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第五章

chapter【5】

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「うっ……ひっ……ふぇっ」
 悔しいことに、逃げ出す先は外じゃなく家の中にしかなかった。
 昔から、つらいことや嫌なことがある度に逃げ込む場所は一箇所しかない。一階の奥にある、離れの一室。おばあちゃんが千葉に行ってしまう前、まだこの家に住んでいた頃に使っていた部屋だ。
 改築やリフォームを重ねた母屋と違って建築当時のまま残してあるここは、呉服屋の家付き娘だったおばあちゃんの部屋らしく、和裁の道具が揃ってる。
 血筋なのか、小さな頃から縫い物が得意だった私はここの空気が好きで、よく入り浸っていた。だから、この部屋に来ると、嫌なことがあっても落ち着けるの。
「……ふぅ」
 その証拠に、涙は止まってきた。
「そろそろ戻らなくちゃ。でも、もう武田くん帰っちゃったかな?」
 呆れたかもしれない。お兄ちゃん二人を関西弁で思いっきり怒鳴りつけてる現場を見られたし。煌兄ちゃんの言う通り、絶対、ドン引きしたはず。
 うぅ……駄目だ。ネガティブ思考で、また涙が出てきちゃう。
 でもでも、もしかしたら、まだ帰らないでいてくれてるかもしれない。

「よしっ」
 気合いを入れて襖に手をかける。
「あ、もう落ち着いた?」
「えっ? たたっ、武田くん?」
 顎が外れそうなほど、驚いた。
「なんで、ここにいるんですっ?」
 母屋に続く渡り廊下。そこに、武田くんが立っていたから。
「あー、うん。宮さまと宮ちゃん先生がさ、花宮ちゃんは絶対ここにいるから、気持ちを落ち着けて出てくるまで待っててやってくれって」
 お兄ちゃんたち、が?
「にしても、花宮ちゃん家、すげぇなぁ。めっちゃ広いじゃん。おまけにでっかい池まであるし、フツーに鯉泳いでるし。和風の豪邸は秋田ん家で見慣れてるけど、マジびびったわ、俺。あははっ」
 あー、この笑顔。いつもの武田くんだ。お日さまの優しいキラキラが、私を温めてくれる。
「ふふっ。チカちゃんのお家のほうが、もっと広いですよ。でもこのお庭は、江戸時代から変わらない光景なんです。当時のお得意様も、池の鯉を見て楽しまれたとか」
「あー、だろうなぁ。わかる。すっげ綺麗な庭だもん。ところで、花宮ちゃん家の呉服屋さん。店名、何だったっけ?」
「『宮乃屋』です。どっかのワイドショーみたいな命名でしょ?」
「ぶはっ! ほんとだ!」
 あの惨状を見たのに、いつもと変わらない笑顔を向けてくれる武田くんに、私も普通に笑うことができた。

「あのさ。宮さまたち、めちゃ心配してたよ? 俺も、だけど」
 俺も、と付け加えてくれたことが嬉しい。私が気を落ち着けるまで、近くで待っててくれたことが嬉しい。
 向けてくれる、ほわほわとあったかい笑みがとても嬉しい。
「はい、ご心配おかけしました。それと、恥ずかしいところをお見せしちゃって、ごめんなさい。びっくりしたでしょ? その……私、がっつりとバリバリの関西弁で喋ってたし。私ね、興奮すると関西弁が出ちゃうんです」
 だから、言えた。自分から。
「うん。正直、びっくりした」
 だよねぇ。こういう返事が返ってくるよね。わかってたけどね。ドン引きさせて呆れられたんだってことは。
「けどさ。軽快で楽しくて、花宮ちゃんの関西弁、すげぇ可愛いなって思ったよ」
 えっ、ほんと? ほんとにっ?
「それに、かっけーって思った。あの迫力イケメンな兄ちゃん二人を完全に圧倒してたしさ。花宮ちゃん、マジで最強じゃね?」
「あははっ! やだ、武田くん。それ、全然、褒め言葉になってませんよ」
「え、そう? 俺的には、めちゃめちゃ褒めてんだけどな。あれ? おかしいな」
「もぉ、やだぁ!」
 本気で言ってるらしい武田くんの肩を叩いて、笑った。
「あははっ」
 二人で大笑いした。

 あー、好きだなぁ。
 このひとの、こういう裏表がないところが、好き。
 嘘がなくて、あったかくて。見た目と言動はチャラいけど、内面は真面目で努力家。
 仲間が喜ぶことが自分の喜びだって素で言えちゃう人柄だから、もしかしてホモォさんなのかなって勘違いしちゃったこともあるけど。それくらい友だち思いで、芯から優しいところが本当に好き。大好き。
「じゃあ、戻りましょうか。ダメダメなお兄ちゃん二人のところに」
「あー、そういや宮さまたち。花宮ちゃんがぶっ壊したジグソーパズルをめちゃ引きつった顔して、かき集めてたよ? あれ、何のパズル?」
「あっ」
 思い出した。
 私、またヤッちゃった。八つ当たりしたくなったら、いつもあれを壊しちゃうんだよねー。けど――。
「ま、いっか。罰ゲームよ。あの二人への」
「へ? なんか言った?」
「ううん、なんでもない。じゃあ、行こ? 武田くんっ」
 私の呟きに疑問顔をした相手に晴れやかに笑い、一緒に母屋に向かう。
 お兄ちゃんたちには、必死になってパズルを作り直してもらおう。
 ジグソーパズルが趣味のお父さん特製、『花宮萌々ちゃん、三歳。七五三の超可愛い記念写真パズル(2000ピース)』を。
 ふふふっ。お父さんが帰ってくるまでに、修復、頑張れー。脳汁、絞り出して頑張れー。腐腐腐腐っ。

 傾いた陽がオレンジ色の光を色濃く届けてくる、初夏の夕暮れ。燦々と照る太陽のように眩しくて明るい武田くんと並び歩きながら、いわゆる『わっるい笑み』がうっすらと口元にのぼった。
 けれど、気分はそれとは真逆。とっても晴れやか。爽快そのものだ。
「武田くん、また、ぜひ遊びにきてくださいね。今度は、一緒に鯉に餌をあげましょ。うちの池、すごく大きな亀さんもいるんですよっ」
 私の心を救ってくれた素敵男子には、家庭訪問のご案内を何度だってしちゃう。
 だって私、武田くんが大好き。
 片想いの王子様と、いつの日か、絶対にカレカノになりたいんだもんっ。





【了】


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