ハニートリップ

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07.

赤とんぼ

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 少し急な石の階段を下りれば池があり、池の周りにはベンチが点々と配置されている。
人が作った池に野鳥がぷかぷか浮かんでくつろいでいる。
野鳥たちは知らず知らずのうちに人間と調和を取らされている。
それでも彼らは幸せそうだった。

 男はアルバイトを二つ掛け持ちしていた。
どちらも就職が決まるまでの一時的な職場だと考えていたが、頼まれると断りにくい性格であったため、長々と務めてしまい早六年。
男は三十九歳になった。

将来のことはぼーっと考えるが、答えが出なくていつもぼーっとするだけで終わっていた。

 今日の午後は仕事がなかったので、ベンチに腰をかけながら缶チューハイを飲んだ。

「ぷは」
 しかし仕事があってもなくてもこの男は毎日ここで昼間に缶チューハイを飲み、
自転車でよろよろと次の現場に向かっているわけなのだが。

 新商品の缶チューハイはなかなか良いものだった。口当たり爽快、後味爽やか、雑味なし。

これは人気が出るぞ、と男はにこにこした。アルコール度数が高かったのか、あっという間に酔っぱらい、半目になって池の水面を眺めていた。

 男は歌いたい気分になった。でも彼はとても音痴だった。とてもとても。
酔っていえど、人目もあるので恥ずかしかった。

 自転車を押し、よろめきながら商店街を通った。楽器店で音痴の治る本がないか探した。
それらしい本はあって目を通したがよく理解できなかった。それでも男はにこにこしていた。

 店を出ようとしたら、ワゴンセールをやっていた。そこで男は小さなハーモニカを見つけた。

「じっちゃん、昔やってたな」と手に取ったらべらぼうに安い値段がついていた。
男はレジに持って行った。

そしてにこにこと会計をし、自転車のカゴに入れアパートへ帰った。

 翌日、また同じ池へやってきた。
自転車のカゴにはまだハーモニカが入っていた。
男はベンチで昨日と同じ缶チューハイを飲んだ。小さい子供を連れた若い母親が近くを通り過ぎて行った。
子供は母親と手をつなぎながら歌を歌っていた。

「あの母ちゃん、めちゃくちゃ可愛いな」と、男は酒をぐびぐび飲んだ。
男は可愛い女性とお近づきになりたいと思った。しかし人妻はさすがによろしくないとも思った。

 酔いが回り、空を見上げれば木々の間を飛行機が飛んで行った。男はにこにこした。

遠い国に自分を待っている人がいるんだと思い、心臓が踊った。

わー、と歓喜の声を上げたかったが、恥ずかしくなりそうなのでやめた。

 男は自転車のカゴからハーモニカを持ち出し、吹いてみることにした。
いくら吹いても音階らしきものがわからなかった。

「どれが《ド》だ?」
 吹いているうちに男はハーモニカを吸っても音が出ることに気づいた。

日が暮れるまで必死にドレミを辿った。

 アルバイトに行くのをすっかり忘れた。
 
 男は仕事を辞めた。


 半年後、彼は大きなバックパックを背負って海外にいた。
広場のベンチで彼のおじいさんが教えてくれた古いメロディーを吹くとたちまち人々の目は輝き、たくさんの拍手と胴のコインを何枚かもらった。

 そして彼は今、小洒落たカフェのパラソルの下でおいしいコーヒーを飲み、にこにこしている。
ハーモニカと一緒に。
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