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第16話
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タカノリ……。
手帳に書かれた私の字をじっと見つめる。
その字は走り書きじゃなくて願いを込めるかのように、一文字ずつ丁寧に書かれている。
ねえ、タカノリって誰?
あなた結婚してるでしょ?
なのに、どうして手帳にこんなことを書き綴っているの?
タカノリのためにピルを飲んでいたの?
自分の中にいるはずの谷崎つぐみさんに問いかけるけど、答えは返ってこない。
元カレ?
好きだった人の名前?
自分の中にある恋愛の記憶をたどってみても、そんな名前の人は存在しない。ということは三年間の間に出会った人だ。
動揺しながらも、枕元に置いてある携帯電話をたぐり寄せる。
三年後に来てから、必要以上に携帯電話をチェックすることはなかった。
同じ人間だとしても、三年前の私と三年後の私は別人。だから、安易に見るものじゃないと思っていた。だけど、知らない男性の名前が出てきた以上、そんな悠長なことは言っていられない。
妙な緊張で震える手を落ち着かせながら、メールフォルダを開く。まずは受信メール……何もない。残っていたメールは南ちゃんや谷崎さんからの業務連絡的なメールだけ。送信フォルダに残っているメールも味気ない日々の連絡的なものだけ……。ゴミ箱も空。
体の力が一気に抜ける。
手がかりがないことに焦る気持ちと、事実を示すメールが見当たらなくてほっとした気持ちが混ざりあって、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
とりあえず、落ち着こう。
深呼吸を何度かして、頭の中に空気を送っていく。
……そうだ、電話帳。
何回か深呼吸を繰り返しているうちに、自分の癖を思い出した。私はメールをこまめに消すタイプだった。メールがダメなら……電話帳だ。電話帳の管理はズボラだったはずだから、彼の情報が残っているかもしれない。登録してある連絡先を一件ずつ確認してみよう。
ダメだ。何も残っていない。
これでもかって言うくらい、携帯電話を細かくチェックしたけど、タカノリという人に関する情報は見つけられなかった。
会社名や女の子の名前で登録しているかもと思ったけど、私の知らない連絡先は何一つなかった。
メールもなければ、電話帳にも登録されていない──ということは何もない。
そう考えてるのが自然なのかもしれない。でも、きれいなくらい何も出てこないのが、逆に不自然な気がして落ち着かない。
谷崎つぐみさんは、何を祝福するつもりだったんだろう。
文学賞とかマンガ大賞的なもの?
一瞬、そんなバカな考えが頭をよぎった。でも、私が読むマンガや本の作家にタカノリなんて名前の人はいない。たとえそうだったとしても、こんな意味深な書き方はしない。
だとしたら……。
考えられるのは結婚。ちょうど六月でジューンブライドだし。
男の人がそれに拘るとは思えないけど、結婚相手の女性が拘る人だったあり得ることだ。
要するに……タカノリが六月に結婚するから祝福しようねってこと? だけど、わざわざ手帳に書くようなこと? しかも、想いを込めましたって感じで。
純粋に祝福するなら、自分の心の中でひっそりとやればいい。わざわざ書くってことは、言葉を書き残さないと自分の気持ちを整理できない──つまり、未練があったってことだ。
それは相手をただ見つめていただけの好きという単純な話じゃなくて、想い合っていたけど、別れることを選んだという複雑な話のような気がする。
記憶がないなりに色々考えた。
けれど、答えが出せない。ただ時間だけが過ぎていく。携帯電話に表示されている時刻は、普段の私が寝る時間をとっくに過ぎている。
とりあえず、眠ろう。これ以上起きていたら、仕事に支障をきたしてしまう。
布団に入り瞳を閉じる。
いつもは視界が真っ暗になると、すぐに眠りに落ちる。でも、今日はその気配がない。それどころか……時間が経つほどに頭が冴えてきて、タカノリという人に思考を巡らせようとする。
顔も名字も名前の漢字すらわからない相手なんて気にするだけ無駄って思うけど、手帳に書かれたタカノリという四文字が頭の中から離れない。
一体、何があったのだろう。
表に出ないように、痕跡が残らないように……必死にひた隠しきた恋。
そんな情熱が私の中にあるとは思えない。確かに私は肉食系だ。でもそれはあくまで食に関しての話で、恋愛ごとに関しては草食系なはずだ。好きと言えずに眺めているだけの恋を二度も経験したくらいだし。
結婚しているくせに他の男性と恋愛。
これって情熱も必要だけど、旦那さんに隠し通すような器用さだって必要だと思う。だけど、私はそんな器用さなど持ち合わせていない。
そんな自分を変えてしまう程の恋だった?
そんなに魅力的な男性なのだろうか?
どうやって出会った?
どうやって恋に落ちていった?
どういう気持ちで別れを選んだ?
タカノリは今、何を想っている?
色々な疑問が頭の中に浮かんでは消えていく。
一体どうすればいいのだろう。
記憶喪失になって結婚に関する記憶がないってだけで十分なのに、不倫していた記憶も無くすって。……昼ドラみたいだ。
「記憶喪失で三年間の記憶がないんですけど、実はその間に不倫してたみたいです」なんて誰にも言えない。言ったところで誰も幸せになれない。
今の私にできることは、願うことだけだ。
──タカノリが結婚する相手と幸せに暮らしていますように。
──谷崎つぐみさんのことなんか忘れて、彼女を大切にしてくれますように。
念じるように心の中で何度も唱えた。
「朝か……」
いつもより頭がぼうっとしているけど、瞼は開く。
寝不足だろうが二日酔いだろうが、目覚ましが鳴り出す前に起きるというプログラムは、三年後でもきちんと働いているらしい。むしろ、精度が増している気もする。どういう構造してるんだか? 呆れてしまうけど、おかしい。
働こう……。
どんなに悩んでようが、日々の生活は容赦なくやって来るのだから。
とは言うものの、頭の中はタカノリのことでいっぱい。何も覚えていないのにね。
……やめよう。考えるってことは、私の中に隙がある証拠。私はそんなに暇じゃない。家事に仕事、やるべきことはたくさんある。
バチッ──自分の顔を両手で思い切り叩いて、朝の身支度を始めた。
「大丈夫か?」
「え?」
「いつもより元気がないように見える。もしかして……昨日眠れなかったのか?」
そう言って、谷崎さんは私の顔を心配そうに見ている。まだ寝起きで辛いはずなのに……。
気づかれないように、いつも通りにしていたつもりだったのにな。
「いえ……大丈夫です」
「そっか……。でも、何か困ったことがあったら、一人で抱え込まないで相談しろよ。俺でも……俺に話したくないことなら、南でもいいし」
優しい人。……でも、その優しさが今は痛い。
優しくされる資格なんてないのに……。
絶対に話せない。
私の知らない三年間の間に……あなたと結婚していながら、他の男性と関係があったかもなんて。
谷崎さんに対する罪悪感と、こんないい人を裏切っていた谷崎つぐみさんへの怒りがごちゃまぜだ。でも、こんな感情は谷崎さんに見せられない。それに悲しませたくない。自分の感情を覆い隠すように、無理やり口角を上げて笑顔を作り、明るい声で答えた。
「ありがとうございます」
手帳に書かれた私の字をじっと見つめる。
その字は走り書きじゃなくて願いを込めるかのように、一文字ずつ丁寧に書かれている。
ねえ、タカノリって誰?
あなた結婚してるでしょ?
なのに、どうして手帳にこんなことを書き綴っているの?
タカノリのためにピルを飲んでいたの?
自分の中にいるはずの谷崎つぐみさんに問いかけるけど、答えは返ってこない。
元カレ?
好きだった人の名前?
自分の中にある恋愛の記憶をたどってみても、そんな名前の人は存在しない。ということは三年間の間に出会った人だ。
動揺しながらも、枕元に置いてある携帯電話をたぐり寄せる。
三年後に来てから、必要以上に携帯電話をチェックすることはなかった。
同じ人間だとしても、三年前の私と三年後の私は別人。だから、安易に見るものじゃないと思っていた。だけど、知らない男性の名前が出てきた以上、そんな悠長なことは言っていられない。
妙な緊張で震える手を落ち着かせながら、メールフォルダを開く。まずは受信メール……何もない。残っていたメールは南ちゃんや谷崎さんからの業務連絡的なメールだけ。送信フォルダに残っているメールも味気ない日々の連絡的なものだけ……。ゴミ箱も空。
体の力が一気に抜ける。
手がかりがないことに焦る気持ちと、事実を示すメールが見当たらなくてほっとした気持ちが混ざりあって、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
とりあえず、落ち着こう。
深呼吸を何度かして、頭の中に空気を送っていく。
……そうだ、電話帳。
何回か深呼吸を繰り返しているうちに、自分の癖を思い出した。私はメールをこまめに消すタイプだった。メールがダメなら……電話帳だ。電話帳の管理はズボラだったはずだから、彼の情報が残っているかもしれない。登録してある連絡先を一件ずつ確認してみよう。
ダメだ。何も残っていない。
これでもかって言うくらい、携帯電話を細かくチェックしたけど、タカノリという人に関する情報は見つけられなかった。
会社名や女の子の名前で登録しているかもと思ったけど、私の知らない連絡先は何一つなかった。
メールもなければ、電話帳にも登録されていない──ということは何もない。
そう考えてるのが自然なのかもしれない。でも、きれいなくらい何も出てこないのが、逆に不自然な気がして落ち着かない。
谷崎つぐみさんは、何を祝福するつもりだったんだろう。
文学賞とかマンガ大賞的なもの?
一瞬、そんなバカな考えが頭をよぎった。でも、私が読むマンガや本の作家にタカノリなんて名前の人はいない。たとえそうだったとしても、こんな意味深な書き方はしない。
だとしたら……。
考えられるのは結婚。ちょうど六月でジューンブライドだし。
男の人がそれに拘るとは思えないけど、結婚相手の女性が拘る人だったあり得ることだ。
要するに……タカノリが六月に結婚するから祝福しようねってこと? だけど、わざわざ手帳に書くようなこと? しかも、想いを込めましたって感じで。
純粋に祝福するなら、自分の心の中でひっそりとやればいい。わざわざ書くってことは、言葉を書き残さないと自分の気持ちを整理できない──つまり、未練があったってことだ。
それは相手をただ見つめていただけの好きという単純な話じゃなくて、想い合っていたけど、別れることを選んだという複雑な話のような気がする。
記憶がないなりに色々考えた。
けれど、答えが出せない。ただ時間だけが過ぎていく。携帯電話に表示されている時刻は、普段の私が寝る時間をとっくに過ぎている。
とりあえず、眠ろう。これ以上起きていたら、仕事に支障をきたしてしまう。
布団に入り瞳を閉じる。
いつもは視界が真っ暗になると、すぐに眠りに落ちる。でも、今日はその気配がない。それどころか……時間が経つほどに頭が冴えてきて、タカノリという人に思考を巡らせようとする。
顔も名字も名前の漢字すらわからない相手なんて気にするだけ無駄って思うけど、手帳に書かれたタカノリという四文字が頭の中から離れない。
一体、何があったのだろう。
表に出ないように、痕跡が残らないように……必死にひた隠しきた恋。
そんな情熱が私の中にあるとは思えない。確かに私は肉食系だ。でもそれはあくまで食に関しての話で、恋愛ごとに関しては草食系なはずだ。好きと言えずに眺めているだけの恋を二度も経験したくらいだし。
結婚しているくせに他の男性と恋愛。
これって情熱も必要だけど、旦那さんに隠し通すような器用さだって必要だと思う。だけど、私はそんな器用さなど持ち合わせていない。
そんな自分を変えてしまう程の恋だった?
そんなに魅力的な男性なのだろうか?
どうやって出会った?
どうやって恋に落ちていった?
どういう気持ちで別れを選んだ?
タカノリは今、何を想っている?
色々な疑問が頭の中に浮かんでは消えていく。
一体どうすればいいのだろう。
記憶喪失になって結婚に関する記憶がないってだけで十分なのに、不倫していた記憶も無くすって。……昼ドラみたいだ。
「記憶喪失で三年間の記憶がないんですけど、実はその間に不倫してたみたいです」なんて誰にも言えない。言ったところで誰も幸せになれない。
今の私にできることは、願うことだけだ。
──タカノリが結婚する相手と幸せに暮らしていますように。
──谷崎つぐみさんのことなんか忘れて、彼女を大切にしてくれますように。
念じるように心の中で何度も唱えた。
「朝か……」
いつもより頭がぼうっとしているけど、瞼は開く。
寝不足だろうが二日酔いだろうが、目覚ましが鳴り出す前に起きるというプログラムは、三年後でもきちんと働いているらしい。むしろ、精度が増している気もする。どういう構造してるんだか? 呆れてしまうけど、おかしい。
働こう……。
どんなに悩んでようが、日々の生活は容赦なくやって来るのだから。
とは言うものの、頭の中はタカノリのことでいっぱい。何も覚えていないのにね。
……やめよう。考えるってことは、私の中に隙がある証拠。私はそんなに暇じゃない。家事に仕事、やるべきことはたくさんある。
バチッ──自分の顔を両手で思い切り叩いて、朝の身支度を始めた。
「大丈夫か?」
「え?」
「いつもより元気がないように見える。もしかして……昨日眠れなかったのか?」
そう言って、谷崎さんは私の顔を心配そうに見ている。まだ寝起きで辛いはずなのに……。
気づかれないように、いつも通りにしていたつもりだったのにな。
「いえ……大丈夫です」
「そっか……。でも、何か困ったことがあったら、一人で抱え込まないで相談しろよ。俺でも……俺に話したくないことなら、南でもいいし」
優しい人。……でも、その優しさが今は痛い。
優しくされる資格なんてないのに……。
絶対に話せない。
私の知らない三年間の間に……あなたと結婚していながら、他の男性と関係があったかもなんて。
谷崎さんに対する罪悪感と、こんないい人を裏切っていた谷崎つぐみさんへの怒りがごちゃまぜだ。でも、こんな感情は谷崎さんに見せられない。それに悲しませたくない。自分の感情を覆い隠すように、無理やり口角を上げて笑顔を作り、明るい声で答えた。
「ありがとうございます」
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