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 王宮広場には仮装した人々がごった返し、エレオラは目を回しそうだった。皆、華やかなドレスや装束を着て、広場は色彩の坩堝と化している。

 楽しそうな笑い声と、音楽隊が奏でる華やかな音色。屋台からは香ばしい甘いお菓子の香りが漂ってくる。全てがごちゃごちゃに入り混ざって、エレオラの胸を弾ませた。

「エレオラ、こっちだ」

 ヴァールハイトがエレオラの肩を抱えて人混みから庇ってくれる。エレオラはその胸元にしがみつくようにしながら、浮き立つ声で言った。

「謝肉祭はこんなに賑やかなのですね。私はいつも神殿にいたので知りませんでした」
「この時期、神殿では何をやっているんだ?」
「主に特別な魔道具の作成ですね。謝肉祭の期間は魔力が高まるんです。儀式に使う聖水盤を新しくしたり、破魔の剣を鋳造したり。王室に新たな子供が生まれるときには、魔力を込めたお守りを作ることもあります」

 そこまで話して、エレオラはふふっと微笑んだ。

「どうした?」
「いえ、ヴァールハイトさまが私に関してご存じないことがあるなんて。謝肉祭の時期はお祭りを楽しんでいたんですか? ハンナによると、謝肉祭は格好の逢引の場なのだとか」
「今日はずいぶん可愛らしいことを訊ねてくるな?」

 ヴァールハイトが眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。エレオラの頬にかかった髪の毛を指先で払い退けながら、

「そう不安がらなくていい。例年は殿下の護衛をしていた。殿下に差し向けられた刺客を返り討ちにするのを逢引というなら話は別だが」

 からかうような声音だった。エレオラはぽかんと口を開ける。

「不安、といいますか……」
「違うのか? 俺にはそう聞こえたぞ。もしくは嫉妬してくれているのかと思った」
「しっ……⁉︎」
「心配せずとも、俺の全ては血の一滴に至るまで、生涯あなただけのものだ。自由に使う権利はエレオラにある」
「いえ、それはご自分の手にしっかり握っておいていただきたいのですが……」

 エレオラは目眩を感じながら、ひっくり返りそうな心臓を懸命になだめていた。

(お、落ち着いて。私は『恋知らずの聖女』なのだから、相手の過去を気にするような真似はしない。今のは不安じゃなくて、もちろん嫉妬でもなくて、ただの、ただの……ああ、思いつかない!)

 拍動がどんどん早くなり、顔は熱くなる。ヴァールハイトがエレオラの肩を掴む手に力を込めた。耳元に唇を近寄せて、

「あんまり可愛い顔をしていると邸に戻りたくなるな。いいか?」
「よ、よくありませんが⁉︎ えっと、そういえば、今日は殿下の護衛をしなくていいのですか? 殿下は護衛騎士に仮装を用意している場合ではないのでは?」

 うわずった声で、あからさまな話題転換をするしかない。ヴァールハイトは気分を害した様子もなく、身を引いて軽やかに笑った。

「今日は謝肉祭を楽しめと殿下から命じられている。最近は斬り合って楽しい相手もあまりいないしな」
「そうですか……」

 物騒な言葉はなるべく拾わないようにして、熱を持った顔を冷ますようにエレオラは広場中央に目を向けた。そこには舞台が設置され、寸劇が催されている。そしてハッとした。

「あれ、私たちを模した劇ではないですか?」

 舞台の上、高らかに台詞を謳いあげる男女は、明らかに騎士服と聖服に似せた衣装をまとっている。ちょうど求婚のシーンで、二人は手を取り合って甘く見つめ合っていた。急速に頭が冷えて、エレオラの唇から干からびた笑いが吐き出される。

「実際、あんな感じではなかったですよね?」
「ああ、そうだな」

 ヴァールハイトが素直に同意したので、エレオラは眉を上げた。彼は苦み走った表情で舞台を見上げている。

「俺はもっと必死だった。ずっと緊張していたし、正直に言えば、あれほど何かを恐れたことはなかった。絶対にエレオラを俺の花嫁にしたかったからな」

 エレオラは目を丸くしてヴァールハイトの横顔を仰いだ。求婚のときを思い出す。彼は彼の中でだけ辻褄の合っている奇妙な確信をもとに行動していると思っていたが、裏ではそんなことを考えていたとは。

 思わずしみじみと返事をする。

「そう、なんですね……」
「断られたら、周囲の人間を全員撫で斬りにして国外にさらってしまおうと思っていた」
「そうなんですね⁉︎」

 危ないところだった。断らなくて本当によかった。返事一つで危うく神殿が血の海に沈む可能性があったようだ。急なデッドエンドを提示しないでほしい。

 そこで、周囲の喧騒がいよいよ高まって耳に届いた。舞台の上で二人がハッピーエンドを迎えたらしい。人々が両手を振り上げ、「良かったぞー!」「やっぱりこのお二人は尊いよな!」などと口々に言い立てている。と、尊い?とエレオラは内心首を傾げた。

「人気なのですねえ」

 ぼそりと漏らした独り言に、近くにいた仮面姿の男性がこちらを向く。

「当たり前だろ! 竜殺しの騎士と恋知らずの聖女といえば、ティオール山から邪竜を追い払った英雄だぞ!」

 それにつられたように、付近のドレス姿の女性も声を上げる。

「それに、聖女様が政略結婚させられそうになったところを、騎士様が颯爽と助けたんでしょう? 愛のために邪竜を倒すなんてとってもロマンチックじゃない? 姫君のために奮戦する騎士なんてまるで夢物語だもの。憧れちゃうわよ!」
「そうですね……」

 引きつった笑みで応じるエレオラに対し、ヴァールハイトは無言だ。自身への賛辞には興味なさげに、エレオラに話しかける人々の顔を一つ一つ確かめるようにしている。そうして邪魔そうに片手で眼鏡を外した。

 途端、人々の視線が一斉にヴァールハイトの顔面に集まる。

「え……」
「もしかして……」
「竜殺しの騎士様⁉︎」

 悲鳴じみた声を上げたのはドレス姿の女性で、「それじゃあ」とエレオラを指差したのは仮面の男性だった。

「こちらは聖女様じゃないか! お二人で逢引か!」
「ち、違います‼︎」

 とっさに返事をしたものの、違うというのは何に対してか。考える暇もあらばこそ、ひょいと抱え上げられてエレオラは蛙の潰れたように呻く。

「悪いが、俺は妻とデート中だ。邪魔しないでもらいたい」

 エレオラを軽々と両腕に横抱きにしたヴァールハイトが、朗々と声を響かせながら辺りを見渡す。それは舞台の台詞よりも高らかに鳴り渡って、人々を従わせる威容があった。

 ヴァールハイトの前で、自然と皆が道を開ける。その真ん中をヴァールハイトは悠々と歩き過ぎていった。どこからかピューっと口笛が吹かれ、女性たちのはしゃいだような甲高いざわめきが聞こえてくる。

 エレオラは完全に硬直して、ヴァールハイトの腕に大人しく抱えられていた。何も考えられずほとんど涙目で両手の拳を握りしめて震えていた。

 ようやっと我に帰ったのは、運河脇の人気のない小路で下ろされてからだった。小路の片側にはレンガ造りの建物が背を見せて立ち並び、金糸雀カナリア色の壁が続いている。

「ここならいいか」

 ヴァールハイトがきょろきょろと辺りに視線をやりながら言うのに、エレオラは壁に片手をついてぜえぜえと息を荒らげた。一歩も自分では歩いていないというのに、心臓が破裂しそうなほど脈打っていた。

「ま、まさかこんなふうに話が広まっていたなんて……そんなロマンチックなものではないのに……」
「勝手に言わせておけばいい。誰が何を言おうと、俺とあなたの関係は変わらない」

 ヴァールハイトがエレオラを見つめながら言う。真摯な声音だった。なるほど、とエレオラは首肯しかけて、動きを止める。

(じゃあ一生このままってこと? それはそれでまずいのでは⁉︎)

 とはいえ、ヴァールハイトのおかげで助かったのも事実だ。あのまま二人が群衆の中にいたら事故が起きていたかもしれない。エレオラはふーっと大きく息を吐いて、ヴァールハイトを仰ぎ見た。

「でも、あの場を切り抜けていただいてありがとうございます。騒ぎになりかけていましたから助かりました」
「そうか? エレオラが嬉しいなら俺も嬉しいが」

 ヴァールハイトはきょとんとしている。なんとなく噛み合わないものを感じながらも、エレオラはエプロンドレスのポケットに手を入れた。

「実は、ヴァールハイトさまにお渡ししようと思っていたものがあるのですが……」

 取り出したのは、金と赤の絹糸で編まれたお守り。糸の間に一本だけエレオラの髪が混ざっていて、ブレスレットのように腕に巻くと守護が発動する。

 ヴァールハイトの目が見開かれる。エレオラはえいやっとヴァールハイトの左手首にお守りを巻きつけた。

「謝肉祭の間は魔力が高まると言ったでしょう。なので、その、お守り作りには最適ですから。普段お世話になっているお返しといいますか。一応聖女の守護を込めていますので、たいていの呪いは跳ね除けますし。まあ、ヴァールハイトさまには必要ないかもしれませんが……」

 早口に告げて、目だけ上げる。ヴァールハイトは手首を凝視して、唇を固く引き結んでいた。その指先がかすかに震えている。切れ長の目元にじわりと赤みが差した。

「……その、エレオラ」
「本当に、深い意味はないので。気負わず受け取ってください」
「——ありがとう」

 固く結ばれた口元が、ふわりとほどける。エレオラに向けられたのは、本当に嬉しそうな、無邪気な笑顔。今まで見たことのない、温かみを持った、子供みたいな笑みだった。

「誰かにこういうものをもらったのは初めてだ。とても……嬉しい。エレオラが俺に心を砕いてくれたのが、よけいに」

 たどたどしい言葉に、エレオラは虚を衝かれる。そんな反応をされるとは思わなかった。てっきりいつもみたいに訳のわからない理屈でこちらを振り回すとばかり。プレゼントをもらい慣れていない子供みたいにお礼を言われるとは予想もしていなかったのだ。

 ——こんな、普通の人間みたいに。

 それでエレオラの脳裏に、かつての謝肉祭の記憶が蘇った。

「……前にも、謝肉祭でお守りをあげたことがあります」

「誰に? 俺の知っている人間か? そいつのことをエレオラはどう思っているんだ?」

「矢継ぎ早の質問が怖いんですが。……私の父ですよ。失踪するほんの少し前に、謝肉祭があったんです。魔力が発現したばかりの私は、お守りの作り方を調べて父にあげました。そのときにも……父にお礼を言われました。普段は饒舌な人だったのに、照れくさそうに言葉少なに。今のヴァールハイトさまは父に」

 似ている、と続けようとして、エレオラはヴァールハイトに突き飛ばされた。

 乱暴な手つきではなかった。腕を掴まれて、彼の背後に引っ張られただけ。だが男の力にかなうはずもなく、よろめいて小路に体を投げ出す。

「な……なにを……⁉︎」

 地面から見上げたエレオラの瞳に映ったのは、黒いローブに身を包んだ人影。それはいつのまにか、先ほどまでエレオラのいた場所に立っていた。

 腕に、長い両手剣を持って。

(仮装……?)

 では、ない。刃は日差しを鋭く照り返している。本物だ。人の命を奪うために作られた、残酷な輝き。

 エレオラはおそるおそる視線を上げていった。足跡の付かなさそうな黒い靴。重たげに揺れるローブの裾。日光を集める切っ先。そして——。

 左胸には、深々と短剣が突き刺さっている。

 どさ、り、と鈍い音がして、人影が小路に倒れ伏した。フードが垂れ落ち顔があらわになる。まだ若い男だった。驚愕に顔を歪め、見開かれた両目が蒼天を映している。左胸からはじわじわと血が染み出し、細い流れとなって、清らかな水の流れる運河を赤く染めた。

 ローブ男の足元に立ったヴァールハイトが、その胸から短剣を引き抜く。軽く振って血を落とし、鞘におさめ、懐にしまった。

 それから愛おしそうに手首を空にかざし、お守りに優しく口づける。

 全ては瞬く間の出来事だった。

 ヴァールハイトが刺客を返り討ちにし、自分は命の危機を救われたのだと、真っ白な頭でエレオラはやっと把握した。

 わななく声で問う。

「こ、殺した、のですか」

 ヴァールハイトがこちらを振り向く。太陽を背負ってその顔は影に沈み、どんな顔をしているのか見留められない。エレオラは弾かれたように顔を背けた。視線の先で、たった今死んだ男の血が、運河の中を赤い紐のようにゆらゆらと流れていった。

 ヴァールハイトの声は落ち着いていた。

「ああ、殺した。王宮広場からエレオラを付け狙っていたからな。人気のない場所に誘い込めば出てくると考えたが案の定だったな。弱すぎたが」

 エレオラは目元に手をあて、ちかちかと眩む視界をなんとか繋ぎ止める。ついさっき命のやり取りをしたばかりの人間の吐く台詞とは思えない。広場できょろきょろしていたり、眼鏡を外したりしていたのはそのせいだったのか。

「ヴァールハイトさまの技量であれば、殺さずに無力化できたのですか……?」
「可能だが、やる意味がない。エレオラの命を危うくした時点で生かすという選択肢はない。こういう手合いは生きていても何も吐かないから、死体から情報を取った方がまだ望みがある」

 エレオラは唇を噛んだ。両手を握りしめる。爪が手のひらに食いこんで痛みが走った。

(もしも、私が本当に立派な聖女だったら……止めることができただろうか。愛とか恋とか慈悲によって)

 そう思いかけて、首を振る。死体の横でお守りに唇を寄せるヴァールハイトの姿が目に焼きついて離れない。

(私は……私が間違っていた。一瞬でも、ヴァールハイトさまを普通と思い込もうとした私が。私は彼をきちんと認識しなければならなかった。どれほど恐ろしくても)

 それに、ここでヴァールハイトを責めるのはお門違いだと理解している。エレオラの命は彼に守られた。一人だけ口を拭って綺麗事を並べるわけにはいかない。

 まだ胸の奥底は震えていた。人間の血の鮮やかな赤が、目蓋の裏を塗り潰している。

 それでも地面に手をついて、よろよろと立ち上がる。エプロンドレスの裾を払って、エレオラはなんとか微笑みを浮かべてみせた。

「ありがとう……ございます。おかげで命が助かりました」

 それにしても、と指先で顎を摘む。

(一体誰が、私の命を狙ったのだろう……?)

 本来、そこにこそ怯えるべきなのに、身近に恐怖の具現化のような存在がいてあまり恐怖心を抱けない。人間として大切な感性を失いかけている、とゾッとした。冷静に考えていないで、もっと怖がった方がいい。

 考え込むエレオラをよそに、ヴァールハイトは指先でお守りを愛撫していた。
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