進も何もないのだ。

 きっとリィルもそうなのだろうが、僕たちには互いが傍にいる以上の関係を求めない傾向がある。それは個人的な思想に基づいているのではなく、もっと根源的な設定によって定められているからといった方が正しい。もちろん、自らの思考でそれを制御しようとしている面もあるが、それはあくまで倫理という概念を理解しようと努めているだけであり、それ以前の問題として、僕たちには次のステップへと進もうとする意思がないのだ。

 たぶん、これが、僕たちに組み込まれた運命なのだろうと思う。

 そして、その裏にはやはりある一人の人物の存在がある。

 ある一人の人物……。

 彼女は、本当に人、つまり人間なのだろうか?

 その疑問は以前にも抱いたことがあった。僕がそう思うようになったのは、今まで目にしてきた様々な事象が根拠になっているから、ある程度の現実味はある。そして、その彼女が持つ技術的な能力も関係している。

 いずれにせよ、僕たちがウッドクロックとして存在しているのには、その彼女の存在が深く関係しているのだから、僕たちが帯びている性質についても、すべてではなくても、彼女に原因があると考えるのは妥当だ。

 ふと、腕を掴まれる感覚を認識する。

 横に視線を向けると、大きな目を開いてリィルが僕を見つめていた。

「まだ、起きていたの?」小さな声で僕は尋ねる。

「ううん」横になったままリィルは首を振った。細い髪がシーツに擦れて音を立てる。「今、起きた」

「温泉ね、露天風呂になっていたよ」僕は報告した。「たまたまボォダに会って、彼と一緒に行ってきたんだけど、うん、これが、なかなか素晴らしかった」

「露天風呂が? それとも、彼と一緒に行ってきたというシチュエーションが?」

「どっちも」

 リィルは再び目を閉じ、僕の方に身を寄せる。いつも通りの仕草で、なるほど、これがリィルだ、という感じがした(何がなるほどなのかは不明)。

「今回も、私、このままだと、何も手伝えることないよね」

 シリアスな雰囲気だったのに、急に現実味を帯びたことを言われたから、僕は思わず笑ってしまった。

「そんなこと、ないと思うけど」

「じゃあ、何をするの?」リィルは顔を上げて僕を見る。

「それはまだ分からないけど……。……まずは、ウルスと仲良くなったら?」

「何のために? 苦手だって、分かってるでしょう?」

「どういうところが苦手なの? 彼女の才能? 自分より年下なのに、何でもできるところとか?」

「ピンポイントで言われると、ちょっと腹が立つ」

「腹が立つのがちょっとでよかったよ」

 リィルは僕の腕を握る力を強める。もっとも、彼女が本気で握ったら僕の腕など簡単に砕けてしまうので、それは彼女の百パーセントの力ではない。

「私、彼女のこと嫌いじゃないよ」くぐもった声でリィルは言った。「うーん、何だろう……。なんか、私が築いたプロテクトが通用しなさそうなのが嫌なのかな……」

「へえ……、プロテクト……。どんなプロテクトを築いたの?」

「説明するのは難しい」

「相手の隙を突いて、渾身のギャグをお見舞いするプロテクトとか?」

「それは、プロテクトじゃなくて、砲台」

「砲台?」

「あああ……。……なんかさ、私、毎日溜め息吐いているよね……」布団の中でリィルは動く。彼女は基本的に落ち着きがない。その性質は寝ているときにも発現するようだ。「もっと、毎日楽しく過ごせたらいいのになあ……」

「楽しくないの?」

「いや、楽しいけどさあ……。楽しければ楽しいほど、前は楽しかったものがどんどん楽しくなくなっていくような気がして……」

 それはその通りだと思ったので、僕は頷いた。

「これからさ、どうするの?」リィルは僕に尋ねる。

「どうするって、何が?」僕は彼女に訊き返した。

「人生」

「人生?」僕は笑う。「どういう意味か分からないけど、その場の状況次第だよ」

「意味、分かってるじゃん」

「とりあえずは、明日生きていければそれでいいよ。次のことは、明日考えればいい。今日死んでしまったら、明日はもう来ないから、それ以上考える必要はないし、そもそも考えること自体できなくなる。これ以上完璧な理論はないと思うよ」

「完璧だけど、説得力にかけるよね、それじゃあ」

「どうして?」僕は少し首を傾げた。「完璧な理論なんだから、時間をかけてゆっくり吟味すれば、妥当性は分かるだろう?」

「妥当だとかそうじゃないとか、そんなことはどうでもいいんだって」リィルは僕の頰に触れ、じっと瞳を見つめてきた。「心に響かないんだよ、そんなこと言われても」

 僕は暫くの間沈黙する。僕も彼女の瞳を見つめ返し、真意を汲み取ろうとした。

「君さ、よく、そういうこと言うけど、僕には全然分からないよ」僕はリィルの手を軽く握り、それをそっと下ろした。

 リィルは無表情のまま話す。

「なんで? 分かるでしょう? 分かるよね?」

「いや、だから、分からない」

「そんなんで、本当に翻訳なんてできるの?」リィルは目を細める。「事実を伝えるだけじゃないんじゃないの?」

「もちろんそうさ。そのときには、翻訳家の僕が出てくるから、なんとかなる。今はその僕じゃない。君と話すための僕なんだ。このときの僕には、そういう理屈に合致しないことは理解できない。そういうふうにできているんだ」

「どうして?」

「理由は知らないよ。君だって、似たようなものじゃないの?」

「失礼だよ、そういうの」

「でも、本当にそっくりなんだから、仕方がないだろう?」

「私は、違う」

「どこがどう違うわけ?」

 リィルはゆっくりと身体を反転させ、僕に背を向けた。

「もういいよ。私、今日はもう寝るから……」

 次に自分が発する言葉を用意していた僕は、それを静かに呑み込んだ。もう、同じ言葉が僕の口から出ることはないだろうと思った。それは別に悲しいことではない。他者と会話をする度にいつも抱く感覚だ。

 僕も眠りに就こうと思った。目を閉じて呼吸を落ち着かせる。隣からはすでに小さな寝息が聞こえていた。それが本当のものかは分からないが、聞いているだけでなんとなく落ち着いたから、僕は黙ってその寝息に耳を傾けていた。

 目を閉じてから数分経過した頃、ドアがノックされて僕は瞼を上げた。僕が布団から出ようとすると、隣に寝ていたリィルも身体を起こした。

「なんだ、起きていたの?」

「今起きた」

 僕はドアの方へと近づいていく。鍵を解錠してドアを開いた。

 外の薄い光に照らされて、ウルスが漂うように立っていた。

「こんばんは」彼女は真顔で挨拶を零す。

 風呂上がりだからか、彼女の身体はどこか柔和な雰囲気を纏っていた。髪が微かに濡れている。もともと黒い髪に艶が出て綺麗だったが、僕には彼女が少し恐ろしく思えた。

「どうかしましたか?」

 僕が尋ねると、彼女は羽織っていたコートの中から片手を出した。コートの下は寝間着になっていて、てるてる坊主のような状態になっている。

 彼女の手の上にあるものを見て、僕の思考は停止した。

 それが何か一瞬分からなかったからだ。

 玄関の狭い隙間から顔を出すようにして、僕の隣からリィルが覗き込む。

「それ、何?」

 リィルが最初に声を出した。

「さっき、ここに戻ってくるときに拾ったんです」ウルスは呟くような声で説明した。「これが何か、見覚えはありませんか?」

 ウルスの手の上には小振りな青林檎が載せられていた。まだ蔕も付いていて、如何にも林檎といった様相を呈していた。

「お二人のものではありませんか?」

 ウルスは僕たちの顔を交互に見る。

「いえ、違いますけど……」

 僕がそう答えると、ウルスは背を向けてここから立ち去ろうとした。僕は彼女に声をかけて呼び止める。

「どうして、僕たちのものだと思ったんですか?」

 僕がそう尋ねても、ウルスは何一つとして表情を変えなかった。

「特に理由はありません。一番親しいのがあなた方だったので、最初に訊いてみようと思っただけです」

「これから、ほかの人の所にも行くつもりですか?」

「ええ、そうです」ウルスは頷く。「何か、問題がありますか?」

 僕は一歩部屋の外に出て、彼女に少し近づいた。

「今の時間は、やめておいた方がいい。もう、寝ている人もいるはずだから……」

「お二人とも、今、眠っていたのですか?」

「ええ、そうですが……」

 僕の返答を聞いて、ウルスは少しだけ笑った。

「それは失礼しました」

 それだけ言うと、彼女は広間に向かって歩いていった。
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