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弐
濡れる朝顔の、儚さと… 【三】
しおりを挟む「光成。この訴状なのだが、訴えが二度目と書いてあってだな」
「あぁ、これは大江様がご存知の件ですよ」
「光成、こちらの覚え書きの続きはどこだろう?」
「それは、六条様が引き継いでおられます」
「光成、今宵の宴に饗する主上の膳なのだが――」
おかしい。なんだろう? 今日の建殿はどうしたのだろう
いつもなら私になど声をかけずにこなせるはずの仕事を、いちいち尋ねてきているような……何かにつけて、私に話しかけてきているような気がするのだが……気のせいだろうか。
殿舎内の塗籠に収蔵している文書の整理をしながら、いちいち傍にやって来ては質問をして去っていく建殿の様子に、首をひねった。
いや、いつもこんなもの、だったかな? 何せ、うっかり者の建殿のことだか……。
「光成? おい、ちゃんと聞いてくれているのか?」
「……っ、はい! 聞いておりますっ」
いやいや、違う! 全然違う! 『いつも』とは違ーう!
「あ、あの建殿? ちょっとお顔が……」
近い、近い! ものを尋ねるだけなのに、なぜこんなに顔を近づけてくるのだ?
どくどくと鼓動が跳ねる左胸に片手を当て、二、三歩、一気に後ずさる。
その私を見て、なぜか悲しそうな表情をした建殿が何かを呟いたが、聞き取れなかった。
「光成、お前……あの少年には自分から顔を近づけて寄り添っていたくせに。
私が相手だと、嫌がって逃げるんだな」
いーや、建殿の呟きなど、どうでもいい。
それよりも、赤くなってるはずの顔を隠すべく、早くこの場から逃げなくては!
何か、用事を見つけなければ。この場から、今すぐに立ち去れる上手い言い訳を……。
「あっ、そうでした! 私、中将様にご報告することがありました。では建殿、失礼いた……」
「光成、すまん! 実は、またもや酷い失敗をしでかしてしまってな。
他の蔵人の方々には内緒でやり直しをしたいのだ。
だからお前、今宵、私につき合ってはくれまいか?
なっ? 頼む! この通りだ!」
「……え? 失敗?」
あ、しまった。
早々にこの場から立ち去りたかったのに、建殿が口にした『失敗』という言葉に、つい反応して足を止めてしまった。
せっかく、塗籠から出ようとしていたのに。
けれど、建殿にこのように頭を下げられてしまっては、どうにも……。
「……ふぅ……今度は、何をしでかしたのですか?」
大きく、ひとつ息をつき、先程の密着で狼狽えていた胸中を宥めつつ、呆れた表情を見せられるように努めて、問いかけた。
「おぉ、手伝ってくれるのか? 有り難い!」
ふふっ。なんて嬉しそうに笑うんですか? あなたは。
問いかけの後に「全く、あなたときたら」と小馬鹿にした物言いと、冷たい視線をつけ足した私なのに。なぜ、そんなにも温かな表情をお見せになられるのか。
全く、仕方のない御方だ。
「仕方ありませんね。建殿のお馬鹿な失敗の尻拭いをするのは、優秀な後輩の役目ですから」
「何をー! 私が何のためにこんな真似を……あ、いや……た、助かった。よろしく頼む。
その……光成? 最後まで、ちゃんとつき合ってくれよ?」
ん? 『最後まで』とは、どういう意味だろう。
まぁ良いか。どうせ真守殿との約束の刻限まで仕事をしていようと思っていたのだから、その時間を建殿のために使えるなら、それに越したことはない。
建殿。あなたを叱咤しながら、迅速、且つ完璧に終わらせれば済むことですからね。
*
「――さて、これで全てやり直しできましたね。
全く、どうやったらこんなに間違いや失敗ばかり、やらかすことができるのですか? 理解に苦しみます」
「う……面目ない。しかし助かった。ありがとう光成」
書状の束を文机の上でとんとんと揃えながら横目で軽く睨みつけると、申し訳なさそうに眉を下げた建殿から、いつもの邪気のない笑みが返ってきた。
『怒るなよ?』と『最後まで面倒を見てくれよ?』を交互に言われ、校書殿の殿舎の端まで連れて行かれて、そこで見せられた膨大な書き損じの山。
その時の絶望が脳裏に蘇ったが、それが今やっと片づいたのだ。
やれやれと溜め息をつき、首をほぐしながら御簾の向こう側に目をやれば、水縹色だった空に茜色が広がり始めている。
いつの間にか、夕暮れ近くになっていたようだ。
『最近、いつも眠いんだよ。それで、気がつけば書き損じをしてしまっていて……』と失敗の山を作った言い訳をする建殿を叱咤しながら作業に勤しんでいる間に、随分と時が過ぎていたらしい。
そろそろ、行かなくては。
『今宵、先日と同じあの百日紅の木の前で落ち合いましょう』と、真守殿と約束したのだから。
「建殿。もう片づきましたし、私はこれにて失礼いたします。
後は、御自分でこれを……えっ?」
「光成、まだだ。まだ、行かないでくれ」
なんだ? これは、いったいどういうことだろう?
手にしていた書状の束を差し出した私の両手が、建殿に掴まれている。
驚きのあまり、せっかく書き直した書状が全て床に散らばり落ちたが、それをちらりとも見ることなく、建殿は私だけを見て手首を掴む力を強めてきた。
「どこにも、行くな」
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