皇帝陛下のお妃勤め

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第一部

12、ああ、嬉し恥ずかし清い日々

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 幸い持ち前の運動神経で転げなかったものの、素流としてはびっくりして見上げるほかない。

「えっえっどうしてお怒りに? あっ私他言しませんよ」
「そこはどうでも良い!」
「いやどうでも良くないと思いますけど」
「皇帝の妃ともあろう者が誘われれば喜んで、ホイホイと男に会いに行くとは何事だ……!」

 部屋の外に控えの者がいるのもあり、一翔は「素流」と怒鳴った後は一応声を抑え小声で怒鳴るという器用な芸当をやってのけている。
 こんな時なのに素流は密かに感心した。

「いえあの、皇后さまは皇后さまですし、男だと意識したことはないですけど」

 ピタリと怒気を鎮めた一翔はしかしまだ胡乱な眼差しだ。

「……気にならぬと? ああ見えて博風は美男だろう?」
「確かに美人さんですけど、特には何も」
「本当に?」
「はい」
「では、朕はどうだ?」
「普通にカッコイイ男性だなって思ってますよ?」

 そこには「見た目だけは」と続くのだが、素流は賢明にも黙っていた。
 すると見ている前で一翔は「と、当然だ。女装男には負けぬ」と勝ち誇ったように満更でもない顔をした。
 どうして彼が彼の愛する皇后と張り合っているのかよくわからない素流は、呑気にも眠気を感じてまた一つ欠伸あくびをした。
 それを見た一翔がすっかり機嫌を直して苦笑を漏らす。

「少々長居をしたな。刺客の様子も気になるので今夜の所は朕も自分の寝所に戻るとする。先もそなたに言ったように、少し肩の力を抜け。そなたは朕にとっては護るべき一人の女人なのだ。ここにいる間はそなたもそなたの家族も朕が護ると約束する。故に朕を――俺を信じろ」

 ――俺。

 皇帝としての楊一翔を、そして一人の男としての楊一翔を信じろと言っているのだとわかった。
 その言葉を不思議とするりと受け入れることができて、素流はこくりと頷いていた。

「……どうせなら、ずっとここにおれば良いのだ」
「はい?」

 聞き取れず訊き返した部分はもう一度告げる気がないのか、彼はふっと口元を緩めただけだった。
 部屋の入口の所で、一翔は見送る素流を振り返る。

「そうだ最後に一つ、朕のことは一翔と呼べ」
「あ、はい、一翔陛下」
「そうではない。陛下などと敬称を付けるでない」
「いえでもそれはさすがに」
「二人の時は不要だ」
「ええと」
「朕が良いと言っておるのだぞ?」

 不満そうに見つめられて、これは下手に断れない雰囲気だと察した素流は仕方がなく呼んでみる。

「一翔さま」
「様も要らぬ」
「……一翔?」

 その瞬間、実に満足そうに笑んだこの国で最も高みに座する男は、キョトンとする少女の頬へと手を伸ばし、そこに決意の唇を落とす。

「明晩はもっと別の所にする」
「え……えっ!?」
「何を驚く? 初夜以来何度か朕を押し倒しておきながら。これくらい朝飯前ではないのか?」

 当てこすりのような台詞に真っ赤になった素流は抗議の言葉も出て来ない。
 実は口付けもまだだったのもあって、動揺の余り頭がほとんど真っ白だ。

(情を抱くなっていう約束なのに、私ったらちょっと優しくされたからって迫られてドキッとするなんて単純!)

 去り際の流し目にもごきゅっと変に空気を呑み込んでしまった。

 彼が急に子作りモードになったのは良いのか悪いのかどちらだろう。

 狼狽の中、素流は当初の通り世継ぎを産んで報酬をもらって、皆の所に帰るだけだと初心を思い出す。

「わ、わわわわかりました! どーんと来いです!」

 自身の胸を叩く素流へと「期待している」と言い置いて一翔は去っていった。
 こうして景素流の平穏……とも言えなかったが総合的に見れば心安らかな夜は、終わりを迎えたのかもしれなかった。




 一翔サイドの動きは早く、翌日には襲撃の首謀者たる明という高官が捕縛された。

 一方素流はこの件を知った皇后から大いに心配され、早くも翌日のお茶の席で無事で良かったと思い切り抱きしめられた。
 頭を何度も撫で撫でもされた。
 女装とは言え、やはり良い香りのする美人の抱擁には照れてしまう素流を、その場にいた一翔が酷く恨めしそうに見つめていたのには気付かなかった。
 夜になり、前日に頬以外に口付けるなどという大胆発言をまされていた手前、素流は一翔と居て大いに緊張していたが、その日は何故か同じ寝台に入っておいて、抱き枕にしてくるだけだったのには、正直拍子抜けした。
 当然別の所への口付けもなかった。
 ただ一つおかしな点があったとすれば、一体どうしたのか頭をしつこく撫でてきたことで、素流は猫にでもなった気分だった。

(何だか昼間の博風さんみたい……って、え、そうなの? だからこれなの? 博風さんが触った場所を間接的にでも触りたいくらい愛情が深いんだ、なるほど~)

 大人しく撫でられ眠くなりながら、素流は一翔が自分に嫉妬しているが故だと勘違いした。
 どこかそういう強さで想い合っている二人を羨ましく思いもしたが、自分の役割はきちんと弁えている。
 その晩以後も結局やっぱり清く正しい男女関係が続いているが、何故か一翔の素流に向ける言葉は少しずつ際どくなっていた。
 際どいと言っても、素流がこれは恋人に向ける甘い囁きではと思う言葉を向けてくるという、皇帝としての義務からの妃への気遣いと普通の色恋での好意の境界が際どく曖昧になっているという意味だ。

「――愛妃よ。今宵の夕餉は特別にそなたの好みを中心に料理をさせたのだ。味はどうだ?」

 ある日などは、人前での呼称も淑妃から愛妃呼びになっていて、それ以降はずっと愛妃呼びになった。自分は寵愛ちょうあいのちの字も受けていないのにそんな風に呼ばれては、その度にドキリとしつつも素流の頭には困惑しか浮かばなかった。

(駄目駄目駄目、彼の冗談に耳を傾けたら負けだわ。でなければきっとこういうのが睦言だって無自覚なんだわ。私は惑わされない!)

 結論から言って、素流は鈍いと言うよりは、とんでもなく鈍かった。

 そうして素流の後宮入りから優に三月が経った頃、二人は…………未だ男女仲になっていなかった。

 同じ寝台で寝る日もあるのに、素流が春画本を持っていざと迫る時、依然として一翔は応じない。
 素流のことを抱き枕よろしく抱きしめて眠るくせにそれ以上はしないのだ。
 しかもそういう日の翌日はすごく眠そうにしているので、素流は自分の寝相が悪く彼が安眠できていないのかもしれないと密かに案じ、最近では気を遣って夜中こっそり寝台の端に寄るのだが、朝目が覚めると決まって一翔の腕の中だったりする。解せない素流だった。

 ともかく、何か無念のうちに死んだ童貞や喪女の霊にでも取り憑かれているのでは……と博風や事情を知る数少ない周囲がお祓いを勧めてくるほど清々しくも、何も起きない。

 どうしたらいいのかと、生真面目な素流から相談される博風にだってこればかりはどうにもできない。しかもその都度報告されているのか、その場にはいなかった一翔から後で突っかかられるので、正直な所いい加減相談役を降りたいなーと思っていた。
 皇后権限で素流を美しく着飾らせたり、精の付く夕食を饗させたり、その気になる香を焚いたりと、何度もお膳立てして博風も手は尽くしたのだ。
 なのに口付け一つ取っても全く進展がないようなので、完全にお手上げだった。

 しかも話を聞けば、原因は一翔が頑なとも言える態度で躱わしているかららしい。

 これには博風も首を傾げていたが、まだ問い質してはいない。
 しかし早い所理由を聞き出さなければならないと焦っていた。
 何故なら、彼も彼で初めこそ面白がって二人の仲にちょっかいをかけていたが、さすがにもうそろそろそれを面白く眺めても居られなくなったが故だ。

 世の真理として、人の口に戸は立てられない。

 実は皇帝は淑妃と一度も床を共にしていないようだと囁かれ始めているのだ。

 これでは刺客を送る送らないなどと裏でこそこそ画策せずとも、淑妃との世継ぎ云々など自然消滅。
 他の娘の入宮話が持ち上がるのも時間の問題だ。

「一翔、お前本っっっ当に大丈夫なんだろう?」

 とある夕方、博風は皇帝の書斎に乗り込んで、本気で乳兄弟であり無二の友であり主君でもある青年の股間を見つめた。
 一翔は文机で書き物をしていたらしく、博風はその前に立っている形だ。
 幸いこの場には二人以外の誰もいないので、皇帝を見下ろすのは不敬だ何だと咎める者もいなかった。
 後宮部分にある書斎なので男性武官はおらず、外に腕に覚えのある宦官が見張りも兼ねて立っているのみだ。それすら一翔の一声で下がらせることが可能だ。
 この書斎は書物や垂れ布など、比較的音を吸収する物が雑多としていて、部屋の外にまでは声が漏れる心配はないと知る博風は、故に砕けた態度で話が出来ている。

 彼のあけすけな言動に、案の定若き皇帝陛下は何本もの青筋を立てた。

「おい、皇后よ。そなたはそんなにも冷宮に放り込まれたいのか?」
「いやいやまさか。これは私の思いやりだ思いやり。お前だって臣下たちの声は聞こえているだろう。マジで本当に手を出さないと素流ちゃん実家に帰っちゃうぞ?」
「……素流の性格から言って、世継ぎを設けるまでは何がどうあれ帰れないはずだ」

 一翔の素っ気のない言葉に、博風はピンとくるものがあって愕然と目を見開いた。

「まさか、お前……だから手を付けないのか? 子が生まれれば彼女が後宮から出て行くから?」
「……」

 沈黙が何よりの肯定だった。

「はあ~、馬鹿だろお前。その前に素流ちゃん妃として問題ありとして後宮追い出されるかもしれないってのに。お前のことだからそうなるギリギリまで我慢する気だろ……」
「素流ちゃん呼びは止めろ。不愉快だ」
「心狭いな」
「性格は変えられん」
「はいはい」

 しれっとしている割には、図星を指されて変な汗を浮かせている一翔へと博風は呆れ目を送る。
 近いうちに臣下の誰かが淑妃が妃たる役目を果たせないとして奏上してくるだろう。
 それが明日か明後日か十日後か一月後かはわからない。

「博風、動向を逐一見張らせているからその件は心配無用だ」
「さいですか。ま、お前がそう言うなら私はしばし静観するよ」
「ああ、そうしてくれ。そして無駄に素流に近付くなよ?」

 博風はやっぱりこいつ究極に心狭いと思ったが、二度目は口にしなかった。
 というより、口に出す前にこちらへと駆けてくる足音が微かに聞こえたからだ。
 博風は地獄耳だったりするのだ。

「誰か来た」
「何?」

 戸口に寄って細く隙間を開けて窺い見れば、今ではだいぶ裾の長い服にも慣れた素流がパタパタとくつ音を立て走ってきたところだった。
 加えて、身体能力を発揮してまたもや宮女たちを引き離してもきたらしい。

「一翔、何か血相変えて景淑妃が来たよ」
「素流が? 何かあったのか?」
「さあな」

 二人が言葉を交わしている間にも素流は戸口まで辿り着き、外で見張りも兼ねて待機する宦官へと取り次ぎを頼んでいた。
 そうして息を切らして入ってきた素流は一翔を見るなり、開口一番、

「陛下、離縁して下さい!」

 そう言い放った。
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