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25 皇太后の生誕宴1

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 事前に運び込んだ酒甕さかがめは十分な量だった。

 それに加えて当日運び込む分はそうでもない。
 荷運び夫に扮する自分が一人で牽く荷車分だけだ。
 門衛には急ぎ雪露宮まで運ぶ追加分だと説明して門を通してもらった。先日も来たのでこの異国の風貌に見覚えがあったのだろう、事前に入手して先日も使用した通行証も本物なので門衛たちに怪しむ素振りはなかった。
 労い言葉と共に今日の宴が終わったら是非にと添えて酒甕一つを差し入れたのも、好印象を手伝ったのかもしれない。

(はあー、いくら平和ボケしているとはいえ、これじゃ緩すぎんだろ)

 心底呆れたが指摘してやる義理はない。
 手下たちは業者に紛れて先に皇城に入り込み、身を潜めながら必要な準備をしているはずだ。

 先日同様荷車を牽きながら、黒蛇は変わり映えのしない白塀に挟まれた石畳を冷めた目で眺めた。

 笛や太鼓の音が微かに聞こえてくる。
 皇太后の生誕の宴は少し前に始まったようだった。
 雪露宮に近付く程にその雅な音はもっと鮮明になり、繊細な琴の旋律さえも鼓膜を震わせてくれるに違いない。
 すでに雪露宮を含めた皇城全体のおおよその見取り図は頭に入っているので、足取りに迷いはない。

 手下には直接雪露宮には乗り込ませない。

 今日は特に警護も手厚く、皇城の多くの人間が集まっているのだ。何かあれば面が割れる危険な仕事はさせられなかった。

(俺は所詮流れ者だからな。所帯も持ってねえし、立場が危うくなればこの国を離れればいいだけだ。少しは寂しいだろうがよ)

 黒蛇は仲間の事だけは大事に思っている。

 故に万一を考え、たとえ捕まったとしても犯人は自分ただ一人という主張で通すつもりでいる。

(ま、捕まる気はさらさらねえけどな。さあて、この黒蛇様の成敗劇の始まり始まり~)

 角をもう一つ曲がれば雪露宮の入口が見えてくるはずだ。
 黒蛇は後ろの荷台に積まれている酒甕さかがめを肩越しに一瞥すると、たまたま人が居ないのを良い事に「勧善懲悪、これぞ天職」とおどけたように言ってぺろりと唇を嘗めた。




 雪露宮には、池を眺め下ろすための楼閣ろうかくがある。
 建造目的が蓮の池を一望するためなので、楼閣とは言え各地の要所に見られるような権威を象徴するための外観的な重厚さはない。
 楼台とも言い替えられる風通しの良い涼やかな造りをしていた。
 更には三階建ての三階部分には張り出すようにして広い露台が設けられ、屋外に伸びるそこからが一番池を堪能できるという、一種独特の景観を持つ楼閣でもあった。
 そうは言ってもさすが雪露宮内の建造物なだけあり、細やかな装飾には熱意を傾けていたようで、柱や梁などに施された彫刻や、嵌めこまれたのか直接描かれたのかはわからないが、数々の天井画も見事の一言に尽きた。
 晴天だったという事もあって、近しい親族を集めた皇太后の宴はまさにその屋根からはみ出た露台で開かれていた。
 赤い敷布が広げられた露台には、出席者それぞれの膳を乗せるための四角い机と椅子が並べられ、皇太后及び皇帝がコの字型の中央部分に、それ以外の者は向かい合う形でコの字の残り部分に一人一席ずつあてがわれた。
 皇子皇女たちの姿はあったが、義理の娘たる貴妃や下位の妃たちは後宮からは出て来ない。
 彼女たちを含めた宴は別口で催される予定だからだ。

 この宴は名実ともに血縁者のみで開かれ、祖母と孫たちの交流を深めると言った趣が強かった。

 太陽が真上に昇り切るより半刻程早い時刻に始まった生誕祭は、主催者である皇帝が開宴を宣言し、出席者たちは膳の料理や酒肴を手に、披露される歌や踊り、或いは談笑を楽しんだ。
 頭の上で纏めた白髪に純金や玉などのかんざしを挿して着飾った皇太后は、主賓らしく着飾ってはいたが、歳を考えてなのかそこは品よく控えめだ。
 開始早々はそんな老婦人への贈り物と祝辞を述べに足を運ぶ臣下たちが引きも切らなかったが、席のない彼らはさすがに正午になる頃には姿を消していた。

 皆の雰囲気がだいぶ砕けた頃合いを見計らったのか、新たに運ばれてきた物がある。

 小さな蒸籠せいろだ。

 蒸籠での蒸し料理が出る、それ自体は珍しくも何ともないが、肖子偉は蒸籠を見て白家の包子パオズを思い出し、同時にその味を受け継ぐ少女の顔を思い出して胸が疼いた。

(会いたい……)

 全員に行き渡った所で、パンパンと皇帝が手を叩いた。

「皆の元にも渡っている蒸籠だが、中身は山太師お勧めの包子だそうだ。有難くも朕の母のために自ら動いてくれたのだ。仙たる彼の舌を唸らせた一品と聞く。心から感謝するぞ山太師」

 五十路に近い皇帝が年齢を感じさせない若々しい笑みで、一番下座よりも更に後方へと目を向ければ、どこかで控えていたのだろう、山憂炎が露台に姿を見せた。
 彼は中央まで進み出ると宦官かんがんに祝いの品を託し、姿勢を改め一礼してからそつなく皇太后を寿ことほいだ。
 今日の身内の宴席に無論彼の席はない。

「そういうわけだ、包子を含めた今日の心づくしの膳を母上に存分に味わって頂ければ、朕は息子としても国主としても嬉しい限りです」

 息子から促され皇太后が先んじて蒸籠の蓋を開け、その香りに満足そうな顔つきで一口食せば、他の面々も早速と倣って舌鼓を打った。
 彼女からの称賛を受け取ると山憂炎は優雅に再度一礼して下がったが、その際肖子偉の方を見てきたのでばっちり目が合った。
 しかも意味深ににっこりとされて、肖子偉はハッと息を呑む。

「彼のお勧め……。――まさか?」

 自分が白家の味を知ったのは彼がきっかけだ。
 だとすれば、この蒸籠の中にある包子はあれしかない。
 同様の答えに行きついた兄の肖子豪が隣席から何か言いたそうに目を向けてきたが、それに視線を返す余裕も今はなく、恐る恐る緊張と期待に手を震わせそうになりながら蓋を開ける。
 中からふわりと出てくる白い湯気を肺一杯に吸い込めば、

「やはり……」

 白い柔らかな皮を抜けてくるあんの匂いだけでもそれとわかる。
 サイズは通常よりも小さめだが、運べる個数と他の料理数を考慮してこの大きさなのだろう。

(包子がここにあると言う事は、彼女がここに来たのか……)

 いつ、来たのだろうか。
 そして今はもう帰ってしまったのだろうか。
 今日、間違いなく近くにいたのに、会えないなんて天は意地悪だと思った。

「やっぱこの味は小風のとこのだよな」

 兄皇子は既に手に取り美味しそうにパク付いている。
 もう一度食べたかった味を前に複雑な気分で手を伸ばした肖子偉だったが、刹那、

「火事だ! 煙が上がっているぞ!」

 会場の警備兵だろうか、誰かが叫んだ声に顔を撥ね上げた。
 露台から目を向ければ、雪露宮の敷地外ではあるが確かに皇城内のどこからか煙が立ち昇っている。
 一気に緊張した空気が流れる中、時を置かず更なる別の煙の筋が見えれば、ぎりぎりと絞られていく弦のように場も張り詰めていく。
 煙は見る間にあちらこちらそちらと三本にまで増えた。
 状況が見えない中、短時間のうちに深刻化した事態。

「兄上……」
「ああ、何かヤバそうだな。部下たちと情報を集めてくるからお前は皆と待機してろ」
「わ、私も行きます」
「いや、お前はこの宮に詳しいだろ、皇帝たちの傍について万一の時は一番安全そうな経路を選んで避難誘導しろ」
「わかりました」
「危なくなったらきちんと逃げろよ?」
「はい。兄上もお気を付けを」
「おう」

 皇帝から許可を得た肖子豪が控えていた部下と共に険しい面持ちで駆け出していく。
 楼閣の階段を駆け下りていく荒い足音を聞きながら、肖子偉が怖がる小さな弟妹を宥めるためにも「布だるまさんが転んだ」をしようかと本気で思案していると、今度は何と雪露宮からも火の手が上がったと階下から報告の兵士が上がって来た。
 急ぎ露台から見下ろせば確かに煙が見える。

「何て事だ……」

 火の手から距離はあるとはいえ、棟続きなので最悪ここまで延焼する。そうなっては楼閣上に留まっているのは袋のねずみも同じだろう。
 各皇子皇女のお付きは同じ場に控えていて、どよめきに拍車をかけている。
 周囲は混乱しつつあった。

 故に、逃げ場を失う前に、と肖子偉の判断は早かった。

「――皆の者、落ち着くのだ」

 決して怒鳴り声ではないが、良く通るその声は一瞬その場を沈黙させた。

 その声の主たる肖子偉は皆の驚いたような注視を受けながら、急ぎ皇帝の御前にひざまずくと真っ直ぐ顔を上げた。

 さすがにここでは布を取り払ったが、正直「え、誰?」みたいな顔をされはしないかと内心ではドキドキだった。

「父上、私に一つ発言をお許し願います」
「子偉か、許可する。申せ」

 幸い顔を忘れられてはいなかったようでほっとしつつ、言うべき事を口にする。

「雪露宮の出火ですが、あそこには普段火の気はありません。先の雪露宮外の煙に関しては断言できませんが、ここに関しては故意である可能性が高いかと思われます」
「そうか。してどうせよというのだ?」
「ここにまで火が回る前に楼閣を出て池の傍を通り、宮外の安全な所へ避難すべきと考えます」

 次に何が起きるか予測不能な状況だが、それでもここに留まるよりはいいだろう。
 皇帝は立派に伸ばした髭を触りながら子偉を見つめ、頷いた。

「お前の意見はもっともだ。皆の者、今すぐここから降りるぞ」

 皇帝の一声で護衛たちが動き出し、肖子偉は彼らに早速手短に池ルートの説明をした。


 周囲からは「布だるま皇子がまともだ」と失礼にも驚きの眼差しが向けられたが、今は気にしている暇はない。

(い、言い終わった、早く布を……っ)

 それでも彼は父皇の御前から下がるや素早く常備薬ならぬ常備布を手に取った。
 皇帝たちが急いで楼閣を下りていく姿を見ながら、傍の兵士にしんがりを務めると言い置いた肖子偉は、俯瞰ふかんから得られる現状を把握するために、露台から雪露宮内の火事場周辺を見下ろした。
 そこでは火消しにかかった兵士たちが大慌てで桶を手にしているのが見える。それは何らおかしい光景ではない。

 しかし、火事場から離れ楼閣の方に急ぎ足で近付いて来る一人の兵士に目を留めた彼は、自分でも理由がわからないながらも違和を感じた。

 上官に何らかの急ぎの報告に来たのだろうか。
 じっと見下ろしていたからか、偶然か、辺りを見回しながら動いていたその兵士がふとこちらを見上げ足を止めた。

 まるで図ったように下からのやや強い風に煽られ、折角被り直した頭の布が外れた。

「……っ」

 布と髪を手で押さえながらもう一度兵士を見下ろせば、兜を被ったその男と目が合った。

 そして、その兵士は明らかにわらった。




 自分たちが運んだかめの中身は間違いなく酒だ。

 ただし一部は度数の高い、火酒かしゅとも言われる酒だった。

 火に酒と書くその字の通り火を付ければ燃える酒だ。

 目論見通り、城に運び込む際は酒類の一つと扱われ怪しまれなかった。
 手下たちは密かに皇城内に配したそれを三か所で燃やしたはずだ。干し草の保管倉庫やら物置きなど、普段から人がいない建物を標的にしたし、火を付けるだけが任務なので、煙まで見える程の火勢ならもう既に現場を離れ何食わぬ顔で門を抜けているだろう。

 ここまでは計画通り。

 荷車を牽きまんまと雪露宮に入り込んだ黒蛇は、慌しい離宮内を眺めながら思う。
 治世を見ても今の皇帝はそれ程悪くはない。
 そう黒蛇は思う。
 ただし、彼の目の届かない所で奸臣かんしんたちが色々と口には出来ないような事もしているのが現状だ。
 そこに輪を掛けて第二皇子まで酷い行いをしているというのだから、もしも自分が皇帝の立場だったなら天を仰いで目を覆っていただろう。
 皇子を害するなど無謀と言われても仕方がないし、多分に私情も挟んでいたが、皇帝の目を覚まさせてやる意味合いもあった。
 官吏や貴族の不正や怠慢で割を食うのはいつも一番下の苦しい思いをしている者たちだ。自分たち義賊が金持ちから金品を奪って貧しい者たちに配ったところで、ほんの一時的な救いに過ぎない。

「けど、何もしねえよりはマシだ」

 幼い頃、故郷からさらわれ奴隷としてこの国に売られた。
 家族の顔なんて覚えてさえいない。だから自らで活路を切り開いて奴隷から脱しても故郷に帰る気にはなれなかった。それよりも自分に良くしてくれた下町の人間たちにどうにか恩を返したくて今の生き方を選んだ。
 どうせ割り切りの良い元恋人は一度フッた自分の元には戻らない。
 それも相まってどこか投げやりに、肖子偉への復讐を果たせれば捕まって処刑されても悔いはないと思っていた。まあ出来得る限りは逃亡を図るが。

「後ろ暗いことは数え切れねえくらいしてきたんだ。最悪ん時はその報いだとでも思って笑って逝ってやるよ」

 彼は仲間や恩人を大事に思う反面、自分の生に心の底では何も感じてはいないのだ。

 自らの命さえも大事にすると誓えて、絶対的にその人の力になりたいと思える誰かにでも巡り合えれば、何かが劇的に変わるような気もしたが、そんな相手なんてどこにいるのやらだ。

 正直な所、元恋人にだってそこまで情を感じた事はなかった。

「よし、兵士たちはだいぶ向こうに行ったな」

 火を消さんとある程度の纏まった兵士たちが離宮外の火事場へと急行している。
 無論皇帝付きの選り抜きの護衛たちや、この宮に必要な随所の警護兵はそのままだが、大半が突然の事態に不安そうな顔を見合わせ浮き足立っている感は否めない。
 黒蛇は混乱に乗じて兵士の一人を昏倒させ、装備を奪って身に付けた。
 深くかぶとを被れば遠目では肌の色を誤魔化せるはずだし、兵士の格好なら見咎められずに敷地をうろつけ、第二皇子に近付ける公算も高い。
 彼は持ってきた火酒入りの小さめのかめを両手に提げ、庭の物陰を選びながら楼閣へと足を進めた。
 三本の煙の筋を仰ぎ見、心で仲間に感謝を送ると、今度は自分の番だと現在地から一番近い建物一室に入り込んで火酒の甕一つを燃やした。
 雪露宮は広く、すぐ傍には満々と水を湛える蓮の池もある。全てに火の手が回る前に消火されてしまうだろうが、別にそれでいい。

 一時的に皆の意識を火事に向けさせる、それが目的だ。

 楼閣から屋外へ避難していく多数の人影が見える。
 先に皇帝や皇太后などの重要人物たちから脱して来るだろうという読み通り、服装から大体の身分は知れた。
 では標的はどこに居るのかと探し始めて間もなく、

「見つけたぜ」

 黒蛇は露台を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
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