迷子のネムリヒメ

燕尾

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第28話

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 低くて艶のある声。

「柏原だよな?」

 その声に私の体はビクっと反応し、カバンを落としてしまった。
 その声の持ち主は驚かせて悪いと言いながら、私が床にぶち撒けてしまったものを拾ってくれている。手渡されたものをカバンにしまうこともせずに、私は椎名さんに見入っていた。

 懐かしい。
 会いたくて……会いたくなかった人。
 怖かった。
 椎名さんを目の前にしたら、心が乱れてしまう気がしていたから。
 でも、私の心は波立つことなく穏やかだ。それどころか密かに椎名さんを観察する余裕すらある。
 初めて見る。
 スーツ姿以外の椎名さん。
 ボーダーのカットソーにGパンというシンプルな組み合わせだけど、それが椎名さんの顔立ちの良さを際立たせている。
 それにしても……。
 変わってない。 
 声も、どこか仏頂面なところも……。私が知っている椎名さんそのものだ。
 最後に会ったのは結婚式? 私の中では一年ぶりな感じだけど、実際はどれくらいぶりなんだろう?
 
「椎名さん」

 気まずい。
 何か言わないと……ご無沙汰してますとか? なんか違う気がする。
 じゃあ謝罪? 広岡に暴言吐いたみたいですみません? これもわざとらしい。
 かけるべき言葉が見つからない。記憶がないってこんな時不便。

「結婚したんだな」
「え?」

 どうして椎名さんがそれを知ってるの?
 結婚しましたハガキは送っていないはずだし、結婚指輪だってしてない。……誰かから聞いたとかだったら最悪。

「……悪い。保険証を拾った時に見えてしまった」
 
 私のリアクションを見て、椎名さんが申し訳なさそうにしている。悪いことしちゃったと思いながらも、ほっと胸を撫で下ろす。
 単純な理由でよかった。

「ええ、そうらしいです」
「……?」
 
 しまった……これじゃ他人事みたいだ。椎名さんが怪訝な顔をしているのがわかる。

「何で病院に?」
「……」

 どこから話せばいいんだろう。記憶喪失から? 事故から?
 言い淀んでいたら、困惑していると思われたようだ。

「悪かった。……三年以上も会ってないのに、いきなり声かけて驚かせて。あれこれ聞かれても困るよな。けど、元気そうでよかった。じゃあ」

 椎名さんは寂しげな顔でそう言い、私に背を向け歩き出した。

「ダメっ!」

 気がついたら、椎名さんの腕を掴んでいた。考えるより前に体が勝手に動いていた。このまま別れたら、絶対に後悔する──そんな予感を感じ取ったのかもしれない。

「ごめんなさい」

 椎名さんの腕を離した。椎名さんは、キョトンとした顔で私を見ている。
 何を言えばいいかなんてわからない。
 考えるな。
 何でもいいから口を開こう。
 そう言い聞かせ、思いついた言葉をかけてみる。
 
「えっと……そうじゃなくて。びっくりして。椎名さんこそ、どうしてここに? どこか具合が悪いんですか」
「いや、俺じゃなくて倫香が入院してるんだ」
「広岡が?」
「ああ」

 そうだった。時期的に広岡が入院していても不思議ではないんだ。
 私が通院している病院に広岡が入院していて、旦那さんの椎名さんとその病院で顔を合わせている。
 ……偶然が重なっている? 運命とか奇跡だとは思わないけど、自分の気持ちにケリをつけなさいって事かもしれない。
 勇気を出してみよう。

「あの……少しだけお話できませんか。私がこの病院に来ていた理由ってちょっとややこしくて」

 待合室の椅子でと思っていたけど、私が緊張しているのを察してくれたのか、椎名さんは病院の喫茶室につれて行ってくれた。
 最上階にある喫茶室は、病院とは思えないほど明るくて、おしゃれなカフェに来ているような気分になった。
 椎名さんはアイスコーヒー、私はアイスティーを頼んだ。飲み物が出てくるまで、久々の晴れですね、今日は洗濯日和ですね──と天気の話ばかりしていた。椎名さんはただ相槌を打っていただけど。場が持たない時は、とりあえず天気の話をするのが無難だ。
 数分後、出されたアイスティーを一口飲み、私は病院に来ていた理由を説明した。
 取引先に書類を届けた帰り道に事故に遭遇したこと。
 側にいた妊婦さんを庇って一人、車に跳ねられたこと。
 大した怪我はしなかったけど、記憶喪失になり三年間の記憶がないこと。
 その三年間の間に結婚していたこと。
 私自身、それを覚えている訳じゃないから淡々と話すことができた。
 それなのに、目の前にいる椎名さんの表情が暗い。初めは冷静に反応してくれていたけど、途中から言葉を失っているように見えた。アイスコーヒーには一口も口を付けていなかった。
 重苦しくならないように、さらっと事実を説明したつもりだったけど、失敗したみたいだ。
 二人とも飲み物を飲まなかったから、お互いのグラスは氷が溶けて水滴だらけになっている。

「大変だったな……辛かっただろ」

 そう言って、椎名さんは俯いた。心なしか声が震えているように聞こえる。私が知っている椎名さんじゃない。そんな顔させたくて話したんじゃないのに……。

「いえ、体は元気ですし。記憶喪失って言っても、たかが三年ですし」
「たかがじゃないだろ! 三年もだろ」

 少し怒ったような言い方に涙が出そうになる。もう……相変わらず優しい。三年もって言ってくれたのは椎名さんだけだよ。

「悪い。きつく言い過ぎた。でも、たかがなんて言うな。柏原にとっては大事な時間だっだんだろ」
「はい」
「それにしても、無茶しやがって……。こうして生きているから、いいものの……そうじゃなかったら? 旦那の立場だったら、やりきれないぞ」

 その言葉にハッとした。旦那の立場──谷崎さんの立場を考えもしなかった。
 今にして思えば、病室で見た時の谷崎さんは少し怒った顔をしていた気がする。
 自分の配偶者が他人を庇って、車に跳ねられましたと聞かされたら、どんな気持ちになるんだろう? それで命を落としてしまったら?
 ……やりきれない。
 私はあの人にそんな思いをさせてしまったんだ。

「ごめんなさい」
「それは旦那に言え」

 確かにそうだ。
 これは谷崎さんに言わなきゃいけないことだ。このまま別の道を歩くことになっても、ちゃんと話そう。

「でも、ありがとう」
「え?」
「旦那の立場からすればたまったもんじゃないが、妊婦を妻に持つ夫の立場からは感謝する」
「あっ……」

 そう言えば、広岡は入院しているんだった。出産絡みなんだろうけど聞いて大丈夫かな?

「ごめん」

 広岡のことを聞いていいのか迷っていたら、椎名さんが謝ってきた。椎名さんに謝られることなんてないので戸惑う。

「え?」
「俺達、柏原を傷つけていたんだよな」
「……」
「倫香から聞いた」

 その一言でわかった。椎名さんは知っている。私が隠し続けていた想いを……覚悟を決める時なんだ。

「広岡から聞かれたんですね」
「ああ。いや、違うか。それもあるけど……俺は柏原の気持ちに気づいていた」
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