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第9章 偽造は効果的に
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翌日が事実上の最終日だった。僕たちは一応明日までこの美術館に残る予定だが、明日は直接的な作業をするわけではなく、今まで翻訳してきたものの最終確認をすることが目的だった。山道を下って自分たちの住む町まで帰らなくてはならないから、そう遅くまで残ることもできないだろう。
そういうわけで、僕が自分の考察を述べるのは今日の夜だった。ボォダとウルスの担当日の間には一日の余裕があったのに、僕のときだけないらしい。まあ、ガザエルもそこまで深く予定を考えていたわけではないだろうし、そもそもあの絵が見つかったのは偶然だから、仕方がないと思っておくことにした(というか、五十パーセントくらいはどうでも良いと思っている)。
彫刻の方の作業は午前中の二時間ほどで終わり、最後には写真の作品を担当することになった。絵画、彫刻と続いて最後に写真を扱うことになるとは、この美術館はほかの所とは少し趣向が異なるようだ。
写真は三階のフロアに展示されることになっているが、そこにはブロックが一つしかない。ブロックの広さに合わせて作品が輸送されてくるのか、それとも輸送されてきた作品の割合ごとにブロックが割り振られているのかは分からないが、写真は絵画ほど多くはないものの、数としては彫刻以上の量があった。
僕はこのとき初めて三階のフロアに行った。一階からずっと続いている螺旋階段を上り、二階を経て三階に至ると、もうその階段の周囲がブロックそのものになっていた。つまり、ブロックの中心に螺旋階段が通っていることになる。周囲の壁に写真を展示するのだが、その写真も絵画と同様に一枚ずつ額縁に収められている。絵画のものとはデザインが多少異なり、こちらは落ち着いた雰囲気になるように設計されていた。
ちなみに、ブロックの向こうにはちょっとしたベランダのようなスペースがあった。眼下にはこの建物の麓にある小さな公園が見え、そこの展望スペースよりも遥かに遠くの方まで見渡すことができる。
三人で話し合って誰がどの作品を担当するかを決め、僕たちはその担当する分の写真を部屋に持ち込んで、それぞれが翻訳作業を開始した。
今日はリィルにも部屋にいてもらった。彼女がそうしたいと言ったのではなく、僕の方から頼んだ。説明できる合理的な理由はなかったが、ただなんとなく、彼女に傍にいてほしいと思ったからだった。長年隠してきたホームシックが発動してしまったのかもしれない。とにかく、少しでも日常と変わらない要素が自分の傍にあってほしいと思った。
「変なの」
そんな純真無垢な気持ちをリィルに伝えたところ、彼女はそれを一蹴した。
「別に変ではないじゃないか」僕は抗議する。「単純に、誰かといたいって思っただけだよ。それのどこが変なの?」
「君、絶対にそういうこと言わないじゃん、普通なら」
「いや、今言ったし、今まで言いたくなることもあったけど、言わなかっただけだよ」
「嘘でしょう? 何か隠しているんじゃないの?」
「は? 隠している? 何を隠す必要があるわけ?」
「ウルスのこと、考えているんでしょう?」
「え?」
「違う?」
僕は目の前のディスプレイに顔を戻し、首を振った。
「断じて違う」
翻訳すべき作品は全部で七枚あった。今担当しているのはどこか海辺の景色を撮影したものだ。明らかにこの国のものではなく、水の色合いは水色というよりかは緑色で、浜辺の砂は白味がかかったクリーム色のような感じだった。リィルのイメージに大分近いようなものがあるように感じたが、僕はそれを彼女には伝えなかった。
「それで、ちゃんと、あの絵のことは考えられたの?」
彼女に問われ、僕は頷く。
「まあ、一応」
「ふうん」
気のない返事をしたリィルの方を一瞬見て、僕は彼女に尋ねた。
「そういえば、君は最初は乗り気だったじゃないか。いつからそんなに興味がなくなったの?」
「興味がなくなったわけじゃないけど……」リィルは呟くように話す。「……うん、なんていうのか、ウルスの説明を聞いてからかな……。……彼女の説明がよく理解できなくて、でも説得力があるような感じがして、なんていうのか、こう……、……私じゃ到底及ばないなと思って」
「そんなの、当たり前じゃないか」僕は笑いながら話す。
「当たり前だなんて、失礼じゃない?」
「うん、たしかに」僕は頷く。「でも、そうだろう?」
どうやら、リィルはウルスにコンプレックスを抱いているようだ。しかしながら、相手はそれなりの秀才であり、ほとんど勉強をしていないリィルとは属する集団が異なる。集団が異なる要素同士を比較しても、あまり意味はないのではないだろうか。
「別にさ、楽しければいいじゃないか」僕は捕捉するつもりで話した。「最初は、謎が目の前に現れて、わくわくしたんだろう? それなら、自分が信じるやり方で色々と考えればいいんじゃないのかな」
「そんなに簡単な問題じゃないって」
僕は一度手を止め、リィルの表情を確認する。彼女はベッドに座って脚を組んでいたが、表情はそれほど険しくなかったので、僕は再びキーを叩き始めた。
その後もひたすら翻訳を続け、今日は昼前には大半の作業を終えることができた。昼食をとり、残った作業をすべて終わらせて、夕方になる頃にはガザエルにテキストデータを送信することができた。
早く作業が終わったので、今日は夕飯の前に風呂に入ることにした。入浴すると気力が抜けて考察の発表に支障を来すかとも考えたが、そこまで気合いを入れると却って上手く話せなくなりそうだったので、リラックスする意味も込めて美術館を出た。
一人で風呂場に向かう。空はまだ明るかった。西の方から徐々に淡い色に染まりかけている。
温泉に浸かりながら、僕は自分が今考えるべきことを考えた。
考えるべきことは大きく二つに分けられる。そのどちらとも、すでにある程度は理論の展開は纏まっている。一つずつ確認してみるが、特に齟齬は認められない。しかし何かが欠けているような気がして、僕は暫くの間頭をフル稼働させた。
一番考えなくてはならないのは、色についてだ。二つのパターンまでは説明がつくが、最後の一つだけなかなか考えが纏まらない。いや、確かに一度は纏まったのだ。それで納得したはずだったし、その説明がなくてもある程度の説得力はあるだろうと考えることにした。……しかし、それではやはり足りないように思えてしまう。三つ、つまりすべての項目を揃えないと駄目なのだ。
どうしたら良いだろう?
段階を踏んでここまで至ることができたのだから、理論の展開そのものに間違いはないはずだ。たとえ間違えていたとしても、そもそもが解釈の問題だから、どうにかして落とし所をつけることはできる。
実際には、二つしかなかった。
そこからどうやって三つ目を生み出すのか……。
……いや、生み出すのではない?
……最初からそこにあるとしたらどうだろう?
……。
……なるほど。
僕は突発的にお湯の中から立ち上がる。
身体と頭はすでに洗え終えていたので、そのまま寝間着に着替え、上着を羽織ってすぐに美術館へと戻った。
戻ってきてから一時間ほど読書をして、間もなく夕食の時間になった。僕たちが食堂に入ると、なぜかウルスが一人だけ先に食事を始めていた。ガザエルも席に着いているが、彼は何も口にしていない。
「彼女が、お腹が空いて仕方がないと言い出したのでね」ガザエルは笑みを浮かべながら言った。「無理を言って彼女の分だけ先に用意してもらったんです」
僕は頷き、ウルスの隣に座る。
「なかなか食べますね」僕は彼女に言った。
「ええ、食べるのは好きです」ウルスはこちらを見る。「食べることは、そのまま生きることに繋がります」
ボォダもやって来て、僕たちの前にも料理が運ばれてきた。今日はいつにも増して豪華だった。僕たちがここで夕食をとるのが最後だから、ガザエルが気を遣ってくれたのかもしれない。
今日も食事は特に意味のない乾杯から始まった。例によって僕はアルコールが飲めないので、一人だけアップルジュースで乾杯をした。リィルはそもそも何も飲めない。果実が残っているような、不思議な食感のするジュースだった。
「あの……」全員が食事を始めたタイミングで、僕は言った。「もう、始めてもいいですか?」
僕の問いを受けて、ガザエルは顔を上げてこちらを見る。
「……ええ、構いませんが……」彼は少し首を傾げた。「なるほど。話したくてうずうずしているんですね」
「いえ、違います」僕は断言する。「嫌なことは先に終わらせたいので……」
僕の言葉を聞いてガザエルは笑った。
「そこまで気負う必要はない。所詮戯れ事だと思って、付き合ってくれれば構いませんよ」
「まあ、じゃあ、話します」
正面に座るリィルが僕を見ていたが、僕は気にせずに説明を始めた。
「まず最初に断っておきますが、僕の考察はお二人のものと少し種類が違います」なんとなくフォークの先端を眺めながら、僕は言った。「種類というか、まあ、思考の起点が異なるというか……。こういう言い方は失礼に当たるかもしれませんけど、ウルスさんの考察は、はっきりいってボォダさんの考察の発展系だったと思います」
僕は隣にいるウルスと左斜め前にいるボォダに目配せする。ウルスは僅かに首を傾げ、ボォダは無表情のまま頷いてみせた。
「お二人の意見に共通していたのは、作者がシニカルな表現をしたかった……。ウルスさんの言い方を借りれば、矛盾する状況を作り出すことで、自分のアイデンティティを表現したかったということですが、僕はそもそもその前提には立ちません」僕は一度アップルジュースを飲む。「では、どんな前提に立つのか。……それは、そもそも作者には表現したいことなどなかったということです」
この会場で楽しそうにしているのは、やはりガザエルとウルスだけだ。リィルは神妙な顔をしているし、ボォダはいつも通り感情を伺わせない表情をしている。もっとも、後者の二人もまったく興味がないというわけではないだろう。僕の話に耳を傾けようとしてくれているのは間違いない。
「ウルスさんは、作者はタイトルを先に決めたのではないかと言っていましたが……。僕は、どちらが先ということはないと考えました。どちらも先ではないというのはどういうことか。まあ、要するに、どちらも先ではないのだから、どちらとも同時に決めたということです。そう……。作者はタイトルと絵の両方を同時に発想したのです」
リィルが首を傾げていたが、僕は気にせずに話を続けた。
「僕は僕でしかないので、ほかの人がどのように考えるのかは分かりませんが、基本的に、人間の脳は様々なことを同時に処理していると思います。時間という概念を持ち出せば、ある発想と発想の間に前後関係が存在するのは確かですが、一つ目の発想と二つ目の発想の間に必ずしも因果関係があるとは限りません。そうですね……。たとえば、朝早くに目を覚ました僕が、窓の外を見て今日の天気を確認したとします。天気は生憎の雨で、どうしようかなと考えたとき、僕の頭には映画を観ようという発想が起こりました。さて、この場合、僕はほかの選択肢を考慮しているといえるでしょうか? 映画を観たいという発想が先か、それとも、ほかの選択肢との照らし合わせが先か……。こんな問いに答えられる人はおそらくいないでしょう。なぜなら、映画を観たいという発想と、ほかの選択肢との照らし合わせは、どちらも並行して行われるからです。どちらかが先であるわけでも、どちらかがあとであるわけでもない。瞬間的に……、それこそ、本来人間には認知できないほどの早さで、我々は物事の判断を行っているのです」
ガザエルが腕を組む様子が視界に映り込む。ある一つのことを考えながら話していても、頭はきちんと周囲の状況分析も行っているようだと、僕は自分の状態を認識する。
「さて、そのようにして、ウルスさんの考察とは分化することになるのですが……。……作者がタイトルと絵の両方を同時に発想した場合、ウルスさんが言っていた”The Fruit”という単語は、意識的に残されたというよりも、必然的に定められたという方が近いということになります。絵の内容と照らし合わせて、わざとシニカルな意味を隠すためにその単語を残したのではない……。それは初めからそうあるべきものとして発想され、したがって、その単語によって定められるべき対象も、すでにそのときに決まっていたのです」僕は一度口を閉じ、すぐに話を再開する。「……僕が一番注目すべきだと思うのは、タイトルの前半と後半で文の構造が異なっていることです。あの絵のタイトルは”The Color of The Fruit Is Red of Blood”……。be動詞であるisよりも前を前半、それよりも後ろを後半としたとき、両者の文の構造が少し違うことに気づきませんか? ……そう、前半には定冠詞のtheが付けられている一方で、後半の単語は両者とも無冠詞です。定冠詞にはそれに付随する単語に限定的な意味を与える効果があることは、皆さんもご存知だと思います。redは色の名前だから定冠詞を付けないのが一般的だし、一種の成分として捉えられるbloodにも基本的に定冠詞は付けません。だから、一見すると英文法に則った何の変哲もない文に見えると思います。……でも、本当にそうでしょうか? これは本当に文法的に正しい文だといえるでしょうか?」
「どういうこと?」リィルが口を挟む。
「イコールの関係になっていないということですね」
隣の席で発言したウルスに向かって、僕は軽く頷いた。
「この文の”Red of Blood”という節は、”The Color of The Fruit”という名詞節の補語になっているといえます。is以下がそれ以上の性質を修飾している……。つまり、”The Color of The Fruit”イコール”Red of Blood”という関係が成り立っているということです。この説明で難しいと感じるのなら、もう少し構造を簡単にすると分かりやすくなると思います。……そうですね、前半は名詞、be動詞を挟んで後半は形容詞という構造にすれば、this book is interesutingなんてどうでしょう。先ほど説明したように、この文でもthis bookイコールinterestingという関係が成り立っていることが分かります。主語と補語の関係とはそういうことです」
僕は一度話すのをやめて、正面のリィルを見る。
「いや、まあ、理解できないならいいんだ。そういうものだと思ってくれれば……」
僕がそう言うと、リィルは首を振った。
「いや、それは分かるけど……。……それがイコールになっていないって、どういうこと? 今の説明じゃ、イコールになっていることを証明しているようなものじゃないの?」
僕は頷き、話を再開する。
「たしかに、今述べたのは文の前半と後半がイコールの関係になっているということです。……イコールとは何かという話まで発展させてしまうと、これ以上何も考えられなくなってしまうので、それはなしです」僕は一度全体を見渡す。「……”The Color of The Fruit”は定冠詞を伴っているが故に限定的な表現である一方で、”Red of Blood”は無冠詞であるが故に非限定的な表現です。……もし仮に、”The Color of The Fruit”と”Red of Blood”の関係を意味の問題として扱っているのではなく、要素の問題として扱っているとしたらどうなるでしょう? 「限定的な表現」イコール「非限定的な表現」となって、矛盾することになりませんか? ……昨日のウルスさんの考察でも、作者は矛盾した状況を作ることで、自分のアイデンティティを表現したかったのではないかというお話がありました。この点ではウルスさんの意見と一致します。ただし、それは単語レベルの問題ではなく、文の構造、つまり社会的に許容されているルールそのものに対する皮肉というのが、作者が表現したかったことなのではないでしょうか」
僕が話すのをやめると、なぜか場がしんと静まり返った。
話して喉が渇いていたので、僕はアップルジュースを飲む。
「でも、それで終わりではありませんよね?」
もう少しアップルジュースを堪能していたかったが、ウルスが声をかけてきたので、僕は仕方なく応じることにした。
「ええ、まあ……」僕は再度声を発する。「今の説明だけでは、問題はまだ解決していません。文法の構造に関する問題を示唆するという目的があったとしても、タイトルで”Red of Blood”と表現している林檎を、作者が絵の中で青く塗る理由が説明できないからです」
隣の席でウルスが頷く様子が窺える。彼女以外の者は、皆神妙な顔つきで僕のことを見ていた。
「……この問題に対する僕なりの答えは一つです。それは、タイトルに含まれる”The Fruit”が指している対象は、絵の中にある林檎ではないというものです。そう……。つまり、”The Fruit”が指しているのは絵の中の青い林檎ではなく、別の何かという仮説です。これは、ボォダさんがご自身の発表の最後に述べられていたことですね。……そして、僕にはこれ以上考えることはできませんでした。したがって、僕の考察はこれで終わりです」
「え?」僕の話を聞いて、リィルが声を上げた。「それ、どういうこと?」
「そのままの意味だよ」僕は話す。「残念ながら、僕にはこれ以上のことは思いつかなかった。悔しいけど、定冠詞と無冠詞の使われ方に基づく、文の構造に関する説明を考えるだけで精一杯だったんだよ。……そうですね、せっかくだから聞いてみましょうか。何方か僕の説明を捕捉できる方はいませんか?」
「青い林檎の下に、赤い林檎が隠されている、というのはどうかな?」
唐突に意見を述べたボォダに皆の視線が集中する。
「なるほど……」ガザエルが声を漏らした。「重ね塗りをしたというわけか」
「たしかに、面白い意見だと思います」僕は頷く。「……じゃあ、そういうことでいいかな?」
リィルに向かってそう問いかけてみたが、彼女は引き下がってくれなかった。
「いや、ちょっと待ってよ……。……そんな適当な説明じゃ、納得できるわけないじゃん」
「でも、僕にはこれ以上は無理だったんだよ。……まあ、いいじゃないか。本当のところは作者に訊いてみないと分からないんだし、その作者はここにはいない。解釈の仕方を個人的に考えて述べただけだ。……ガザエルさんも、そういう趣旨で間違いはありませんね?」
「ええ、その通りですが……」ぎこちない動作だったが、ガザエルは頷いた。「この時間が少しでもエキサイティングなものになれば、それでいい。私が思っていることはそれだけです」
「でも……」リィルは少し下を向く。
「君には、何か考えがあるの?」
リィルは顔を上げ、小さく首を振った。
「……ないけど……」
「じゃあ、これで終わりだよ」僕は言った。「これでも頑張ったんだ。これ以上は考えられそうにないから、許してよ」
ガザエルから拍手を頂戴し、僕の発表は終わった。まだ夕飯は始まったばかりだったから、そのあとも雑談をしながら僕たちは食事をした。その中で、リィルだけはテンションが低いままだった。ずっと下を向いていて、何か問われたときだけ僅かに顔を上げる程度だ。僕はウルスやボォダと話していたから、リィルに声をかけることはしなかったが、彼女はずっと何かを言ってほしそうな顔をしていた。
そして、食事が終わって部屋に戻ってきたとき、案の定リィルから詰め寄られることになった。
「どうして、あれで終わりにしたの?」
椅子に座った僕を見下ろして、リィルは言った。
「どうしてって、どういう意味?」僕は問い質す。「さっき言った通りだよ。僕にはあれ以上思いつかなかったんだ。それじゃあ、まるで僕がほかに何か考えていたみたいじゃないか」
リィルは僕を睨みつける。
「……そうじゃないの?」彼女は小さな声で話す。「ほかにも、言いたいことがあったんでしょう?」
「言いたいこと?」
「思いついたことが、ほかにもあったんじゃないの?」
僕は彼女から顔を背け、デスクに置いてあるインスタントコーヒーの瓶を引き寄せる。蓋を開けると、もう半分くらいしか残っていないのが分かった。この一週間で僕はかなりの量のカフェインを摂取したようだ。
「……思いついたことは、ほかにもあったよ」瓶の蓋を閉じながら僕は言った。「……でも、それはあの場で説明するべきことではなかったんだ」
僕の言葉を聞き、リィルは少しだけ驚いたような顔をする。
「……どうして?」
僕は顔を上げ彼女の質問に応じた。
「そうしない方が、僕たちにとっても幸せだったからだよ」
「……どういう意味?」
僕はリィルから顔を背ける。そのまま身体の向きも反転させ、彼女に背を向ける形になった。
「意味の理解は君に任せる。……でも、そうだな、どうしても聞きたいって言うのなら、話すと約束するよ。でも、できるなら明日まで待ってほしい。もう一度考えを纏める時間がほしいんだ」
「……明日になったら、本当に話してくれるの?」
リィルに尋ねられ、僕はほんの少しだけ彼女を見る。
「約束する」
暫くの間僕を見下ろしていたが、やがてリィルは後退し、そのままベッドへと腰を下ろした。
椅子に座ったまま、僕は携帯端末を開いてメッセージの有無を確認する。新着のものは一件もなかったが、こちらから新規に送る必要があった。僕たちはある企業から依頼の紹介をしてもらうことで、仕事を受けている。今回この美術館に来たのもそうだ。だからその経過報告をしておく必要があった。
風呂に入ってくると言って、リィルは部屋を出ていく。
途端に辺りは静かになった。
仕事をしたり、考え事をしてばかりで、このせっかくの静かな環境を堪能することは、実はあまりできていなかった。そう思って、僕は立ち上がって窓の傍に向かう。上下に開閉する窓を持ち上げ、そこから顔を出して外を眺めた。
眼下には公園が、その先には森、そしてそのさらに向こうには僅かながら町の明かりが見える。ここは展望スペースよりは低いから、遠景を丸々眺めることはできないが、そうした明かりの残滓が僅かに空気中に漂っているのが分かった。宇宙に浮かぶダストのように、それは重力を感じさせない光だ。人が生きている証拠だが、不思議と人工的な煩わしさは感じない。けれど、近づいたらきっとそんな趣は感じられなくなるだろう。遠くから見ているときだけ見えるものもあるのだ。
そう……。
一歩離れて見れば、僕の人生など大したことはない。リィルとの出会いも、自分の生い立ちも、すべて些細なことだと片付けることができる。しかしながら、僕は一歩離れた視点から日常を眺めているのではない。僕は僕としてここに存在し、そして移り変わる景色を旋回の利かない目で見て生きている。一言で表すなら、それは主観と呼ばれるものだ。どれだけ囚われないようにしても、決してそれから逃れることはできない。どれほど頑張っても、僕はリィルにはなれないのだ。
リィルだけではない。
ウルスやボォダ、それにガザエルにだって……。
そして……。
もちろん、今もどこかに存在しているであろう、あの人にも……。
考え事に縛られたくなくて景色を眺め出したのに、いつの間にかそれとは反対のことをしている。自分にはよくあることだから、別に驚くことではなかった。やっぱり、こんなふうに僕は僕としてしか存在しえないし、自分を変えることなどできないのだと思う。
眼下の景色に動きがあり、僕はそこに視線を向けた。美術館の裏口にある公園に、誰かが入っていくのが見えた。
ウルスだった。
彼女は上を向き、そこに僕がいるのを見つけると、小さな手を振ってくる。顔は笑っていて、その挙動は健気で可愛らしかった。僕も釣られて手を振り返す。
僕がウルスに抱いている感情は何だろう?
それはリィルに対するものと同じだろうか?
……いや、おそらくは違うだろう。違うものだと思いたくて、違うと感じているのではない。実際に、それは確かに形の違うものだ。
ウルスには、僕たちにはない強さがある。ずっと一人で生きてきたからかもしれない。偶然かもしれないが、僕にはそれはできなかった。リィルに出会い、彼女と生きていくことを決めたのだ。
もしかすると、それは必然だったのかもしれない。
僕がリィルと生きてきたことだけでなく、ウルスが一人で生きてきたことも必然だろうか?
……分からなかった。
やはり僕は僕以外にはなれないのだと思い、僕は窓を閉めた。
そういうわけで、僕が自分の考察を述べるのは今日の夜だった。ボォダとウルスの担当日の間には一日の余裕があったのに、僕のときだけないらしい。まあ、ガザエルもそこまで深く予定を考えていたわけではないだろうし、そもそもあの絵が見つかったのは偶然だから、仕方がないと思っておくことにした(というか、五十パーセントくらいはどうでも良いと思っている)。
彫刻の方の作業は午前中の二時間ほどで終わり、最後には写真の作品を担当することになった。絵画、彫刻と続いて最後に写真を扱うことになるとは、この美術館はほかの所とは少し趣向が異なるようだ。
写真は三階のフロアに展示されることになっているが、そこにはブロックが一つしかない。ブロックの広さに合わせて作品が輸送されてくるのか、それとも輸送されてきた作品の割合ごとにブロックが割り振られているのかは分からないが、写真は絵画ほど多くはないものの、数としては彫刻以上の量があった。
僕はこのとき初めて三階のフロアに行った。一階からずっと続いている螺旋階段を上り、二階を経て三階に至ると、もうその階段の周囲がブロックそのものになっていた。つまり、ブロックの中心に螺旋階段が通っていることになる。周囲の壁に写真を展示するのだが、その写真も絵画と同様に一枚ずつ額縁に収められている。絵画のものとはデザインが多少異なり、こちらは落ち着いた雰囲気になるように設計されていた。
ちなみに、ブロックの向こうにはちょっとしたベランダのようなスペースがあった。眼下にはこの建物の麓にある小さな公園が見え、そこの展望スペースよりも遥かに遠くの方まで見渡すことができる。
三人で話し合って誰がどの作品を担当するかを決め、僕たちはその担当する分の写真を部屋に持ち込んで、それぞれが翻訳作業を開始した。
今日はリィルにも部屋にいてもらった。彼女がそうしたいと言ったのではなく、僕の方から頼んだ。説明できる合理的な理由はなかったが、ただなんとなく、彼女に傍にいてほしいと思ったからだった。長年隠してきたホームシックが発動してしまったのかもしれない。とにかく、少しでも日常と変わらない要素が自分の傍にあってほしいと思った。
「変なの」
そんな純真無垢な気持ちをリィルに伝えたところ、彼女はそれを一蹴した。
「別に変ではないじゃないか」僕は抗議する。「単純に、誰かといたいって思っただけだよ。それのどこが変なの?」
「君、絶対にそういうこと言わないじゃん、普通なら」
「いや、今言ったし、今まで言いたくなることもあったけど、言わなかっただけだよ」
「嘘でしょう? 何か隠しているんじゃないの?」
「は? 隠している? 何を隠す必要があるわけ?」
「ウルスのこと、考えているんでしょう?」
「え?」
「違う?」
僕は目の前のディスプレイに顔を戻し、首を振った。
「断じて違う」
翻訳すべき作品は全部で七枚あった。今担当しているのはどこか海辺の景色を撮影したものだ。明らかにこの国のものではなく、水の色合いは水色というよりかは緑色で、浜辺の砂は白味がかかったクリーム色のような感じだった。リィルのイメージに大分近いようなものがあるように感じたが、僕はそれを彼女には伝えなかった。
「それで、ちゃんと、あの絵のことは考えられたの?」
彼女に問われ、僕は頷く。
「まあ、一応」
「ふうん」
気のない返事をしたリィルの方を一瞬見て、僕は彼女に尋ねた。
「そういえば、君は最初は乗り気だったじゃないか。いつからそんなに興味がなくなったの?」
「興味がなくなったわけじゃないけど……」リィルは呟くように話す。「……うん、なんていうのか、ウルスの説明を聞いてからかな……。……彼女の説明がよく理解できなくて、でも説得力があるような感じがして、なんていうのか、こう……、……私じゃ到底及ばないなと思って」
「そんなの、当たり前じゃないか」僕は笑いながら話す。
「当たり前だなんて、失礼じゃない?」
「うん、たしかに」僕は頷く。「でも、そうだろう?」
どうやら、リィルはウルスにコンプレックスを抱いているようだ。しかしながら、相手はそれなりの秀才であり、ほとんど勉強をしていないリィルとは属する集団が異なる。集団が異なる要素同士を比較しても、あまり意味はないのではないだろうか。
「別にさ、楽しければいいじゃないか」僕は捕捉するつもりで話した。「最初は、謎が目の前に現れて、わくわくしたんだろう? それなら、自分が信じるやり方で色々と考えればいいんじゃないのかな」
「そんなに簡単な問題じゃないって」
僕は一度手を止め、リィルの表情を確認する。彼女はベッドに座って脚を組んでいたが、表情はそれほど険しくなかったので、僕は再びキーを叩き始めた。
その後もひたすら翻訳を続け、今日は昼前には大半の作業を終えることができた。昼食をとり、残った作業をすべて終わらせて、夕方になる頃にはガザエルにテキストデータを送信することができた。
早く作業が終わったので、今日は夕飯の前に風呂に入ることにした。入浴すると気力が抜けて考察の発表に支障を来すかとも考えたが、そこまで気合いを入れると却って上手く話せなくなりそうだったので、リラックスする意味も込めて美術館を出た。
一人で風呂場に向かう。空はまだ明るかった。西の方から徐々に淡い色に染まりかけている。
温泉に浸かりながら、僕は自分が今考えるべきことを考えた。
考えるべきことは大きく二つに分けられる。そのどちらとも、すでにある程度は理論の展開は纏まっている。一つずつ確認してみるが、特に齟齬は認められない。しかし何かが欠けているような気がして、僕は暫くの間頭をフル稼働させた。
一番考えなくてはならないのは、色についてだ。二つのパターンまでは説明がつくが、最後の一つだけなかなか考えが纏まらない。いや、確かに一度は纏まったのだ。それで納得したはずだったし、その説明がなくてもある程度の説得力はあるだろうと考えることにした。……しかし、それではやはり足りないように思えてしまう。三つ、つまりすべての項目を揃えないと駄目なのだ。
どうしたら良いだろう?
段階を踏んでここまで至ることができたのだから、理論の展開そのものに間違いはないはずだ。たとえ間違えていたとしても、そもそもが解釈の問題だから、どうにかして落とし所をつけることはできる。
実際には、二つしかなかった。
そこからどうやって三つ目を生み出すのか……。
……いや、生み出すのではない?
……最初からそこにあるとしたらどうだろう?
……。
……なるほど。
僕は突発的にお湯の中から立ち上がる。
身体と頭はすでに洗え終えていたので、そのまま寝間着に着替え、上着を羽織ってすぐに美術館へと戻った。
戻ってきてから一時間ほど読書をして、間もなく夕食の時間になった。僕たちが食堂に入ると、なぜかウルスが一人だけ先に食事を始めていた。ガザエルも席に着いているが、彼は何も口にしていない。
「彼女が、お腹が空いて仕方がないと言い出したのでね」ガザエルは笑みを浮かべながら言った。「無理を言って彼女の分だけ先に用意してもらったんです」
僕は頷き、ウルスの隣に座る。
「なかなか食べますね」僕は彼女に言った。
「ええ、食べるのは好きです」ウルスはこちらを見る。「食べることは、そのまま生きることに繋がります」
ボォダもやって来て、僕たちの前にも料理が運ばれてきた。今日はいつにも増して豪華だった。僕たちがここで夕食をとるのが最後だから、ガザエルが気を遣ってくれたのかもしれない。
今日も食事は特に意味のない乾杯から始まった。例によって僕はアルコールが飲めないので、一人だけアップルジュースで乾杯をした。リィルはそもそも何も飲めない。果実が残っているような、不思議な食感のするジュースだった。
「あの……」全員が食事を始めたタイミングで、僕は言った。「もう、始めてもいいですか?」
僕の問いを受けて、ガザエルは顔を上げてこちらを見る。
「……ええ、構いませんが……」彼は少し首を傾げた。「なるほど。話したくてうずうずしているんですね」
「いえ、違います」僕は断言する。「嫌なことは先に終わらせたいので……」
僕の言葉を聞いてガザエルは笑った。
「そこまで気負う必要はない。所詮戯れ事だと思って、付き合ってくれれば構いませんよ」
「まあ、じゃあ、話します」
正面に座るリィルが僕を見ていたが、僕は気にせずに説明を始めた。
「まず最初に断っておきますが、僕の考察はお二人のものと少し種類が違います」なんとなくフォークの先端を眺めながら、僕は言った。「種類というか、まあ、思考の起点が異なるというか……。こういう言い方は失礼に当たるかもしれませんけど、ウルスさんの考察は、はっきりいってボォダさんの考察の発展系だったと思います」
僕は隣にいるウルスと左斜め前にいるボォダに目配せする。ウルスは僅かに首を傾げ、ボォダは無表情のまま頷いてみせた。
「お二人の意見に共通していたのは、作者がシニカルな表現をしたかった……。ウルスさんの言い方を借りれば、矛盾する状況を作り出すことで、自分のアイデンティティを表現したかったということですが、僕はそもそもその前提には立ちません」僕は一度アップルジュースを飲む。「では、どんな前提に立つのか。……それは、そもそも作者には表現したいことなどなかったということです」
この会場で楽しそうにしているのは、やはりガザエルとウルスだけだ。リィルは神妙な顔をしているし、ボォダはいつも通り感情を伺わせない表情をしている。もっとも、後者の二人もまったく興味がないというわけではないだろう。僕の話に耳を傾けようとしてくれているのは間違いない。
「ウルスさんは、作者はタイトルを先に決めたのではないかと言っていましたが……。僕は、どちらが先ということはないと考えました。どちらも先ではないというのはどういうことか。まあ、要するに、どちらも先ではないのだから、どちらとも同時に決めたということです。そう……。作者はタイトルと絵の両方を同時に発想したのです」
リィルが首を傾げていたが、僕は気にせずに話を続けた。
「僕は僕でしかないので、ほかの人がどのように考えるのかは分かりませんが、基本的に、人間の脳は様々なことを同時に処理していると思います。時間という概念を持ち出せば、ある発想と発想の間に前後関係が存在するのは確かですが、一つ目の発想と二つ目の発想の間に必ずしも因果関係があるとは限りません。そうですね……。たとえば、朝早くに目を覚ました僕が、窓の外を見て今日の天気を確認したとします。天気は生憎の雨で、どうしようかなと考えたとき、僕の頭には映画を観ようという発想が起こりました。さて、この場合、僕はほかの選択肢を考慮しているといえるでしょうか? 映画を観たいという発想が先か、それとも、ほかの選択肢との照らし合わせが先か……。こんな問いに答えられる人はおそらくいないでしょう。なぜなら、映画を観たいという発想と、ほかの選択肢との照らし合わせは、どちらも並行して行われるからです。どちらかが先であるわけでも、どちらかがあとであるわけでもない。瞬間的に……、それこそ、本来人間には認知できないほどの早さで、我々は物事の判断を行っているのです」
ガザエルが腕を組む様子が視界に映り込む。ある一つのことを考えながら話していても、頭はきちんと周囲の状況分析も行っているようだと、僕は自分の状態を認識する。
「さて、そのようにして、ウルスさんの考察とは分化することになるのですが……。……作者がタイトルと絵の両方を同時に発想した場合、ウルスさんが言っていた”The Fruit”という単語は、意識的に残されたというよりも、必然的に定められたという方が近いということになります。絵の内容と照らし合わせて、わざとシニカルな意味を隠すためにその単語を残したのではない……。それは初めからそうあるべきものとして発想され、したがって、その単語によって定められるべき対象も、すでにそのときに決まっていたのです」僕は一度口を閉じ、すぐに話を再開する。「……僕が一番注目すべきだと思うのは、タイトルの前半と後半で文の構造が異なっていることです。あの絵のタイトルは”The Color of The Fruit Is Red of Blood”……。be動詞であるisよりも前を前半、それよりも後ろを後半としたとき、両者の文の構造が少し違うことに気づきませんか? ……そう、前半には定冠詞のtheが付けられている一方で、後半の単語は両者とも無冠詞です。定冠詞にはそれに付随する単語に限定的な意味を与える効果があることは、皆さんもご存知だと思います。redは色の名前だから定冠詞を付けないのが一般的だし、一種の成分として捉えられるbloodにも基本的に定冠詞は付けません。だから、一見すると英文法に則った何の変哲もない文に見えると思います。……でも、本当にそうでしょうか? これは本当に文法的に正しい文だといえるでしょうか?」
「どういうこと?」リィルが口を挟む。
「イコールの関係になっていないということですね」
隣の席で発言したウルスに向かって、僕は軽く頷いた。
「この文の”Red of Blood”という節は、”The Color of The Fruit”という名詞節の補語になっているといえます。is以下がそれ以上の性質を修飾している……。つまり、”The Color of The Fruit”イコール”Red of Blood”という関係が成り立っているということです。この説明で難しいと感じるのなら、もう少し構造を簡単にすると分かりやすくなると思います。……そうですね、前半は名詞、be動詞を挟んで後半は形容詞という構造にすれば、this book is interesutingなんてどうでしょう。先ほど説明したように、この文でもthis bookイコールinterestingという関係が成り立っていることが分かります。主語と補語の関係とはそういうことです」
僕は一度話すのをやめて、正面のリィルを見る。
「いや、まあ、理解できないならいいんだ。そういうものだと思ってくれれば……」
僕がそう言うと、リィルは首を振った。
「いや、それは分かるけど……。……それがイコールになっていないって、どういうこと? 今の説明じゃ、イコールになっていることを証明しているようなものじゃないの?」
僕は頷き、話を再開する。
「たしかに、今述べたのは文の前半と後半がイコールの関係になっているということです。……イコールとは何かという話まで発展させてしまうと、これ以上何も考えられなくなってしまうので、それはなしです」僕は一度全体を見渡す。「……”The Color of The Fruit”は定冠詞を伴っているが故に限定的な表現である一方で、”Red of Blood”は無冠詞であるが故に非限定的な表現です。……もし仮に、”The Color of The Fruit”と”Red of Blood”の関係を意味の問題として扱っているのではなく、要素の問題として扱っているとしたらどうなるでしょう? 「限定的な表現」イコール「非限定的な表現」となって、矛盾することになりませんか? ……昨日のウルスさんの考察でも、作者は矛盾した状況を作ることで、自分のアイデンティティを表現したかったのではないかというお話がありました。この点ではウルスさんの意見と一致します。ただし、それは単語レベルの問題ではなく、文の構造、つまり社会的に許容されているルールそのものに対する皮肉というのが、作者が表現したかったことなのではないでしょうか」
僕が話すのをやめると、なぜか場がしんと静まり返った。
話して喉が渇いていたので、僕はアップルジュースを飲む。
「でも、それで終わりではありませんよね?」
もう少しアップルジュースを堪能していたかったが、ウルスが声をかけてきたので、僕は仕方なく応じることにした。
「ええ、まあ……」僕は再度声を発する。「今の説明だけでは、問題はまだ解決していません。文法の構造に関する問題を示唆するという目的があったとしても、タイトルで”Red of Blood”と表現している林檎を、作者が絵の中で青く塗る理由が説明できないからです」
隣の席でウルスが頷く様子が窺える。彼女以外の者は、皆神妙な顔つきで僕のことを見ていた。
「……この問題に対する僕なりの答えは一つです。それは、タイトルに含まれる”The Fruit”が指している対象は、絵の中にある林檎ではないというものです。そう……。つまり、”The Fruit”が指しているのは絵の中の青い林檎ではなく、別の何かという仮説です。これは、ボォダさんがご自身の発表の最後に述べられていたことですね。……そして、僕にはこれ以上考えることはできませんでした。したがって、僕の考察はこれで終わりです」
「え?」僕の話を聞いて、リィルが声を上げた。「それ、どういうこと?」
「そのままの意味だよ」僕は話す。「残念ながら、僕にはこれ以上のことは思いつかなかった。悔しいけど、定冠詞と無冠詞の使われ方に基づく、文の構造に関する説明を考えるだけで精一杯だったんだよ。……そうですね、せっかくだから聞いてみましょうか。何方か僕の説明を捕捉できる方はいませんか?」
「青い林檎の下に、赤い林檎が隠されている、というのはどうかな?」
唐突に意見を述べたボォダに皆の視線が集中する。
「なるほど……」ガザエルが声を漏らした。「重ね塗りをしたというわけか」
「たしかに、面白い意見だと思います」僕は頷く。「……じゃあ、そういうことでいいかな?」
リィルに向かってそう問いかけてみたが、彼女は引き下がってくれなかった。
「いや、ちょっと待ってよ……。……そんな適当な説明じゃ、納得できるわけないじゃん」
「でも、僕にはこれ以上は無理だったんだよ。……まあ、いいじゃないか。本当のところは作者に訊いてみないと分からないんだし、その作者はここにはいない。解釈の仕方を個人的に考えて述べただけだ。……ガザエルさんも、そういう趣旨で間違いはありませんね?」
「ええ、その通りですが……」ぎこちない動作だったが、ガザエルは頷いた。「この時間が少しでもエキサイティングなものになれば、それでいい。私が思っていることはそれだけです」
「でも……」リィルは少し下を向く。
「君には、何か考えがあるの?」
リィルは顔を上げ、小さく首を振った。
「……ないけど……」
「じゃあ、これで終わりだよ」僕は言った。「これでも頑張ったんだ。これ以上は考えられそうにないから、許してよ」
ガザエルから拍手を頂戴し、僕の発表は終わった。まだ夕飯は始まったばかりだったから、そのあとも雑談をしながら僕たちは食事をした。その中で、リィルだけはテンションが低いままだった。ずっと下を向いていて、何か問われたときだけ僅かに顔を上げる程度だ。僕はウルスやボォダと話していたから、リィルに声をかけることはしなかったが、彼女はずっと何かを言ってほしそうな顔をしていた。
そして、食事が終わって部屋に戻ってきたとき、案の定リィルから詰め寄られることになった。
「どうして、あれで終わりにしたの?」
椅子に座った僕を見下ろして、リィルは言った。
「どうしてって、どういう意味?」僕は問い質す。「さっき言った通りだよ。僕にはあれ以上思いつかなかったんだ。それじゃあ、まるで僕がほかに何か考えていたみたいじゃないか」
リィルは僕を睨みつける。
「……そうじゃないの?」彼女は小さな声で話す。「ほかにも、言いたいことがあったんでしょう?」
「言いたいこと?」
「思いついたことが、ほかにもあったんじゃないの?」
僕は彼女から顔を背け、デスクに置いてあるインスタントコーヒーの瓶を引き寄せる。蓋を開けると、もう半分くらいしか残っていないのが分かった。この一週間で僕はかなりの量のカフェインを摂取したようだ。
「……思いついたことは、ほかにもあったよ」瓶の蓋を閉じながら僕は言った。「……でも、それはあの場で説明するべきことではなかったんだ」
僕の言葉を聞き、リィルは少しだけ驚いたような顔をする。
「……どうして?」
僕は顔を上げ彼女の質問に応じた。
「そうしない方が、僕たちにとっても幸せだったからだよ」
「……どういう意味?」
僕はリィルから顔を背ける。そのまま身体の向きも反転させ、彼女に背を向ける形になった。
「意味の理解は君に任せる。……でも、そうだな、どうしても聞きたいって言うのなら、話すと約束するよ。でも、できるなら明日まで待ってほしい。もう一度考えを纏める時間がほしいんだ」
「……明日になったら、本当に話してくれるの?」
リィルに尋ねられ、僕はほんの少しだけ彼女を見る。
「約束する」
暫くの間僕を見下ろしていたが、やがてリィルは後退し、そのままベッドへと腰を下ろした。
椅子に座ったまま、僕は携帯端末を開いてメッセージの有無を確認する。新着のものは一件もなかったが、こちらから新規に送る必要があった。僕たちはある企業から依頼の紹介をしてもらうことで、仕事を受けている。今回この美術館に来たのもそうだ。だからその経過報告をしておく必要があった。
風呂に入ってくると言って、リィルは部屋を出ていく。
途端に辺りは静かになった。
仕事をしたり、考え事をしてばかりで、このせっかくの静かな環境を堪能することは、実はあまりできていなかった。そう思って、僕は立ち上がって窓の傍に向かう。上下に開閉する窓を持ち上げ、そこから顔を出して外を眺めた。
眼下には公園が、その先には森、そしてそのさらに向こうには僅かながら町の明かりが見える。ここは展望スペースよりは低いから、遠景を丸々眺めることはできないが、そうした明かりの残滓が僅かに空気中に漂っているのが分かった。宇宙に浮かぶダストのように、それは重力を感じさせない光だ。人が生きている証拠だが、不思議と人工的な煩わしさは感じない。けれど、近づいたらきっとそんな趣は感じられなくなるだろう。遠くから見ているときだけ見えるものもあるのだ。
そう……。
一歩離れて見れば、僕の人生など大したことはない。リィルとの出会いも、自分の生い立ちも、すべて些細なことだと片付けることができる。しかしながら、僕は一歩離れた視点から日常を眺めているのではない。僕は僕としてここに存在し、そして移り変わる景色を旋回の利かない目で見て生きている。一言で表すなら、それは主観と呼ばれるものだ。どれだけ囚われないようにしても、決してそれから逃れることはできない。どれほど頑張っても、僕はリィルにはなれないのだ。
リィルだけではない。
ウルスやボォダ、それにガザエルにだって……。
そして……。
もちろん、今もどこかに存在しているであろう、あの人にも……。
考え事に縛られたくなくて景色を眺め出したのに、いつの間にかそれとは反対のことをしている。自分にはよくあることだから、別に驚くことではなかった。やっぱり、こんなふうに僕は僕としてしか存在しえないし、自分を変えることなどできないのだと思う。
眼下の景色に動きがあり、僕はそこに視線を向けた。美術館の裏口にある公園に、誰かが入っていくのが見えた。
ウルスだった。
彼女は上を向き、そこに僕がいるのを見つけると、小さな手を振ってくる。顔は笑っていて、その挙動は健気で可愛らしかった。僕も釣られて手を振り返す。
僕がウルスに抱いている感情は何だろう?
それはリィルに対するものと同じだろうか?
……いや、おそらくは違うだろう。違うものだと思いたくて、違うと感じているのではない。実際に、それは確かに形の違うものだ。
ウルスには、僕たちにはない強さがある。ずっと一人で生きてきたからかもしれない。偶然かもしれないが、僕にはそれはできなかった。リィルに出会い、彼女と生きていくことを決めたのだ。
もしかすると、それは必然だったのかもしれない。
僕がリィルと生きてきたことだけでなく、ウルスが一人で生きてきたことも必然だろうか?
……分からなかった。
やはり僕は僕以外にはなれないのだと思い、僕は窓を閉めた。
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