32 / 79
参
散ずる桔梗に、宿る声 【十七】
しおりを挟む「建、殿っ」
けれど、風に翻る袖から立ちのぼる薫香《くんこう》は、建殿がいつも衣《きぬ》に焚《た》きしめているものと、全く同じ。
沈香《じんこう》と丁字香《ちょうじこう》、それに甲香《こうこう》。私が真似て焚きしめている配分そのままの薫りなのだ。
だから、名を呼んでしまう。首筋を撫で上げていく冷たい指に手を重ね、指を絡め、その身に身体を寄せ――。
「建殿。やっと、あなたを捕まえ……」
「光成様、離れてください! そいつは妖《あやかし》です!」
――どくんっ!
「あ……」
もう少しで、相手の身体にぴたりと寄り添う寸前、真守殿の声が響いた。
鋭い風撃の一閃が斜め上に向けて薙ぎ払われ、目の前にいた男が敏捷に跳ねる。
「おっと、危ない」
私たちから距離をとり、再び冷笑を向けてきた。
「おやおや。この男に会いたかろうと思い、わざわざ乗り移って出向いてやったというのに、つれないことだ」
「……っ」
深紅の虹彩を持つ男が、建殿の声で紡いだ言葉。その内容に、全身が固まった。
乗り移った? 建殿、に?
「……っ、お前っ! 建殿に何をした!」
しかし、一瞬ののち、弾けるように身体が動く。思考の全てが、怒りに支配される。
平坦な口調の持ち主が、最後にもうひと言、つけ加えたからだ。
「しかし、今のこの状態は、こやつ本人が望んだのだ。我《われ》に自らの身体を明け渡すことを、な」と。
そんなことは有り得ない。あの建殿が、そのようなことを望むはずがない。
「妖《あやかし》! 建殿を返せっ!」
太刀を抜き、走る。
「光成様!」
再び援護の突風を飛ばしてくれた真守殿からの連携を得て、妖の眼前まで、ひた走る。
「……っ……建、殿っ」
けれど、斬りかかることは出来なかった。目の前のこれは、建殿の身体なのだ。
「美と聡慧《そうけい》を兼ね備えた、稀なる蔵人。藤原光成よ。よく聞け」
唇を噛みしめた私に、暗澹《あんたん》さと妖気が入り混じった声音が、闇を縫って届いてくる。
「朔《さく》の夜だ」
――ざぁっ!
どろりと湿った夜風が、突如、舞い上がる。
同時に、深紅の閃光が火花のごとく辺り一面に広がった。
「あっ、待て!」
待ってくれ。私も、ともに!
目も眩むほどの光輝の中、むせかえる夏草の匂いとともに消えゆこうとする相手に、手を伸ばす。必死で。
「建殿っ!」
けれど、届かなかった。
「……っ、たけ、るっ……」
眼前に、人影はもうない。
愛しい人は、消えてしまった。その身にまとっていた薫香ごと。
たった、ひと言。『朔の夜』と。手がかりかもしれない、それだけを残して。
あれほどに眩かった灼光《しゃっこう》はなりを潜め、場は、もとの闇を取り戻している。
無言で、月影を仰ぎ見た。
ひらり。
ひらり。
紫紺《しこん》色の空から、同じ色の花弁が舞い降りる。
妖《あやかし》が疾風とともに巻き上げていった、薄い花弁。
愛しい人が身につけていた狩衣《かりぎぬ》の襲《かさね》と同じ、桔梗の花びらだ。
「……っ」
雲間に隠れゆく月を見つめ、立ち尽くす。
建殿……建殿……建殿っ。建殿っ!
ただ、その場に立ち尽くす。
散《さん》ずる桔梗に、声なき嗚咽を隠して――。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
偽りの聖者と泥の国
篠雨
BL
「感謝すら忘れた者たちに、明日を語る資格はない」
自らの都合で聖王セシルを追放し、異世界から新たな「勇者」を召喚したアドレアン聖王国。
しかし、その身勝手な選択が、国を、大地を、そして人々の心を根底から腐らせていく。
壊れゆく少年勇者と、彼を歪に愛した騎士。
二人の執着が交わったとき、聖王国は二度と再生不能な終焉へと突き進む。
裏切り者たちには、因果応報という名の、容赦なき報いが下る。
これは、傲慢な国が崩壊するまでの、無慈悲な記録。
-----------------------------------------
『嘘つき王と影の騎士』から引き続き読んでくださる皆様へ
この物語は、セシルを虐げた者たちが、ただただ因果応報の末路を辿るだけの物語です。
本編に救いはありません。
セシルたちのその後が気になるという方は、本編は飛ばして、最終話の後に掲載する「閑話」のみをお読みいただくことをお勧めいたします。
本作は『嘘つき王と影の騎士』の続編となりますが、前作をお読みでない方でも一つの物語としてお楽しみいただけます。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
カーマン・ライン
マン太
BL
辺境の惑星にある整備工場で働くソル。
ある日、その整備工場に所属不明の戦闘機が不時着する。乗っていたのは美しい容姿の青年、アレク。彼の戦闘機の修理が終わるまで共に過ごすことに。
そこから、二人の運命が動き出す。
※余り濃い絡みはありません(多分)。
※宇宙を舞台にしていますが、スター○レック、スター・○ォーズ等は大好きでも、正直、詳しくありません。
雰囲気だけでも伝われば…と思っております。その辺の突っ込みはご容赦を。
※エブリスタ、小説家になろうにも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる