モノクロームの特異点

羽上帆樽

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第6章 不謹慎

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 教室の中はただただ暗い。夜になっても、月夜は照明を点けなかった。その方が心的に落ち着くからだ。夜は暗いから良いのに、電気を灯して明るくしてしまったら、趣が壊されてしまいそうな気がする。夜なのに電気が灯っていて良いのは、丘の上から眺める夜景だけだ。それはそれで趣があるし、星空と呼応しているようで、美しく見える。

 囀はまた眠ってしまった。自分の席に座ったまま、机に上半身を押しつけて沈黙している。月夜は読書をしていた。今日はラブストーリーだった。月夜はあまりその手のものは好きではないが、最近になって、段々と良さが分かるようになった。このような胸の高まりを擬似的に体験することで、実際にそうした場面に遭遇したとき、的確に対処できるようになる、というのが、そのジャンルの創作物に触れることで得られる価値だと、彼女は判断した。

 時計を見る。午前零時になった。

 チャイムは鳴らない。

 囀がゆっくりと机から身体を起こし、目を擦った。

 顔をこちらに向けて、月夜がいるのを確認する。

「おはよう……」籠もった声で囀は挨拶した。

「こんばんは」月夜はそれに応じる。

 囀は、何も言わずに教室を出ていく。のそのそとした足取りで、先行きが若干心配になった。先行きというのは、ここで使うには相応しくない言葉だが、今の月夜には、ほかに適した言葉を見つけられなかった。

 教室の扉が閉まる。

 瞬間的に訪れる静寂。

 突然、窓の外で音がし、月夜はそちらを見る。

 猫が室内を覗いていた。爪で硝子を引っ掻いている。

 フィルだった。

 月夜は立ち上がり、彼の傍に行く。窓を開け、ほんの僅かな窓枠に座っている彼を抱き上げた。

「どうやって、ここまで来たの?」答えは分かっていたが、月夜はなんとなく尋ねた。

「壁伝いに、上ってきた」フィルは答える。

「何か用事?」

「いや。昨日帰ってこなかったから」

「私が帰らないと、不満?」

「多少」

 予想外の返答だったから、月夜は少し驚いた。

「今日は、帰るよ」

「そうしてくれるとありがたい」

「何が、ありがたいの?」

「色々とな」

「色々、とは?」

「具体的な候補はいくつかあるが、どれも、わざわざ挙げるほどの具体性は持っていない」

 月夜はフィルを抱き締める。

「月夜、何か、妙なことは起きていないか?」

 彼の頬に寄せていた顔を離して、月夜はフィルの瞳を見つめる。

「妙なこと?」

「何も気にならないのなら、別にいいが」

「特に、気になることは、ない」

「じゃあ、もう解決しているのか?」

「私の中では、たぶん」

「たぶん?」

「おそらく、という意味」

「そんなことは分かっている」フィルは笑う。「これ以上は、もう、いいのか?」

「何が?」

「思考するだけで、行動しなくて、いいのか?」

「私がすることは、何もない」

「それならいいが」

「そろそろ、帰って」月夜は言った。「彼が戻ってくる」

「まるで、そいつに、俺を会わせたくないみたいだな」

「そんなことはないけど、紹介するのは、疲れるから、したくない」

「了解だ」そう言って、フィルは月夜の腕から抜け出し、また窓枠に移った。「俺は、一足先に帰っているよ」

「うん、またね」

「帰りは、気をつけてな」

「何に?」

「幽霊とか」

 壁に沿って設置された排水管や、窓の上部に付いている廂を器用に伝って、フィルは闇の中に消えていった。彼の黄色に輝く瞳が、暫くの間月夜には見えていた。

 背後で扉が開き、囀が姿を現す。

「おまたせ」彼は言った。「なんか、手間取っちゃった」

 月夜は振り返る。

「特に、待ってはいない」

 囀は自分の席に座り直し、椅子だけ方向転換させて、月夜をじっと見つめる。彼はにこにこ笑っていた。何がそんなに愉快なのか分からないが、笑顔は、泣き顔よりもプラスの影響を与えるから、月夜は良いと思った。

「どうか、したの?」

 それでも、囀があまりにも長い間そうしているから、月夜は尋ねた。

「月夜、今、誰かと会っていたでしょう?」囀は言った。「僕にはね、分かるんだ」

「どうして?」

「どうしてかは説明できないけど、まあ、一種の勘ってやつかな」

「いや、えっと、どうして、そんなことを訊くの?」

「なんか、気になったから」

「私が、ほかの誰かと会っていたのが?」

「そう」

「なぜ、気になるの?」

「本当に、なんとなくだよ」囀は説明する。「僕は、君と親しい間柄だから、君にほかに親しい誰かがいると、嫉妬するんだ」

「嫉妬、しているの?」

「僕が、したくてしているんじゃないよ。ただね、そういう機能が、僕の心に備わっている。たぶん、君を独占して、自分の利益を高めようとする、生物的な本能だろうね」

「うん、私も、そう思う」

「だから、本心じゃない」

「だから、という接続詞の使い方が、間違えている気がする」

「でも、君だって、そのくらいは、自分に許容するでしょう?」

 月夜は考える。

「うん、たしかに」

「なら、僕のときも許してよ」

「分かった、許す」

 囀は笑った(彼は、この会話の間、ずっと笑っていたが)。

 囀が退屈だと言い始めたので、彼の提案で、夜の学校を探検することになった。探検といっても、知らない場所はほとんどないから、シチュエーションを楽しむだけになる。教室を出て廊下を進み、途中で美術室の前にやって来た。

「今、開いているかな」囀が言った。

 月夜は扉に近づき、それをスライドしようとする。

「開いていない」

「まあ、そうか」

「何か、見たいものがあるの?」

「いや、ないけど……」囀は話す。「うん、僕は、この教室が気に入った」

「どういうところが?」

「なんか、手入れされていないところとか」

「教室が、汚れている、ということ?」

「そう」

「でも、綺麗な方だとは思うよ」

「もちろんそうだけど、それでも、何か、こう……、汚れていると思わせるものが、この教室にはあるじゃない? それがいいなっていうか……。汚れていると、綺麗の、中間が垣間見れるような、そんな感じがする」

 美術の授業は、一年生では芸術分野の一つとして選べるが、二年生以降は、そちらの方面の大学を目指す者以外は、履修することはない。だから、美術室に入るには、美術の授業を履修するか、美術部に所属するか、あるいは、先生がいる時間に訪れて、入らせてもうらしかない。

 校舎を一通り歩き終えて、二人は中庭に出た。

 外は寒い。月夜は、相変わらずコートを持ってきていなかった。それとは対象的に、囀は毎日コートを着ている。彼は、色々なものに過剰に反応する。過剰というのは、月夜に比べればという意味で、平均との比較は分からない。

 中庭の中心にある噴水は、今は水を流していなかった。生徒がいない時間帯は、電力の供給がストップされるようだ。

 月夜は噴水の縁に腰かける。

 囀は、口笛を吹きながら、その上を歩き始めた。

「ねえ、月夜はさ、誰かと一緒に生活したいとか、思ったことって、ないの?」

 両手を広げてバランスをとりながら、囀が唐突に質問した。

「私には、一緒に生活している人が、いる」

「え?」囀は声を上げた。「本当に?」

 彼を見て、月夜は頷く。

「へえ、そう……。……てっきり、一人暮らしかと思っていたよ」

「厳密には、毎日一緒にいるわけではないから、一人暮らしを維持している、ともいえなくはない」

「なるほど。恒常的ではなく、定期的な関係なんだね」

「うん、たぶん」

「たぶんって?」

「相手が、どう思っているのかは、分からない」

 囀は微笑む。

「囀は、お母さんと暮らしているのは、楽しい?」

「うん、まあね」

「お父さんは、どうしたの?」

「ああ、彼は、死んだ」囀は言った。「仕事中に、事故でね」

 特に気にしているようではなかったから、月夜は、自分のその質問について、謝らなかった。

「母親と暮らしているから、毎日が楽しい、というわけではないよ」歩きながら囀は話す。「僕は、誰といても、どこにいても、大抵楽しい。もちろん、今、こうして、月夜と一緒にいるのもね」

 囀は彼女を見る。

 月夜は僅かに首を傾げた。

「でもね、ときどき、楽しさって何だろうって、そんな馬鹿げたことを考えることがあるんだ。自分さえ楽しければいいっていうのが、僕の基本的なスタンスだけど、でも、それって、はっきりいって、寂しいよね。僕が楽しい思いをできるのは、楽しさを齎してくれる存在があるからで、それは、本とか、音楽とか、映画とか、そういうものだけど、そういうものを作ってくれる人が、この世界には存在する。だから、僕はそれを媒介として、楽しいという感情を抱くことができるんだ。……これって、僕が一人では生きていけないことの、証明になっているんじゃないかな、と思う」

 月夜は黙って頷く。

「……結局のところ、僕には、傍にいてくれる誰かが必要なんだ。自分でも意識しない内に、いつも、そんな誰かを探している。そんなときに会ったのが、月夜だった。僕はね、君に会って、少し世界が変わった気がしたよ」

「世界は、変わらない」月夜は呟く。

「その通り。……でも、君は、僕の二面性を受け入れてくれた。しかも、あんなにスムーズに……。何の手続きもいらなかった。認めてくれって、頼んだ覚えもないのに、君は僕を承認してくれた。それが、嬉しかったんだよ、僕は……。僕は、自分のそんな性質を、他人に認めてほしいとは思っていなかったけど、実際に認めてもらえると、これが、やっぱり、嬉しいんだ。だから……。もっと認めてほしくて、僕は、今も、君の傍にいるんだと思う」

 囀は立ち止まり、月夜の左斜め後ろから彼女に尋ねる。

「君は、これからも、僕を認めてくれる?」

 月夜は首を後ろに向け、囀を見つめる。

「それは、私と今後も関係を維持していくための、契約?」

 囀は口もとを持ち上げる。

「どう捉えるかは、月夜次第だよ」

 月夜は頷く。

「私は、君を、認める」彼女は言った。「でも、認めようと思って認めたわけじゃないことは、理解してほしい」

「うん、それは、もちろん、分かっている」

「そして、すべてを認めるわけではないことも、覚えておいてくれると、助かる」

「うん、それも、その通りだよ」

 囀は噴水の縁から飛び降り、月夜の正面に立った。

「じゃあ、今後も僕に構ってくれるんだね?」

 月夜は静かに頷く。

「どうもありがとう」

 風が吹いた。地面に散らばっていた枯れ葉が、音を立てて空気中に舞い上がる。

 囀は月夜の隣に腰かけた。

 二人とも、何も話さない。

 話すことは何もなかった。

 話さなくても、意思の疎通はできる。

 それでも、意思の疎通はできると、思い込んでいるだけか?

 突然、背後の噴水が水を吹き始めた。

 月夜は後ろを振り返る。囀も同じ動作をした。

 囀に見つめられたから、月夜は黙って首を傾げる。

 相手には、どのような意味で伝わっただろう?

 どうして、噴水が動き出したのか、という疑問の意味か。

 それとも、何か言いたいことがあるのか、という問いかけの意味か。

 はたまた、何も意味はないが、とりあえず首を動かした、という相槌の意味か。

 それ以外にも、候補は沢山ある。

 囀は、どれを選ぶだろう?

 噴水から流れ出した水は、その下にある溜め池へと至り、循環して、再び吹き出し口から流れてくる。

 その繰り返し。

 同じ川には二度と入れないというが、その水は、やがて海に至り、蒸発して雲になれば、再び雨として降ってきて、川に流れるのだから、入れないわけではない。

 万物は流転する。

 もし、それが成り立つのなら、万物が流転することも、流転しなくてはならない。

 万物とはそういう意味だ。

 では、確かなものはどこにも存在しないのか?

 そうかもしれない。

 囀がそれを証明しているような気がする。

 自分がそれを証明しているような気もする。

 そうか……。

 自分と囀は、似ているのだ、と月夜は気づく。

 そんな予感は、ずっと前からしていた。

 見てみぬふりをしていたのだ。

 どうしてだろう?

 囀と一緒なら、嬉しいはずなのに……。

 何らかの抵抗が存在すると感じる。

 それは、どんな種類の抵抗か?

 拒否か?

 それとも、対立か?

 自分は、囀を認めると、たった今そう言ったばかりではなかったか?

 月夜の自問は終わらない。

 流転して、新たな問いを形成する。

「月夜」突然、囀に名前を呼ばれた。

 月夜は彼を見る。

「何?」

「どうかしたの?」

「何が?」

「何か、思い詰めている?」

 月夜は首を振る。

「いや」

「そう?」彼は言った。「何もないようには、見えないけど」

 沈黙。

 ここで沈黙が訪れるのは、予想していた。

 三秒待つ。

 月夜は口を開く。

「ねえ、囀」彼女は尋ねた。「君は、本が好きなの?」

 唐突な質問で驚いたのか、囀は少し目を見開いた。

「本? うん、そう……。好きといえば、好きだよ」

「どんなところが?」

「え?」

「その日の気分で、読みたい本は、変わる?」

「うん、まあ、そうだね」

「それだけ?」

「それだけって?」

「何よりも、本が好きだ、と感じることは、ある?」

 囀はじっと月夜を見る。

「あるよ、たまに」

「それは、他人に対する、配慮よりも?」

「……どういう意味?」

「特に、深い意味はないよ。この場面で、最も相応しい二つを並列させて、どちらが好きか、尋ねただけ」

 囀は顔を逸らす。

 月夜はじっと彼の横顔を見つめた。

 しかし、月夜の瞳は、今は何も映していない。

 冷徹さが、そのまま温度になって、彼女の眼球をコーティングしている。

 捉え方によれば、それは残酷さとも認識できる。

 囀はどう受け取るだろう?

 彼はもう一度月夜の方を向き、軽く首を傾けた。

「質問の意図が、分からないよ」

「意図? 意味ではなく、意図?」

 囀は頷く。

「それは、分かっているはず」月夜は言った。「分かっていることを、尋ねるのは、どうして?」

「君と、コミュニケーションをとりたいからだよ」

「コミュニケーションは、とれている」

「じゃあ、優しい言葉をかけてもらいたいんだ」

 月夜は黙った。

 彼女が黙れば、囀も黙る。

 一直線に視線が交差し、最初こそ摩擦を生じたものの、徐々に融合して、最後には一つの結合を生み出した。

 月夜は、囀の意思を、正確に汲み取った。

 正確といえる根拠はどこにもないのに、それは確信として、彼女の中に落ちてきた。

 きっと、囀も同じように感じたはずだ。

 二人は、今、接続されている。

 月夜がその入り口を設けた。

 キーも用意した。

 囀はそれを使い、彼女の中を覗いた。

「私は、信じているよ、囀」小さな声で、月夜は言った。「君が何をしても、それが君のためになるのなら、何も疑わない」

 囀は話さない。

 十五秒経過したとき、彼はゆっくりと頷いた。

 二人揃って裏門から学校を出た。今日は電車には乗らず、歩いて家に帰ることにした。月夜の家は、ここからそれほど遠くない。ただし、普通なら電車に乗る選択をするわけで、電車に乗らなければ、近いと感じられないくらいには、徒歩では時間がかかる。囀の家は月夜の最寄り駅よりは手前にあるから、その分時間はかからない。

 時折自動車が二人を追い越していく程度で、夜の街は静かだった。線路に沿って道を進む。途中で歩道橋を渡り、上から線路を見下ろした。線路を構成する枕木が、一定の間隔でずっと向こうまで並んでいる。後ろには、ショッピングモールの屋上が見えた。もう閉まっている時間だが、明かりは点いている。すぐ傍に中規模のマンションがあり、ホテルのようにライトアップされていた。

 階段を降りて、歩道を歩く。道は真っ直ぐ続いており、終わりは見えない。

 囀はイヤフォンを取り出し、音楽を聴き始めた。塞がっているのは片耳だけなので、月夜との会話はできる。鼻歌を歌いながら、囀はスキップで前に進んだ。月夜の歩調に合わせようとするから、自然と高く跳ねることになる。靴の微妙な接地音が続いた。

 自動販売機を見つけたところで、囀は喉が渇いたと言い出して、ミルクティーを買った。五百ミリリットルをすべてその場で飲み干し、彼はペットボトルを塵箱に捨てる。月夜は何も買わなかった。喉は渇いていなかったし、たとえ飲んだとしても、明日の朝には体外に排出されていると思うと、積極的な気持ちになれなかった。

 四十五分ほど歩き続けたタイミングで、囀とは別れた。

 彼は、細い道を曲がり、家がある方へ歩いていく。

 彼の背中が完全に見えなくなってから、月夜は再び歩き始め、自宅へと向かった。

 歩き始めて一時間くらい経った頃、月夜は玄関の前に立っていた。

 鍵を開けて、室内に入る。 

 手を洗って、リビングに移動すると、フィルがソファで丸くなっていた。

 硝子戸を開けて、部屋の空気を入れ替える。時刻は午前一時半。

 月夜がソファに腰を下ろすと、クッションの反動を察知して、フィルが目を開けた。

「おかえり。遅かったな」低い声で、彼は言った。

 月夜はブレザーを脱ぐ。

「そうかな?」

「いや、遅くはないか。最近、帰るのが早かったから、それに比べると、今日は少し時間がかかった、というだけだな」

 月夜は頷く。

 例によって、リュックからノートを取り出し、今日の分の日記を書く。いつもは学校の空き時間を使って書いているが、今日はその時間がなかった。起きた事柄を客観的に記し、所々で、自分の考えを付け加えておく。以前までは、事実をそのまま書くだけだったが、フィルや囀と話すことで、自分がどう思ったのか、感興を綴っておくのも悪くないと思うようになり、感想が加わるようになった。

 書き終えてから、中身を確認し、ペンを筆箱に仕舞う。

 浴室に移動し、風呂に入った。今日はフィルは一緒ではない。彼は、今日は入らないと言った。

 一人で湯船に浸かる。

 自然と息が漏れた。

 囀との付き合いは、順調でも、不調でもなかった。彼に出会ってから、色々なことが変化したが、それらは、すべて、ターニングポイントになるほどのものではなかった。知り合いが一人増えて、賑やかになった、という程度でしかない。けれど、そうした小さな変化が、未来を変えているのは、確かだ。彼に出会わなければ、今のこの瞬間はなかったし、こんなことを考えることもありえなかった。その原因には、囀という存在がある。

 自分は、きっと、今後も囀との関係を続けるだろう、と月夜は考える。理由を考えれば、彼が好きだからだ、という単純な答えになる。それだけで充分だった。ほかに理由は存在しない。好きだからといって、常に一緒にいる必要はないし、嫌いになっても、ずっと離れていなくてはならないわけではない。それぞれの尺度で適切な距離を築き、状況に合わせて、適宜調節していけば良い。今のところは、月夜は囀が好きだが、その感情は、時間が過ぎれば変わるかもしれない。変わっても、落ち込む必要はない。その変化が、また未来を変えるのだ。訪れる未来を、そのまま受け入れれば良い。

 でも……。

 囀との関係は、もう少しで本当に終わるかもしれない、という予感が、月夜にはあった。

 なぜか?

 彼と出会ってから、まだ少ししか経っていないが、その時間は濃密で、思い出を形成するのに充分すぎるくらいだった。

 だから、もう終わりでも良いのか?

 充分だから、終わり?

 それは違うだろう。

 ただ……。

 彼と出会った瞬間から、こうなることは分かっていたような気がする。

 それは、ずっと、認識していた。

 これに関しては、見てみぬふりはしなかった。

 そんなことを考えることもなかった。

 いつかは終わる、そのいつかが、近づいているだけだ。

 けれど……。

 月夜は、やはり、それが少し悲しかった。

 お湯に浸かりすぎて、若干逆上せてしまった。脱衣所に出たとき、足もとがふらついて、身体機能が正常に作動していないのが分かった。パジャマに着替え、湯冷めしないようにパーカーを羽織る。逆上せと、湯冷めの、二つに同時に対処しなくてはならないのが、大変だった。

 身体が熱かったから、ウッドデッキに出た。フィルもついてくる。月夜は彼を抱きかかえ、柵に寄りかかって夜の住宅街を眺めた。

「何かあったら、俺に相談するといい」フィルが言った。

「何か?」

「悩み事の類」

「うん……」

「解決策は教えられなくても、心を浮つかせることくらいは、できる」

「フィルは、今日は何をしていたの?」

「散歩」

「どこを?」

 月夜が尋ねると、彼は近所の公園だと答えた。

「誰か、友達はできた?」

「できないね、そう簡単には」フィルは話す。「そもそも、俺が、それを望んでいない」

「友達は、いらない?」

「いるかもしれないが、今はいらない」

「どうして?」

「理由はない」

「今日は、少し寒い」

「逆上せるなんて、お前らしくないな。考え事でもしていたのか?」

「うん」

「余程気になることだったんだろうな」

「そうかもしれない」

「素直に認められるのは、お前の美点だ」

「それは、前にも言われた気がする」

「俺に?」

「そう」

 フィルは黙る。

 すぐ傍にある庭には、今は何も生えていない。雑草は、枯れて、根だけを土の中に残している。

 街灯がないから、星空がよく見えた。地学の授業を受けているが、どれがどんな星か、月夜には分からなかった。輝いているのは恒星だから、太陽と同じ性質を持った星が、これだけ存在することになる。世界は広い、と月夜は純粋に思う。世界とは、地球のことではない。それを超越した、空間そもののことだが、空間に果てがあるとしたら、それはどんなものだろう、と月夜は考える。

 一般的に、空間は、周りを物理的な何かで区切ることで生じる。部屋という空間は、壁と天井、そして床で区切ることによって、初めてその場に存在するようになる。しかし、少し抽象度を上げて、空間そのものを捉えようとすると、六つの面を囲む物質の有無に関わらず、その空間は、その場所に存在する、と認識できる。宇宙というのは、後者の性質を持ったものだと考えられるが、その場合、仮に宇宙の外に出たら、その先はどうなっているのか、という問いが生まれる。また、宇宙の外など存在せず、ずっと宇宙は続いているとする場合、今度は無限という概念について考えなくてはならなくなる。どちらとも、容易に解決できる問題ではない。

「まさか、そんなことを、風呂の中で考えていたんじゃないだろうな?」

 月夜が黙って考えていると、フィルが質問してきた。

「どうして、私が考えていることが分かるの?」

「俺は、お前の考えていることが何か、少しでも口にしたか?」

 月夜はフィルをじっと見つめる。

 彼は、口もとを上げて、意地悪そうな顔をした。

 しかし、それが愛おしい。

 月夜は、フィルを抱き締める力を強める。

「少し、苦しい」フィルが言った。

「少し?」

「ほどほどに、苦しい」

「ほどほど」月夜は彼の台詞を繰り返す。

「明日も学校だな、月夜」彼は話した。「椅子に座って、人の話を聞いているだけでいい。こんな楽な時間は、人生の中でも、今くらいしかない。大切にすることだ」

「フィルは、学校に通ったことがあるの?」

「いや、ない」

「じゃあ、どうして、そんなことが分かるの?」

「随分と、長生きしたからな……」

「君が述べた理屈は、君自身には、適用できないね」

 溜息を吐くように、フィルは呟いた。

「その通り。俺は、不安定なんだ」
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