皇帝陛下のお妃勤め

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第一部

2、新婚初夜は波乱尽くし

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 最早ここまで来ると怒る気にもなれず、一翔は少し身を起こして娘を眺めた。
 彼女は紐で綴じられた書物をパラパラと開くと、何やら付箋を挟んであるらしいページを開き、そこをまじまじと見つめている。
 一翔は寝台端に腰かけた少女の後ろから、そっとその紙面を覗き込んでみた。

「ぶっ……! な、何だそのいかがわしい絵は!」
「へ? ああ、春画ですよ。何をそのように驚いて……。陛下だって知らないとは言わないでしょう? 知人の言によればこの春画シリーズは全巻を通して千手くらいの体位が載っているとか……」
「千!? そんなにあるか!!」
「えッ、そそそうなんですか!? な、ないんですか!? ……どうしよう一晩三種類くらいずつ試していけば一年くらいは持つかと思ったのにっ」
「……」

 今度は逆に慌てたような娘が勢いよく振り返った。
 その拍子に頭の布が外れ、娘の面が露わになる。
 予想通り意思の強そうな顔立ちの、ごくごく普通の娘だった。
 美しいかと問われれば、肌は日に焼け健康的だが、透けるような雪の肌こそ美しいとされる風潮には当てはまらなかった。
 ただ、野生の馬が人間になったらきっとこの娘のようになるだろうとは思った。
 さっきは細いと思ったが不健康な細さでは決してないように見える。
 しかしなるほど子を産むためには、これくらい見るからに健康的な娘の方が確実かもしれないと、彼は心の中でこの度の人選に拍手さえ送った。

 一翔には基本的に女性の好みはない。

 趣向を主張したところで必ずしもそれが叶わない立場だと幼い頃からよくわかっていたから、そういうものを重視してこなかった。
 だから今も目の前の少女を見ても何の感慨も湧かない。

 しかしこの少女がやけに冷めて凪いでいた心に回し蹴りを放って来たのは確かだった。

 一体全体この国のどこの令嬢が、皇帝たる自分を強引に押し倒し事を促してくるというのか。しかも色香で惑わせるとかではなくまるっと物理で押してきた。

 信じられない。もう本当に。

 それだけでも皇后が聞けば腹を抱えそう……いや倒れそうな振る舞いだが、それ以上に呆然としたのは娘が手にしている書物だった。

 ――春画本。

 男女の閨事ねやごとのあれこれが描かれているそれを、真剣な眼差し読みながら実践に移そうとしている。その書物を手放せない時点で、何が予習済みなのかさっぱりだ。

「ちょっと待て。そなた朕を押し倒すなど、朕の機嫌を損ねれば冷宮に入れられるかもとは思わぬのか?」
「え? どうしてです? 私はあなたの子を産むための唯一の妃なのでしょう? そんなことをしたら私がここに放り込まれた意味がないでしょう?」
「放り込まれただと?」

 眉根を寄せれば、娘景素流は初めて気まずそうに目を泳がせた。

「あ、失言でした。ともかく、あなたの子を産めばたんまり褒賞が出て、家族も安泰だって言われたので引き受けました。その本来の目的を果たすまでは私の身は安全とも聞いていますけど、違うのですか?」

 一翔はハァと溜息をついた。
 なるほど確かにその通りだった。

「……率直は時として美徳でもあるが、些細な失言が命取りにもなるのが後宮だ。そなたはもう少し言動に気を付けた方が良いぞ。仮にも朕の子を産むとはどういうことかわかっておらぬのか?」
「いいえ? きちんとお話は理解してますよ。私の子は衣食住に困ることはないんだって言われました。なら安心です。遠くからでも我が子の無事の成長を見守る所存です」
「遠くから? 無欲だな。普通の女ならば世継ぎを産めばこの国の高貴な女性であらんと、地位固めに執着し始めると思うのだが」

 すると花嫁はからりと笑った。

「あー、うち弟たちがいて、母親代わりにその面倒を見ないといけないですし、そのためのお金を稼ぐためにここに来ました。だから、期間限定の妃勤めなんです」
「それはどういう……」
「あれ? 聞いていませんか? 私、無事にお世継ぎを産んだらここを出て行きます」
「……そうか」

 彼は世継ぎのための妃だとは知っていたが、そこは初耳だった。
 改めて景素流に関する書類に目を通しておかなかったことを後悔した。

「それに後宮って綺麗に着飾って大人しくしてないといけない場所ですよね。そういうの性に合わなくてたぶん我慢できないので、子供を産むまでの一年くらいが限度かなーと。約束通り後腐れなくきちんと出て行きますから安心して下さい」
「一年か……。もしも子が女児なら?」
「……え?」

 その瞬間花嫁は蒼白になった。

「その点を考慮していなかったのか?」
「あああそうですよね、お世継ぎができるまでって契約でしたし、お世継ぎは基本的に男の子ですよね」

 しばし悩んだ様子を見せたものの、娘は真っすぐ顔を上げた。

「頑張って最初に男の子を産みます!」
「いや性別は天意だろうし、努力でどうこうはできぬだろうに」
「え、じゃあ……男の子を産むまでいます」

 すごく残念そうだった。
 別に彼女を好きでも何でもないが、そんな反応をされれば一翔的にはちょっと面白くない。

「そうか、そなたはここが好きではないのか。そうかそうかそれならばちょうど良いな。早々に出て行けると良いな」
「はい、そこはそうなるように天にも祈ります。でも好き嫌いではなくて、ここには来たばかりですし、知らない場所ですし、そもそも生来窮屈な場所は慣れないので居心地が悪いだけですよ。ですので、すぽーんとお世継ぎをお産みして帰れるよう頑張りますので、任せてくださいね!」
「…………はは」

 通じてない。
 彼は後にこの日を思い出す度に、この日自分は間違いなく人生史上鈍感な人類と出会った日だと断言できる。

 そして仕方がないとして渋々出していた夜のやる気も、蝋燭ろうそくの灯が消えるように、一切合財萎えた。

「……って、あああっこんなこと言ったら厳罰ですか!? 後宮無理とかどう聞いても不敬ですよね、うわーどうしようごめんなさいごめんなさい陛下! 蔑ろに思っているわけじゃないんです、どうかお許しを!」
「……そなた、うつけだろう」

 今度は春画本を投げ出してひれ伏した少女へと、彼は何だか酷く疲れた心地で目を向けた。無言で寝台から降りるとそのまま寝室の出口に向かう。

「ええと、陛下!?」
「……今宵は一人で眠るがよい」
「え? え? 子作りは……」
「明晩、また来る」
「あ、ああ、そうですか、わかりました」

 その時の少女のどこかホッとした顔を彼は見逃さなかったが、不快に思うのではなくむしろ人並みの羞恥とか身構えなどが感じられてかえって好感が湧き、そして安心した。
 正直、子作り上等おらおら系女子だったらちょっとどうしようかと不安に思っていたので、本当の本当に安堵した。

「ではな、ゆっくり休め」
「ありがとうございます。陛下も心安らかにお休み下さい」
「うむ」

 そうしてこの夜、後宮に新たに加わった妃は、夫から言われた通りぐっすり安眠したという。
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