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谷崎圭の場合
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「ただいま」
玄関のドアを開け、明かりの灯っている方に向かって声をかける。
「おかえりなさい」
台所の方から返ってくる聞き覚えのある声に口元が緩む。
つぐみがここに帰ってきてから一ヶ月。
事故なんて無かったかのような日常を送っている。だが、つぐみの中身は二十七歳の柏原つぐみのままだ。
今のつぐみの中には、俺との出会いから結婚に至るまでの全ての記憶がない。
つぐみが記憶を取り戻すことよりも、今を選んだ時点で覚悟はできていたことだし、自分の選択に後悔もないが、時折寂しく思うこともある。
けれど、つぐみが笑っていてくれればそれでいい。
つぐみは毎日元気に暮らしている。
実家から戻ってきた当初は、色々と気を張っているようだった。俺に素顔を晒すのに抵抗があるのか、風呂上がりにも薄化粧を施し、部屋着代わりのジャージのファスナーはきっちり上まで閉じられていた。
だが、今ではすっかり馴染んだのか、俺の前でも素顔になるし、丈の短いワンピースの部屋着を纏うようにもなった。
狙っていた「兄のような存在でいい感じの同居人」のポジションは得たと思うが、その無防備さに困ってしまうのは俺だけの秘密だ。
三年分の記憶の欠落はあるが、何とか現在の環境にも適応している。復帰した仕事も難なくこなしているようだ。
仕事に慣れない家事にと慌ただしい日々を過ごしているが、毎日よく眠れているようだし食欲も旺盛だ。
やっぱり、早々に仕事復帰させたのは正解だった。
「来週あたりからつぐみを復帰させたいと思うのですが」
「ちょっと待て」
俺の打診に林田さんは案の定、難色を示した。
「俺はお前に休めと言ったはずだ。それがどうしてそうなる?」
「記憶を取り戻すより、現在の生活に適応する方がつぐみには必要だからです」
「それは、記憶を取り戻すのを諦めるって事か?」
嫌なところを突いてくる。この人に下手なごまかしは通用しない。
「そう取って頂いても構いません」
「何故、やってもいないうちから諦める? まだ、わからないだろう?」
「記憶が戻らなかったら?」
「……」
俺の問いに林田さんは黙り込んだ。わからないというより、それを口にするのを躊躇っているという様子だ。そんな林田さんに俺は容赦なく現実を口にする。
「その先に待っているのは、記憶を取り戻せなかったという絶望だ」
「それは……」
「つぐみの記憶が戻る保証があるなら、いくらでも休みを取ってつぐみの側にいて、何だってやりますよ。だけど、そんな保証はどこにも無い。記憶が戻れば、いつかは笑い話にできるかもしれない。だけど、逆だったら? 記憶を失ったという喪失感が残るだけだ。それは、落とせないシミのようにつぐみの人生にずっと付き纏っていく」
「……戻らなかったとしても、そのために費やした時間は無駄にはならないだろう?」
……そう言うと思った。俺もそっち側の人間だったら、そんな慰めの言葉を口にしただろう。だが、俺は知ってしまった。この現実はそんなに生易しいものでは無いと。
「努力は無駄にならないってやつですか? でもね、過去を追っている間にも時間は流れてるんですよ。事故に遭って、つぐみは現在から三年分置いていかれているんです。思い出そうとしている間にも更につぐみと現在の距離は離れていく。思い出せるならまだいい、思い出せなかったら……つぐみはそれも背負うことになる」
「……っ」
「記憶が戻ろうが戻るまいが、つぐみは生きていかないといけない。だったら、追うべきは過去ではなくて、現在だと思いませんか?」
「それは、彼女の中からお前の存在が消えたままでいいってことか?」
「はい」
即答した俺に林田さんが息を呑んだのがわかった。
「思い出して欲しいですよ……俺だって。でも、色々やったけど記憶を取り戻せなかったという失望より、記憶を失ったけどそのハンデを跳ね返して現在に適応できたという自信を俺はつぐみに与えたいんです」
「お前の考えはわかった。だが、今の彼女に仕事をこなせると思うか?」
「思います」
「身内の欲目か?」
即答で答えた俺に林田さんは呆れている。
身内だから甘く見ている──林田さんがそう思うのも無理はない。だが、俺はそんなに甘くない。つぐみの記憶の欠落が十年だったら、仕事復帰させようなどと考えたりはしない。
「上司として見てきた俺の実感です。今のつぐみは三年前のつぐみです。その時のつぐみを技術営業支援課から市場開発課に引き抜いたのは俺ですよ」
「そう言えば……お前、相当ゴネてたんだってな。柏原以外はいらないって」
「ゴネたって人聞きの悪い。単にあの部署で一番仕事ができる奴がつぐみだったから、部長にお願いしたまでですよ」
「……とりあえず、そういうことにしといてやる。だが、何か問題が起きたらどうする?」
「その時は、責任を取って俺も会社を辞めます」
そう言って用意していた退職届を見せたら、林田さんは慌てだした。
「お前の覚悟はわかったから、そんな物騒なものはさっさとしまえ」
そうやって林田さんの同意をもらい、部長や人事にも掛け合った。何か問題が起きたら……と渋られたが、退職届を見せたら何とか納得してもらえた。
退職届を用意したのは、つぐみの仕事復帰に対する俺の覚悟と責任だ。だが、何も起こらないという俺の自信の表れの方が大きい。それは俺自身が二十七歳の柏原つぐみの仕事を知っていたからだ。
上の人間や人事の承諾を取り付けた後、仕事帰りに大路の姫島の家に寄らせてもらった。
現在、つぐみが業務上で一番関わっているのは姫島だ。
つぐみなら大丈夫だと思うが、三年というハンデがある以上、最初は混乱するだろうし、迷惑をかけることもあるだろう。つぐみと姫島はプライベートでも交流があるが、姫島に負荷をかける可能性がある以上、きちんと俺から事情の説明をするべきだと思った。
二人とも最初は納得できないようだった。それはつぐみが戻ってくることで自分に負担がかかるという不満ではなく、つぐみの負担を心配しての不満から来ているようだった。
大路からは、思い出して欲しくないのか? とか、俺にとってのつぐみはそんなに軽い存在なのか? などと畳み掛けるように聞かれ、自分の思いを語る気なんて無かったのに、林田さんにしたような話をする羽目になった。
記憶が戻らなかったらという問いには大路も言葉を失っていた。
無理もない。
俺も林田さんや大路の立場だったら、相手のそばにいてやれって言うだろう。外から見ればそれが最適解だ。だが、俺は当事者になってしまった。
姫島は目を潤ませながらも、「柏原さんが谷崎さんのことを思い出さなくても……谷崎さんの柏原さんへの愛情は変わらないと言えますか?」と鋭いことを聞いてきた。「勿論だ」と答えると涙を拭い、「谷崎さんがそこまでおっしゃるなら、私も私ににできる範囲で柏原さんをフォローします」と言ってくれた。大路もそれに同意してくれた。
そうやって周囲の根回しをしていった。根回しをした全員には、下手な特別扱いでつぐみを甘やかさないで欲しいことと、何か問題が起きたらすぐに言って欲しいと伝えておいた。それとは別に林田さんと姫島には、俺の話はつぐみにしないで欲しいと頼んでおいた。つぐみには余計なことを考えさせたくなかった。
そして、本人への提案。
慣れ親しんだ実家から殆ど面識のない俺のところへ来て、ガチガチに緊張している時に、これからの話だけどと切り出した。
つぐみはしばらくの間、黙っていた。恐らく頭の中で色々考えていたんだろう。大丈夫だよと声をかけようとしたら……。
「武器や防具を剥がされた挙句、魔法も封じられた状態で戦うってこと?」
と、自分の思考を声に出した。ゲームに喩えて考えるところがつぐみらしくて、思わず笑ってしまった。
あの事故の後から、声を出して笑ったことなんてなかった。久しぶりに笑ったせいなのか、落ち着きを取り戻すのに時間がかかってしまった。危うく初対面の時の失敗を繰り返すところだった。
初めての顔合わせで、頬に椅子の跡をつけたつぐみを見て笑ってしまい、それでつぐみの心証を損ね、険悪なムードになってしまった。
その時の失敗が頭を過ぎり、一人で密かに苦笑する。
武器も防具も魔法もない──とつぐみは思っていたみたいだが、俺はそうは思わなかった。
武器や防具は分からないが、魔法は封じられていない。そんな気がした。仮に全部使えなかったとしても、二十七歳のつぐみが持っている経験値で戦えるはずた。上司としてつぐみを見てきた俺が言うのだから大丈夫──と言いたかったが、ほぼ初対面に近い相手に言われても、困惑するだけだと思うので黙っておいた。代わりにマニュアルや業務日誌の存在を示唆すると、思い当たるふしがあるらしく納得していた。それでもつぐみは渋っていた。
記憶喪失の人間を迷惑だと思う人だっている。
つぐみはそれを気にしていた。確かにそう思う人間はいるだろうが、そいつらを黙らせるのも面白いぞと煽り、仕上げに「できないって言うんなら無理に復帰しろとは言わないけど」とつぐみの闘争心を刺激した。
結果は俺の思惑通りになった。
周りから見れば無理強いしているように見えるかもしれない。だが、本当に無理だと思うなら、つぐみに提案なんてしない。それにつぐみは本当に無理なことは引き受けない。
つぐみは負けず嫌いだから、「できないならいいけど」と言うと挑もうとするが、自分の能力では無理だと判断したことにまでは挑んだりしない。できないことを安易に引き受けるのは、無責任だということも知っている。
できるという確信が自分の中にあるから、つぐみは復帰を決めたのだ。
復帰初日は緊張して萎縮していたようだったが、一ヶ月経った今では「記憶喪失? 何それ?」と思わせる仕事ぶりだと林田さんが褒めていた。
林田さんや姫島といった周囲に恵まれているからだとつぐみは言うが、本人の努力も大きい。
記憶喪失を言い訳に使うのは絶対に嫌だ、と自分の業務日誌や過去のメールを徹底的に読み込んだのはもちろんのこと、休みの日になると図書館に通い、新聞の縮刷版や経済雑誌のバックナンバーに目を通し、頭の中に叩き込んでいた。三年間の間には目を覆いたくなるニュースもあったが、紙面から目をそむけることなくじっくりと字を追っていた。
そうやってつぐみは、三年間の記憶の欠落というハンデと周囲の雑音を蹴散らしていった。その背中は「武器や防具が無いなら、無いなりに戦うまでよ!」と語っているようでとても眩しかった。
そして家事も完璧にこなしている──と言いたいところだが、そうはいかない。
掃除や洗濯は実家でもやっていたから苦では無いらしいが、料理だけはダメらしい。
もっとも、こればっかりは仕方がない。記憶を失う前から苦手にしていることなのだから。
言い訳を嫌うつぐみでも料理に関してだけは、私は食べる方専門だからとか才能がないからと逃げ腰だった。
それでもつぐみは、苦手なりに頑張ってくれていた。
姫島に聞いたり子供向けの料理番組を見て学習し、そうやって確実にできる料理を増やしていった。俺の知らない間に、使いもしない料理グッズが増えていたのには困ったが、つぐみなりに苦手なものを楽しもうとしていたのだと思うと微笑ましくもあった。
ここに戻ってきた当初は、ご飯を炊くので精一杯と言う感じでレトルトや惣菜に頼っていたが、ここ最近はつぐみ自身が作るものも増えている。
今日の献立だって、鳥の唐揚げ以外はつぐみが作ったものだ。味噌汁に至っては、出汁をとるところから始めたらしい。
姫島に教わったからやってみたと話す姿は、俺の知っているつぐみと同じだった。どこか緊張していて、それでいてどこか楽しそうな……可愛くて困る。
二人で向かい合って飯を食べる。
結婚してからの俺にとっては、当たり前の光景だったが、それがどんなにありがたくて幸せなことか、あの事故で思い知った。
あの事故は俺らの大切なものを奪って行った。だけど、教わったことがあるのも事実だ。
つぐみが記憶を取り戻さない限り、結婚してからの二人のようには戻れない。
それでも幸せを感じることがある。
今のつぐみはここでの生活に戸惑いながらも、自分にできることを探して、俺のために色々やってくれる。
その気持ちが俺の心を温かくしてくれる。
その姿は俺がよく知っているつぐみと同じだ。
二十七歳の柏原つぐみも三十歳の谷崎つぐみも変わらない。俺が好きになったつぐみそのものだ。
それが嬉しかった。
事故の前と同じようにはいかないが、今のつぐみと俺の関係は悪くない。
二人で並んで座っていたソファーにはクッション一個分の距離ができたし、テレビで結婚式やプロポーズの映像が流れると二人して固まってしまう。いや……それは俺だけか。
俺達の結婚は周囲の影響によるところが多い。だから流れで結婚したとつぐみは思っているらしいが、それは違う。少なくとも俺はつぐみを誰にも渡したくなかったから、結婚を前提に付き合っていた。
プロポーズも結婚が決まる前にはできなかったが、このまま結婚するのが悔しくて、サプライズ的なこともした。ただ、あれは……今思い出すと恥ずかしいので、ぼかしておきたい。つぐみに聞かれたら答えるしかないと思うが……そういう俺の心理が態度に出ているのかもしれない。
それでも二人で買い物に行ったりするし、マッシュルームカットの店員がいるクリーニング店の話や、芸能人のゴシップといった他人から見るとくだらない話をして二人で笑い合うこともある。
そういう小さな日常を大切に積み重ねて、できてしまった距離をちょっとずつ縮めて行けたら……そう考えていた。
前を向いていれば、きっと上手くいく。
その考えは間違っていなかったと思う。
だが、俺は気づかないうちに今に拘って、つぐみの過去を疎かにしてしまっていた。
だから見落としたのだ。
自分の知らない過去に不安を感じていたつぐみのシグナルを。
玄関のドアを開け、明かりの灯っている方に向かって声をかける。
「おかえりなさい」
台所の方から返ってくる聞き覚えのある声に口元が緩む。
つぐみがここに帰ってきてから一ヶ月。
事故なんて無かったかのような日常を送っている。だが、つぐみの中身は二十七歳の柏原つぐみのままだ。
今のつぐみの中には、俺との出会いから結婚に至るまでの全ての記憶がない。
つぐみが記憶を取り戻すことよりも、今を選んだ時点で覚悟はできていたことだし、自分の選択に後悔もないが、時折寂しく思うこともある。
けれど、つぐみが笑っていてくれればそれでいい。
つぐみは毎日元気に暮らしている。
実家から戻ってきた当初は、色々と気を張っているようだった。俺に素顔を晒すのに抵抗があるのか、風呂上がりにも薄化粧を施し、部屋着代わりのジャージのファスナーはきっちり上まで閉じられていた。
だが、今ではすっかり馴染んだのか、俺の前でも素顔になるし、丈の短いワンピースの部屋着を纏うようにもなった。
狙っていた「兄のような存在でいい感じの同居人」のポジションは得たと思うが、その無防備さに困ってしまうのは俺だけの秘密だ。
三年分の記憶の欠落はあるが、何とか現在の環境にも適応している。復帰した仕事も難なくこなしているようだ。
仕事に慣れない家事にと慌ただしい日々を過ごしているが、毎日よく眠れているようだし食欲も旺盛だ。
やっぱり、早々に仕事復帰させたのは正解だった。
「来週あたりからつぐみを復帰させたいと思うのですが」
「ちょっと待て」
俺の打診に林田さんは案の定、難色を示した。
「俺はお前に休めと言ったはずだ。それがどうしてそうなる?」
「記憶を取り戻すより、現在の生活に適応する方がつぐみには必要だからです」
「それは、記憶を取り戻すのを諦めるって事か?」
嫌なところを突いてくる。この人に下手なごまかしは通用しない。
「そう取って頂いても構いません」
「何故、やってもいないうちから諦める? まだ、わからないだろう?」
「記憶が戻らなかったら?」
「……」
俺の問いに林田さんは黙り込んだ。わからないというより、それを口にするのを躊躇っているという様子だ。そんな林田さんに俺は容赦なく現実を口にする。
「その先に待っているのは、記憶を取り戻せなかったという絶望だ」
「それは……」
「つぐみの記憶が戻る保証があるなら、いくらでも休みを取ってつぐみの側にいて、何だってやりますよ。だけど、そんな保証はどこにも無い。記憶が戻れば、いつかは笑い話にできるかもしれない。だけど、逆だったら? 記憶を失ったという喪失感が残るだけだ。それは、落とせないシミのようにつぐみの人生にずっと付き纏っていく」
「……戻らなかったとしても、そのために費やした時間は無駄にはならないだろう?」
……そう言うと思った。俺もそっち側の人間だったら、そんな慰めの言葉を口にしただろう。だが、俺は知ってしまった。この現実はそんなに生易しいものでは無いと。
「努力は無駄にならないってやつですか? でもね、過去を追っている間にも時間は流れてるんですよ。事故に遭って、つぐみは現在から三年分置いていかれているんです。思い出そうとしている間にも更につぐみと現在の距離は離れていく。思い出せるならまだいい、思い出せなかったら……つぐみはそれも背負うことになる」
「……っ」
「記憶が戻ろうが戻るまいが、つぐみは生きていかないといけない。だったら、追うべきは過去ではなくて、現在だと思いませんか?」
「それは、彼女の中からお前の存在が消えたままでいいってことか?」
「はい」
即答した俺に林田さんが息を呑んだのがわかった。
「思い出して欲しいですよ……俺だって。でも、色々やったけど記憶を取り戻せなかったという失望より、記憶を失ったけどそのハンデを跳ね返して現在に適応できたという自信を俺はつぐみに与えたいんです」
「お前の考えはわかった。だが、今の彼女に仕事をこなせると思うか?」
「思います」
「身内の欲目か?」
即答で答えた俺に林田さんは呆れている。
身内だから甘く見ている──林田さんがそう思うのも無理はない。だが、俺はそんなに甘くない。つぐみの記憶の欠落が十年だったら、仕事復帰させようなどと考えたりはしない。
「上司として見てきた俺の実感です。今のつぐみは三年前のつぐみです。その時のつぐみを技術営業支援課から市場開発課に引き抜いたのは俺ですよ」
「そう言えば……お前、相当ゴネてたんだってな。柏原以外はいらないって」
「ゴネたって人聞きの悪い。単にあの部署で一番仕事ができる奴がつぐみだったから、部長にお願いしたまでですよ」
「……とりあえず、そういうことにしといてやる。だが、何か問題が起きたらどうする?」
「その時は、責任を取って俺も会社を辞めます」
そう言って用意していた退職届を見せたら、林田さんは慌てだした。
「お前の覚悟はわかったから、そんな物騒なものはさっさとしまえ」
そうやって林田さんの同意をもらい、部長や人事にも掛け合った。何か問題が起きたら……と渋られたが、退職届を見せたら何とか納得してもらえた。
退職届を用意したのは、つぐみの仕事復帰に対する俺の覚悟と責任だ。だが、何も起こらないという俺の自信の表れの方が大きい。それは俺自身が二十七歳の柏原つぐみの仕事を知っていたからだ。
上の人間や人事の承諾を取り付けた後、仕事帰りに大路の姫島の家に寄らせてもらった。
現在、つぐみが業務上で一番関わっているのは姫島だ。
つぐみなら大丈夫だと思うが、三年というハンデがある以上、最初は混乱するだろうし、迷惑をかけることもあるだろう。つぐみと姫島はプライベートでも交流があるが、姫島に負荷をかける可能性がある以上、きちんと俺から事情の説明をするべきだと思った。
二人とも最初は納得できないようだった。それはつぐみが戻ってくることで自分に負担がかかるという不満ではなく、つぐみの負担を心配しての不満から来ているようだった。
大路からは、思い出して欲しくないのか? とか、俺にとってのつぐみはそんなに軽い存在なのか? などと畳み掛けるように聞かれ、自分の思いを語る気なんて無かったのに、林田さんにしたような話をする羽目になった。
記憶が戻らなかったらという問いには大路も言葉を失っていた。
無理もない。
俺も林田さんや大路の立場だったら、相手のそばにいてやれって言うだろう。外から見ればそれが最適解だ。だが、俺は当事者になってしまった。
姫島は目を潤ませながらも、「柏原さんが谷崎さんのことを思い出さなくても……谷崎さんの柏原さんへの愛情は変わらないと言えますか?」と鋭いことを聞いてきた。「勿論だ」と答えると涙を拭い、「谷崎さんがそこまでおっしゃるなら、私も私ににできる範囲で柏原さんをフォローします」と言ってくれた。大路もそれに同意してくれた。
そうやって周囲の根回しをしていった。根回しをした全員には、下手な特別扱いでつぐみを甘やかさないで欲しいことと、何か問題が起きたらすぐに言って欲しいと伝えておいた。それとは別に林田さんと姫島には、俺の話はつぐみにしないで欲しいと頼んでおいた。つぐみには余計なことを考えさせたくなかった。
そして、本人への提案。
慣れ親しんだ実家から殆ど面識のない俺のところへ来て、ガチガチに緊張している時に、これからの話だけどと切り出した。
つぐみはしばらくの間、黙っていた。恐らく頭の中で色々考えていたんだろう。大丈夫だよと声をかけようとしたら……。
「武器や防具を剥がされた挙句、魔法も封じられた状態で戦うってこと?」
と、自分の思考を声に出した。ゲームに喩えて考えるところがつぐみらしくて、思わず笑ってしまった。
あの事故の後から、声を出して笑ったことなんてなかった。久しぶりに笑ったせいなのか、落ち着きを取り戻すのに時間がかかってしまった。危うく初対面の時の失敗を繰り返すところだった。
初めての顔合わせで、頬に椅子の跡をつけたつぐみを見て笑ってしまい、それでつぐみの心証を損ね、険悪なムードになってしまった。
その時の失敗が頭を過ぎり、一人で密かに苦笑する。
武器も防具も魔法もない──とつぐみは思っていたみたいだが、俺はそうは思わなかった。
武器や防具は分からないが、魔法は封じられていない。そんな気がした。仮に全部使えなかったとしても、二十七歳のつぐみが持っている経験値で戦えるはずた。上司としてつぐみを見てきた俺が言うのだから大丈夫──と言いたかったが、ほぼ初対面に近い相手に言われても、困惑するだけだと思うので黙っておいた。代わりにマニュアルや業務日誌の存在を示唆すると、思い当たるふしがあるらしく納得していた。それでもつぐみは渋っていた。
記憶喪失の人間を迷惑だと思う人だっている。
つぐみはそれを気にしていた。確かにそう思う人間はいるだろうが、そいつらを黙らせるのも面白いぞと煽り、仕上げに「できないって言うんなら無理に復帰しろとは言わないけど」とつぐみの闘争心を刺激した。
結果は俺の思惑通りになった。
周りから見れば無理強いしているように見えるかもしれない。だが、本当に無理だと思うなら、つぐみに提案なんてしない。それにつぐみは本当に無理なことは引き受けない。
つぐみは負けず嫌いだから、「できないならいいけど」と言うと挑もうとするが、自分の能力では無理だと判断したことにまでは挑んだりしない。できないことを安易に引き受けるのは、無責任だということも知っている。
できるという確信が自分の中にあるから、つぐみは復帰を決めたのだ。
復帰初日は緊張して萎縮していたようだったが、一ヶ月経った今では「記憶喪失? 何それ?」と思わせる仕事ぶりだと林田さんが褒めていた。
林田さんや姫島といった周囲に恵まれているからだとつぐみは言うが、本人の努力も大きい。
記憶喪失を言い訳に使うのは絶対に嫌だ、と自分の業務日誌や過去のメールを徹底的に読み込んだのはもちろんのこと、休みの日になると図書館に通い、新聞の縮刷版や経済雑誌のバックナンバーに目を通し、頭の中に叩き込んでいた。三年間の間には目を覆いたくなるニュースもあったが、紙面から目をそむけることなくじっくりと字を追っていた。
そうやってつぐみは、三年間の記憶の欠落というハンデと周囲の雑音を蹴散らしていった。その背中は「武器や防具が無いなら、無いなりに戦うまでよ!」と語っているようでとても眩しかった。
そして家事も完璧にこなしている──と言いたいところだが、そうはいかない。
掃除や洗濯は実家でもやっていたから苦では無いらしいが、料理だけはダメらしい。
もっとも、こればっかりは仕方がない。記憶を失う前から苦手にしていることなのだから。
言い訳を嫌うつぐみでも料理に関してだけは、私は食べる方専門だからとか才能がないからと逃げ腰だった。
それでもつぐみは、苦手なりに頑張ってくれていた。
姫島に聞いたり子供向けの料理番組を見て学習し、そうやって確実にできる料理を増やしていった。俺の知らない間に、使いもしない料理グッズが増えていたのには困ったが、つぐみなりに苦手なものを楽しもうとしていたのだと思うと微笑ましくもあった。
ここに戻ってきた当初は、ご飯を炊くので精一杯と言う感じでレトルトや惣菜に頼っていたが、ここ最近はつぐみ自身が作るものも増えている。
今日の献立だって、鳥の唐揚げ以外はつぐみが作ったものだ。味噌汁に至っては、出汁をとるところから始めたらしい。
姫島に教わったからやってみたと話す姿は、俺の知っているつぐみと同じだった。どこか緊張していて、それでいてどこか楽しそうな……可愛くて困る。
二人で向かい合って飯を食べる。
結婚してからの俺にとっては、当たり前の光景だったが、それがどんなにありがたくて幸せなことか、あの事故で思い知った。
あの事故は俺らの大切なものを奪って行った。だけど、教わったことがあるのも事実だ。
つぐみが記憶を取り戻さない限り、結婚してからの二人のようには戻れない。
それでも幸せを感じることがある。
今のつぐみはここでの生活に戸惑いながらも、自分にできることを探して、俺のために色々やってくれる。
その気持ちが俺の心を温かくしてくれる。
その姿は俺がよく知っているつぐみと同じだ。
二十七歳の柏原つぐみも三十歳の谷崎つぐみも変わらない。俺が好きになったつぐみそのものだ。
それが嬉しかった。
事故の前と同じようにはいかないが、今のつぐみと俺の関係は悪くない。
二人で並んで座っていたソファーにはクッション一個分の距離ができたし、テレビで結婚式やプロポーズの映像が流れると二人して固まってしまう。いや……それは俺だけか。
俺達の結婚は周囲の影響によるところが多い。だから流れで結婚したとつぐみは思っているらしいが、それは違う。少なくとも俺はつぐみを誰にも渡したくなかったから、結婚を前提に付き合っていた。
プロポーズも結婚が決まる前にはできなかったが、このまま結婚するのが悔しくて、サプライズ的なこともした。ただ、あれは……今思い出すと恥ずかしいので、ぼかしておきたい。つぐみに聞かれたら答えるしかないと思うが……そういう俺の心理が態度に出ているのかもしれない。
それでも二人で買い物に行ったりするし、マッシュルームカットの店員がいるクリーニング店の話や、芸能人のゴシップといった他人から見るとくだらない話をして二人で笑い合うこともある。
そういう小さな日常を大切に積み重ねて、できてしまった距離をちょっとずつ縮めて行けたら……そう考えていた。
前を向いていれば、きっと上手くいく。
その考えは間違っていなかったと思う。
だが、俺は気づかないうちに今に拘って、つぐみの過去を疎かにしてしまっていた。
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自分の知らない過去に不安を感じていたつぐみのシグナルを。
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