君の瞳が映す華

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39.取引

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 闇が街を覆い尽くす時間。カグラはアマネの家に到着した。
 玄関を開けるといつものようにアマネのサンダルと外出用の杖がある。それを見てカグラの神経質そうな瞳が眇められた。
「まったく、あの方は……」
 繊細な細工を施された杖の先が泥に汚れている。それは朝方降っていた雨のせいで道がぬかるんでいたことを証明している。泥は乾いているので簡単に落ちるだろうが、カグラが呆れているのは杖を汚したことではなく、アマネが外に出て行っていたことを物語っているそれに心底嘆息したからだ。
 少々荒い足取りで家の中に入ったカグラは、居間の扉を勢い良く開けた。蝋燭の仄かな明かりを燈した部屋の中で、大きなソファに腰を下ろしていたアマネは、そのカグラの気配に小さく肩を揺らした。
「カグラか? どうした?」
 ゆったりとしたソファでも、大柄なアマネは少しだけ窮屈そうに見える。長い脚を組み背凭れに身を預けていた金色の髪の男は、光を映さない深緑の瞳を空ろに流した。
「あなたは、私の言うことを守っていただけないのですか?」
 カグラの視線がアマネを上から下まで確認するように巡らされる。一目見て高価な装束であるとは思えないが、素材から細部にこだわった刺繍は見るものが見れば価値のあるものだと分かる。袖や裾に希少価値の高い花から色をとった、鮮やかな糸で刺繍されたそれはアマネの好む伝統の模様を紡いでいた。全体的に青と白を使った装束は爽やかな印象を盲目の男に与えていた。
 が、その装束のところどころが泥と埃で汚れているのを宵闇の瞳は見逃さない。特に裾の汚れはとてもよく目立った。
「何のことだ?」
 それでもアマネは平然としらばっくれて返した。ひくりとカグラの頬が引きつったのだが、アマネはそれを見ることができない。
 アマネは近頃カグラのいない時間に勝手に外に出て行くことが増えた。それは勿論ソウを探しに出かけているのだろう。
 ソウがいなくなって既に数ヶ月がたち、アマネとしても心配で堪らないことは分かっている。だけど盲目のアマネが一人で外に出かけてしまうことがカグラの心配ごとになることは、残念ながらアマネは考えていないようだ。
 それにアマネの気持ちは完全にソウを求めている。それはカグラの中で困惑の原因のままだ。カグラ自身はアマネとソウが気持ちを分け合うことに抵抗があり、だが亜人に対して自分の認識がおかしかったことに気付いているからこそ、決めかねているところでもある。
 しかしアマネの幸せを一番に考えることが、自分のすることであるとも分かってもいる。アマネが誰かを愛しいと思うことは、仕えるカグラにとって嬉しくないはずはないのだから。ただこの状況はカグラにとってもすぐに判断できないことでもあった。
 だからソウを探すことは任せてほしい。そうアマネと約束をしたのに、主は一向にそれを守ってはくれず、カグラの眉間の皺が深くなるばかりだった。
 装束が汚れていることは見えないことで気付いたいないのか、それとももう何も隠すつもりがないのかは分からないが、そんなことはどうでもいいといわんばかりに大きなため息をついて、黒髪の男はアマネと向かいあうようにソファに腰を下ろした。神経質そうな宵闇の瞳をアマネに止めて、カグラは一つ息を吐くと口を開いた。
「あなたに、確認したいことがあります」
 改まった言い方に深緑の瞳を瞬き、アマネはキョトンとした。
「なんだ……?」
「ソウが帰ってきたら、あなたはどうされるおつもりですか?」
「え……?」
「ソウと、どうされるおつもりですか?」
「それは……」
 アマネは言葉に詰まった。眉根を寄せ、何かを言おうとしているのか時折唇が動くけれど確かな言葉は出てこない。
 今アマネのなかにあるのは謝罪したい気持ちだけだった。この先を考える余裕などなくただ謝って、そして誤解を解きたい。それだけだ。そうしなければ今後のことなんて考えることもできない。だけど。
「もう少し、冷静に考えているのかと思っていました」
 呆れた声音でカグラに返される。蝋燭の明かりが頼りなげに揺れる深緑を滲ませた。迷子の子供のようなその視線に、カグラはますますため息を零した。やはりここはきちんとアマネに理解してほしいことを伝えるべきだと思う男は、淡々と続けた。
「ご自分の身分を考えると、とても亜人などと一緒に生活をしていくことなどできないかと思いますが。それをすっかりお忘れのようですので、差し出がましいかと思いますがお聞きしました」
 身分――それで思い出されるのは都のことだ。小さく息を呑んだアマネの考えていることは、カグラが考えていることと同じであるはずだ。確信を得たカグラはそのままアマネの言葉を待つことに決めた。
 皇太子としての資格はなくなっても、皇帝の直系であることには変わりはない。今後一切都に近づかないことを条件に、生きていくうえで必要最低限の金銭的援助を約束させたのは、盲目のアマネに代わってカグラがしたことだ。目が見えなくてはろくな仕事につくこともできないだろうし、アマネに貧しく苦しい思いをしてほしくないというカグラの願いでもあった。
 そして、伝統と格式というくだらないと思うものにしがみつく都の人間に、亜人と共に暮らすなんてことを認めさせることができるとも思えない。
 下手をすればソウが殺されてしまうかもしれない。そこまで考えて、アマネは大きく目を見張り身体を強張らせた。とてもじゃないが即答できるものではなかった。
「私から一つ条件がございます」
 返事がないと割り切ったカグラは静かな声で言った。宵闇の瞳が仕える主の彷徨う視線を捉える。
「条件……?」
「はい。あなたの誠意を見せてください」
 言われたことがよく分からなくて、アマネはまた返す言葉も見つからないように口を閉ざした。しかしカグラはそれにかまうことなく続けた。
「私はあなたに幸せになってほしい気持ちに変わりはありません。そしてそれは平凡でも家庭を持ち、子宝に恵まれることです。ですがあなたがソウを選ぶのであれば、あなたなりの誠意を私に見せてください。私がそれに納得できたら、私は今後もあなたの忠実な僕であることを約束しましょう」
「それは……どうすればいいのだ?」
 いきなり誠意といわれても、思いつく方法などないアマネは呆然と問いかけた。ゆったりとソファに身を預けていたが、思わず身体を起こす。肩を過ぎるあたりの金色の髪が蝋燭の明かりを柔らかく弾き揺れた。
「さあ? それはご自分でお考えください」
 淡々とした物言いでカグラはアマネを突き放した。アマネはしばらく俯き考えていたようだが、すぐに答えが出ないようで、深々とため息を落とした。
「分かった。とりあえず時間をくれ」
「分かりました。時間はいくらでもあります。ソウの居場所もちゃんと分かっていますから、いつでもあなたの誠意を見せてくださいませ」
 さらりと言われたことにアマネは大きく目を見張り硬直した。しかし我に帰ると勢い良く立ち上がった。カグラの言葉が思考を揺るがせ、鼓動が苦しいくらいに跳ね上がる。
「どこにいた!?」
 毎日毎日可能な限り、アマネは外に出てソウを探してきた。目が見えないことで遠くまで出ることはできなかったが、それでも何もしないではいられなかった。
 ソウを傷つけてここから追い出したのは他ならぬ自分だと、昼も夜も自分のことを責めずにはいられなかった。
 センからソウの三年間の様子を聞き、ますますそれは深くなった。苦しかった奴隷という環境からやっと逃れて、手にしたささやかな自由。それはアマネが幼い頃から過ごしてきた環境とは全く違っていたから、心底ソウの気持ちを知ることはできないのかもしれないが、しかし解放された幸福感は理解できた。アマネも目が見えなくなってしまったが、息のつまるような日々から解放されて都を出た時は嬉しかったからだ。
 ソウに謝りたい。そして感謝の気持ちを伝え、好きだと言いたかった。ソウがたとえ拒んでも気持ちだけは伝えたい。
 二度と会えなくなることだけは、どうしても嫌だった。だから不自由でたいしたこともできないが探すことをやめなかった。
 そして現段階で、カグラはソウの居場所を知っている。それだけでアマネは泣きたいくらい嬉しかった。今すぐにでも問い詰めて聞き出したいが、それを我慢した。立ち上がったまま唇を噛みしめて心を落ち着ける。
 今はまだ会うことができない。確かにカグラの言うとおり、自分の周りのことを考えるとソウに気持ちを伝えることも憚られる。噂のひとつも立とうものなら、それは全てソウに跳ね返るだろう。だからソウが無事でいるのなら、今はそれで満足しなければいけない。
 それに誠意を示すことが一体どういうことなのか、言われたばかりでよく分からなかった。だけどそれがソウに会うために必要ならば、示すほかにない。
「ソウは、元気でやっていたか?」
 ソファに腰掛けながら、アマネはできるだけ穏やかに問いかけた。カグラはじっと瞳をアマネに止めたまま、いつもの口調で返す。
「少し痩せてはいましたが、健康面に問題はなさそうでしたよ」
「……そうか……」
 無事でいてくれる。あの光を纏った青がこの街にいた。アマネは身体の中から深く息を吐き出した。
 胸が震えてくる。最後に聞いたのは泣き叫ぶ声だった。いつから、穏やかな沁み入る声を聞いていないだろう。優しく淡く、だけど凛とした気配を感じたくて仕方がない。目頭が熱くなって、手の甲で光のない目許を覆った。
 やはりどうしても好きだ。溢れてくる気持ちを再確認するように抱き締める。ソウが人間だろうが亜人だろうが、男だろうが女だろうが、そんなことは関係ない。ソウという命が好きなだけだ。
 呆れるほど考えたけれど、それしか答えは見つけられない。うっすらと滲んだ涙を拭い、アマネは顔を上げた。
「俺は、一生結婚はしないつもりだった」
「……はい?」
 突然話し始めたアマネに、カグラが首をかしげた。アマネは半ば独り言のように先を続けた。
「万に一つでも跡取りだのなんだのの問題が、俺の子供にふりかからないわけでもない。実際過去には少し離れた縁者の中から皇帝を立てたこともあっただろう。俺のような思いはさせたくない。だから都を追われたときから、俺は一生結婚はしないと決めた。これはソウのことは関係なく、今後も変わらないと思っておいてくれ」
 正面に座っているカグラに向かって、アマネははっきりと言い切った。それは普段穏やかで、優しいアマネには珍しく有無を言わせないほど力があった。カグラはそれをじっと見返すだけで特に表情を変えるわけでもなく、反応を示さなかった。だがわずかに長い睫毛が震えたように見えた。
「ソウが元気でいるなら、今はそれでいい。俺はお前の誠意というものを考えてみるだけだ」
 焦る気持ちを宥めながら、しかしアマネは希望が見えたような思いで滲むように微笑んだ。
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